【01】
夢 幻 櫻





   【一】

 都会まで電車で一時間の、緑豊かな住宅街。
 それがその『とちの木台』の売り文句だ。つい三ヶ月前までは隣町にまで行かなければ大きな量販店もなかったが、近くにシネマコンプレックス・シアターや大手玩具販売店を含む複合センターが開店したおかげでほどほどに暮らしやすくなった町。田舎と言うには中途半端で、都会と言うにはほど遠い、そんなどこにでもあるような新興住宅街。
 その住宅街のふちにある青い屋根の二階の窓がからりと開き、中から少女が顔を出した。茶色味を帯びた髪は猫っ毛であるのか、それとも櫛も通していない起き抜けであるからかぼさぼさとだらしがない。けれどもその顔を見れば、爽やかな表情をしている。悩みもなくぐっすりと眠り、そして朝の光に目覚めた子供。やや離れ気味のつぶらな瞳もぱっちりしていて、実に気持ちがよさそうである。
 その顔が一旦部屋の中に引っ込み、ややしてもう一度出てきた。そのまま両手を突き出し、なにかを放すように両手を広げる。
「いってらっしゃい!」
 小さな両手から勢い良く飛び出したのは、一羽の鳥であった。瑠璃色の羽根を持った、小さな鳥。鳥は爽やかな朝の風をつかまえて舞いあがると、そのまま青い屋根の上をくるりと二周し、それから角度を変えて住宅地の下に広がっている森の方へと向かっていった。少女は鳥がいつも通り森へと向かうまで見送ってから、うーんと大きく伸びをした。するとはかったように
「千尋、朝ご飯できてるわよー」
 と階下から少女を呼ぶ母親の声が響き渡る。
「はーい、今行くー」
 いつも通りに続く朝の儀式に、千尋はくすりと笑みを浮かべて階下へと向かうのであった。


 荻野一家がこの『とちの木台』に引っ越してきた時、少しばかり騒動が起こったのは近所の人々の記憶に新しくはあったが、もうすでに誰もが忘れかけている出来事でもあった。この一家が夏休みもはじまったばかりの七月下旬に引っ越してきたのは半年ほど前であったのに。しかも、引越し予定日を四日も過ぎてからひょっこりとあらわれると言う異常な現象や心配を引きつれてきたのに、それでももうそんなことは些細な過去と成り果てていた。荻野一家が大真面目に『そんな馬鹿な!』と口を揃えていたのにもかかわらずなぁなぁでその疑問は闇に葬り去られた。
 父親だけが仕事の関係でバタバタとしたが、専業主婦であった母親も学校が夏休みであった娘も特に気にしないことにしたらしい。実際、引っ越してきたばかりの家を整えるのに忙しかったのであるし。新規入居者が多い新興住宅地では、いつまでも隣人に注意を向けている気質が元から薄いなどの理由が重なって、父親と母親と娘の三人はもう随分と前からそこに住んでいたかのような顔で生活をしている。まわりの者ももうそれが当たり前な気がしているのだから不思議だ。
 二学期からの転校生。その少しばかり微妙な立場であった娘――荻野千尋も、年明けの頃にはもうすっかりとクラスに馴染んでしまっていた。
 寒がりの千尋が母親にねだって買ってもらったこげ茶色のダッフルコートを嫌々脱いでいると、
「ちひろん、社会の宿題やったー?」
 転校してから一番はじめに声をかけてくれた河原ア 和泉が千尋の机にかじりついてきた。机ひゃっこいねーと叫ぶ様子がなにやらおかしい。
「今日あたるの! お願い、みして!」
 両手を小気味良くパンパンっと打ち鳴らし千尋大明神サマサマあわれでキュートな小羊をお救い下さい〜〜! と拝まれて、千尋は軽やかに笑い声をたてた。
「よろしい、みせてやろうぞ」
 千尋もおどけてそんな返答を返し、クラスメイト達はそんな寸劇を面白そうに眺めているのであった。
 あ、降ってきた! との誰かの声に、千尋は窓をふり仰いだ。今年は雨ばかりの冷夏で、その異常気象は秋を過ぎ冬になっても続いていた。普段なら十二月の頭に初雪が降るその地方であったのに、正月もあけて一月も半ばになった今頃の初雪である。
 だから今日はこんなに寒かったのか、ダッフルコートを脱ぐのが嫌だったのか、と千尋は合点がいった。同時に、やっぱり冬は寒くなくっちゃねとも思うのだ。冬には冬の楽しみもたくさんある。それらはやっぱり寒い方が良い。お鍋も寒い方があったかくて美味しいし、雪遊びだって寒くなって雪が降らないと成り立たない。いずみんとカマクラを作ろうと約束したのであるし。やっぱり冬は寒い方が良い。雪、もっと降らないかなぁ。隣の教室では誰かが窓を大きく開け放し「雪だ雪だ〜!」と叫んでいるようであった。皆、雪を待っていたのだ。
