空が毒々しい茜色に染まっている湯屋『油屋』の天上にて、その主は水晶玉に見入っていた。
 あかりを灯していない書斎に、窓から差し込むあえかな日陽の残り火が湯婆婆の影を淡く刻む。
 水晶はぼんやりと白い光をまとい、主が望むものを脳裏に映し出していた。
「やはりおまえは竜だねぇ」
 水晶を覗き込む湯婆婆の視線は、声色とは違って悲哀に満ちている。
「愚かに過ぎるほど、情が深い」
 あの神竜に、心の強さを願ったのは、紛れも無い自身ではあったが。
「おまえはあまりにも……愛(かな)しすぎるよ」
 湯婆婆は一度目をとじてなにかを考えるように上を向いてから、おもむろに水晶に向かい直し、そして指輪のはまった両手でそれを抱えあげる。
 そして――それを、躊躇いも無く真っ赤な絨毯に叩きつけた。
 水晶玉の砕け散る澄んだ音が響き渡る。小さな破片同士が弾けあって、火をくべてある暖炉にひとつ転がり込み、ぽっと音を立てて融けた。
 湯婆婆は床に左手を伸ばし、小さな破片をひとつ摘み上げる。
 視線の高さに掲げたそれは、あっと言う間に鳥へと変化していった。白い体毛に、風切り羽だけが紫色の、小さな鳥。
 湯婆婆の手の上で、空気をはらむように二度・三度羽ばたく。
「行きな。あちらの世界に」

 そして鳥は空を飛ぶ。
 あちらとこちらの狭間をすり抜けて。赤い空に白い軌跡を刻みつけて。
 ――飛ぶ。



 ―― 神を砕く・4 ――


 赤い赤い夕日。
 なんだかこの頃、この『赤』を見る度に胸のあたりがざわめく。
 千尋は左手にそっと『親友の思いやり』を握りしめて、ひとり下校の途についていた。
 空が赤い。視界が真っ赤に染まっている。心の中まで赤く染め上げられそうで、千尋はすこしこの『赤』が怖くなっていた。
 赤い空を背景に、白い『なにか』がぼんやりとうつっている……心の中にその光景がちらちらとちらついて、わけもわからず不安になる。それを思い出すたびに、なぜか『はやく』と心が急き、なぜか『怖い』と心が叫ぶのだ。
 千尋はぶんぶんと頭を振った。ポニーテールにした髪先が、頬をぺしぺしと叩くのもお構いなしに。そして手の中の『防犯ブザー』に視線を落とす。
「うん」
 なにが『うん』なのか自分でもわからなかったが、ほんのすこしだけ安らいだ気持ちになった。
 のろのろと歩を進めた帰路が、もうすこしで坂上公園沿いの歩道に合流しようとした所で、千尋はふとなにやらわからぬものに怯えた。安堵したはずの心に、不意打ちで白い『なにか』が浮上して怖くなったのだ。
「…………今日は別の道で帰ろ」
 遠回りになるけれど。公園沿いは、なぜか怖くて通る気になれなかった。
 公園沿いの歩道に合流する交差点を無視して、千尋は住宅地内を突っ切る道を選んで歩いていった。
『秋の陽は吊る瓶落とし』とはよく言ったものだ。学校を出る前まではちゃんと太陽が空に昇っていたのに、迂回して迂回して慣れない道の為にちょっと迷ったりしている間に、太陽はすっかり山の向こう側に身を落とし込もうしている。
 等間隔で屹立している電信柱の外灯が、白くぼやけた光を投げかけている。どこかの電球が切れかかっているのか、幽霊が目隠しして遊んでいるかのようにちかちかと気味の悪い音と光を周囲にこぼしている。
 千尋はぶるっとひとつ身震いして、家々の隙間からようやく見つけた自宅の青い屋根めがけて走り出そうとした。
 そんな千尋の目の前に。
 白い鳥が一羽、通せんぼをするように舞い降りた。
 風切り羽が紫色の、およそ千尋が名を知らぬような、この世のどこにもいない鳥が千尋の目の前に舞い降りる。
「セン、久しぶりだね」
 はじめ千尋は、その言葉を目の前の鳥が言ったとは信じられなかった。そしてその鳥が自分に向かって話し掛けていることに気がついて、声も出ない。
 セン……センって誰、とは、なぜか聞き返さない自分を千尋は不思議に思わなかった。『セン』の名もまた千尋の一部であったからに他ならない。
「なんだい、折角会いに来てやったのに惚けているのかい?」
 口調にかすかな苛立ちを含めて鳥はそう言うと、ぼわっと膨張してひとりの女の姿を映し出した。青いドレスに身を包み、十指にぎらぎらと輝く大振りの指輪をつけた、巨頭の老婆だ。
 千尋は突然の怪異に心底驚き一歩足を引きかけたが、心がなぜか『懐かしい』と訴えるので、その足を無理やりその場に縫いとめた。
「まだわからないのかい、とことんマヌケな娘だねぇ。いや、わかっているがね。おまえのせいではないことなど」
 湯婆婆は一歩千尋に近づき、その頬に触れようと右手を上げた。千尋はさすがに肩をびくりと震わせて身を縮こませてしまう。
「だがあんた、それじゃぁ手遅れになるよ。いいのかい?」
「――手遅れ?」
「あんた、約束をしたんじゃなかったのかい、あの竜と」
『あれ』はその為に大きな代償を払い続けたんだ。あたしに、そして世界に。
 湯婆婆は、緊張して固くなった千尋の頬をゆっくりとなでると、
「忘れたのかい?」
 と問いかける。
「竜……約束?」
 脳裏に浮かぶのは、小さい頃に読んだ昔話の挿絵。東の竜。西の竜。悪い竜、良い竜、黒い竜。そして――白い、竜。

