満月が浮かぶ白い夜空に。
 白い幻の獣が翔ける。
 白銀の鱗に月光が反射して、細い光の筋を引き連れて飛翔する。
 その竜の手の中には、まろやかな光に包まれたひとりの少女。
 安らかな表情で、水の夢を見ている。
 竜は辿りつく。この世の仮の住処へと。
 白い壁の家へと。



 ―― 神を砕く・3 ――


 白竜は二階の窓際に降り立ち、その途中で人の姿をとった。腕の中の千尋に、目覚める気配はない。
 手も使わずに大きな窓をあけたハクは、そのまま屋内へと入っていく。
 先ほどまで水中にいた二人であったが、すでに水の気配は遠くに行ってしまっていた。千尋が風邪をひくといけないので、魔法で水気を拭い去っていたのだ。
 ハクは、柔らかく乾いた千尋の髪に顔をうずめて目を閉じた。
 腕にかかる確かな質感と、頬に触れる髪の感触。そして、幻ではけっしてわかりえない、千尋の匂いが鼻孔を甘くくすぐった。
 ハクは、この現実が現実に思えないでいた。こんなにもしっかりと千尋を抱きしめていると言うのに、頼りない夢よりもまだ夢のような気がする。
 力なく微笑むと千尋の額に口づけをひとつし、そっと寝具の上に身を横たえさせる。
 すぐに水中より引き上げたとは言え、千尋の体は冷え切っていたし、疲労の極みにあるようだった。白い左手をとってみると、指が硬く硬直して開かないでいる。
 ハクは両手で千尋の左手を包み込み、いっぽんいっぽん『力』を込めて温めながら指を開いてやる。左が終われば右手をとり、同じように温かみを取り戻させる。
 両の手の力がゆるゆるととけた頃には、千尋の体はほこほこと温かくなっていた。
 千尋の首筋に唇を寄せ、薄い皮膚の下で確かに血が力強く脈打っているのを感じると、ハクは心底安心したように目元を和らげる。
 そして、今目の前にいる彼女が『現実』であると、突然理解した。なんの前触れもなしに、夢よりも頼りなかった夢が、現実としてそこに現れた。
 心が、激しく揺れた。曖昧模糊とした夢に身を浸していたからある意味冷静であった自分が、突如遠くに行ってしまった。
 月光が窓から斜めにさし込み、千尋の滑らかな頬を白く照らしている。
 ハクは一歩千尋から離れると、月光を背に立ち尽くした。胸元に右手をあて、ぎゅうと握りしめる。
 なにかが、この胸を叩いている。内側からどんどんと激しく叩いて、なにかを訴えている。それは、世界がハクを『排除する』痛みとは似ても似つかない、熱いモノであった。
 揺れる。轟と渦巻く色々な物が、ハクの胸の中を満たす。
 ハクは胸の痛みを押し殺して、千尋の頬にそっと手を伸ばした。途端に襲ってくるのは、胸の痛みとは別種の『排除の力』。ガッと斜めに切り裂く感覚が腹の内におこり、再び鮮血があふれる。
「よほど……私が憎いらしい、この『世界』は」
 ハクはぐぃと右の甲で口元を拭うと、その血のついたままの手で千尋に触れた。腹の痛みなど、この胸にあるモノとは比べ様もないほど甘い、とハクはその痛みを意思の力で一刀に伏した。
 壊れ物よりもなお脆い千尋の頬に、手が届く。今度は、激痛は起こらなかった。
 あぁ、とハクは息を深く吐いた。
 あぁ、これは現実の千尋だと、その肌の柔らかさに胸の痛みが増した。
 月下の幻でもなく、これは本物の千尋だと思うと、頭の奥がしびれる気がした。
 瞬きをする間もないあの幻の逢瀬が、いまここに連続して起きているわけではないと考えると、涙がこぼれそうになる。
「月を――砕かなくて良かった」
 月が砕け散れば、おのれのこの心も砕け散るのかと思った昔が、今は馬鹿らしい。月を砕いたところで、千尋への想いまで消してしまえるわけがないことを、この瞬間痛いほど思い知らされる。
 抱きしめたい。抱きしめていたい。たとえ、すべてが白紙になった彼女であろうとも、千尋であることにはなにも変わりがないのだから。
 けれども、胸の痛みの脇で更に痛む箇所がある。公園沿いの道を、千尋と肩を並べて歩いていた同年代の少年の姿。
「千尋……おかえり」
 今は元いるべき場所に。
 そして、ようやく私の元に帰って来たのだと。そして私は千尋の元に帰って来たのだと。
 たくさんの意味を込めて、ハクはそれだけをかすれた声でささやくと、そっと千尋の唇におのれのそれを重ねた。


