十歳の夏休み

歌は響き渡る




 悲しみの上に悲しみをのせて、私は不幸だと言いたくはない
 寂しさの上に寂しさをのせて、私はひとりだと言いたくはない

 強がりとは言わないで欲しい
 真実それは違うから。
 隣にいる、その存在に出会う為の
『試練』と今は思えるから

 それでいいのだ

   ◆◇◆

「はーく! また眉間にしわが寄ってる!」
 いっかな片付かない二月堂机上の書類に目を通していたハクに、帳場を通りかかった千尋が声をかけた。
 声をかけたと表現しても、その左手は腰にあてられ、頬がむぅとむくれている。小さなお姉さんと言った感じで、右の人差し指をハクの額に突きつけているのだが。
 ハクの意識はうかつにもその時完全に書類に向いていて、正直千尋のその声にぎょっとしたのだが、その動揺がまったく外に出ないところがハクらしいと言えばこの上なくらしい。
「しわを増やすようなことを起こしているのはどこの誰だ?」
「あ……はははは。は〜い、わたしでっす」
 おどけて右手を上げた千尋のその姿に、心が和んだハクである。そんな気分になれたのも、この場に千尋とふたりきりでいることに起因するのだが。
「うそ。今日の失敗は、あれは仕方がないことだから。怒ってないよ」
 ほんと? 良かったっ! と千尋は表情を輝かせた。
 ハクが本当に怒りを持続させることなどないと知ってはいたが(少なくとも千尋に対しては、なのだが)、なんとなく気になっていたのである。もう一度きちんと先の失敗について謝ろうと思って帳場を覗き、どうやって切り出そうかと迷っていたのが馬鹿らしくなった千尋であった。
 そんな彼女の笑顔を、ハクは両目ではまぶしくて直視できない。 気分は、片方の目をふさいでおきたいくらいだった。
 明るい彼女の声も、ハクには両耳ではとらえきれない程に快い。

 時折、千尋の声が歌のように弾んで聞こえる時がある。
 話している内容よりも、その言葉よりも、その声に込められている気持ちや感情が飛び跳ねていて、音階を形作る。
 そんな時、ハクの右手は音をつかまえようと上がりかけ……目に見えない音符をつかまえようとした自分に苦笑して右手を見るのだ。

 悲しみや寂しさなんてモノまでなくしてしまっていた私の隣で、声ひとつで私を動かしてしまう彼女がいる。
 彼女と出会ったことで、そのなくしたモノまで取り戻したのかもしれないけれど、それすらも彼女のおかげならば愛しく思える。

 今日も歌は響き渡る。隣の小さな唇から零れ落ちる。
いつまでもその歌が途切れなければいいのに、とハクは思った。