十歳の夏休み

櫻 園




 春は目覚めの季節。花は櫻。櫻は夜櫻、風にはらはら。
 月明かりぼんやり春霞み。櫻の香りは控えめに、それでもここにいると伝えては見る者の心を和ませ惑わせる。淡い色香が空を染め、酒を飲んだわけでもないのに酔い心地。

 ふわふわふわふわした足取りで櫻の園を歩くのは、同じ色の衣をまとった少女。常から危うい足取りが、櫻に酔ってふわふわふわふわ。上を見上げているからか、危なっかしいことこの上ない。
「ハク、ハクー! きれーい」
 ふわふわした足取りで、ふわふわと手を伸ばし、ふわふわとした花霞みを掴もうとする少女。頭の後ろの結わえ髪も、動作にあわせてふわふわ揺れる。
「千尋、あまり上ばかり見ていると転ぶよ」
 後ろからゆっくりとついて歩きながら忠告する竜の少年も、さすがにこの春の陽気と櫻の花と少女の姿にふわふわと心が浮き足立っていた。お客様の目を楽しませる為だけに咲いているこの櫻園には、ソメイヨシノニ、オオヤマザクラ、黄緑色をした珍しいギョイコウ、様々な櫻が艶を競っていた。
 と、千尋はふと視線を遠くにやり、きょとんとした表情になった。その、櫻と同じ色に染まった頬の上に、はらりはらりと花びらが。
「ハク、ねぇ、あれも櫻?」
 指を指し小首をかしげる動作にさらりと花びらこぼれて。小さな手かすめ足元へひらり。淡い闇に白い点ぽつり。
 ハクはゆっくりと指の示す方向へと頭を巡らせ微笑した。そこにはまぁるい花びらのかたまり、濃い桃の色。八重櫻。低く枝を伸ばし、すこし違う香りふりまき咲いていた。
「あれは八重櫻」
 関山、ちゃんと櫻だよ、と告げると、桃みたいねと千尋はにっこり笑った。
「桃の節句の歌にある『ぼんぼり』って、油屋に来るまでこんなののような気がしてたの。ほら、だって歌の続きが『お花をあげましょ、桃の花』でしょ? だからなんかごっちゃになっちゃって」
 でも本当のぼんぼりもぼんやりした淡い色でそっくりね、との千尋の言葉にハクも笑った。夜櫻を引き立たせようと言うのか、控えめな照明が足元に設置されていて、淡く淡く櫻を照らし出している様は、本当にぼんぼりのように見えて。その燈に照らされた少女は、ではお雛様なのだろうか? 
 桃の節句には遅いけれど、と心の内で呟いて、ハクは八重櫻に語りかけた。
「一枝くれまいか?」
 すると、不思議にも花を重たげにつけた一枝がほろと落ち、ハクはそれを優雅な手つきで――それ以上に大切に受け止めた。
「あ、ハク、櫻折る馬鹿、梅折らぬ馬鹿ー!」
「案外古い言葉を知っているね」
 鋭いような鈍いような突っ込みに、ハクは苦笑しつつその枝を千尋に手渡した。
「持っていておくれ」
「花泥棒は泥棒じゃないって?」
「明日、詫びとお礼をするからいいんだよ」
 と、ハクは続けて千尋の手の中におさまった八重の櫻にふぅっと息を吹きかけた。すると、ぼわりと花びらの鞠に光がともる。淡い淡い櫻色の提灯になる。炭に息を吹きかけたかのごとくちらちら燃える花は、なんとも幻想的で。
「すごーい」
 櫻色に染まる薄い闇を照らす花の提灯をうっとりと見やり、千尋は笑みを浮かべた。ゆらゆらゆらゆら揺れる花びらの隙間からこぼれる淡い光。
 そんな少女の幸せそうな横顔をこっそりと見つめて、ハクも笑んだ。なにかを傷つけるでなく、なにかを奪うでもなく、誰かを喜ばせる方向へと使う魔法の、力の有り様の、なんと喜ばしいことか。この少女に再会する前の、ただ闇雲に、淡々と力と魔法の技を求めていたおのれのなんと愚かな――。花が美しいとも思わなかったあの時間の、なんと空虚な。

 はらはらはらはら。喜びも優しさも悔恨も苦渋も、すべてを包み込むかのように、はらはらはらり、櫻はふたりに花びらをふりまき続けた。