 そんな初雪もあっと言う間に降り止み、学校が終わる頃には茶色い土が剥き出しにされたグラウンドが体育の授業で掻き混ぜられ、ぐちゃぐちゃなぬかるみを作り出していた。あちこちに子供達の靴跡が刻まれており、明日の朝には凍っているのではないかと思わせる。
 千尋と和泉はグラウンドのぬかるみを通った運動靴を気にしながら家路を辿っていた。学校での友達の話、宿題の話、塾の話、益体もない話を楽しげに話す。どこからどうみてもどこにでもいる小学生であった。
 そのふたりの前に、空からひらりと舞い降りてきたものがあった。青い空の切片だ。それはそのままふわりと軽やかに千尋の頭にとまってから、赤いランドセルへと移動した。
「お迎えに来てくれたの?」
 なんでもないことのように上から舞い降りてきたその青い鳥へと指を伸ばして頭を撫でる千尋に、和泉はわぁすごいと素直に感嘆した。
「その子、ちひろんが助けたあの子でしょ?! すごーいなついてるー」
 暑さも残る九月の半ば、今日と同じように和泉と一緒の帰り道でみつけた、薄汚れて衰弱した鳥。和泉はその、見るからに衰弱しきった鳥に触るのを躊躇って言葉を失い立ち尽くしたのだが、千尋はさっと手をのばすと鳥をすくいあげ、服が汚れるのも構わずに胸元で暖めるように抱えると
「いずみん、ゴメン。わたし、先に帰るね!」
 と走り出したのであった。その時に呆然と見送った千尋の颯爽とした後ろ姿や、あの衰弱し薄汚れて羽根の色さえもわからない有様であった鳥の様子を思い出すと、和泉は素直にすごいなぁと思うのだ。あたしならあんな当たり前のように死にかけた鳥に触るの嫌だろうし、その鳥をここまで元気にするのも絶対ムリだもん。そう思うものの、今のこのひとりと一羽の関係は心底羨ましくて。あたしがあの時助けていたら、この子はあたしにも懐いていてくれただろうか。
「元気になって良かったねー」
 と千尋のランドセルに向けて指を差し出すと、案の定鳥はぷいっと横を向いてから、青い翼を広げて舞いあがり空を翔けていってしまった。雪雲がかすかに残る青い空、雪の匂いのする冷たい風を切り裂いて青とも瑠璃とも見える鳥が春の色を振りまく。
「わぁ、あっちってちひろんの家の方向でしょ?!」
「うん、先に帰っているつもりみたい」
「結局あの鳥、飼ってるの?」
「う〜ん、飼ってるわけじゃないの。お父さんは元気になったんだから自然に帰しなさいって言って逃がしたんだけどね、夕方になったら家に帰ってきちゃうの。だから今わたしの部屋が夜のお宿みたいになっててね」
 部屋の中でも鳥カゴ開けっぱなしだし、でも全然悪戯とかしない良い子なの! との千尋の話にうらやましーいと和泉は思う。聞き分けの良い鳥が友達、いいなぁ。
「ルキって呼んでるの。かわいいでしょ」
 おいでって呼んだら来てくれるし、学校が遅くなったら今みたいに迎えに来てくれるし、とのろけ話のように続けられて、和泉は家に辿りつくまでずっとうらやましーい! と連発するのであった。


 千尋が通う小学校は、千尋の家の反対側になるふちにあり、通学距離がかなりある。住宅街をまるまる横切って歩くのだ。和泉の家はそれよりも中心部寄りであり、いつも最後は千尋ひとりの家路となる。
 和泉の家の前で手を振って別れた後千尋は慣れた足取りで道を歩いていたのだが、雪が気まぐれにつくったアスファルト上の水溜りを避けて歩いていると、ふとなにかの気配に気がついて顔をあげた。そこには、女の子がひとり。
「着物?」
 千尋よりもひとつふたつ年下の、漆黒の髪を肩のあたりでまっすぐに切り揃えた、京人形のように可愛らしい着物姿の女の子がそこにいた。道の角から体を半分出すようにして立っている。黒地に櫻の小花が散った模様の着物姿はこんな住宅地のさなかでは違和感を持って浮きあがるであろうに、その肌の白さゆえか、面差しの端整なゆえか、その少女が異質なのではなくて周囲の町並みが異質なのだと思わせる。手には明るい色使いの手毬がひとつ。それが少女の手を離れて、てんっと軽い音をたてて坂道を転がり始めた。
「あ……っ!」
 森の中に行っちゃう!