 白銀の鱗を煌かせ、蒼い空蒼い海を翔ける竜。蒼い暁月夜を翔ける竜。
 深い水底色の鬣が風に靡き、柔らかく頬をくすぐる感触が心地よい。
 耳元で風がびゅうびゅうと音立てて過ぎ去っていった不可思議な感覚に心が囚われた。

 つないだ手はひんやりとつめたかったけれど、その心が優しいことは、誰よりもわたしが知っていた。
 たくさんのものから解放されて、わたし達は空にとけながら笑いあった。

 胸の奥の奥にある、冷たく凝った氷に護られたなにかが、思い出の中のその笑顔に溶けて消え去った。

 なぜに忘れていたのだろう。なぜにこの想いに手を伸ばすのを怖がっていたのだろう。自ら氷で覆ったのは、それを護る為と言うより、自身を護る為。

 懐かしい愛しい竜――毀(こぼ)れ落ちたモノが、すべて自分の中に戻ってきたことを、千尋は沸きあがる胸の痛さで理解した。
「ハク――」
 その名を口にする千尋の唇が微かに震えているのを、湯婆婆は見逃さなかった。
「思い出したようだね、セン。仕方がないことさ。この世界とあの世界の絶対不可侵の理に、おまえは絡め取られたにすぎないのだから」
「おばぁちゃん……わたし、ずっと忘れてたけど、ちゃんとどこかでわかってたよ。だって、胸が苦しくて苦しくて仕方がなかったんだもん。ハクが――会いに来てくれた時から、胸が痛くて痛くて」
 けれども同時に怖かった。わけもわからずに怯えていたのも事実だ。体よりも心が先に萎縮して、記憶を取り戻すきっかけに手を伸ばすのを躊躇った。手を伸ばしてそれを掴み取れば、きっと世界のすべてが変わってしまうとわかっていたように。
 千尋は、湯婆婆の手の平に頬を押し付けるようにして、瞼を閉じた。なぜかこの業突く張りと評される老婆の手が、母親の優しい手に思えて仕方がなかった。
 頬をなでる老いた手の思いもよらぬ優しさに、閉じた瞼から涙が転がり落ちた。
「泣くでない。まだ、泣く時じゃないよ。急ぎな、ハクのところに」
「おばぁちゃん?」
 こしこしと手の甲で恥ずかしげに目元をぬぐった千尋は、元来た道の先を指し示す湯婆婆の意図がわからずに小首を傾げる。
「あれは――もう、とめられないかもしれない。よくお聞き、セン。ハクはもう……」
 この世界にも、いられない。そして『ハク』として存在することすらも許されない。
 湯婆婆は、けっして言いたくなかった言葉を、千尋の前に吐き出した。

