十歳の夏休み

夏 香




 なにやも知らぬ霊々達が訪れる湯屋で、それに伴いなにやも知らぬ物が増えていくのは道理であった。種族が違えば求める物も違うのである。なにやも知らぬそれらも、見る人によってはとてもとてもあたりまえの物であって。
 けれども、その湯屋唯一の人の子供にとっては、『人』にとってごく当たり前の物であっても、それがなにであるのか、なにに使うのか、とんと見当のつかない物がわさわさと出て来たりする。父母に子供ひとりで、祖父祖母は遠くの町に住んでいる典型的な核家族である荻野家では『孫の手』すらも珍妙な物体と成り果てていた。『黒電話』など、かけ方もわからぬ有様だ。
 そんな現代っ子の千尋は、今日も湯屋の物置から変な物を引っ張り出してきては
「??」
 と首を傾げるのであった。

「ねぇリンさん、これなぁに?」
 夏も近くなり、蚊取り豚を出してくる用事を言いつけられて夏道具の棚をあさっていたところ、大きな袋に入った網らしきものを見つけた千尋は首を傾げた。細かい網目を持ったそれは幾重にも折りたたまれて袋に仕舞い込まれていた。
 千尋の目からすれば、それはテレビで見た投網に思えたが、このあたりで投網をするなんて一度も聞いたことがない。それ以上に、油屋の物置の、しかも夏道具の棚にあるのが謎を深めてもいた。投網でなければバレーボールのネットだ。それくらいしか思いつかない千尋である。
「夏になったら投網のツアーなんかもやるの?」
 お客様のお遊び道具なのだろうか、これ。秋には紅葉狩りに松茸取り、冬にはアイススケートにわかさぎ釣りにかまくらでの夕食、春には梅に桃に櫻の花宴と、季節ごとのお遊びをツアーに取り入れていたりもするし、夏は投網体験ツアーでもするのだろうか。本当にそれくらいしか考えがつかない。まさかお客様達がバレーボールをするわけではないだろうし。オオトリサマ対オシラサマ戦とか、見てみたいような見たくないような。
「投網? それ、漁をする網じゃねーぞ」
 ちらと視線をくれて、蚊取り豚を探していた姉役はこともなげに言い放つ。
「じゃぁ、これ、なぁに?」
「それか? それは蚊帳だよ、蚊帳」
 そんなんも知らねぇのか、との言葉は胸に秘め、リンはようやく棚の奥から蚊取り豚を納めた箱を探し出した。箱の中には新聞紙にくるまれたたくさんの白い豚の顔が積め込まれている。
「カヤって?」
「あー、蚊帳ってなぁ、夏になったら蛾とか蚊とかハエとか、虫がいっぱい来るだろ」
「でもリンさん、ここってあんまり虫を見つけたりしないんだけど……」
 廊下の暗闇にも、天井の端にも、賄場でも虫を見かけたりはしない。ある意味、家にいるより虫との遭遇率が少なくて千尋は喜んでいたのだが……
「そりゃぁまぁ、ハエとか蜘蛛とか蚊とか見つけたら、かえる男どもが食っちまうからなぁ」
 あいつら食いもんには薄汚ねぇから、かえるなんて雑食だし、となんてことのないような口調で続けるリンに、千尋は目を丸くした。
「ハエとかクモ……えぇ??」
 ならば、つい先日廊下の隅でかえる男が長い舌をくるりと巻いたかと思うともぐもぐと咀嚼した後に、そこにいたはずのハエがいなくなっていたのは目の錯覚ではなかったと言うことか。千尋はなんだか気分が悪くなってきた。ここはあちらとは違う世界、従業員達もかえるだったりなめくじだったり、キツネやタヌキの小動物だとはわかっているし、彼らの食事と自分の食事が本当は異なっているのだともわかるけれど……生理的な嫌悪感はどうにもしようがなかった。
 ので、なんとかそれらは我慢して、また問いを口に乗せる。とりあえず虫食いの話題からは逃げたかった。
「虫と夏とこの網、どうするの?」
「だからー、夜寝る時にハエとか蚊とかがぶんぶん飛んでたらヤだろ? そんな時に蚊帳の中に入っちまえば良いってことなんだよ」
 虫は通れなくても風は通るだろ? そしたら気持ちよく眠れるだろ?
 この頃になると、ここまで噛んで含んだ言い方をしないとこの妹分には察しがつかないのだとわかっているリン、この上もなく噛み砕いて説明をした――つもりなのだが、それはリンの主観に他ならなくて、千尋にはやっぱり見当がつかなかった。網の中に入るってどうやって入るのだろう、さっぱりわからない。運動会の障害物競争みたいに網の中に挟まって寝るのだろうか。ごそごそして眠れないと思うのだけれど、と千尋は袋の中の網を撫でてみる。けして柔らかい手触りとは言えない。
「リンさん、入るって??」
 リンは手を顔にやり、天を仰ぎ――天井を、ではあったが、それを突き抜けた所には『天』と呼ばれる階があることを考えればとても状況をあらわしている言葉に思える――、そこへ向かってふかぶかとため息を吐き出すのであった。


