関頭――ふたつの世界の狭間で、一歩を踏み出せないおのれ。腕を伸ばせないおのれ。 歯がゆくて、切なくて、暁光に照らされた草原をただ見つめた。 世界の果てしない距離と、逢瀬の時間の短さを――恨んだ。 それも、もう、遠い記憶。
「ちぃ坊! また空をみーてーるー」 至近距離から聞こえた親友の声に、千尋はきょとんとした目で教室内をふりかえった。 「カンちゃん、そのちぃ坊ってやめてよー」 「ちぃがちっともこっち見ないからでしょ! ちぃ坊ちぃ坊ちぃ坊♪」 節をつけて歌うように『ちぃ坊』と連呼する勅使河原寛実(ヒロミ)の額をかるくぺちっと叩いて黙らせた千尋は、昼休みの妙に人のまばらな教室をぐるりと見回した。 月曜日の、中学校。なにも変わった様子はない。 「ちぃ、あのね、ホントになにもない?」 宙をぼやんとねむたげな視線で撫で回している千尋の目の前に、ひらひらと手をかざしながら、寛実はそれだけを神妙な声色で千尋に向けた。 「ん、ホントになにもないよ」 カンちゃん心配症? と逆におどけて問い返す千尋に、寛実はむぅと頬を膨らませて千尋の右手をひっつかみぎゅっと両手で抱きこむと、 「なにかあるんだったらちゃんといいなさい、このド鈍娘が!」 と、怒気をはらんで真剣に言うので。 さすがの千尋もこれ以上はまずいと思った。 「ごめ……ん。カンちゃん、ちゃかしてゴメン」 大切な親友だからこそ心配はかけさせたくなかったけれど、大切な親友だからこそ相談にのってあげたい気持ちに気がついて。 千尋はぽつぽつと、昨日のことを話しだした。 「それって、なんか不審者っぽい」 「……」 話を全部聞き終えてからの寛実の開口一番は、そんなものだった。 「や、でも、あれはうちの『雅之さん』が完全に悪くて、ただの偶然だからそのー」 「でも、そんな初対面の女の子をじっと見る?!」 「あー、だから、それもわたしの勘違いかもしれないし……」 寛実に説明する為に口から昨日のことを語ったら、あんまりたいした出来事でもなかったような気がした千尋であった。できることならあんまり大げさにしたくなく、もうこの話はこれでやめにしたくてしようがなかった。 「ちぃ、あたしたちは何歳だと思ってるの? 十四よ! 乙女の勘が危機を告げていたのよ!!」 乙女の勘……さいですか、はぁ、と千尋は両手を広げて熱弁をふるう親友の立ち姿をため息とともに仰ぎ見た。 「でも、すっごく綺麗な男の人だったよ」 とポツリともらせば 「……もしかしたらそれは運命の出会いかもしれないね」 と、ころりと主張をひるがえしもしたが。これも多分――乙女のなんたら、で片付くのだろう。 「と・に・か・くっ! ひとりでその公園に行くのはしばらくやめた方がいいわ! あ、でもあたしの家の方向、ちぃと逆だしなぁ……」 「いいよいいよ。なるべくはやくに帰るから。ホント、心配かけてごめんね」 「なんだ、荻野、なんかあったのか?」 ふたりの会話に首をつっこんで来たのは、クラスメートの男子であった。教室の端から、寛実の派手なパフォーマンスをぼんやりと見ていたらしい。 「あっ、五軒屋ってたしか、坂上公園のトコ通るよね? しばらくちぃを送ってやってくれない?」 「荻野ってたしか帰宅部だよな」 「五軒屋クンも帰宅部だよね?」 「オレは塾があっから。ならOK、引き受けようぞ」 なんとなく『坂上公園』の単語が出てきた時点で事情を察した五軒屋は、快く千尋のボディガードを引き受けた。『坂上公園』は結構夏になるとその手の輩が徘徊することで有名なのだ。今は季節も落ち着いたのでなにもないとは思うが、なにかがあってからでは遅いと考えたのであった。同級生思いの五軒屋である。 ◆◇◆ 「ホント、ごめんね五軒屋クン。カンちゃんに押し切られる形になっちゃって」 もうホントに心配性なんだからぁと、千尋は盛んに隣の人物に謝っていた。 小柄な千尋と背の高い五軒屋の身長差は頭一個分もある。千尋は一生懸命上を向いて歩いているのだが、ぐりんと五軒屋が片手でその頭を前に向かせて 「転ぶぞ、おまえ」 と言ったので、 「あは、そう言えばわたし、昔からなにもないところで転ぶの得意だったんだよー」 なんぞとおちゃらける。 