「できちゃった結婚?!」
千尋は自室のベッドの上で、携帯電話から耳に飛び込んできたその単語を鸚鵡がえししていた。
『ちぃ坊、復唱する癖治ってないねぇ』
「カンちゃんだって、いまだに『ちぃ坊』って言うし」
小学校時代からの親友寛実の親愛の表現とわかりながらも、何年も続いているこのやりとりに漂う雰囲気が好きで、ついつい千尋もいつもの如く反応してしまう。
「じゃ、なくて! 五軒屋クンとトモっちがそんなことになってたなんて、初耳!」
『あたしもつい最近知ってさぁ、もうビックリ。なんとなく、気持ちはわかると言えばわかるんだけど……』
五軒屋とトモっち……こと智子は、義務教育時代に互いに同じクラスになった者同士だった。特別寛実も千尋も親しくしていたわけではないが、同じ住宅地にいる同じ年同士、なにかと気になる存在でもあった。
『あのふたりって、もう長い付き合いでしょ、たしか』
「そうそう、中一の冬からだから……わ、たしかに気持ちはわかる、わたしも」
長い長い恋愛の通過地点。互いが『子供』でなくなったからの、当然の変化であるとは理解ができるが。
それでも千尋は『大変だろうな』と思わずにいられない。
どうか幸せになって欲しいと思う。けっして生まれて来る子供が泣いたり、疎まれたりする未来にはならないで欲しいと思う。
あのふたりなら大丈夫だとは思うけれど、あのふたりならどんな辛いことでも助け合って乗り越えていけるだろうとは思うけれど。
現実は、年若いふたりの出した結果を快く迎え入れてはくれないだろう。
時代が時代なら、国が国なら、十八歳の結婚出産はなんらおかしいことではない。けれども、今は二十一世紀で、ここは日本なのだ。そんな『時代が時代なら』なんて、ただの逃げでしかない。
「幸せになってくれるといいね」
同じ年のあのふたりが選んだ未来に、千尋は尊敬の念を持って。
願わくば、彼等の『幸せ』のカタチが美しいものであるようにと願って。
しみじみと携帯電話の向こうに聞かせるともなく呟いた。
『それでね、ちぃ。話それちゃったんだけど、次のライブで新曲発表するから絶対来てね!』
寛実の突然の話転換も慣れたものだ。
「夕方六時からだったっけ?」
『そう、六時。絶対来てよね!』
寛実は二年前からアマチュアバンドで歌姫をやっていた。はじめは軽い気持ちで歌いだしたが、今では本格的に『歌』が好きになっているらしい。暇さえあれば、採用されることを目指して作詞をし、ボイストレーニングをしている。
バンドのメンバーはメジャーになることに意義は見出していないらしく、ひたすら人生を応援する歌を楽しげに作り出していた。
ここにも自分の『幸せ』をカタチにしようと頑張っている十八歳がいる。
千尋は携帯から流れてくる明るく優しい声に耳を傾けながら、そっと瞼を閉じた。
コスモスが枯れました。
あれから四年とひとつきがすぎています。
わたしはこの四年間、『幸せ』を求めたり『幸せ』のカタチを思い描いたりしたでしょうか。
なにひとつ変わっていない気もするのです。
手足だけが伸びて、心はまったく成長していないわたし。
無くしたモノの大きさと痛みに萎縮して、残されたモノだけを抱えこんで動けないでいるわたし。
あれから四年もたったのに。
わたしの時間は、十四歳のあの夜から進んでいないのです。
◆◇◆
歌う寛実は、実に楽しげで堂々としていて、背は高いが痩せている体が大きく見える。
タンバリン片手に歌う、明るい応援歌。くりくりとした茶色い髪が、元気いっぱいに跳ね上がる。
音を外して陽気に笑う、おちゃめな歌姫とそのメンバーがステージ上にいた。
千尋はその姿を、人の群れの一番後ろで見ていた。時刻ぎりぎりに急いでかけつけるとすでにステージの周りは人だかりの山で、千尋は内心舌打ちを禁じえなかった。かかとの低いミュールで背伸びを一生懸命する。
歌う寛実はまったくの別人だった。千尋のことを死ぬほど心配した親友の顔なんて微塵もない。なんとなく遠い人のような気がしないでもないが、千尋はそんな彼女も好きだった。彼女が歌う歌に、千尋は何度も救われた、と思っている。
《イヤなことなんて明るく笑って吹っ飛ばせ》
歌の根底に流れているのは、若い力に溢れた、そんなメッセージ達。
《『明日』って言葉を信じていろ、なにがあっても》
音のひとつひとつが細胞に染み渡って爆発を繰り返すようなその歌達が、千尋は本当に好きだった。
だから、寛実が
「新曲」
と言い置いて歌い出した歌を聴いた時――裏切られた、と思ったのだ。
寛実に。
《ここに来て。はやく。
抱きしめていて。
言い訳は聞かない。なにも聞かない。
真実だけが欲しい》
《空には蒼いガラス 水には割れた鏡。風には嘘が溶けていて、いつもわたしを不安にさせる。
闇には誰かが閉じ込められていて。輪を描く想いがエンドレスで耳に囁く》
《ここに来て、すぐに。
抱きしめてあげる。
謝って欲しくない。何もいらない。
『幸せ』の形なんて、あなたがいなければしょうがない――》
バレテイタ。ヤッパリ何モカモ『バレテイタ』。
『幸せ』を望んでいない自分の心を、あの親友は見抜いていた。
必死に抑えつけていた『心』を暴かれた、断りもなく。
それでも怒りで目の前が真っ黒にならないのは……『あなたがいなければ『幸せ』になれない』現実が横たわっていると、それすらも気づかれていたから。
心配性なカンちゃん。
ごめんね、いつから気がついてたの?
