十歳の夏休み

飛 翔




 花々が咲き乱れる中庭を有する油屋は、お客様にお出しする料理の野菜類のほとんどを自家栽培しており、それも自慢である。いつでも新鮮で味の濃い自家栽培の野菜達は霊々に好評であった。が、それらを維持しようとするとどうしても人手が取られて人件費が上がる。よって、手すきの小湯女なんかも時折畑仕事にまわされていたりした。

 刈り入れた稲穂が田圃の真ん中ではさがけ状態で干されている光景を、秋だと言うのに夏に収穫されるはずのきゅうりやナスをもぎながら千尋はぼんやりと眺めていた。うらうらとした秋晴れの太陽が心地よいのであるし。
 あぜ道をかえる男達が行き来するたび、干された稲穂からわっとすずめが飛び立ち、また暫くするとどこからともなくわらわらと集まってくるすずめ。そして干した稲穂に同化するように埋もれ、米をついばんでいるのだ。刈り入れがされてもまだ田圃の隅に立たされたまんまのかかしが睨みつけても我感ぜずのすずめ達。
 たくさんのすずめが集まり、すずめが飛び立つたびに千尋は
「わぁ」
 と声をあげ、収穫物を入れたざるを持つ手がお留守になりかける。
 そのうちの一羽がなにを思ったのか、野菜畑へとやってきて、千尋の眼前の、トマトの支柱へととまった。柔らかな羽毛に埋もれた首をせわしなく傾げ、千尋を右に左に眺めている。秋晴れとは言えほんのりと肌寒い気候にすずめの羽毛は膨張し、茶色く真ん丸い毛玉のようだ。
「かわいい」
 ぱちくりと目を閉じる様子さえ可愛らしくて仕方ない。おいでと手を伸ばしたら来るかな、逃げるかな? と躊躇っている間に、すずめは小さな翼を広げて仲間の元へと戻って行ってしまったけれど。
「あ〜あ、行っちゃった」
 群れの中に入ってしまえば、もうどれが先ほどのすずめなのか判別しようがなくて。ただ目の前で羽ばたいた光景が目に残るだけだ。
 と、ふと思い出すのは、千尋がよく知る、もうひとつの『空を飛ぶもの』だ。羽もなにもない白い竜。風をつかまえて悠々と空を泳ぐその様子はすずめとは似ているようで似ていない。すずめは一生懸命に羽をぱたぱたさせているけれど、竜は水の上をすいすい泳ぐように空を飛んでいる。
 そんなことを考えていると、外の見まわりに来たのか、白い竜もといハクがあぜ道の向こう側からやってきた。まさに『ひとり噂をすれば影』である。その涼やかな少年の姿にも小さな心臓の小鳥達はわっと羽音をたてて飛び去って行った。
「千尋、今日は野菜畑の手伝い?」
 またしてもすずめ達が飛び去って行く様子をぽかんと口を開けて見送っていた千尋は、そう声をかけられてへにゃりと笑った。
「うん、そう。楽しいよ、すずめが可愛いし」
 トマトはぴかぴかしているし、ナスはつるつるしているし、きゅうりはいがいがだし。と続ける千尋の感性にはややついて行けないものがある白い竜、ただ嬉しげな千尋を眺めては嬉しげにしているだけである。
「ねぇ、ハク。ハクって空を飛ぶよね?」
 だからそう彼女が今更の如く今更な確認をしてきた時も、あまり深くは考えなかったのだけれど。
「あぁ、私は空も飛べる生き物だからね」
「でもね、ハク。わたし、考えたんだけど、すずめは翼を動かして飛ぶでしょ? 飛行機はプロペラとかの推進力で飛ぶでしょ? ならハクは?」
「……」
「鱗がわさわさ羽ばたいて飛んでるの?」
「……」
「それとも、本当は尻尾が物凄いはやさで回転しているとか?」
「……」
「だって推進力も浮力もないじゃない?」
 そんなこと考えたこともないニギハヤミコハクヌシ。生まれた時から水を泳ぐのが当たり前と同じレベルで空を飛ぶのも当たり前であったから、どうやって飛んでいるのかなんて考えたことがない。もしかしたら千尋が言うように鱗がわさわさ羽ばたいているのかもしれない、尻尾が回転しているのかもしれない。けれどそれを見るどころか意識してもいなかった。全身にびっしりと生えている自分の鱗が、実は無意識に一生懸命わさわさと羽ばたいて浮力を生み出していたなんて思いもしなかったのだけれども。――なんて慎ましやかな自分の飛翔。
 そうは思えど
「……どうやって飛んでいるのだろう……」
 真面目に考えれば考えるだけどうやって飛んでいるのかわからなくなってくる白い竜の少年。うらうらとした秋晴れの太陽がふたりを柔らかく包んでいたけれども、その心中は真冬黄昏状態であった。


 翌日、考えすぎて飛び方すらわからなくなった白い竜が油屋の屋根からずべべべと落っこちたのを女部屋から発見した千尋が
「あれって『河童の川流れ』『弘法も筆の誤り』って言うんだよね?」
 とリンに聞き
「……先にハクを心配したりはしないのか?」
 とリンを脱力させたなんてのはとてつもない余談。