 咄嗟にその手毬を追いかけ両手でつかまえて後ろを振り返った千尋は困惑の声を上げた。
「あれ? あの子……」
 女の子がいたはずのそこには、誰もいなかったのだ。千尋の手には、上品な色使いの手毬だけが残ったのであった。


 チュクチュクチュク。
「ルキ、眠いの?」
 仕方がないので持ち帰って来た手毬は机の上にある。明日交番に届ければよいだろう。みればみるほど高そうな品で、こんな大切なものをなくしてあの子はお母さんに怒られてはいないだろうかと心配になる。心配はするものの、現在手毬はルキの宿り木になっており、そこでゆらゆらと頭を揺らしている。喉のあたりから眠い時に聞こえるチュクチュクと風変わりな音をたて、目をしょぼしょぼとしている。小さな顔を覗き込めば、黒い目がとろんとしていた。くちばしをかぱっとあけ、あくびまでして見せた。そんなルキをみていると、どうにも人間臭くて仕方がない。先程などは、自分よりも遥かに大きな手毬にじゃれつくように頭をすりつけたり、ちょんちょんとつついたりして遊んでいた。
「ほらおいで」
 手を伸ばすといやいやとでも言うのか小さく頭をふるルキ。どうやらカゴまで運んでくれと言いたいらしい。千尋はそんなずぼらな仕草にも笑い、そっと両手で小さな体を包み込むと、カラーボックスの上に置いた鳥カゴの止まり木に止まらせてやり、カゴの上から明かりをさえぎる為に布をかけてやった。暫くごそごそと音がしていたが、それもやがて止み、くぅくぅと寝息が聞こえてきたのであった。

   【二】

『みつけた。みーつけた』
 千尋がふっと目を開けると、そこは真っ暗な場所だった。
 どこからか女の子の声にも似た風の音が聞こえる。ひゅうひゅうと小さなつむじ風が世界に行き渡る。その音が声に聞こえるのだろうか。
「ここ」
 どこだろう?
 小首を傾げてぐるりと周囲を見まわしてみるが、そこはどこまでも真っ黒な場所であった。広いのか狭いのかも、天があるのか地があるのかもわからない場所。裸足の足裏が踏んでいる場所は微妙に硬いが、それは地面でも床でもない感触で、なんの隔たりも濃淡もない黒一色であった。知らない場所だとか、いつの間にこんな所に来ちゃったのだろうとかの疑問が無意味である、瞬時に『異なる世界』であると知れる場所であった。
 または
「夢だよね、これ」
 素直な千尋であれば、そう思って当然な、真っ黒な世界。けれど、真っ暗でありながら自分自身をはっきりと認識できるのが不思議でならない。光源もなにもない真の闇であるのなら自分の手の先さえどこにあるのかわからないであろうに、千尋は自分の姿を正しく認識できた。お風呂に入って着替えたパジャマの模様だってはっきりとわかるし、足先まで見える。
 まるで、へたな合成写真を見ている気分だ。黒い背景にくっきりと浮かび上がる、自分の写真が脳裏に浮かぶ。
「わたし、寝てたんだし」
 ぎゅっと握りしめた裾はお気に入りのパジャマで、これが尚のこと夢であるのだと思わせる。否、そう思い込もうとしての言葉であり仕草であったが。
 ここはなんだか怖い。ただの夢じゃない。ただの夢であったとしても――それなら尚恐ろしい気がする。覚めない夢はないと言うけれど、この夢は目覚めを知らないものの気がして。じわじわと千尋の心まで闇色に染めるかのように、その暗い世界はしんと静まって千尋を包み込んでいた。
 瞬きも忘れた眸を、忙しく右に左に彷徨わせる。
「お父さん? お母さん??」
 誰かはやく起こして! 夢ならはやく覚めて!