『あなたがいなくても『幸せ』になる』のだと開き直れない、弱いわたしにいらいらしたでしょ?
背中を押してくれたんでしょ? それでもやっぱり最後の選択はわたしに残してくれているんでしょ?
どっちを選んでもわたしはわたしなんだって。
『あなたがいなくて『幸せ』になれない』わたし。
『あなたを置いて『幸せ』を捜す』わたし。
そのどちらも認め、そのどちらも選べないわたしすらカンちゃんは認めてくれようとしている。
けれども、もう四年。いい加減自分の気持ちに向き合いなよと、現実を『カタチ』にして目の前に突きつけたのは、もう『子供』じゃないのだからと言う意味で。
マイクを抱きしめ、千尋の『想い』をぶつけるかのようにささやき歌う寛実の姿。いつもとは全然違うスタイル。
これは愛の歌じゃない。応援歌でもない。ただの現実、『焦がれ』て『求め』『捜し続ける』歌。
《闇には誰かが閉じ込められていて。抜け出せないでいるわたしは、それでも捜しているから》
『あなた』を。
――ハク、を。
《両手で掲げた『希望』の色は――残酷なまでに澄んでいる》
◆◇◆
千尋は走っていた。歌がすべて終わるまで待っていられなくて、プラットホームに滑り込んだ電車に乗り、バスへと飛び乗った。
そして自分の家には帰らず、ひたすらに走っていた。
時間は夜の九時。電信柱が等間隔で屹立する住宅地。舗装された道に白い光が円を描く。
走りにくいミュールは、すでに右手に引っつかまれた状態。
ばっさりと切り落とした栗色の髪が、肩の上で跳ねあがる。
細い三日月が空に有る。
千尋は走りつづける。
あの公園に。あの日と同じように。走りつづける。
坂上公園。高校生になってからは、散歩以外には足を向けることのなかった場所。大学生になってからは、一度も行っていない場所。
大切な、ハクの消えた場所。
大きく肩で息をして。
そっと掬い上げた池の水は、月と外灯の光を反射して手の中で揺れる。
呼吸が乱れて震える喉で
「ハク」
と呼びかけても、その水に変化は見られない。
ハク、ダメかもしれない。
ハクが水になったのは、あなたの意思。そしてわたしの願い。
理不尽だとはわかっている。この結果以外に、あの時選択肢は見つからなかった。あの魔女でさえ諦めを含んだ目をわたしに向けたのだ。
それでもこの結果は胸に痛過ぎる。
ハクは最後に言ってくれたよね。
『私はこの世界の『すべて』になって、千尋の側にずっといる』
と。
それでもわたしは人間で。
目に見えるものを信じてしまう人間で。手で触れられるものを信じてしまう人間で。
あなたはたしかに『すべて』にとけてわたしの側にいるのだとわかっていても、わたしは心の弱い人間で、それを信じつづけることが出来ない。
わたしは弱い人間で。それだけでは我慢のできない人間で。
あなたとともにいたいと。
あなたの声が聞きたいと。
あなたの姿が見たいと。
あなたをこの手でしっかりと抱きしめたいと。
そうしないと、壊れてしまうと一度でも思ってしまったら、いてもたってもいられない。
心が壊れてしまうと――そう思ったら。
あなたを求めるしかないじゃないと思って。
ハクのあの時の気持ちが今ようやくわかった。
こんな気持ちを抱えて、わたしもこの『世界』にはいられなくなる身ならどんなに良かっただろうかと、思って。
涙がこぼれた。
わたしを置いて行ったのだと、そんなことはないのに責めてしまう。
あなたの心がわかるのに、あなたの心は一番遠い。
両手に水を抱きしめた体は、池のそばうずくまったまま動けない。
冷たくなる心、冷たくなる体、冷たくなる意識――すべての奥底が白くなる。
「ハク……」
ハク。
水の神様。
美しい白い竜。
わたしの大切な人。
「ハク――」
神様はもういない。
神を殺したのは、神自身とわたし。
罪は『神殺し』
罰は、それでも『生きていくこと』
両手に残された神竜の『願い』は、容赦なく『未来』へ魂を押し出す。
◆◇◆
コスモスは枯れました。
冷たい風が吹いています。掬い上げた水は切れるほどに冷たくなっています。
あれから四年とひとつきもたつと言うのに、今頃あなたの気持ちが本当に理解できた気でいるわたしがいます。
あなたの気持ちがわかった気がします。
だからわたしは、あなたと別の道を選びます。
それがあなたの願いに、一番近く寄り添っていられるだろうと思うので。
「わたし……ハクがいなくても『幸せ』を見られるように頑張る。その方が」
わたしらしいよね? ハク。
未来を切り開いていこう。なにがあっても『明日』を信じよう。
コスモスの季節は過ぎても、雪が降って桜が咲いて、夏の陽射しがさし込んで、そして秋になる。もう、あなたを失うあの一瞬は永遠にないのだと、わかったから。
コスモスが枯れても、心は痛まない。
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