十歳の夏休み

夏が来る




 その日彼女は、不思議の世界にやって来た時から、心ここにあらずな表情をしていた。
 空を飛ぶ鳥の羽ばたきや、世界の端に沈む夕陽の色や、通り過ぎる風にまで目をとめて眸を輝かせていた娘であったのに、今日の千尋はぼんやりとしていた。高く結い上げた髪の先まで力がなく、小柄な体がいつもよりひとまわり小さく見えた。
 あちらの世界の連休を利用してアルバイトに来ていた時、夜遅くまで怪談話に付き合わされでもしたのか、二日目の朝には眠そうな、むくんだ顔をしていた彼女が、それでも落ちそうになった両手いっぱいの荷物を反射的に受け止めた俊敏さはどこに行ってしまったのであろうか。
「凄く眠いんだけどね、勝手に体が動いたの」
 仕事に慣れてきたのかなぁ。仕事が上手になってきたのかなぁ。
 恥ずかしそうに、けれどもほんの少しの誇りや自信を覗かせた彼女の輝かしい笑顔は、そう遠くない日のことであったのに。今日は目の前を通りすぎた上客に頭をたれることも忘れてぼんやりと突っ立っているありさまだ。
 そんな表情を遠くから眺めやっている自分は薄情者か。
 ハクは心の中でだけこっそりとため息をつく。ただの『友達』であればかけよってその浮かない表情の原因を問いただすこともできるだろうに、『上司と部下』であればそれもできない。
 時間。それが通り過ぎるのをじっと待つ。問いを向ければ素直な彼女のこと、そのわけを教えてくれるのだろうけれど。
 ハクは書類を手に、千尋に背を向けて『天』へと続く昇降機へと向かうのであった。


「うぅん、なんにもないよ。本当に、大丈夫」
 翌日の、仕事準備もひと段落した時間。いつものように油屋の花が溢れる庭で落ち合った時のこと。
 今までなら
「どうしたの?」
 との言葉に、素直にわけを話してくれていた彼女が、今日ばかりは力なく頭を振る。『なんにもない』なんて表情ではないから、その仕草や言葉を信じられるわけもないのだと、彼女は気がついていないのだろうか。
 背の後ろでゆらゆらと揺れる、高く結い上げた髪の先。それがなんだか、ハクの目には不思議なものにうつった。
「なんにもないなんて顔じゃぁなかったけれど。昨日は失敗も多かったし」
 千尋はその時ばかりはぶすりと頬を膨らませた。
ハクは慌てて
「最近にしては珍しくってことだけど」
 だからなにかあったのだろうかと心配になってね?
 小首を傾げて、あくまでも軽く軽く。ほんの少し気になったから、なにかあったのかなと思って。そんな『形』を作ってみると、ようやっと風船から空気が抜けた。
 抜けたと思ったら、そのまましぼんでしまったのだけれども。
「ねぇハク、わたし、ちょっとは成長したよね? ここに来た時よりも、ちょっとは成長したよね?」
 頼りなげな横顔からぽつりと転がり落ちてきた言葉は、今までの弱音や愚痴や困惑や悩みとは違う色のビー玉のようで。今までの彼女が見せなかった、柔らかな風合いと、たしかにある硬質な輝き。
 カチリ。
 地面に落ちてぶつかったふたつの言葉。
「そなたはちゃんと成長しているよ。昨日できなかったことが今日はできている」
 ハクはその違いに気がつかなかったふりをする。
 成長。たしかに彼女は成長している。それは喜ばしいことだけれども――ハクにとっては、ほんの少しの寂しさを漂わせた言葉で。軽く言葉を転がさずにはいられないのだ。神の成長は『時の流れ』が促すものではなかったから。
 だからこそハクは、赤ん坊の成長になぞらえるように、あくまで軽く軽く言葉を返す。それで千尋がまたもや『わたし、赤ちゃんじゃないもん』と頬を膨らませるのだとわかっているくせに。
 けれども千尋は、大きな目を伏せるだけだ。思いつめたような表情は、彼女が真剣に考えている証し。
「わたしね、昨日できていたことが今日できなくなっちゃったの。友達とね、ケンカしてね、嫌いになりたくないんだけど嫌いになっちゃいそうで……怖いの」
 昨日もその前もその前もずっとずっと仲の良い『友達』だったのに。きっかけなんてとっても小さなことだったのに。昨日もその前もずっとずっと大好きでなんでもわかりあえていると思っていた子だったのに――今はなんだか嫌いなの。
 淡々とした口調で紡がれる言葉の流れに、震えたように舞い落ちるのは薄い花びら。彼女の傍らに咲く淡い色調の、蝶が羽を休めているようなかたちの花。なにの花であっただろうか、いつもならすぐに名前を思い出せるのに、頭の中からその花の名を掘り出すことができなかった。そうしている間にも、花びらは風に舞い上げられ、どこかに行ってしまった。
 ハクには世界のすべてがとてもとても不思議な光景に思えてならなかった。午前の空は晴れ渡った薄い水の色。
「わたし、成長してると思ってたの。ここに来た時よりもできることが増えて、人のことも考えられるようになって、わたしはひとりで生きてるんじゃないってわかったと思ってたの。でも、また戻っちゃったみたい。わたし、成長なんかしてなかったんだね」
 そう考えたら哀しくてダメなの。
 ずっと考えていたのだろうか、千尋の言葉はとりとめもない思考であったが、澱みはなかった。伏せていた眸も、今はもう前を向いている。彼女の言葉はたしかに哀しい感情の色であったけれど、彼女は言葉通りの『哀しい』で終わらせるような表情ではなくて。
 強くなっているのだ。彼女は『戻ってしまった』と言っているけれど、その気持ちを『哀しい』と言い、『哀しい』ことなのだと気がついただけ成長しているのだ。そしてそれをどうにかしようと考えてもいるのだ。
 その成長も強さも、ハクの目には眩しく、好ましくうつる。彼女はどんどんと成長していくのだろう。土を押し上げて顔を出した芽を種にもどせないように、後戻りなど少しも考えず、恐る恐るでも葉を広げずにはいられない。
 だから、こんな『置いてけぼり』なら甘い痛みだと胸の先に浮かんだ気持ちを噛みしめていたハクは、それから彼女が続けた言葉が信じられなかった。

「わたし、ハクが好きだよ」
 だから……信じて欲しい。

 その言葉を残して、彼女は消えた。
 ――なにかを決心した表情のままで。

 
 ハクはようやく花の名前を思い出した。
 傍らに咲いていたのは、彼女の思い出の麝香連理草。
 花言葉は『門出』
 そして『わたしを覚えていてください』
 ――彼女はその花のかたちのように自由に空を飛ぶ蝶であったのに、それに気がつかないふりをして、両の手の平に閉じ込めたつもりで淡い喜びだけを享受していたこちらが悪いのに。
 ……だから、彼女が悪いわけではないのに。



 十歳の彼女と再会を果した不思議な町に、また、あの夏が来る。