 千尋は起こし手を求めて声を上げるが、誰も名を呼んで体を揺すって起こしてくれそうにもない。夢であるだろうと思う心と、はやく起こしてと叫ぶ心が相反しせめぎあい、千尋は眩暈を起こしそうだった。ドキドキと脈打つ心臓がうるさくて仕方ない。ぎゅっと右手を心臓の上で握りこぶしにし、押さえつける。それで心臓を握りつぶそうとでもするかのように。
 その間にまたもや女の子の声が聞こえてきて、千尋はびくりと身体を震わせて息をつめた。
『みつけた。みーつけた。シオンがいちばーん。シオンが一番乗り』
 風の音なんかではない、はっきりとした声。黒い世界の切片に乗って千尋の耳にまで届く、声。
 千尋は体をちぢこませて周囲をもう一度見回した。そんな千尋の様子がおかしかったのか、どこかにいる女の子がくすくすと笑う。その声や笑い声は千尋の周囲四方八方から聞こえ、どこにいるのかもわからない。右のような気もするし、左のような気もする。後ろからのような、前からのような。下からのような気もするし上から聞こえている気もする。ひとりなのかふたりなのかもわからない、不思議な声。微妙に空間を震わせて千尋を包み込んでいた。
『気がついてない? 気がついてない? おかしいね、おかしいねぇ』
 一際高く笑い声をたてる女の子の声が止むと、次に訪れたのは奇妙な沈黙であった。自分の心臓の音だけがどくどくとうるさく響いているようで、千尋は心臓の上に両手を置いてぎゅっと握りしめた。あの子にこんなにもドキドキしているなんて……怖がっているなんて知られたくない。怯えているなんて知られたくない。
 けれども、千尋は唐突に出現した目の前の『モノ』に、心臓のあたりをおさえたまま一歩後ずさりをした。目の前に前触れもなくあらわれたのは――満開の――櫻の巨木。艶やかな花の乱舞。
「う……わぁ」
 真っ黒な世界の中で花を咲かせ、次々と花びらを散らすその櫻は、美しいと言うよりは禍々しい存在で。内側からぼんやりと発光でもしているのか、この世界で唯一の光源ではあったが恐ろしくて仕方ない。千尋は感嘆の色など一片も含まない声をあげた。
 その櫻の花びらが一枚、足元へふいっと流れてきて、千尋は思わずその軌跡を追って自分の足元に視線をやった。白くくっきりと闇に浮かび上がる花びらはとても奇妙な物体に思えた。そしてふと気付く。足元にはあきらかな光源があるにもかかわらず、影ができていなかった。否、影さえも飲み込む暗い闇がそこに広がるばかりで。その深さは、その現実を知らなければ良かったと後悔するほどに暗く深く感じられた。
『シオン、こんなに近くにいるのにねー』
 注意が足元に行っている一瞬に、またもや声が聞こえた。それは、どこからかわらかない場所よりの声ではなく、櫻の方向からで。千尋が慌てて櫻を見ると、そこには、櫻の幹に隠れるようにして顔だけを突き出してこちらを見ている、少女が。
「あの時の……」
 笑みの形に唇を持ち上げてこちらを覗き見ていたのは、あの手毬の持ち主であった。櫻の木の下にいると、着物の模様と舞い落ちる花びらの区別がつかない。それは、幼い少女が着るには色身に乏しい着物の色が周囲の闇に溶け込んでいるのと同じことで。そうしていると、まるで白い顔だけが櫻の雨の向こうに浮き上がっているように見えて、尚怖い。肩の上で切り揃えた髪が漆黒であるので、更にそう思える。感情に乏しい少女の顔はまるで能面だ。
『やっと気がついた。おねぇちゃん、シオンに気がついた』
 闇を閉じ込めた黒い瞳が歪んで笑みを形作るが、千尋は女の子が少しも笑っているようには感じられなかった。人形が顔を歪めている、そんな印象しかない。外見はまさしく『人形』みたいに可愛らしいが、中身はまったく別のモノが詰まっているのだと思わずにいられない。
『シオン偉いね。シオン一番乗り。みーんなさがしてるおねぇちゃん、一番最初に見つけたー』
 声は舌ったらずで幼い口調であるのに、どこか嘘寒い。それよりも『皆がさがしている』との言葉に千尋は注意をひかれた。わたしを捜している? どうして?
