十歳の夏休み

空を泳ぐ魚




 しぱたたたたた。
 千尋は、大部屋の廊下に立ちつくして、ここ数日降ってはやみ降ってはやみしてできあがった海と空の間を、あんぐりと口をあけたまま呆然と見ていた。
 しぱたたたたた。
 おもむろに両手をあげて、自身の頬をぱんぱんっと小気味良くはたいて頭をぶんぶんふってから、またもや海と空の間をみるのだが……やっぱり目の前の現実はかわらないらしい。
「なに、あれ」
 廊下から虫取り網を伸ばせば届くんじゃないかと思われるところに浮かんで――もとい泳いでいるのは、透き通った緑色の鱗をもった魚。その魚が変な擬態音とともに、ゆっくりと千尋の目の前を旋回しているのだ。
「……」
 ここは八百万の神々が癒しを求めて訪れる不思議の町。千尋の常識は通じない世界。
 ――こんなんもアリなんだろーか――
 千尋は目の前を右に通過していった魚を、思わず見送ってしまった。


 それから一週間。雨はいまだに降ったりやんだり、降ったりやんだりを繰り返している。


 湯屋『油屋』にだって、月一で休業日がある。湯屋全体を閉めて、従業員が外に諸用なりをすます為に設けてあるのだ。
 千尋にはこの休みの日、特にすることがなくて、正直つまらなかった。湯屋の入って良い場所ならもう何度も行ったし、庭もあきるほど散歩した。今日はハクが用事でいないことも知っていたし、釜爺のところに入り浸るのもさすがにそろそろまずいかと思い始めていた。娯楽にいたっては、テレビはないし雑誌もないし、本があったとしても文字が難しくて千尋には異国語状態である。
 大部屋で、暇だったらしいリンと双六をしておしゃべりして、なんとなく時間を持て余し、双方がべたーと床に寝そべっている夕方。
 千尋は、それまで降っていた雨がやんでいることを音で知った。ガラスの向こうを見やれば、いつのまにか雨雲は遠くに去り、海が茜色に染まっている。
「わー、キレイ」
 がらがらと引き戸をあけ、うっとりと頬杖ついて海と空のグラデーションに見惚れる千尋の後ろで
「とうとう夕方になっちまったかー。今日はオレら、なんにもしてねぇよなー」
 と愚痴るリンがいた。
「こんなキレイなのが見られるんだったら、雨もいいよね」
 雨の音うるさいけどねー、と千尋は、夜に降る雨のせいで寝不足になったことを思い出して笑った。
 と。
 その笑った視線の先で。
 空の向こう側から『なにか』が来るのが見えた。
「ね、ね! リンさん、あれ何?!」
 千尋が指差す海と空の間に、もやもやとなにかが集団で飛んでくるのが見えた。
「んー? なんだぁ?!」
 手摺りから身を乗り出し、目をこらして見る二人の前に、ぐんぐんその『なにか』は近づいてくる。
「おぃ! なんか知らんが来るぞ、こっち!」
「ヤー! なにあれ?!」
 思わずひしっと抱き合ってしまう二人である。
 そのまままっすぐ二人に突っ込んでくるかと思われたその『なにか』は、湯屋の外壁すれすれで九十度方向転換し、右の方向へと向かっていったのだが……
「あ、なんだ、ウミオイウオかよ。びっくりさせやがって!」
「あ、あれ、この前の魚だ!」
 真正面ではなく体の横側を見せるように集団で通過していったのは、いつぞやの緑色の魚。夕焼けの光を受けて、キラキラと複雑な色に染まっている。その数およそ三千。壮大な光景である。飛ぶ音は相変わらず気が抜けるが。
「あれはなー、名前の通り海を追いかけて来る魚なんだぜ。普段は海の中泳いでいるらしいけど」
 こんなに綺麗な夕焼けなら、奴等も気分が良くて空を泳いでいるんじゃないか?
 リンはそう続けた。
「うんうん、すっごいキレイ!」
 千尋が一週間前に見た魚は、この集団の先発隊だったようだ。

 魚が空を飛びたくなるような、茜色の空と海。
 千尋はすこし、雨が降るのが楽しみになった。