いくども季節が巡っては過ぎていった。
 はっきりとした四季に乏しい不思議の町にも、それなりに春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が来て春になる。
 ハクは、潮吹きガマの船着場に立ち、やがて昇り来る太陽の白い光に埋もれて消えていくだろう満月を見ていた。おぼろにかすんで真円の月が消える、その瞬間だけを静かに待っていた。



 ―― 序章 ――


 それに気がついたのは、千尋の名を持つ少女が、正しくあるべき世界に帰った年の冬。
 ハクは師匠と新たな契約を結びなおしていた。以前とかわらず、湯屋や湯婆婆の仕事をこなす為、時には湯屋内を巡り、時にはこの世界を巡る毎日を送っている。

 ちらりほらりと雪が舞う、冬。
 ハクはもうひとつの姿となって、世界の果てより湯屋をめざして飛翔していた。
 白銀の鱗やすべらかな鬣に雪はまといつき、竜が切る風に乗って音もなく流れていく。
 地に近き空には白い満月。その反対側には、太陽の気配がゆうらりと立ち昇っていた。

 まさに暁月夜。
 月と太陽がともに空にあらんとする、幻惑の刻。
 水の引き行く草原の上に――彼は見た。


 少女の姿、を。
 竜の飛翔は一瞬にしてその場を行き過ぎる。
 ハクは今見た光景が信じられず、けれども心が浮き立ってかすかな期待を胸に、船着場へ水干姿の少年となって降り立った。
 そこからは一歩も進めない船着場から、昇り始めた曙光に照らされた草原を食い入るように少女の姿を捜すのだが……やはりその姿は、ない。
 ハクは、なんとも言えない微笑を浮かべた。自分自身にあきれかえった。
 きっと、はらりはらりと降り敷く天花に幻をみたのだ、と溜息をつく。なぜなら、一瞬目に飛び込んできた草原の中に佇む彼女は、最後に見た時よりも背も伸び、ほんのすこし大人びて見えたから。まるで、会っていない半年間の時間の流れを見せつけるように、成長した姿であったから。
 ハクはひとつかぶりをふり、草原へと背を向け、湯屋へと向かって歩き出す。
 まだ私は千尋に会うことができないのだ、と思い知らされながら。

   ◆◇◆

 ハクと湯婆婆は、千尋がこの不思議の町を去ってから、新しい契約を結んだ。
 ハクが弟子を辞め、あちらの世界に赴く為に成し遂げなければならない契約とは、湯婆婆の百の命令をこなすことだった。
 その命令の合間には今迄通り湯屋での仕事もこなさなければならなかったし、魔女の弟子を辞めた為魔法の教授もなくなった。
 ハクは千尋との約束を守る為、湯婆婆の出す百の命令を早くこなしたくて仕方がなかったが、なぜか湯婆婆は彼がひとつの命令をこなしてから新たな命を伝えてくる。
 はじめのうちは、彼女の思惑が読めずに困惑したハクである。
 一から十の命令は、すんなりと解決をした。数年の間に学んだ魔法の基礎だけででも解決するような命令ばかりだったからだ。その割には、ひとつの命をこなす毎に、次の命が下されるやり方は変わる気配がない。しかもその命と命の間には、数日の間が空くのである。湯婆婆にしてはまどろっこしいやり方で、ハクにとってもイライラとする時間であった。変な勘ぐりすらしてしまう、その方法。

 その命令の内容と、湯婆婆の真の思惑に気がついたのは、命が二十を超えた時。
 あぁ、とハクは、その問題の――長く湯屋への道を塞いでいた負の者を封印する為に、その者と対峙して気がついた。
 湯婆婆は――私の為を想って、こんな『建前』を前に押し出したのだ、と。
 左肩に大きく穿たれた傷を持って、ようやく彼女の心の内を見た。


『おまえはあたしの弟子を辞めたいと言った。あたしがおまえに魔法を伝えることは、その言葉でできなくなった』
『神の名を持つ者よ。憐れな者よ。この世界にも――あちらの世界にも、おまえの居場所はもうない』
『おまえは強くならなければならない。世界がおまえを拒絶しても排除してもそこにしっかりと立っていられる程に強く強く強く』
『魔法なんて、おまえの存在の手助けにもなりやしない。でもあたしには、おまえに魔法を伝えるしか、他にしてやれることはない』
『愚かな白竜よ。哀しい竜よ。魔法の力よりも――』



 心の強さを。
 手に入れな。



 あぁ、

 貴女は、

 母なのだ――と。

 坊の、湯屋にいる全ての者の、そして湯屋を訪れる神々の一時の母にさえなろうとしている――そしてたしかに、貴女は私の母にすら、なろうとしていたのだ。
 本音を建前の裏側に隠してしまうのは、ひとりですべてを抱き込もうとしている女性の強がりでしかないのだと。
 この命は、貴女から旅立つ息子への試練だったのだと。
 薄れゆく意識の端で、思った。

   ◆◇◆

 湯婆婆の百の試練も、残りはあとわずか。
 幾度も瀕死の重傷を負いながらも、ハクは臆せず試練に何度も立ち向かい、ひとつひとつそれを乗り越えた。
 試練は難易度を増す。もはや湯婆婆より教えられた魔法や、ハク自身の力をもってしても解決できる範囲ではなく、ハクは自身で自身を鍛えた。
 魔法よりも心を強く。
 けして言葉にされることのない湯婆婆の願い通り、ハクは試練を乗り越えるたびに成長していった。


 そんな彼の心を穏やかになだめる一瞬がある。
 満月と太陽がともに空に浮かぶ一瞬。暁月夜の草原。
 それは魔法の力が強くなる満月だからなのか、それともハクの中にある神力の残滓の為なのか。
 夜と朝が混じり合うその数瞬、ハクは草原の中に愛しい少女の姿を見ることができるのだ。
 時が流れた証をその姿に認めて、ハクは目を細めるのだけれど。
瞬きをする間もないほどの邂逅。
 きっと千尋には、こちらの世界は見えていない。その表情は、なにげない一場面を切り取ったような、驚きも喜びも困惑もなにもないもので。きっと千尋の昼の残像が、この草原で像を結んでいるのだとはわかっていながらも。
 ハクは、この儚い逢瀬をやめることはできない。

     ◆◇◆

 試練が五十を超えた時。
 ハクは一瞬、諦めようかと思った。
 何度挑んでも乗り越えられない試練に道を塞がれ、意識を曇らされていた。
 そんな自暴自棄に陥った時に見た千尋の幻はなぜかひどく心が沈んでいて、ハクはこんな彼女の姿をみるのは嫌だ、とそう思った。
 あの月を砕いてしまえばもうあんな彼女をみることもないのだ、とヤケになった。
 彼女の姿を満月の下に探す自分が女々しく感じられた。
 試練の半分をようようこなしながらも、幾度も死にかけた自分がひどく惨めで力ない存在に思えた。

 あの月を砕けば。
 彼女に恋着する心も砕け散るのだろうか。

 それでも心が求めるのは、このさやかな月下の彼女の姿で。
 その向こうにある、千尋の名を持つ本当の彼女で。
 だからハクは、この満月の光に照らされて朝を迎えるのをやめることができない。
 視線の先には、なによりも大切な少女の姿。
 胸にあるのは、至純の想い。