 暗転する世界。太陽は完全に没した。

   ◆◇◆

 坂上公園。
 闇に沈んだ公園は、異様な空気に満たされていた。
 誰も近づこうなどと微塵も思わぬ、聖域とも魔の領域ともとれる濃厚な異質さに溢れかえっていた。
 その中心に存在しているのは、人ならぬ者。神竜・ハク。真の名を、ニギハヤミコハクヌシ。
 ハクは、その艶やかな髪を大地に散らしていた。体をふたつに折り、必死になにかと戦っていた。
 腹の内側で暴れるモノ、『この世界がハクを排除しようとしている力』と。否、そんなモノはすでにハクの脅威ではなかった。それ以上のモノが、ハクの内側から『ハク』を食い破って出てこようとしていた。
 ハクはわかっていた。その『なにか』すら『おのれ』であることを。しかしそれは『おのれ』であっても『おのれ』ではないとも理解していた。それは、この心を抱え続けていた『自分』を覆い隠し喰らい尽くし、きっと変質してしまう。このままでは、千尋をずたずたにしてもかまわないと簡単に言い切れる自分になってしまう、とハクは怯えにも似た感覚に支配される。
「ぐ……っ!!」
 暴れまわる。体を、心を、記憶を、想いを掻き乱して荒れ狂う。
 狂気。
 それに身を委ねれば楽になるのだろう。そんなことはわかっていた。けれども、それはおのれが望んだ結果とは違う。そんなものは断じて違う。
 千尋。
 その名こそが、この狂気から一瞬でも意識を浮かび上がらせるカギ。そして狂気を煽るカギ。
 千尋。
 知らなかった。私の中のそなたが、こんなにも大きな存在だったなんて。知っていたけれど、わかってはいたけれど。
 私と言う存在を砕いてしまうほどに、その存在が大きかったなんて――最初から知ってはいたけれど。
「ちひ……ろ――」
 息を吸う事すらままならない喉を震わせて、ハクは名を唇にのせる。
 池の水がざわざわと呼応するかのようにざわめく。すこし欠けた月が、乱れに乱れてとけていく水面。
「ハク――!!」
 ざわざわと鳴るのはおのれの中の水か、宥めるように鳴く水か……そう思った瞬間に耳に飛び込んできたのは、ここにあるはずのない声。
「――ッ」
 必死にあげた視界にうつったのは、月を背に駆けて来る少女の姿。その名を呼ぼうとして、ハクはひときわ大きく襲い来る痛みに顔をしかめた。
 まろぶように駆ける千尋を拒むが如く風が吹き、ハクの身は竜へと姿をといた。
「ハ……ク……」
 千尋はその姿に絶句する。ハクの鱗が闇色に澄んで見えるのは、けっして月下で見ているからではないはずだとうめく。白き竜であったハクは、その身の半分を黒く透き通る鱗に覆われていた。
 驚きのあまりにとまってしまった足を叱咤して、千尋は一歩一歩前に進み、芝の上に力なく身を横たえさせ痛みにうめく竜の元へと急ぐ。
『来るな、千尋!』
 すでに声を出すこともできないのか、ハクは心を通じて叫び声をあげる。
「ハク!」
『こないで……千尋。今の私は、そなたになにをするか……わからない』
 ほんの少し気を抜けば、なにかに乗っ取られそうなおのれ。そのおのれは千尋になにをするだろう。千尋の体を引き裂くのだろうか、喰ろうてしまうのだろうか。自分はただ、そばに居たかっただけなのに。抱きしめていたいだけなのに。
「おばぁちゃん……が、言ってたの」
 来るなと告げたはずの千尋は、それでも臆せず竜の鼻先に頬を摺り寄せる。
「ハクは、わたしのこと、ずっとずっとずっとずっと想っていてくれたって」
 なにもかもをなげうって、わたしに会いにきてくれたのだと。
「痛々しいくらいに、想っていてくれたって」
 挫折すればいい、その方がいっそ楽だろうに、と湯婆婆は思ったと言う。
「強い『想い』は力になるんだって。ハクはその『想い』だけで、この世界に来たんだって。嬉しい……嬉しかった! でも」
 その『純粋』な想いが。
 ハクを壊すだなんて。
「そんなの……ヤだ!」
 そんなに強い『想い』を抱き込めるほど、この世界は『美しく』も『強く』もなかった。
 強烈に強い『想い』は、すべてを巻き込んで崩壊しかねない。それが、この世界の理から外れた者である以上、その異質さは許容できる範囲ではなかった。
 だから世界はハクを排除しようとした。
 そしてその前に、ハク自身がハクを殺そうとした。
 すべて、強い『想い』が源にあるコト。