「それでどうしてこの部屋に蚊帳があるのだい?」
 どの従業員よりも遅くまで帳簿仕事に見回りにと仕事をしている彼が、すべての仕事を終えてからりとひいた自室の扉の向こう側。
 いつもなら自分の寝具を敷く場所に魔法のように現われていた蚊帳と少女の姿になにごとかと思えばそんな経緯があったらしいが、話の逐一を聞いてみてもそのやり取りの結果が狭い自室に蚊帳を出現させる結果に繋がらない部屋の主である帳場の管理人。夜もしぃんとふけて他の者はすでに夢の中なのに、眠るに眠れない状況に陥っていた。
「だからね、『説明してもわからないだろうから実地あるのみ。今日は一緒に蚊帳の中で寝よう』ってリンさんが言ったんだけど、大部屋で蚊帳をしようとしたら皆から邪魔だって言われてね」
 蚊帳の傍らに正座してこっくりと舟をこぎ加減の千尋の説明は、やはりいまいちわかりづらい。千尋の様子を見ていると、そんなにも今日は仕事が遅くなったのかと思わずにいられないし。
 千尋はそんなハクの心境に気付くはずもなく、まだもにょもにょと説明を続けた。あくびを噛み殺す仕草がなんとも可愛らしい、なんぞとハクが思っていることにも気付いていないようであった。
「でね、他に蚊帳を張れる場所って言ったらここしか思い当たらなかったの。釜爺さんの所は広すぎて張れないんだって」
 はぁ、それでリンは『幾らなんでもハクの部屋で寝るのは勘弁』と、蚊帳だけ張って逃げたと言うわけか。
 全容がぼんやりとわかってくると、今度は目をこしこしとこすっている少女の様子が気にかかる。もうこれ以上蚊帳云々で時間を潰すのも可哀想だろう、今日は一段と忙しかったし、夜もこんなに深まっているのであるし。
「じゃぁ、お言葉に甘えて一緒に寝ようか?」
 と、蚊帳の外で向かい合って話をしていた座を立ちハクがそんなことを言うと、千尋は途端に目をまん丸にした。眠気もなにもかも吹っ飛んだような顔だ。
「あ……あのね、ハク、一緒じゃなきゃダメ?」
「だって私の部屋は狭いし、蒲団は一組しかないし」
 そしてその一組の蒲団は、リンの手によって蚊帳の中に敷かれていて。
「そ……そうだよね、そうだよね。わたしが勝手にお邪魔したんだしね」
 千尋は胸の前で両手の指をこねくりまわした。異性と一緒の蒲団でなにも意識せずに眠れたほど子供ではないし、かと言って過剰反応するほど大人でもない千尋はもじもじとするばかりだ。男の子と一緒の蒲団で眠る、それがもうなんの問題でもなかった年齢ではないのだと千尋にももうわかっていたけれど、過剰反応していますと知られるのも恥ずかしくてどうしようもない。けれど、指をこねこねしているのは、誰から見ても動揺している証拠で。
 ハクはそんな千尋の様子と、蚊帳の中の寝具を見比べる。蒲団には、あたりまえのように――かどうかは知らないが、枕がひとつ。寝具がひと揃えしかないのだから当たり前なのだろうが、これは多分に『センの為にハクは場所を明け渡せ』の意味を込めての枕ひとつなのだとリンの気持ちが見て取れるのだが……それに従うつもりもないし、ハクは内心でゆったりと笑うばかりだ。たまにはひとり寝ではない夜も良いではないか。枕くらいならちょっとずるをすれば調達できるのだし。