 けれども、千尋は『どうしてわたしをさがしているの?』との疑問を口にはできなかった。
 女の子――シオンが、口の端を更に持ち上げて笑い
『シオンがおねぇちゃんを捕まえたー』
 誰にも渡さないよー?
 と、禍々しく作り物めいた笑みに顔を歪めたからだ。
 その言葉と笑みとともに千尋へ襲いかかってきたのは――櫻の猛吹雪――
「……ッ!!」
 悲鳴さえもあげられないほどに襲いかかる櫻の花びらにまかれて、千尋は左手で顔をかばいながら、それでも両目を薄く開けてみた。唇はきつく引き結んでいる。そうしないと容赦なく口腔を塞ぎ息をとめようと花びらが入り込むのだ。花びらであるのにまといつくその感触はねっとりとしていて、徐々に体が重くなっていく。髪先に花びらがまといつき、その重みで千尋を押し倒そうとする。
 薄く開けた視界いっぱいに繰り広げられる漆黒と白い花びらの乱舞、その向こうに笑みを浮かべてこちらを見ている少女。異質な上に異質な光景に千尋は眩暈を起こしそうになった。
 千尋は恐ろしくてもう一度ぎゅっと瞳を閉じようとしたが、すぐそばに気配を感じて逆に目を見開いた。シオンがすぐそばに来て、身動きが取れない千尋の顔を覗きこむように背伸びをしていたからだ。漆黒の瞳と真向かって、千尋は吐き気が喉元までせり上がり、怖気が背中を走ったのを感じた。ただの人の子にはどうしようもない純粋な恐怖――この空間やシオンはそのモノであった。
「ひゃ……っ」
 悲鳴をあげようと開きかけた口からは乾いた息しか出てこない。僅かな唇の隙間にも花びらが入り込もうとし、口を塞いで千尋の呼吸を奪おうとする。
『おねぇちゃん、大丈夫? シオン、やりすぎちゃったね?』
 小さく小首を傾げたシオンの言葉にはなんの感情も含まれていない。
 一体なんなのこの子! そしてここはなに? どうしてこんなになってるの?!
