十歳の夏休み

薬 箱




 あなたの風邪は喉から? 鼻から?

 千尋はそんなフレーズを思い出し、その質問に頭の中で答えを返していた。
『わたしの風邪はノドからです』
 銀の包装のそれが、今とっても欲しいです。

   ◆◇◆

 季節感に乏しいこの不思議の町でも、しっかりと秋が来て冬の気配すら漂っている。はっきりと言って季節の変わり目。しかも空気は、注意報がでそうなくらいに乾燥している。
「セン、おまえ、昨日の晩口開けて寝てただろ」
 女部屋にただ一組敷かれている布団の枕元にあぐらをかいて、リンはきししと笑った。
「そーかもしれない」
 なんともかんともがらがらな声が返事を返す。それにまたリンは変な笑いをもらした。
「おまえのノド、まっかっかだもんな。そりゃぁ熱も出るよ。ま、今日は薬飲んでしっかり寝てろよ!」
 声を出すと痛いので、かけ布団のへりを握りしめて頷くだけにとどめたのは、リンの妹分のセンこと千尋であった。
 いつものように目覚めてみたら、ノドは痛いわ熱は高いわで泣きそうだった彼女の口をがばと開けて覗き込んだ姉貴分を、布団に埋もれたまま千尋はなんとも複雑な表情で見上げるしかない。
「リンさ〜ん、ごめんねぇ」
 がらがらがらがら。
「謝んなって。全部上役らがこき使うのがいけねぇんだし」
「うにゅぅ」
 いつもの可愛い声はかけらさえない。どころか、なにを言っているのかも判別しがたく、それはそれ姉妹のように濃密な信頼関係と勘で会話を成立させている二人であった。ある意味最強らぶらぶコンビであるかもしれない。
「釜爺が薬を届けてくれることになってから、それまで寝てろよ!」
 じゃなーとかけ布団の胸のあたりをぽんぽんと叩いて、リンは仕事場へと赴いていった。
 はて? と千尋は考える。あのおじいさん、この女部屋までお薬を届けに来てくれるのかな? と。
 だって廊下、狭いもの(笑)。


 釜爺とは、風呂釜に死ぬまでこき使われる爺さんのことで、ススワタリの上司で、油屋の薬剤師でもある。当然医術関係の知識にも詳しく、風邪程度なら症状を見るまでもなく話だけで薬を調合してくれる。
 が、なにぶんあの姿。広い場所以外に出没する事はできなかった。当然この女部屋に薬を届けに来たのは別の人物である。
「坊〜、ごめんねぇ」
 こちらも同じく、元の姿は巨大な赤ん坊。同じ理由で女部屋に現れることなど不可能であるのだが、それはそれ『魔法』と言う、千尋にとってはなんでもありな無節操にも思える法則でネズミになって出現していた。背中に紐で背負い込んでいる紙袋が、どうやら釜爺の薬であるらしい。
 なんとか上半身を起こした千尋は、膝の上に坊ネズミを手招くと、力の入らない手でその紐をほどいて薬を受け取った。思わずその薬がありがたくて、額におしいだいてしまう。
 そんな千尋を、坊ネズミは心配げに見上げていた。
「おじいさんの薬飲んだら、大丈夫になるからねぇ」
 そう言った声は、がらがらのかさかさ。坊は一気に心配の奈落の底に落とし込まれてしまう。
 あんまりにも見上げてくる視線が心配げだったので、千尋はカラ元気を大盤振る舞いしてしまう。
 そのネズミの毛並みを優しく撫でてやると、ようやく坊ネズミは安心したらしい。ちぅと一声なくと千尋のかけ布団からつるりと滑り落ち、枕のあたりをその小さな手の平でぺちぺちと指し示した。どうやら「起きてないで寝るのだぞ」と言いたいらしい。
 千尋は熱で赤くなっている顔でふにゃりと笑うと、おとなしく枕に頭をのせて寝入ってしまう。その寝顔を枕辺で眺めていた坊ネズミなのだが、お使いをすませた安心感からか、大好きなセンと一緒にいるからか、それとも敷布の感触が熱で熱くなっているからか、うつらうつらと睡魔の手が忍び寄ってくる。坊ネズミはあくびをひとつと背伸びをひとつすると、千尋の枕の脇に丸くなって眠ってしまった。
 ある意味最強のんびりコンビであるかもしれない。


