十歳の夏休み





 季節も長月の声を聞くと、一気に秋の色を深めていく。
 どこか寒暖に乏しく、自然と四季の境界も薄れがちになる不思議の町は、今年は珍しく台風の来襲が多かったせいか、朝夕が寒くなるのはあっと言う間であった。
 紅葉が赤く色付くのにも、金木犀が咲きほころぶにもまだまだ早い九月の頭は、それでも日中はまだひなたぼっこ日和が続いていて、あいも変わらず帳場の管理人と小湯女の少女の庭での会話も続いていた。
 桃色の水干を着た少女の手元には、竹籠があった。中には桃と果物ナイフと、小皿と竹串。
 その果物のひとつの皮を、竹籠の持ち主である千尋は剥いていたのだが、その手付きは見ている方がはらはらするほどに危なっかしく、しかも剥いているのが桃である為、ようやく半分を向き終わった頃にははじめに剥いた箇所は茶色くなってじくじくとしていた。淡い桃色をしていた白い桃はすっかりと茶色く、ぐちゃぐちゃとして、大変よろしくない感じ。千尋の目元もぐちゃぐちゃとして、大変よろしくない感じ。
「わぁ、わたし、ちゃんと練習したんだけど……ハク、ごめんね」
 これはもうどう繕っても仕方がない状態で、千尋はじょぼじょぼと声から水が垂れてきそうなほど陰気な声で謝りの言葉を口にする。
 ちゃんと家で練習してきたのになぁ、でも、林檎とか梨とかだったけど。あと、じゃがいもとか。お母さんはすいすいと桃の皮を剥いていて、林檎より簡単そうに見えたのに……桃はあっと言う間に茶色くなってしまう。お母さんが剥いた桃は、ふわんとしてするりとして甘くて白くて、今手元にあるのと同じ物体とは思えないものなのに、どうしてどうして。
 そう思わずにはいられないけれど、今はそれよりもなによりも恥ずかしさの方が全面に押し出されていた。
 桃を綺麗に剥いてハクを驚かせてみたかったのに、想像と現実はそら恐ろしいほどかけ離れていた。
 投げ捨てられるものなら花の肥やしにと投げ捨ててしまいたいような代物にしてしまったけれど、この油屋で働いて知ったこと――『食べ物を得る為には働かなければならない』『食べ物を作る為にもたくさんの労力が支払われている』――それらをわかっている千尋には、到底そんな勿体無いことはできなかった。
 けど、けど、けど、と千尋が半分剥いた桃を手にぐるぐると目をまわして考えこんでいる間に、ハクはなにを思ったのか、竹籠に入っていたもうひとつの桃とナイフを手にした。そのまま、桃の尻に入った線にナイフをあてがいくるりと一周線を入れると、桃を半分捻るようにした。すると、種と果肉が綺麗に分かれ、後には皮の剥きやすそうな状況ができあがっていた。
 千尋が目を丸くしてその手妻のような手付きを見ていると、ハクは半分にした桃の端から器用に皮をはいでしまう。桃の半分はみるみるうちに裸になり、白い果肉をふわふわとさせて小皿の上におさまってしまった。
「わぁ、わぁ、お母さんとは違う剥き方だけど、すごーい!」
 はじめこそ素直にその手付きに感動をしていた千尋であったけれど、まだ手に握ったままであった半裸の桃はますます茶色味を増していて、手のぬくみもあいまって犬も食べたがらないような状態になっていた。それに気がつくと、どうにも声も尻つぼみになり、顔も俯き加減になる。そうするとますます視界に茶色い物体がうつって、うつうつとしてしまう。
 わたし、女の子なのに。しっかり練習もしてきたつもりだったのに。桃ひとつちゃんと剥けなかった……あぁ自己嫌悪。
 千尋はがっくりとうなだれてしまったが、ハクはそんな千尋の様子に声をたてて笑った。あんまりにもしょぼくれているのが、見ている方にとってはなにやら可愛らしいのだけれども。
「ハク、笑うなんてひどいよー」
 今度はもっと練習して、来年リベンジだもん! 
 と千尋は誓うのだが、ハクは違う違うと手を振った。
「桃を剥くのは大変だよ。桃の固さもあるしね。私の剥き方も、桃が熟れていないとできないし、熟れすぎていても途中で潰れてしまうんだ」
 千尋の桃も、少し熟れすぎていたのだろう? とハクはひょいと千尋の手から桃を取り上げてしまう。
「ほら、だいぶ中が柔らかい。これじゃぁ果肉と皮を千尋の剥き方で剥くのは難しいかもね。皮に果肉がひっついてくるし」
 ハクが千尋の手付きを真似て、ナイフの歯に皮をかけてするすると引き上げてみると、なるほど果肉が皮に大きく引っ付いてきてしまう。
「ね、難しいだろう?」
 と言いながらも、剥き方を変えて普通の林檎や梨を剥く剥き方にすると、少しばかり鋭角的な桃の断面ができあがる。それもまた慣れた手付きで、手妻を見ているようだった。
「うー、でもやっぱり、ハク、桃の皮剥くの上手だよ」
 半分茶色い、半分白いまだらの桃を恨めしげに憎々しげに見つめていると、ハクはその得体の知れない物体になっている桃にぱくりとかぶりついた。
「あっ! あぁぁ――っ!」
 千尋の素っ頓狂な叫びが耳元で炸裂したので、ハクは片耳を防ぐ真似をするが、その手に千尋はがっしりとかじりつく。
「やだやだ、ハク、そんなの食べちゃだめだよ!」
 そんな真っ黒食べちゃだめだよー! と叫んでいる千尋の目の前で、ハクはもう一口かぶりついた。
「だーかーらーっ!」
 叫ぶ千尋の声が、またしても涙混じりになっていくのが妙に楽しい管理人は、とことんと意地悪だと自覚していながらも思わず笑ってしまう。
「どうして、おいしいのに?」
 そなたが私の為に一生懸命剥いてくれたと知っているからなお甘いのに?
 とまではさすがに言えない竜の子供であったけれど。
「どうしてもじゃないもん、どうしてもじゃぁ!」
 一足早い紅葉のように赤くなる千尋の頬に、ハクはなお笑みを深くする。

 くすくすと楽しげな笑い声と、桃の甘い香りに包まれた、ある日の午後。





どんなにえげつない色になった桃でも、うちのわんこなら食べるけど。桃好き梨好きバナナも好き。納豆も食べる(そんなもの食べさせるなと言う声が聞こえそうですが。笑)。さすが畜生雑食動物。
と言うか、仕事しながら桃が無性に食べたかったので仕方がないので小話に(まるで鳥山明氏のようです。笑)。