 その千尋の純粋な疑問に唯一答えを持つであろうシオンは、無邪気を装った冷たい笑みを浮かべているだけだ。
『おねぇちゃん、こわい? こわい? シオン、なーんにもしないよ。お願いがあるだけなの』
 千尋の目に浮かんだ恐怖の色を見て取ったからなのか、シオンがそんな言葉を口にするが、こんな状況で鵜呑みにできるわけがない。シオンがこっくりと小首を傾げると、肩の上でさらさらと黒髪が流れた。白い顔を縁取る漆黒の髪やがらんどうの瞳を見ていると、心臓のあたりがぎゅっとしめつけられるような、肺いっぱいに悪い空気が入ったような息苦しさを感じてならない。千尋はぎゅっと奥歯を噛みしめた。
『シオンのお願い聞いてね、おねぇちゃん』
 千尋の返答も聞かず、シオンは右手をゆっくりとあげると、真珠色の爪に彩られた白い人差し指で自分の細い首を横一線になぎ払うような仕草をゆっくりと行った……のだと千尋には思えたのだが――
「や……やぁぁぁぁッ!!」
 千尋はもうなんの遠慮もせず、目一杯の悲鳴をあげた。
 手鞠がぽんっと跳ねた、いやに軽い音を立てて漆黒の床に落ちたシオンの首に見上げられ。
 人形のようなシオンからほとばしったねっとりとした血糊に全身を染めて。
 櫻の花びらを身体全体に貼り付かせて――千尋は声を張り上げた。

『おねぇちゃん……シオンを……生まれ変わらせて……』
 穢レニマミレテシマッタコノ身体ヲ清メテ新シク生マレ変ワラセテ。
 人間ニヨッテコンナニモ重タイ汚濁ニ塗リツブサレタしおんヲ人ノ子ノ手ニヨッテ綺麗ニシテ。
 しおんガ一番最初ニミツケタノ一番最初ノオ願イ聞イテ。

 真実首だけになった少女が闇色の髪を散らして千尋を見上げている。人形のように魂が入っていない透き通ったガラスの瞳だ。人外の存在であろうに彼女の中に満たされていたのは真っ赤な血で、それを漆黒の大地に垂れ流しながら、小さな唇を動かして抑揚のない嘆願をする。それは今まで千尋がここで見たどの光景よりもおぞましくて。赤と黒のその対比に眩暈がする。
「わ……わたし、そんなの、できないッ!」
 色をなくした唇を無理矢理動かして、千尋は枯れた叫び声をあげるしかなかった。
 生まれ変わらせるってなに? そんなの、わたしができるわけないじゃない! 
 千尋の心からの叫びは、それでもシオンには届かないらしい。
『デキルヨ。オネェチャンハ――――ダモノ。――――ヲ生マレ変ワラセタモノ。有名ダヨ? 皆ガ捜シテルヨ?』
 首が落ちたのにも関わらず立ったままであった身体がゆうらりと千尋に向けて両腕を持ち上げ、一歩前に踏み出した。ひゃっと千尋は鋭く叫び、近づかれた分だけ後退しようとするが花びらに邪魔されてそれもできない。
 千尋の肩にのしかかるように押しつけられた両腕、千尋の目の前に差し出されるような体勢になりその全面を曝す切断された赤と白の入り混じった首の断面は、千尋が今まで見たどの悪夢をも凌駕していた。
 千尋は意識が遠退くのをぼんやりと頭の隅で自覚し、視界が漆黒と薄白い花びらの色と血の赤に染めかえられるのをぼんやりと見詰めていたのだが――そのぼんやりとした聴覚に、突如として響き渡った鋭い『音』にはっと我に返った。
 それは風を切る音。重苦しい空気を切り裂いて、なにかが一直線に翔けてくる音だ。鋭い亀裂を作りだし違う世界を引き連れてくる音。
 千尋はふっと呼吸が楽になった気がした。朝起きて窓を開け放った時のような、軽やかな風が吹く。重い荷物を背から降ろした時のような開放感を感じる。高らかな希望の音。それがなになのかはわからないけれど、直感でそう思った。
『ダレ?!』
 身体の方は千尋に抱きつく形のまま、シオンの首がうろたえの声をあげた。ガラスの眸で空を見上げる。
『しおんノ世界ガ! 誰カガ壊シチャウ!』
 取ラレル、摂ラレル、盗ラレル!!
