【02】
KALEIDOSCOPE





   【一】

 紫媛が死んだ。
 紫媛が死んだ。
 彼女はこの地に古くからいた櫻の主だった。
 妖艶な美女が多い櫻の精には珍しい、童女姿の可愛らしい精だった。
 さらさらと風に花びらを乗せては無邪気に遊ぶのが好きな子供だった。
 誰からも愛された。
 大元は、山の中にひっそりと建てられた小さな社の脇に誰かが奉納した小さな櫻の樹であった。細く頼りない櫻の樹は、旅の途中に社へ参る者くらいしか知らない櫻で、それでも毎年春には淡い色の花を咲かせては社に花びらを届けていた。やがて時が過ぎ社の小さな主がその地を去っても、紫媛はその地に留まり続けた。紫媛はその地が大好きであったし、その地も紫媛が大好きだったのだ。
 人の手が山にまで入り、彼女を薙ぎ倒そうと鉄の塊や機械仕掛けの斧で挑もうとした時、地の者や大気の者が大勢邪魔をした。人は櫻の祟りだと恐れおののき、無邪気な紫媛は深く傷ついたようであったが、結果彼女は守られた。その周辺に容赦なく人の手は伸び、開墾され家々が建っていったけれども、まだ彼女は楽しそうに笑えもした。新しく住み着いた人間達を不思議そうに眺め、無邪気に花を咲かせていた。
 けれども時はあっという間に流れすぎ、『ジュウタクチカイハツ』や『クカクセイリ』や『ドウロカクチョウコウジ』なるモノに彼女は巻き込まれ、深く根を張った土の上や根のすぐ近くまでを石で覆われ、呼吸ができないと泣くようになった。
『ジドウシャ』なるモノが吐き出す真っ黒く不快な空気に毒されて、どんどんと彼女の顔色は悪くなっていった。元から白かった顔色が青みを帯びた透明へと変わっていく様は痛々しい以外の表現を見つけられない。ふくふくと柔らかそうな頬が冷たくかたい印象を帯び行く様は哀しくもあった。
 愛らしい唇は色をなくし、四季が巡るたびに楽しみを見つけては目を輝かしていた黒い瞳からも光が消え失せた。舌足らずな口調で一生懸命おしゃべりするその声もとんと聞かれなくなってしまった。春になればあんなにもたくさん紫媛の身を飾っていた花びらもここ十数年は勢いを無くし、花の蕾も少ない枝を見上げて彼女は声もなく涙を流していた。はらはらと風に舞う薄い花びらのかわりにほろほろと透明な涙が白い頬を伝っていく。それを見て地の者も大気の者も深いため息を吐き出す。紫媛のそんな様子は儚くも美しいものであったが、できれば昔のように無邪気に笑い声をたてて欲しい、それが皆の偽らざる願いでもあった。
 彼女は無邪気な櫻の主だった。誰からも愛される櫻の精だった。
 紫媛は死んだ。
 紫媛はもういない。
 紫媛は――殺された。

   ◆◇◆

「なんかだるい……」
 千尋はベッドの上に上半身だけを起こし、ぼんやりと反対側の窓を眺めていた。カーテンの隙間から朝の光がさんさんと降り注いでいて今日も良い天気だと知らせているのに、千尋は局地的曇天状態だ。
 鍵もかけられていない鳥カゴから抜けだし、明かりよけにかけられていた布を潜り抜け、ルキがもそもそと這い出てくる。そのままついっと翼を広げて千尋の肩に降り立つと、様子のおかしい千尋の顔を窺うように首を二・三度傾げる。が、そんな気遣いにもすぐにあきたのか、外に出してくれと千尋の耳をかじりはじめた。
「や、ルキ、くすぐったいっ」
 その刺激で千尋は我に返る有様で。
「ごめんごめん、ルキ。はい、いってらっしゃい!」
 身体は妙に重くてだるいが声だけは元気に窓を開け放つ。
 千尋はいつもと同じように屋根の上を旋廻して森へと向かう鳥の姿を見送ってから、のろのろともう一度ベッドのへりに腰かけた。そのままぽてんっと横倒れしてしまう。昨日もちゃんとぐっすり眠ったのにどうしてこんなにだるいのだろう。熱があるわけでもないし、頭が痛いわけでもないし、もちろんお腹が痛いわけでもない。まるで一晩中寒さに震えて眠った後とか、号泣した後のような疲労感が全身を包んでいた。とてつもなく疲れ果てていた。
「うーなんか気持ち悪い……」
 自分の身体のことだけで手一杯であったので、机の上から手毬が消えてなくなっている事実に千尋は気付かないのであった。