「それは得意って言うんじゃないだろーがねー」 上から聞こえてくるのほほんとした口調の真面目な感想に、千尋はくすりと笑った。 はたから見れば、とても良い雰囲気である。 問題の『坂上公園』、その池にそって作られている歩道に、ふたりは足を踏み入れた。 夕日が、昨日と同じように血色に染まりながら、西の空に消え行こうとしている。 そんな仲良さげに肩を並べて歩くふたりを、これ以上はない悪いタイミングで見てしまった人物がいた。 神竜・ハクである。 町の中から拾い上げた知識の中で、千尋達の年齢の子供は『義務教育』として『学び屋』である『学校』に通っているとわかっていた為に、次の接触をするのはそれが終わってからだと考えたハクは、昨日と同じ時刻に同じ場所に現れていた。千尋の残留思念――銭婆の髪留めに宿る微量の魔力のお陰で、千尋の思念は町の中でも浮き上がって見える為、ハクは彼女が頻繁にこの公園のそばを行き来していることに気がついていた。 ハクは、目の前の光景が信じられずにいた。 あの男は一体なんなのだ。なぜに千尋の傍らに存在している? それだけが頭の端にひっかかりながらも、ハクは硬直して動けずにいた。 私は……たしかに千尋を待たせすぎている。 四年。竜としての時間では短くとも、少女の時間では四年はあまりにも長い。その証拠に、千尋はあんなにも愛らしくなっている。花蕾がほころぶように、艶やかな色彩を放つ存在になっていた。その上、千尋はおのれのことなど、かけらも覚えていないのだ。 そして、別に千尋とおのれの間に『再会する』以外の確たる約束があったわけではないことに、ハクは今更ながらに気がついた。 穏やかで暖かく、そして激しい恋情を抱いていたのは、おのれひとりであった事実に打ち据えられる。 ハクは、緩慢な動きで口元に右手をやった。 途端、喉の奥からにぶい音をたてて溢れ出したのは、真っ赤な血。 腹の中を食い破られる激痛が、なんの表情も現さないハクの中で突如荒れ狂う。 二度、肩をびくりと震わせて。 血と、一筋の涙を両腕で抱きしめたハクは、ゆっくりと前のめりに崩れ落ちた。 町の中にあるとは思えないほど、透明度の高い水に。 ゆっくりとゆっくりと竜の姿に身をほどいて―― おのれの鮮血に鱗を汚した白き竜は、ゆっくりと沈んでいった。 血色をした太陽が、その水面の上をたゆたった。 千尋は――呆然と、目の前の光景を見ていた。 五軒屋の向こう側にある、公園の池に、白くぼんやりとした巨大なものがゆっくりと頭から突っ込んでいく光景。 「あ……れ。あれ、五軒屋クン、見た?!」 突然柵の向こう側を指差して叫んだ千尋に、 「は? なにを?」 とのんびり返した五軒屋であったが、血の気の引いた千尋の様子になにやらただならぬものを感じて 「荻野?」 と問いかけたのだが、千尋はがたがたと小刻みに震えるばかりであった。 「荻野?!」 一体なにを見たって? と背後の池の方を向くのだが、やはりなにも真新しいものは見当たらない。 「ちがう……」 「おい、荻野!」 「ちがうの、そうじゃなくて……そんな呼び方じゃ……なくて」 顔色は真っ青、ひとりではうまく立ってもいられないほどに震えている千尋は、大きく目を見開き両耳を塞いで小さくぶつぶつと何事かを呟いている。 「ちょっと待ってくれよ、荻野!!」 大きく、名前を呼ばれて。 千尋はびくんと顔をあげた。 目の前には知っている男の人。 その向こうには、水。 水に沈む、白いモノ。 千尋の頭は、突然真っ白になった。 なにも考えられずに、千尋は池に一番近い出入り口へと向かって、走り出していた。 わからない、知らない、あれはなにあれはなにあれは――誰? 千尋は混乱していた。けれども、頭のどこか一部分だけが妙に冷静だった。そしてその部分が叫ぶのだ、走れ、急げと。 なにか、小さくてかたくて熱い一粒の石が体の中心にあって、一歩一歩足を進める毎に千尋の体に、心にのしかかってくるような感覚を味わう。 ようやくたどり着いた池に千尋は、躊躇うことなく身を沈めた。 