 シオンが甲高い悲鳴をあげるのと同時に、千尋の目の前にごうっと音がして白く大きなモノが着地した。
 逆巻く風に櫻の枝がしなり悲鳴に似た音を甲高く上げた。
 花びらがちぎれ飛んでいく――……その光景は、鮮やかな刀で切り裂かれ、鮮血を吹き上げる世界の悲鳴に思えた。
「……竜?」
 櫻の花びらを吹き散らし、目の前に現れたのは、不思議な生き物だった。白銀色の鱗に覆われた長い胴、水底色の鬣、二本の長いひげ。尻尾の先がみなぎる緊張と気迫にびりびりと揺れていた。なにに近いかと問われれば幻想の生き物である『竜』に近い存在。綺麗で、大きくて、力強い、異形の生物。真なる闇の中、舞いあがる白い花びらの幕の向こうに舞い降りたその姿はとても美しかった。ちらちらと舞いあがり舞い落ちる花びらとその鱗のひらめき。
 けれども、無残に散らされた櫻を背後に、シオンの背を睨みつけるようにしているその生物は――翡翠色の瞳を怒りに染めていた。犬に似た顔に寄せられた皺がはっきりとした怒気をあらわしていた。声高に怒りを訴えはしていないが、静かな怒りをその存在すべてであらわしていた。
『ぐるるるるる……』
 威嚇の声が喉元から低く響いている。それに真正面から射すくめられて、千尋は先とは違った畏れを感じて立ち尽くすしかなかった。
 白い竜が口を開け鋭い牙を剥き出し
『ガァァァッ!』
 と声をあげると、シオンの頭部と身体は砂が風に飛ばされるようにサラサラと端から崩れはじめた。
『消エル! しおん、消エチャウ!』
 オネェチャン、助ケテ! 助ケテ!!
 そこだけ妙に人間くさい感情の篭った声で叫ばれ、千尋はぎゅっと目を瞑って耐えた。まるで人間の少女が懇願しているようでやりきれない。耳が塞げるのなら耳を塞ぎ、足が動くのならここから走って逃げたかった。
 頭が落ちたシオンの体が逃げるかのように揺らめき、腕が抗うかのように動いたが、それは崩壊をおしとどめることはできなかった。
 竜がシオンの声を千尋に届けたくないとでも言うかのように更に甲高く声をあげる。恐ろしい獣の咆哮がその黒い世界の隅から隅まで行き渡る。びりびりと濃密な空気が振動して細かな亀裂が入っていく――『世界が壊れる』現象とはこのようなものを指すのかもしれない。一際大きな亀裂が入り、一気に崩壊が速まった。どこかからか外の世界の風が吹き込んでくる。千尋は恐ろしさに反して、呼吸は楽になりつつあるのを感じた。
 そうしている間に、竜が巻き起こした風に乗ってシオンのかけらは跡形もなくなってしまった。最後のひとかけらが闇に吸い込まれていくと、櫻の花びらがわぁっと音を立ててすべて散り、そこには丸裸の樹だけが残っていた。もう発光しているような淡い光源はなく、花びらに覆われていたからわからなかったその枯死しかけた状態が千尋の目に曝された。朽ち果て今にもぼろぼろと崩れ去っていきそうなしわがれた醜い表皮に覆われた幹。あんなにも重たげに光る花びらを纏っていただけに、その光景は憐れでもあった。
「あ……」
 櫻が沈黙すると同時に身体から花びらが剥がれ落ちて自由を取り戻した千尋は、大きく息を吸い込んでからそんな間の抜けた声をあげた。あんなにも恐ろしさを感じたあの櫻の樹の状態があまりにも無残で。胸が痛い。あの満開の櫻吹雪は、蝋燭が消える一瞬の揺らめきだったのだとわかったので。
 千尋は呆けたように櫻から竜へと視線をさ迷わせた。途端に思い出してしまった恐怖に全身が支配されてしまう。ひくり、と千尋の喉が鳴って、目じりが熱くなる。ぼろぼろと涙が零れ落ちた。シオンがいなくなっても、まだこの大きな竜がいる。覚めない夢に落ちこんだ自分を自覚するともう足掻く気力もない。怖い現実を見たくなくて両の拳を目元にあてがい、幼い子供のようにしゃくりあげた。
 きっとわたしはこの竜に食べられるのだ。それともこの竜もわたしの目の前で首を落すのだろうか。どちらにしてももう嫌だ、耐えられない。どんな結末でもいいから、もう終わりにして欲しい……
