ネムレルヨオウ
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 神の不文律。
 あらゆる生命を加護すること。
 闇にとらわれないこと。
 ひとつの存在に執着しないこと。
 すべてを守れぬ者は、もはや――神ではない。

   ◆◇◆

 霊々が癒しを求めて訪れる異世界の湯屋の、どこか薄暗い廊下で、男は捜していた姿をようやくみつけて声をかけた。
「セン様、小物問屋の主人が話があると参っておるのですが」
 呼びかける声にふと足をとめて振りかえったその者をみる為に、男は視線を下に下に向けなければならなかった。おのれの子供と同じほどの背丈――否、先日十を数えたおのれの子供よりも更に幼く、小さく、華奢な少女がそこにいた。振りかえるその動作に茶色味を帯びた髪が柔らかそうな頬をくすぐった。その仕草だけを見れば年相応の少女であったが、翡翠色の瞳だけが違っていた。子供にあるまじき、冷静な――冷徹な、ともとれる、冷たい輝きがそこにあった。
「わかりました。すぐいきます」
 その声も幼く舌足らずなものであったが、どこか大人びた物言いに違和感はない。幼くとも聡明な竜。彼女はそのものの存在であった。帳場の管理人である父親の補佐について、ようやく一年。けれども、油屋に出入りする誰もこの少女を外見だけで侮ったりはしなかった。そんな存在なのである。
 細い手足、幼い容姿にもかかわらず、少女の動きは優雅にして俊敏でもあった。その後ろ姿を見送って、男はぼんやりと過去を思い出す。姿形や声だけならそっくりな、もうひとりの娘のことを。彼女は見た目そのままに穏やかな性格をしていて、よく笑ったものだ。おのれの子供が産まれた時も喜んでくれた。嘘いつわりのない祝福の言葉をくれた。年の割にはおっちょこちょいで、けれど、その失敗すらも笑って許せるような、そんな雰囲気を持った娘が――過去にいた。


「千景、仕事はどうだい?」
 他に誰もいない、どこか薄ら寒い部屋で向かい合い食事をとるのは、同じ仕事をしていながらもどこかすれ違いがちになるこの親子の精一杯の接点であった。ふたりの膳には下働き等の賄い飯とは雲泥の差の食事が乗せられていたが、双方とも味などわかっているのかいないのか、なにを口にしても表情ひとつかえず、また食事への感想ひとつ出たためしもなかった。
「面白いよ。値切るのとかね、結構好き」
 どこからどこまでなら相手の許容範囲なのか、顔色みながら話するの、好きなの。あと、帳簿計算がぴったりあったりしたら、凄く嬉しいの。
 十にもならない子供が面白がる話題ではなかったが、千景は小さく笑いながら口にした。補佐に立って一年であるがもうそこまでできるようになったんだよとの少しばかり自慢もあった。けれど、そんな少しばかり覗いた子供っぽい色にも気がつかず、ハクはなにも言わなかった。
 向かい合う千景は、なにをバカしているのだろうと胸中で呟いて、大人しく白米を口に運んだ。なにを期待したのだろう、誉めて欲しかったのだろうか。凄いな、とか、役に立っていると言って欲しかったのだろうか。なにをそんな幸せな子供じみた期待をしているのだろう。けれど、なにか言って欲しい。子供にはやはりはやい仕事だ、とかでも良い。いっそ怒られても良かったのに。
 黙々と、口に食べ物とは名ばかりの『物体』を運び入れる父親の表情は少しも変わりがなかった。きっとこの先何が起ころうと変わりなどないのだろうけれど。
「ハクは――この仕事、楽しいの?」
 もうずっとずっとここにいて同じ仕事をしている父親。毎日毎日、少しずつ違うだけでなにも変わらない仕事をして日々を暮らしている彼にふとそんな疑問を抱いた。
「なにもすることがないから」
 端整な顔を歪めるでもなく言いきったその言葉にはなんの色もなくて。ただの事実。なにもないのだと――ただ存在しているだけで、なにもないのだと千景につきつけて。聞かなければ良かったと千景は内心で唇を噛んだ。なぜなら、なにもないハクがそれでも生き続けているのは自分の為だから。喜びが顔に出ないように、千景は唇を噛む。それは歪んだ喜びだから。
「私は死ねないからね」
『神の不文律』――あらゆる生命を加護すること。闇にとらわれないこと。ひとつの存在に執着しないこと。『神』であれば、産まれた時から魂に刻み込まれた絶対事項。その不文律の『あらゆる生命』の中には――ハクにとっては不幸なことに、千景にとっては幸いなことに――『神』自身の命も含まれていて。神の自害は世界のバランスを崩す。故に絶対の禁止事項。けれども、千景はそれを知った上で口にしてしまう。
「ハクはもう『神』ではないのに?」
 おのれの命さえ許しがあればすぐにでも打ち捨ててしまいたい者が『神』であろうか。闇よりも深い場所に囚われている者が『神』であろうか。ひとつの命に執着し他者をかえりみない者が『神』であろうか。血を分けた娘すら真の意味で愛さぬ者など、『神』である資格はない。
 しんと静まり返ったその部屋はふたつの熱源があるにもかかわらず冷え切っている。隙間などあろう筈がないのに冷えて冷えて仕方がない。
「あぁ、そうだね。私はもう『堕ちた者』だ」
 神の不文律に背き続けた者だ、と。
 今この部屋でどちらがより神の座に近いかと問えば、それは娘の方だ。それは慈愛の神ではなく裁きを下す者であったけれど。
「けど、ハクが死んだらわたしは泣いちゃうからね」
 だから死んだりしたらダメなんだよと言葉に込めて。それは許しではなく裁き。罪を犯した『神』の罪の結晶がこのわたしなのだから、と。わたしが許さない限り、ひとりで楽になるなんて許さないのだと。
「ハクはわたしの大切な神様なんだから」
 絶対唯一の、創造主にして許さざる神。
「大好きなんだから」
 そんなことを言ったところで、ハクが喜ぶわけもないとわかっていながらも。否、わかっているからこそ口にできる言葉。
「大好き、なんだから」
 届くはずがないともわかっている言葉はたとえ混じり気なしの『真実』であろうとも虚ろでしかない。


 神の不文律。
 あらゆる生命を加護すること。
 闇にとらわれないこと。
 ひとつの存在に執着しないこと。
 すべてを守らぬ者は、もはや――神ではない。