ネムレルヨオウ
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 赤い壁をした建物の裏側に広がる大地を埋めていた真っ白な花が一斉に咲いたある日。低くゆっくりと風が花頭を揺らし、向こう向こうへと、知らない海へ想いをはせさせるような、穏やかな夏の午後。
 その光景を見ることなく、今日、ハクが死んだ。

   ◆◇◆

「セン、あれはねぇ、お前の為にここまで生きてきたんだよ」
 湯婆婆のおばぁちゃんが、いつもはいかめしい顔を少しだけ歪めて慰める様に。つい先日、ぶっきらぼうながらもわたしの十六の誕生日を祝ってくれたその人は少し寂しげで。
 うん、知っているの。本当はハク、とても苦しんでいたのも、死ねるのを待っていたのも知ってた。命の宿りとなる『コハク河』はとうの昔に死んでしまって、もうハクの寿命も短くて。騙し騙し繋げてきた生は辛いもので。でもここまで生きてくれたのは、すべてわたしの為だった。

「セン、泣いちゃダメなんだぞ。坊がいるぞ」
 うん、ありがとう。でも、わたし泣かないから。だって、カラカラに乾いてひび割れてしまった白銀の鱗も、ざらざらになった水底色の鬣も、虚ろな翡翠色の眸も、ハクの呼吸が止まったら空中に溶けていってしまって。すがりついて泣く躯もないのに、ただ流すだけの涙なんて持ってないから。

 泣けもしないわたしを気遣って、坊が仕事を休みにしてくれた。わたしは海原電鉄に乗って、六つ目の駅で降りた。通い慣れた木々のトンネルを抜けて辿りついた家の扉をノックすると、家の主が大きく両腕を広げて抱きしめてくれた。
「可哀想に。泣きたくても泣けないんだねぇ」
 ハク竜を看取ったのはお前だけなのだし当然か……との銭婆のおばぁちゃんが飲み込んだ言葉が聞こえそうだったけれど、わたしはそう言って抱きしめてもらって、ようやく胸の中が悲しみでいっぱいで麻痺していたのに気がついて――そうしたら涙が一粒こぼれて――そうしたらもうとまらなくて、わんわん泣いた。
「大丈夫。お前はひとりじゃない。それにお前は強い子だろう? なにせ、あのハク竜と千尋の子供なのだから」
 お前はとても千尋に似ているのだから、大丈夫だろう? と言われて、わたしは変な気分になった。一目もあえなかった『母』に似ているわたしはひとりではない。いつでも母と一緒にいるのだと思ったら、ハクも側にいてくれている気がした。眠れる夜王の元で、ふたりが寄り添っているのが見えるよう。
 見上げれば空は晴れていた。ハクが喜んでいる気がした。