 そう思いながらしゃくり上げていると、何かがふっと頭を撫でた。びくりと身体をかたくして顔を上げると、そこにはいつの間にか近づいてきた竜がいて、鼻面を千尋の肩に擦り付けるようにしている。まるで甘えているかのような仕草にとんっと心臓が波打った。大きな体のわりには優しく柔らかく触れるその感触とほんの少しの重みが妙に現実的で、揺れに揺れ動いていた心のどこかが安定を取り戻すのを感じた。
「あ……うぅ」
 けれども、喉が引き攣れて言葉がでない。
 涙で曇った視界いっぱいによせられた翡翠色の瞳がやけに綺麗で懐かしく穏やかだと感じたのは次の瞬間であった。長い睫がぱちぱちと音をたてて瞬きを繰り返すのが妙に可愛らしいと感じたからだ。そう言えば、この竜はシオンから守るようにしてくれた。なにが目的かは知らないけれど、とりあえず今は助かったのだ。
 ごしごしと目元をこすって視界をはっきりとさせ、ちゃんとこの白い竜を見たいと思い再び瞼を開けると、次に千尋は驚きに声をなくした。そこには、白い竜ではなく、少しばかり年上の少年がいたのだ。肩の上で髪を切りそろえた白い肌の少年であったので一瞬シオンかと見間違えたが、覗き込んでくる翡翠色の瞳には千尋を心配する光が宿っていた。それは、今の今まで目の前にいた、あの、白い竜と同じもので。
「あ……お……おにいちゃん、さっきの、りゅう?」
 上手く言葉を紡いでくれない喉に更に泣きそうになりながら問いかけると、目の前の少年はゆっくりと頷いた。
「千尋、遅くなってごめんね。もう大丈夫だから」
 千尋、と名を呼ばれると、薄れかけていた恐怖がたちまち戻ってきて、千尋はまたもや両目から涙を零した。どうしてこのおにいちゃんがわたしの名前を知っているのだろう、そんな疑問すらも浮かばないほどに心が乱れていた。恐かった。とても恐かったのだ。この世界も、あの女の子も、あの櫻も。
 少年――ハクは、顔を伏せてぼろぼろと泣きじゃくる千尋の肩を抱き寄せ、ぎゅっと抱きしめた。自分が遅くなったからこんなにも彼女を怖い目にあわせてしまった。シオンの手は退けられたけれども、彼女の心に拭いきれない恐怖を刻み込んでしまった。こんなものは必要ないのに。否、あってはならないものであるのに。彼女が全身を血の赤に染めるなど、あってはならないのに。
 ハクは千尋の額にこつんっと自分の額を押し当てた。千尋は抱きしめられて安心したのか、それとも泣き疲れたのか、うとうととし始めてハクにされるがままになっている。本来は子供の方が体温は高いはずであるのに、千尋の体は恐怖の為にすっかりと冷たくなっていた。あわせた額が冷たく感じられて、ハクは内心で唇を噛みしめる。ハクは更に千尋の身体を抱きしめた。冷たい身体にぬくもりを分け与えるかのように。私がいるからと言葉で伝えても足りないのだと言わんばかりに。
「千尋、大丈夫。忘れなさい」
「わすれる……?」
「そう、忘れなさい。なにもなかったのだから」
 誰もそなたに悪さはしていない。誰もそなたを恐れさせたりはしていない。だから忘れなさい、とハクは言い聞かせるように何度も繰り返した。
「わすれ……る――」
 ハクの腕に包まれ、ゆっくりと繰り返される言葉が全身に波のように広がっていく。とても気持ちが良い。ハクの言葉の抑揚は落ち着いた鼓動にも似ていて。
「わす……れ……――」
 とろんと半分おりた瞼で、呂律がまわらなくなってきた舌で千尋は繰り返すと、ことんと瞼を閉じてハクに身体を預けた。
 腕の中で繰り返される穏やかな寝息を聞きながら――睫毛に宿った雫を見つめながら――ぎゅっとその細い身体を両手で抱きしめながら、ハクはゆっくりと周囲の真闇を見回した。
 優しい夢をあげられない我が身が心底口惜しかった。だから――せめて怖い夢など忘れ去って欲しかった。再会とも言えない再会を果たした記憶すら忘れることになるのだとしても――こんな暗い闇の中の夢などすべて忘れてしまって欲しかった。すべては夢。夢なのだから。

 どこかからか、シオンの哀しそうな泣き声が聞こえたような――気がした。