 満月が、空の中央に陣を張る刻が訪れる。


 坂上公園は、夜間であるにも関わらず人の気配で溢れかえっていた。
 池にはボートが何艘も浮かべられ、長い棒を手にした男達が池の底をあさっている。大型のライトが持ち込まれ、夜の闇に重く淀んだ水面を照らしていた。
 公園の周辺にも、大勢の警官の姿が見られた。
 女子中学生・荻野千尋が坂上公園内の池に落ちた事故から、すでに四時間が経過している。
 池のふちでは荻野夫婦と、千尋の最終目撃者となった五軒屋が呆然とその捜索模様を眺めていた。悠子は泣きもせずにじっと水面を睨みつけている。その手には、千尋が残していった学生カバンが握られていた。

 ふわり。
 ハクは人の姿のまま、池からすこし離れた公園敷地内に舞い降りた。
 そして、両手いっぱいになにかをすくいあげる動作をして目の高さまで腕を上げると、ふっとその手の中の見えないなにかを池に向かって吹きかけた。
 轟と音たてて走り抜けたのは、白い風。
 そしてその風にまかれた人間達はひとり残らず、今夜捜索している人物の記憶を抜き取り去られたのである。
 魔法でおこされた風は、公園を突っ切り町全体を吹き抜ける。
 すべての人間が、荻野千尋が池に身を投げた事実を忘れ去った。

 西の空に、満月は落ちる。あとは欠けて欠けて隠れるだけ――

   ◆◇◆

「ちぃ坊! またぼ〜〜〜としくさってこのこのっ!」
 昨日と同じように、窓際の席で頬杖ついて空を眺めていた千尋に、寛実は問答無用で頭ぐりぐりの刑を食らわせてから、おもむろに千尋の前席の椅子を引いて座った。ぐりぐりの刑から解放された千尋が、ぱたむと机の上に腕を投げ出してねこけたからだ。
「ちぃ坊!」
「だからそれ、ヤメテってば〜」
 と千尋は、左手をゆらゆらと持ち上げると、見もせずに寛実の腕のあるあたりをぺしんぺしんと力なくさ迷わせる。
「あんた、生気なさすぎ」
 ふにゃりふにゃりと腕を叩いてとめているらしい千尋の左手を引っつかむと、寛実は自分の腕にべしべしと叩きつけた。どうやら千尋が実際にやりたいことをかわりにやっているつもりらしい。付き合いの良い親友である。
「そう言えば昨日、どこか行ってたの? 坂上公園のこと、心配になって電話したんだけど」
「え? ずっと居たよ」
「そう? 八時すぎなんだけど、何回コール鳴らしても誰もでないし。すっごく心配したんだからぁ」
「おかしいなぁ。昨日は全然電話鳴らなかったよ。『ひとりで公園脇を帰ってもなにもなかった』って報告しようと思ってたんだけど、眠くてさっさとねちゃったし……」
「電話してよ〜ちぃっ。乙女の勘が働いたって、乙女は乙女なんだからぁ」
 手遅れになったら怖いんだってばっと寛実は喚く。
「あ、そだ、忘れるトコロだった。これ、あげるわ。へたなボディガードよりラクチンだし」
 と寛実がポケットから取り出したのは、手の平に納まるほどの大きさの、ピンク色した流線的なフォルムの物体だった。
「なに、これ」
「防犯ブザー。ここを押すと……」
 寛実は、ピンク色の物体についている青いボタンを軽く押した。教室中に一瞬だけ鳴り響いたのは、けたたましい電子音。まばらに残っていたクラスメートが一斉に窓際に注目し、寛実はそれに応えて手の中のモノをひらひらと振って見せた。
 その音を至近距離で聞いた千尋は、ボケた耳をばしばしと両手で叩く。
「もらっていいの?」
「いいよいいよ、おんなじのもうひとつあるし。ほら、うちの兄貴って双子じゃない。中学校に上がった時に、別々に同じ防犯ブザー買って来たのよ。もう笑っちゃった!」
「カンちゃんの心配性って、家系的なモンだったのね」
 抜けた力が更に抜けたのを、千尋は感じた。
「――うん、ありがとう。とっても嬉しい」
 脱力した手の中に無理やりそれを押し込んだ寛実は、満足げに微笑んだあと、
「あ」
 と教室のドアに視線を転じた。
「B組の智子だ」
 と小さく呟いたのにあわせるように、五軒屋が席から慌てて立ちあがり、智子と呼ばれた少女と出ていった。
「なになに修羅場?! なんかふたりとも顔色悪かったよ」
「五軒屋クンとトモっちって、クラス公認カップルでしょ。まさかまさか」
 小学校時に三人とも同じクラスになったことがあるので、智子の性格はよくわかる。普段はおとなしくて明るくて、ややぼんやり気味の女の子なのだが……
「五軒屋の『のんびりのんびりお人よしすぎ』についにキれたのかも」
 とんでもないトコロで執念深い智子の性格を思い出して、ふたりはため息をついた。
 聞こえないとはわかっていても、クラス公認カップルの消えたドアの向こう側にむけて
「がんばれ〜青少年〜〜」
 と、無責任なエールを送るのだった。
「カンちゃ〜ん、ちょっち用事―」
 次にドアの向こうに現れたのは、寛実の友達だった。大きく右手を振って、おいでおいでをしている。
「ちぃ、ゴメン。ちょっと行ってくる」
 好きなだけ寝こけてな、と千尋の頭をぐりぐりとかき混ぜた後、寛実はドアに向かって小走りにかけて行った。
 ひとり残された千尋は、手の中のピンク色した物体をだらしない姿勢に似合わない真剣な視線でじっと見つめてから、ぽつりと
「ごめんね、カンちゃん」
 と呟いた。
 カンちゃん、なにかあったら相談しなよって言ってくれてたのに、ごめんね。なんにもないなんて言って、と千尋は心の中で小さく謝る。
 わかってはいる。寛実に相談しても、なにもできないことを。これは『防犯ブザー』なんかでは追い払えはしない次元なのだと。
 曖昧な昨日の記憶の奥底に、白いなにかがゆらゆらと揺らめいているなんて、少しでももらせば彼女は死ぬほど心配するだろう。
 昨日の夕方からの記憶が、現実なのか夢なのか確信が持てないなんて。
 なにか、得体のしれないものを見た気がするなんて。そして、そのなにかを思い出そうとする度に、胸の奥にある小さなモノが熱く膨張して破裂しそうになるなんて。
 言えない。誰にも言えない。心配をかけさせるだけだから。
 だから千尋は謝る。心の中で小さく謝る。そして考える、あれは一体なんだったのかと。