 水。
 水はすべてを溶かし込み、許容する存在。
 そしてハクの本質は『神』であり『水』。
「ハク、わたし」
 大きな涙をぼろぼろと零して、千尋が嗚咽をこらえながら言う。
「わたし、ハクと離れるのは……イヤ。大好き。記憶がなくたって、ちゃんとずっと大好きだった! ウソじゃない!」
 竜の顔に抱きつくようにしていた千尋は、ぎゅうとなにかに耐えるように更に力を込める。
「でも、ハクが、ハクでなくなるのは……それはダメだよ、ハクが、ハクでなくなるなんて……」
 湯婆婆は言っていた。このままでは、ハクはまったく別種の生き物になると。記憶も、心も、想いもなにもかもが変質した、『ハク』とは似ても似つかない異形になると。
「ハクのこと、わたし、ちゃんと知ってるよ? ハクは――ハクは、自分が違うモノになっちゃうの、許せる人じゃないよね?」
 自らが成長したわけでもない変化を、許せるはずがないのだ。それが――他者に対して絶対的な『害』となる変質であったれば、尚の事。
「ハ……ク――。水に……もどって」
 震える唇を押し開き、無理やり紡いだ言葉は、涙で揺れる……心にそむく願い。
 ハクが真実望むだろう事は、千尋とともに生きること。
 しかしそれは、その想いの深さゆえに閉ざされた願い。
 それではふたつめは。
 ふたつめは、千尋の害意とならぬこと。
 その為には、ハクは『おのれ』を手放さなければならなかった。乗っ取られるのではない。本質に――清き水に、もどるのだ。
「抱きしめていてあげるから」
 最期まで、とは言わない。ずっとずっと抱きしめていてあげるから、わたしが。
 ハクだけが辛いんじゃない。わたしだって辛い。
 本当は、ハクがどんなになっても『ハク』なのだと、わたしは胸を張って言える。ハクが誰を、なにを傷つけても、わたしはハクを信じると言える。
 けれど、ハクはきっと望まない。それがわかるから、胸が痛くて痛くて死にそうになるけれども言うのだ。『水にもどれ』と。
『千尋……本当?』
 苦しげな息の下、雑音の混ざる思念が千尋の脳裏に響いた。


『最期まで――抱きしめていてくれる?』


「うん」

 ずっと。


 満月ではない月の下。
 傍らには、町の中にあるとは思えないほどに澄んだ水。
 優しく抱きしめてくれる感触は、焦がれて焦がれて焦がれ続けた愛しい少女の柔らかな腕。
 月を砕いてしまおうかと思いつめた想いは、ついにおのれを砕いてしまった。
 それでも最後に心に残ったのは、穏やかな『愛しい』想いだけで。



 

千尋ノ『心ノ強サ』トハ、
 ナント優シサニ満チテイルノダロウ……





 その心に抱きとめられて。
 神竜は、そっとその瞼を閉じた。

   ◆◇◆

 月が中天を過ぎた頃。
 公園にひとりの少女がうずくまっていた。
 びしょぬれになったセーラー服。
 びしょぬれになった髪。
 びしょぬれになった細い肢体を、自分ごとなにかを抱きしめるかのようにきつくまわした腕。
 瞳からは、澄んだ涙が幾つも幾つもすべっていく。
 月が彼女を照らし出す。


 大好きよ、ハク。
 大好きなの。

 あなたのことを忘れていた時でも、心だけが叫んでた。『はやく』『急げ』と。
 死んでしまう前に。この心が死んでしまう前に『思い出せ』と叫んでた。
 その痛みに怯えたわたしを許して。
 ハクを殺したのは、わたし。
 それほどに、わたしも好きだったのよ、ハク。


 ハク。
 わたしの大切な――




「ハク」




END