十歳の夏休み

あの日の川へ




 そう言えば、彼女は突拍子もない、または些細なことをみつけては感動して、よく話をしてくれた。

 青い青い空にくっきりと引かれた白い飛行機雲。
『まるで、空を半分にわけたみたいにくっきりしてたの。でもね、徐々に線がぼやけていって、やっぱり空はひとつなんだって強調していたみたいなの』
 ――そんな考え方をできる彼女の心根が誇らしかった。

 川辺に咲いた紫の花。
『昨日までは蕾だったのに、一斉に咲いたんだよ。あたり一面花と緑の絨毯でね、すごく素敵なの』
 ――そんな小さな変化に気がつく彼女の感性が好きだった。
 
 しおりにして『ぷれぜんと』だとくれた、五つ葉のクローバー。
『幸福の四つ葉のクローバーよりも凄いね! 五つ葉はね、金銭運アップのお守りになるんだって』
 ――気持ちひとつで、なんでもない草花をとびきり大切なものにかえてしまう魔法使い。

 おのれの心の話もしてくれた。
『世界ってこんなにもわくわくするようなことであふれてたんだね。わたし、気がつかなかったの。なんだかね、目が覚めた気分。世界って素敵だね』
 ――そんな無邪気な言葉や笑顔をあまさず思い出せるのに、それは水面が弾いた太陽の煌きよりも短いもので、しっかりと胸に留まってくれない。

『わたし、ハクが好きだよ』

 その言葉を置いて彼女が消えてしまってから、何年が経ったのだろう。もう、よく、思い出せない。あの時はあんなにも色鮮やかだった季節の移り変わりも、時の流れも、どこか色褪せて緩慢になって、うまく感じ取れない。
 確実なのは、彼女と再会を果したあの夏が、もう幾度も過ぎ、今年の夏も過ぎてしまったことだけ。
 赤い時計塔の向こう側に連なる山々も紅に染まりかけている季節になったことだけ。
 夏の緑は色濃く萌えていたけれど、今はかさかさと黄土色の細い草葉を揺らしている。あの草原に駆けて行けば、軽い音を奏でるのだろう。
 そんな取り止めもないことを考えて『そんなことができるわけもない』のだと思い出す。人恋しくなる秋が来る。また。
 そう、人恋しくなる季節はやはりあるものだ。こんな身の私にも、秋はなにかしら訴える色。
 ちゃんとわかっていたはずなのに。彼女は人の子で、私は竜で。
 彼女には彼女の生きる世界があって、もうその世界は私の所属するべき場所ではないとわかっていたはずなのに。
 多くを望んではいけないとわかっていたのに、時折それを忘れてしまうのだ。それは、きっと、秋の寂しさが、大切なそれらを忘れさせるのだ。
 だからだろうか、遥かなる赤い時計塔の下に、きらりと光をはじく『モノ』が見えた気がするのは――
 それは『モノ』なんかではなく『人』であって、その『人』がこちらに向けて歩いて来る気がするのは――
 その『人』の足が前に繰り出されるのにあわせて、軽い草葉の音が耳元に届く気がするのは――
 その『人』が『娘』で、今、目の前に辿りついた気がするのは――すべて錯覚? または、願望??
 愛している。
 愛している。
 愛しているよ。
 こんなまぼろしひとつで幸せになれるほどに。
 もう目も意識も完全に閉じてしまって、まなうらに残したそのまぼろしだけを永遠に感じていようか。この身が朽ち果てるまで。世界が終わってしまうまで。かの娘が再び会いにきてくれた、その光景を胸に抱いて永遠の眠りに等しい夢をみようか。

 けれども、そのまぼろしは草原を踏み越えてくるだけでは終わらなくて。

「ハク、昔から突拍子もないことするなぁとは思ってたけど……こんなのは予想外だったわ」
 突拍子もないことをするのは私じゃぁなくてね……
「ずっと待っててくれたの? 自惚れてもいいのかな?」
 自惚れていてくれてもよいよ。ずっと待っている……ずっと……ずっと……
「うーん、わたしも随分綺麗になったと自信持ってたけど、やっぱりハクには敵わないなぁ」
 そんなことはない、そなたはとても綺麗になった。きらきらとして眩いほどに。まぼろしだとしても、とても綺麗な……
「……そんな姿になっても綺麗だなんて」
 ………
「ありがとう」
 
