十歳の夏休み

金の雲に銀波を思う




 掃除用の盥を抱えて廊下をかける少女の姿。白い襷の蝶々が揺れ、それと同じリズムを刻んで茶色のポニーテールも揺れている。
 営業前の清掃時間。使い古した雑巾を手に、廊下の角を曲がって見えなくなった少女と同じお仕着せを着たすこしばかり年かさの少女達が噂する。
「センも物好きだよねぇ。折角湯婆婆様を出しぬいて向こうの世界に帰ったってのに、しょっちゅうここに来るなんて」
「しかも、遊びに来ている訳じゃなくて働きに来ているなんて! 人間ってほんっとわかんないよねぇ」
 人間の子供にとってはあたし達の『お仕事』も『遊び』なのだろうかと思うものの、千尋が存外一生懸命に仕事をしている姿を見ていると、そんな言葉は誰の口からもでてはこなかった。かわりに、ふきふきふきふき、床板を飴色になるまで磨く。
「それにしても今回はやけに長くない?」
「あぁ、なんって言ったっけ? 夏休みとからしいよ。冬休みとか春休みとか、人間には休みが多くていいね」
 あたし達は月に数度しか休みなんてないのに。そんな貴重な休みにわざわざ働きに来ようなんて――
「あれは、あれだよね」
「……絶対そうだよね」
 少女達ははっきりした単語を出さずに顔を見合わせた。そしてくすりと笑う。
 揃って
「すっごく不思議な気がするけど」
 と声をあわせた。
 けれど、と言葉を繋げたのは、少女達の中でも一番年上の少女であった。
「やっぱり人間は人間を好きになるものなんだよ。それがきっと自然の形だろ」
 センももう少し大人になって恋をすればここには来なくなるよ、きっと。
「それまでは、ここの仲間として接してやろうねぇ。ねぇ、みんな」

 そんな少女達の会話を、ハクはひとつ筋違いの廊下の壁に背をもたれて聞いていた。掃除の為に湯屋の従業員が行き交う時間帯であると言うのに、その廊下は奇妙に誰も存在していなかった。
 ハクは瞼を閉じて思う。
 ――それこそが自然の形なのだと。
 他人の口から出た言葉に――今更ながら思い知らされた。