「ねぇねぇちひろん、聞いた?」
 雪が降った昨日よりかは寒さがましとは言え千尋はまたもやダッフルコートを脱ぐのを渋って突っ立っていたところに、和泉がぱたぱたと駆けて来て机にかじりついた。耳の下でふたつに分けている結わえ髪がぴょこぴょこと元気に跳ねている。
「なにを?」
「バス通り沿いにおっきな櫻の樹があったでしょ? あの『切ろうとしたら呪われる』櫻の樹!」
「あー、うん、あるけど」
 昔は誰もが立ち止まってその櫻が満開の様子を見上げたと言われる古い櫻の樹ではあったが、昨年の夏にとちの木台に越して来た千尋は、緑の葉も少ないくたびれた幹をちらりと見たきりだ。根元ぎりぎりまで石畳が組まれ、枝のすぐ下にフェンスが通されている為に、息苦しく狭苦しく可愛そうだとは思いはしたけれど。
「あの樹、突然まっぷたつになっちゃったんだって!」
「……ふ〜ん?」
 あぁもうノリが悪いなぁと和泉は床を踏み鳴らした。結わえ髪が更にぴょこぴょこと跳ね飛んだ。
「でね、中を見たら、中身が腐ってておっきな空洞ができてたんだって」
 あんなに大きな木なのになんか考えられないね! と和泉は大げさな手振りで興奮を伝えようとしているが、馴染みのない千尋にはいまひとつ興の乗らない話であった。
「ちひろん、知ってる? あの樹ね、切ろうとする人を呪って事故とか起こしていたんだけどね、恋を叶えてくれるって言い伝えもあるんだよ!」
 女の子の味方の櫻だったんだから〜〜! と和泉は尚も両腕をわしわしと振りまわす。
「あたしもいつかお願いしようと思ってたのに〜〜!」
 心底悔しそうな和泉に
「いずみん、好きな男子いるの?!」
 と、千尋は和泉の思惑とは違うネタで食いつくのであったが。朝食をとって学校に辿りつくのがやっとであった体調の悪さでは、折れてしまった櫻なんて暗い話題より友達の色恋話を選ぶ方が至極まっとうな選択であったのだろう。
 彼女にとっての紫媛の死とは、そんな形で終わってしまったのだった。