心が命ずるままに、わけもわからず、沈んだ。 ◆◇◆ 水。 太陽の残り火も消えて、外灯の白い光も底までは届かない、深い水。 千尋は水の中でぱちりと目を覚ましていた。 わたし――なんで、水の中、に? 自分自身に問うてみても、答えは出てきそうになかった。 体がゆっくりと沈んでいく。セーラー服の白いリボンが、ゆらゆらと揺れる。 あ、カバン、池のふちに放りだしてきた――五軒屋クン、なんにも説明してこなかった。面倒に巻き込んでしまったのではないかと、遅まきながら思った。 意識は目覚めているのに、体はまったく言うことをきかない。 力なく広げた腕の先で、指の間をすり抜ける水の感触が柔らかい。 『この池、こんなにも深かったっけ……まるで海のよう――』 小さな気泡が、千尋の周囲に立ち昇っていく。 千尋は、白くゆらゆらと揺れる水底だけを冷静に見つめていたが、意識にも薄い紗がかかり……やがて闇に飲まれた。 『なにかを忘れているわたし。あなたを忘れているわたし……』 心がなにかに問いかける。 水はすべてを飲み込んでいく―― 水。 川の流れを治めていた頃は、自身であったもの。 その中にゆっくりと降下しつつ、竜は意識がぼんやりと薄れていくのを感じていた。 水。清く滑らかなもの。 今はおのれの血に穢れ、それを流してくれようとするもの。 ゆっくりと体がその水に溶けて同化するような感覚が、ハクの全身を覆っていた。 ハクは残った意識の端で、自嘲の笑みを浮かべた。 四年の月日を注ぎ込み、百の試練を乗り越えて得た自由とは、たったの二日間だった。私の想いとは、この世界ではよほどちっぽけで、よほど禁忌であったらしい。 ハクは、身のうちに巻き起こるこの激痛が、湯婆婆が言っていた『世界の排除の力』であると気がついていた。 ふいと見上げた上空に、昇ったばかりの白い満月が、水にゆらゆら揺れているのが見えた。深い水底に淡い光を投げかけて光のかけらを散らしている様が、激痛を内にかかえるハクの目にも美しくうつった。 満月を待ち望んでいたおのれが、この世界でもまた満月を見上げている。 この世界の満月も、あちらの世界と同じように、丸く白い光で――そして、愛しい少女の幻を見せるのだな、とハクは思った。 扇を翻す舞姫の手のように柔らかく揺れる水の中、水面にうつる月の光を背に、千尋が両腕を大きく広げて降ってくる……幻想的なまでに美しいその光景に、ハクは目を細めた。 あの世界では、一瞬の幻に腕を伸ばすことさえできなかったことを思い出した。 今この世界でなら、伸ばせば掻き消えるだろうとわかっていても、一歩を踏み出して腕を伸ばすことができる。ここはあの草原ではなく、水の中なのだから…… ハクは。 ゆっくりと。 静かに降ってくる千尋に向かって、竜の腕を伸ばし。 ――そっと掴み取った。 大きく揺れる月影が、まるで砕け散ったかのように、ハクの目にはうつった。 確かな質感をもって手の中にある存在が、非現実の世界へと溶けていこうとしたハクの意識を――呼び戻す。 ◆◇◆ 千尋が池に飛び込んだのを見ていた五軒屋はギョッとして 「ちょっと待てよ荻野! オレ、泳げねぇんだぞ!」 と一言漏らしてきびすを返した。 頭の中は変に冷静だった。なぜか千尋が水に沈んだ事実が、必ずそうなると前もってわかっていたと五軒屋には感じられさえしたのだ。 「オレが行っても無理か……」 自分のカナヅチぶりは、自慢できるほどにひどい。それは幼少時に川で溺れた記憶に起因するのだが。この点については、五軒屋は変なプライドは持たないことにしている。 五軒屋は人を呼ぶ為に公園近くの交番に駆け込み、警官を連れてくると池のふちへと急いだ。 「なんだよ……これ」 そこで見た光景は、周辺の木々の枝先から、湿った大地を静かに叩く音だけが支配する、水に濡れた世界であった。 あたり一面は、池の中からなにか巨大なものがせりあがったかのように水浸しだったのである。 その、雨が局地的に降ったような水まみれの世界に、ぽつんと学生カバンが妙な現実感をまとって落ちていた。 荻野千尋の姿は――どこにもなかった。