   ◆◇◆

 四季の感覚が薄い不思議の町でも、確実に秋はやってきていた。
 周辺に広がる草原には、コスモスやススキが視界いっぱいに広がる一角が出現している。
 季節感などないに等しい油屋の花園も、秋の花の勢力が増していた。竜胆、桔梗、撫子、千日紅……夏の花とはまた違った、すこし大人しく慎ましやかな秋の花々。木々の葉も鮮やかな紅に染まっている。一際艶やかな楓。
 そんな花園を、いつもの如くゆっくりと散歩しながら、千尋とハクは他愛無い会話を楽しんでいた。
 ムラサキシキブの丸い実をころころと手の上で転がす感触がなんとなく嬉しい千尋。手元に落としがちな視線が、ふっと花園の奥へと向けられた。
「ハク、すごーいいい香りがするよ?」
 やや上向き加減の小さな鼻をひくひくとさせる千尋に、ハクは苦笑した。あんまりにも無防備だと思う。
「金木犀だね、この香は」
 花園を囲むように樹花は植えられているので、中央にいるふたりからは金木犀の姿はちらとも見えない。
「キンモクセイ?」
 込み込みとした都会育ちの千尋にはなじみのない花である。いっそ『芳香剤の代表品』と言った方が通りがはやいかもしれない。青い家に越してからなら確実に千尋も見たことがあるだろう庭木の代表であるものの、昨年の秋もなんだかんだと忙しかったので、樹にまで気が回る余裕はなかったのかもしれない。なにせ油屋と実家と学校を行き来する毎日であったのだ。
「行ってみる?」
 と問われたハクの言葉に即行で
「行く!」
 と答えた千尋は、その香りの源へと向けて小走りにかけていった。はっきりとした場所は知らなくともどこに樹が植わっているのかわかるほどに濃密な匂いがする。
 花園を抜けたそこには、緑色の空に漂う金色の雲のように金木犀が咲きほころんでいた。けして高くはない樹高にびっしりと葉がつき、橙色の小花が密集して咲いている。空気までが金に染まっているかの錯覚を起こすほどに芳しい香り。
 甘い香気を肺いっぱいに吸い込んで、千尋はちいさくけほっと咳き込んだ。あちらの世界とは花の色も一段と鮮やかなこの花畑のそれは匂いまで比ではない。
「先週の日曜日には咲いていなかったよね?」
 先週花園に来た時には、ここまではっきりと存在を主張する香りにはまったく気がつかなった。
「二日前に小雨が降って、昨日は秋晴れだったから。その暖かさで蕾が一斉に咲いたのだろうね」
 先週はまだ硬い蕾だったそれは、今はふっくらとした蕾や小花になっている。
「これも実がなるの?」
 油屋自家製の梅干をつける為に手入れをされている梅林に連れて行ってもらった初春の記憶がよみがえる。低く伸ばされた枝に咲いた小花は可愛らしかった。この花が落ちて、あの梅の実が成るのだと思ったら不思議な感じがした。
「いいや。ここには雄株しかないからね。どれだけ経っても実はならない」
「雄株?」
 こってんと首を傾げる千尋。
「ギンナンが取れる銀杏は知っている? あれには雌と雄の株があってね、雌雄揃わないと実はならないんだよ」
 樹であるのに生物と同じように雌雄揃い受粉して実をつける銀杏と同じなのだと言う。
「あ、それなら知ってる! 公園に銀杏の樹があって、いつギンナンができるのかと思っていたら、一本では実がならないってお父さんが言ってたから」
 ハクってやっぱり物知りだよねぇと千尋は思う。きっと、父親もクラスメイトの誰も金木犀に雌雄株があるなんて知らないだろう。
「ちなみに、花言葉は『謙遜』なんだって」
「こんなにいい香りがするのに謙遜なんて」
 奥ゆかしい樹だねぇと千尋は笑った。
 そんな千尋の視界の端に、金木犀よりも一回りほど小さな、けれどもそっくりな樹が捕らえられた。金色のかわりに白い花が葉に埋もれ、すこしばかり離れた場所にぽつんと一本植わっていた。
「ハク、この樹は?」
 てててっと駆け寄り、その小花に顔を突っ込んでみる。金木犀のように強く香るのかと思ったら、離れた場所にある金木犀の香りに打ち負かされてなにも匂わない。すでに金木犀の強い香りに、鼻は馬鹿になってもいた。
「ハクの鱗の色みたい! 綺麗!」
「それは銀木犀だよ」
 よく確かめもせず突っ込んだ鼻先に、金木犀の滑らかな葉とは違いいがいがのあるそれで引っかき傷を作った千尋に苦笑しつつ、問いに回答を与えてやる。
「金木犀の兄弟なの?」
「と言うよりは、銀木犀の方が原種だそうだよ。金木犀は変種なんだって」
 懐から取り出した軟膏を傷口に塗ってやる。ある意味、香りの強い金木犀の近くで良かった思う。この軟膏は独特な匂いがする上に、それを鼻頭に塗っているのだから。
「花言葉はあるの?」
 今日の千尋は知りたがり屋さんだと内心苦笑しつつ、首を振った。
 ふ〜ん、ハクが知らないなんて珍しいねぇと、しぶしぶ納得した千尋は、馬鹿になった鼻で、それでも金木犀の前でもしたように思いきり香りを吸い込んだ。
「いつか、ちゃんと、銀木犀の香りを知りたいな」
 金木犀の香りをここいっぱいに入れたらとっても気持ちが良かったもん、と胸を押さえてにっこりと笑った千尋に、ハクはなにも言えなかった。
 銀木犀の花言葉を知らなかったわけではない。言えなかっただけだ――恐くて。それでも、千尋の胸を押さえる仕草とともに伝えられた可愛らしい願いは、そのまま抗いきれない未来に感じられた。

 銀木犀の花言葉は『初恋』
 それはいつかきっと、この少女の胸いっぱいに宿り甘やかな香りを放つだろう。
 いつかの日の小湯女達の言葉が脳裏によみがえる。人の娘にとっても『初恋』は今までの自分を吹き飛ばすほどの威力を持っているだろう。そうなったら、もう二度と会えはしないのだろうとハクは思っていた。
 やりきれなくなって、ハクは目を細め銀木犀を見つめた。千尋の横顔を見るなんて到底できなかった。
「銀木犀は……私に似ている?」
 変なことを聞いたと思ったものの、なんとなく答えを知りたくなった。
「うん。――……??」
 うんと答えたものの、銀木犀を睨みつけるようにしているハクの横顔に、千尋は首を傾げた。

 銀木犀のもうひとつの花言葉は『わたしに気がついて』
 銀の花も、金木犀ほどに香りを持つ花であれば良かったのにとハクは思う。
 私に気がついてと、言葉よりも姿の美しさよりも、密やかに、遠くからもわかるようにはっきりと伝えられたらよいのにと。
 そこにあっても気がついてもらえないお前は私と一緒だね、とハクは心の中で呟いていた。

   ◆◇◆

「でもここは不思議な町なんだからさ」
 と少女は続けた。
「人とか竜とか、あっちとかこっちとか関係なしになって欲しいと思うよ、あたしは」
 あのふたりなら大丈夫でしょ? そんな奇蹟があったらいいよね。あんなにセンが頑張ってるんだからさ、とあの夏の日に小湯女達が続けたことをハクは知らない。

 秋は密やかに深まっていた。