 誰かに抱きしめられた気がするのはなぜなのだろう、と。
 ――優しい水の中で。


 湯婆婆が望んだ『心の強さ』とは、一体なんなのだろう。
 こちらの世界に来て三日目。ハクは坂上公園の池にあるベンチに座り、ひとり考えていた。
 蒼い空に秋の太陽が昇っている。わずかの風に揺れる水面が、光を反射して散っている。すこし離れた広場では、子供の高い声が響いていた。
 昨晩かけた魔法の残滓がどのように変質したかを確かめに来たハクは、その穏やかな光景に目を細める。
 そして考えるのだ。湯婆婆がけっして言葉にすることはなかった、おのれへの願いの意味を。
 心の強さ。
 何者がハクの存在を否定しても排除しようとしても、しっかりと立っていられるだけの心の強さを、あの魔女は願っていた。教えようとしていた。それがおのれの中にあるのだと、誤解されかねない冷たさで気がつかせようとしていた。
 あちらの世界で百の試練を終えた時、ハクは『心の強さ』をしっかりと手にしたつもりであった。けれども、実際にこちらの世界に来ると、その確かにつかんだつもりであったものがよくわからなくなっていた。
 おのれはおのれだ。そう言いきれる自信を、自信の核を手に入れたはずであったのに、千尋の姿を見るだけで、『おのれ』が変質する気がした。
 私はここまであさましいモノだったのかと、おのれの気持ちに愕然とする。昨晩千尋に口づけて、それが彼女の意思を無視して唇を盗む行為だとは理解しながらも、悪いことだとは思わない自分が信じられずにいた。
 ハクは、百の試練を思い出す。その半数が、湯屋の世界に忍び込みいつのまにか定着してしまっていた心弱き者――心弱いが為に無尽蔵の力を引き寄せ、他者に焦がれる『負の者』を封印し、または消滅させることであった。
 その者達は、あちらの世界ではハクの鏡であったとも言える。ハクがひとつ封印し、ひとつ消滅する度に、ハクの中から『弱さ』が消えていったはずであった。
 けれども、今でも記憶の中にいる彼等は、心のままに動けばどれだけ心が休まるかを教えてくれる者達であった。狂気に走ればどれだけ楽になれるかを教える者達であった。
 その危険な思考に呼応するかのように、すでに慣れた痛みが腹でうごめく。
 世界の圧力にさいなまされる自身。思い出してはくれない千尋を、それでも渇望している自身。
 あちらの世界でおのれの心を慰めてくれた幻が、今目の前に現実としてある。それを掴んでなにが悪いと言うのだろう……と、ハクは激痛に耐えながら思う。
 忘れてしまったのなら、今から刻めばいい。約束をした『千尋』が、なにも歪まずに待っていてくれたことは、目を見ればわかった。
 私のことを忘れたように、あと一人くらい千尋が誰かを忘れてもいいはずだ。忘れたことに心が痛まぬように、私がずっとそばにいるから。ずっとそばにいると誓うから、幻にはならないで。
 ハクは、見えない月を砕くその想いを込めて呟いた。
 水面は揺れる。ゆらゆらと。ハクの想いを乱反射させて。