   ◆◇◆

 水吐き蛙が居座る階段の隣に、いつの頃からか大きな石像が置かれるようになった。
 赤い時計塔を向いたその石像は、竜の像であった。時計塔がよく見えるようにと身を乗り出した姿だった。
 見る者が見れば、その姿は今にも飛び立とうとしている姿に見えたかもしれない。
 ――もう少し聡い者であれば、飛び立ちたくても飛び立てなかった哀れな竜の姿だと答えるだろう。
 飛び立ちたい。けれどもそれは叶わない。それならばもっともっとあの時計塔が見えるように、見えるように、見えるように、もっと高く、少しでも高く、この世の境界線のぎりぎりまで……そう、首を伸ばしたまま時を止めた愚かな竜。瞬きをも忘れてしまった白い竜。
 それは石像などではなく、生きている竜の、身体。
 今、その傍らに、人の娘が立っていた。そっと手を伸ばして、触れる。
「本当ならごめんなさいって言うべきよね。ハクがこんな姿になったの、きっとわたしのせいだよね。でも――『ありがとう』なの」
 千尋は滑らかな石に頬を寄せた。どこかあたたかい石の感触。
「わたしね、中途半端はイヤだったの。ちゃんと人間として真正直に生きられるようになりたい、ちゃんと大人になりたい。そうじゃないと、悔い無くどこにも行けないんじゃないかって思ったの。だから向こうの世界で頑張ったわ。それは勉強で一番になるとか、運動で一番になるとかじゃなくて、人間らしい生き方を目指すってことなんだけどね。人に迷惑をかけないとか、人の気持ちを思いやるとか、人を許せるようになるとか……」
 そんな大人になろうと頑張ってきたの。お父さんにもお母さんにも、どこか遠くに行っても心配ない、千尋なら大丈夫だって言ってもらえるくらいしっかりした大人になろうと頑張ったの。そうじゃないと、本当に行きたいところには行けないから。
「わたし、ハクが、好きよ。でも、この気持ちを押しつけるつもりなんて最初からないの。ハクがわたしに優しくても、好きになるのは別の人かもしれないってわからないほど馬鹿じゃないもの」
 石の体に触れる手は、あたたかくて優しい。そんな想いを持っているなんて思わせもしない小さな手。
「でもね、だからってわたしがハクを好きでなくなる理由はないの。報われなくても、ハクがわたしのことを妹だとかそんな意味合いで好きでいてくれても構わないから――遠くに離れて暮らすことになっても構わないから、せめて同じ空の下で生きたいと思ってたから。この想いを殺さないでいられる場所にいられれば――距離とか、世界が別だからとかそんなものを理由にしないでいられる場所にいられれば、そこが遠い世界でも、辛くても良かったの。だから、あちらの世界で頑張って頑張って、報われなくても誰も恨まないでいられるように、その選択を誰からも『わたしの意思』だと認めてもらえるような人間になろうって頑張ったの」
『……そなたは急いで大人になろうとしたの?』
「でも、そんなの、できるわけないわ。人は死ぬまで成長していくのだもの。どれだけ頑張っても頑張ってもゴールなんてないの。それに気がついたからここに来たの。子供のままでもいいんだわ、未熟でもいいの。感情のブレなんてその時にならなければわからないわ。だってわたし達は生き続けているのだもの。この想いと覚悟だけが中途半端でなければいい。成長なんて、どこでだってできる」
 さぁっと一陣風が吹いた。時計塔から生み出された風が草野原を渡り、千尋のワンピースの裾を柔らかく揺らした。
 空を見上げれば白い雲がゆっくりと流れていた。秋の匂いにほんの少しだけ、夏の香りが残っていた。
「そう覚悟を決めてきたのに、ハクってばこんなところでこんなことになっていたんだもの、びっくりしたわ。……ねぇ、今更だけれど、これの原因ってわたしじゃなくて、他にあったりする?」
 そうだったら間抜けもいいとこだわ。時計塔からハクの姿が見えた時、ずっとずっとここで待っていてくれたんだって思っちゃって、走ってきそうになったのを必死におしとどめてたんだけど。
 千尋は、押しつけていた頬をおそるおそる離す。寂しい。そう感じたのはどちらだろうか。
 風がもうひとつ、今度は強く吹いた。千尋の長い髪をさらさらと巻き上げる。
 草野原からちぎれ飛んできた草が、ハクの視界を横切っていった。それが流れて見えなくなるよりもはやく、ハクは想いを言葉にしていた。
『いいや、待っていた』
 千尋は、強く頬を押しつける。そして、両腕を竜の身体にまわした。抱きつくように――抱きしめるように。
『待っていたんだ、きっと、私は――あの、夏の日から』
 おのれの身勝手さに悩むことなく夢を見られる日を。それが実現するように願える日を――待っていた。
 あの、奇跡が起こした再会の夏から。

   ◆◇◆

 水吐き蛙が居座る階段の隣にいつの頃からか置かれていた大きな石像は、いつの間にかなくなっていた。
 その日、偶然にも空を見上げた者は気がついただろうか。
 青い青い空をふたつに割るようにして、清い川の流れにも似た白い竜が飛び立ったことに。
 その日、偶然にも空を見上げていて、飛行機雲のように飛び立った白い竜を見つけた者は、その背に乗る人の娘の姿に気がついただろうか。
 その幸福な光景に、気がついただろうか。

 十歳の夏休みは駆け足で過ぎ去ってしまったけれど、彼らの夏は幾度でも巡ってくる。何度でも。



おわり


長いことお付き合いくださいまして、本当にありがとうございました。
最後はあれですね、精神的に大人だったのは、天然に見えていた千尋の方だったと言う事で(笑)。