「私と一緒では嫌かい?」
 千尋がいろいろな葛藤と戦っているのだとも知らず、そしてハクにはそんな葛藤など無縁でもあるかのようにさらりと問いかけてくるので、千尋はまたも慌てた。
「ううん、そんなんじゃないの、そんなんじゃぁ」
 千尋はぶんぶんと頭を振ってあたふたするばかりだ。自分ばかりがこんなにいろいろ考えているなんて馬鹿みたいだ、そうは感じてはいたけれど止められないのだから仕方がない。
 そんな千尋にくすりと笑い、ハクはすっぱりと
「じゃぁもう寝よう。明日も忙しいよ」
 言葉で誘導し、もじもじとこねくり回されていた千尋の手をとって蚊帳の中へと実際に誘導し、あれよあれよと言う間に二人は蒲団におさまっていた。
 一人用の蒲団に子供とは言え二人が並んでおさまると、肩と肩が触れ合った。
 ここ最近、油屋で言う『起床時間』では陽も高くなりすぎて暑くなるし、竜の気象に敏感な感覚が今宵も暑くなると告げていたので開け放した窓から吹き込む夜の風はまだひやりとしていた。部屋の隅に置かれた白い蚊取り豚から、くゆりと煙が立ち昇る。
 隣にあるぬくもりと、ひんやりと澄んだ夜の気配に、千尋もいつしかドキドキとしていたのがおさまり、先ほどまで全身を支配していた眠気がそろりそろりと戻ってきていた。掛け布団をしっかりと握りしめていた両手からも力が抜け落ち、瞼もとろとろと降りて来た。
「蚊帳の使い方はわかった?」
 まどろみの中で聞くハクの声はいつもより柔らかくて、更なる眠気の中へと誘う。
「うん。わかった。でも、やっぱりハクの部屋にも虫っていないから、どんな風になるのかよくわからない」
 まぁ、かえる達は食べてしまうけれど、虫が竜に近寄るなんてこともないから、この部屋には虫も出ないのだとは言わないでおいた竜の子。寝しなの話には相応しくないだろうし。かわりに、蒲団から右手を出して掲げてやる。
「千尋、蚊帳にはこんな使い方もあるのだよ」
 見てご覧、と言葉をかけられて、千尋は八割方落ちていた瞼を開いてみた。と、そこに、ちかりと光る小さな緑色の光をみつけて、目をきょとんとさせた。その光は瞬きながらふわりと蚊帳の中を飛んでいる。その光が、ひとつ、またひとつとハクの右手から飛び立って、蚊帳の中をふわりふわりと飛びかった。窓から吹き込んでくる風が、夜の街との境界にある水の匂いを運んできたのか、まるで川辺にいるような錯覚に陥った。
「わぁ……っ」
 不思議なリズムで明滅する光はとても綺麗だった。
「蛍の光だよ。虫除けも蚊帳の役目だけど、蛍を飛ばすのもよくされたものだ」
 これは魔法で模した蛍だけれど、との言葉は千尋の耳に届いていないようだ。うっとりとその明滅に魅入っている横顔だけが見える。
 ハクはその横顔を盗み見ながら、小さく笑った。たまにはリンに感謝するようなことがあるらしい。
「さぁ、本当にもう寝ないと、明日がしんどいよ?」
 と声をかけながら千尋の顔を覗きやると、ハクの笑みは一層深まった。千尋は、嬉しそうな、楽しそうな笑みのまま眠りについていたので。

 小さくて柔らかな光が飛び交う蚊帳の中で、いまだ幼い子供達はそうして眠るのであった。