 さてさて、飲むのを忘れられている釜爺の風邪薬。それを枕辺から取り上げてまじまじと見ているのは、言わずと知れた帳簿管理の少年。
 じっと無言で手の中の薬を眺め、ついで一組だけ敷かれている布団に視線をやる。出張から帰ってきて三日ぶりにあう千尋は、いつもの元気な様子はなりをひそめ、ただただ病気を癒す為に寝入っていた。
 センが風邪をひいて寝込んでいると父役より伝え聞いたハクは、湯婆婆への報告もそこそこに女部屋へとやってきたのだが、その千尋の寝息のたしかさにすこし安堵してしまう。
 人間は怪我にも病気にも弱いが、底知れぬ自然治癒力を体に秘めている。千尋のような、生命力に溢れる子供であれば尚更である。薬などは、その治癒力を助けるものでしかない。
 それでもその熱の為に赤い顔は、ハクの心配を煽るには十分すぎた。思わず眠っている千尋の枕辺に座り、そっとその寝顔を覗き込もうとして――そこに坊ネズミがいることに気がついた。
 ぴくり。
 寝ている千尋が起きないように無意識に加減はできたらしいが、殺気が一瞬その部屋に漂った。どうやら坊ネズミも気がつかなかったらしく、いまだ千尋の枕の脇で丸くなって惰眠をむさぼっている。
 ハクはそのネズミをひょいとつまみあげると――窓からぺいっと放り投げた。
 ――――――あぁすっきり。
 そんな言葉が似合いそうな晴れ晴れとした表情を浮かべたハクは、窓より捨てた坊の心配なぞすることもなく――まぁ、心配するくらいならそんな行動はできないであろうが――音も立てずに窓を閉める。
 まぁ、あれでも湯婆婆の息子であるので、なんとかするであろうとはわかっているのだ。なにせ窓から坊を捨てたのはこれが初めてではないのだから。海ができていない状態で捨てたのは、さすがに今回がはじめてであったが。
 ある意味、最強のライバル同士であるかもしれない。差は大きく開きすぎてはいたが(笑)。


「うぅん? あれぇ」
 坊ネズミが見舞いに来てからすっきりとした眠りに落ちていた千尋であるが、いい加減に連続で眠っているのにも疲れたらしい。
目元をこしこしとこすりながら上半身を起こすと、先よりはすんなりと体が動くし喉元の痛みもやや薄れていた。
「って、ハク?!」
 寝疲れて起きたぼやぼやな頭で、視界の隅にうつっている白い人影は誰だろな? と考えていたもので、一拍もニ拍も反応が遅れた千尋であった。
「大丈夫かい、千尋?」
「う……うん。今日は一日ゆっくり寝てたから――」
「千尋、釜爺の薬、飲んでいないだろう? だいぶ調子は良くなったみたいだけれども、一応飲んでおいたほうがいい。いまなにかお腹に入れるものを持って来るから」
 そう言えばおじいさんが折角作ってくれた薬を飲むのを忘れていた、と千尋は今更ながらに気づく。熱でぼけぼけた頭はかなり最悪であったらしい。
 あぁぁおじいさんに元気になったらお礼言いにいかなきゃぁぁ、と千尋は頭を抱えてうめいてしまう。そしてはたと気がつく。そう言えばハクは三日間出張で居なかったのだ。
「あ、あ、あ、あの! ハク、おかえりなさい!」
 思わず必要もないのにどもってしまう千尋。考えてみれば、寝顔は見られるし声はがらがらだし最悪なお出迎えである。熱で元から赤かった顔が、更に赤くなる。もっと良く考えてみれば、話に脈絡がまったくないし。
 熱で混乱している千尋にくすりと笑って、ハクは額をこつんと千尋のそれにあわせた。
「ただいま」
 なんなんですかその砂吐き展開は。砂よりも砂糖の方がよろしいですか? 一緒にケーキと紅茶もいかがですかな世界の幕が開きそうである。
 千尋は慌ててハクの手元に捕獲されていた薬袋をひったくって、中身をひっくりかえした。発言に脈絡がない次は、行動に脈絡がなかった。かなり混乱しているらしい。
 かけ布団の上にかさりと音立てて転がり出たのはみっつの薬包紙、ころんと転がり出たのは琥珀色をした飴玉二粒。
「あ、蜜飴だぁ」
 喉が痛いと言っていたとリンから伝え聞いた釜爺の心遣いだった。
 千尋はにっこり笑って布団に転がったその二粒を取り上げると、ハクの目の前に
「はいっ」
 と一粒を掲げて見せた。
「ハク、お仕事お疲れ様。なんだか顔色悪いから、一緒に食べよ?」
 その行動に一瞬面食らったハクであったが、ついでふわりと肩の力の抜けた笑みを浮かべた。

 風邪をひいていようと、熱があろうと、声ががらがらであろうと。千尋は千尋。仕事で疲れていたハクの心を、一瞬で癒してしまう。まるでハク専用の薬箱。
 けれども千尋にとっては、リンが、坊が、釜爺が――そしてハクこそが、元気になる為の薬箱。