   【二】

 紫媛は死んだ。
 紫媛はもういない。

 かなしい、悲しい、哀しい、と犬が泣いた。鳥も泣いた。森から時々街中へと出てくる野生の獣達が泣いた。姿のない者達も噎び泣いた。心から、その年経た櫻の精の死を悼んだ。
 かなしい、悲しい、哀しい――と、彼女を愛していた者達が彼女の為に涙を流した。空の上から。草の陰から。まっぷたつに折れた櫻の樹はすでに人の手によって処分され、わずかな切り株が残るばかりの無残な姿。すがりつく遺体もない送りの儀式はそれでも限りない愛情と優しさと哀しみに充ちていた。
 そんな声無き声の中で、一際ひっそりと涙を流し、紫媛の死を哀しんでいた者がいた。勝手気ままに生きていると人には言われる、野良猫であった。
 涙を流す者は誰もその猫に注意を払いはしなかったが、誰もがその猫の存在は知っていた。毛並みはばさばさとして薄汚れ、右目は白内障で白濁し、今にも死に絶えてしまいそうな白い猫。ぼろぼろと抜け落ちた髭が憐れでさえあるが、目やにで半分しか開かない右目とかろうじて見られる青い左目から流れる哀悼の涙は我が身を捨て置くほどに純粋なものだった。否、哀悼と言うには情の深い――複雑な涙であった。
 彼女は紫媛がとても好きだった。生まれた時から紫媛が好きだった。彼女は紫媛が風を遮る藪の中で生まれたのだ。紫媛が投げてくれる手毬にじゃれつくのが大好きだった。紫媛が風に乗せて遊ぶ花びらを無心に追いかけるのが好きだった。紫媛の櫻の枝に登り、背を丸めて下を眺めながら眠るのが好きだった。春には満開の花びらの隙間から、夏には緑の葉から差し込む太陽が背中を温めてくれた。紫媛はいつでもまどろみと太陽の思い出とあった。彼女にとっての紫媛はそんな優しい時間の象徴であった。
 彼女が子供を産み育てたのも同じ藪の中で、紫媛は彼女の子供をすべて知っていてくれた。そしてどの子供にも自分にしたように手毬を投げて遊んでくれた。もうその時には紫媛は無口になっていたが、それでも猫達にはあたたかい眼差しをそそいでくれた。いつも穏やかに笑っていて、苦しいなんて一言も漏らしはしなかった。青白い頬に笑みを刻むさまは哀しくも美しかった。
 大好きだった。大好きだった。大好きだったのだ。
 紫媛は死んだ。
 紫媛はもういない。
 紫媛は殺された。
 紫媛にはもう会えない。
 もう――会えない。

   ◆◇◆

「ルキ? どうしたの?」
 和泉と別れ、ぼんやりと空を眺めて歩いていると、視界にあまりにも不自然な飛び方をしている物体が入ってきた。風にきりきりと揉まれた青い紙にも見えたが、よくよく目をこらすともっとしっかりとした物体のようだ。
 ふらふらと飛んでいる鳥がいる……口をあんぐりと開けて視線でそれを追いながらそんなことを考えている間もなく、それは千尋めがけてふらふらと舞い降りてきた。手の中に落ちるように飛びこんだそれは、千尋もよく知るルキであった。
 千尋は学校に行っている間に朝のだるさはなくなったのであったが、今度はだるさがルキにうつってしまったのか、その様子はどこか気だるげである。千尋の手の中におさまって、もう動きたくないとばかりに羽根を折りたたんでじっとうずくまってしまった。瑠璃色の羽根も色あせてみえて、小さな身体がひとまわり縮んで見えた。どこかしら濡れそぼった感触で、それだけで冷たく感じてしまう。
「なにか悪いものでも食べた?」
 飼っているわけではないと公言するだけあって、ルキが外でなにをしているのかなんて千尋にはわかるはずがない。きっと無茶をして遊び続けたのか、悪いものでも食べたのか、くらいしか思いつけもしなかった。
 そのうち手の中でこっくりこっくりとし始めたルキを両手で覆って、できるだけゆっくりと家路を辿る。手の中で小さな心臓がトクトクと音を立てて、歩くたびに細かな羽毛が手に触れてなにやらこそばゆい。手の中で眠る命があるのはなにやら嬉しいものだ。まるで全幅の信頼をよせられているようで。
 子供特有の手のぬくみがルキにうつっているのか、冷たかった身体がほんのりとした熱をともしたようだ。ほこほことしてくるのがよくわかった。動物特有の香ばしい匂いがかすかに手元から立ち昇ってくる。心臓から地肌へ、地肌から羽毛を通って立ち昇ってくる『生きている匂い』はどこかこそばゆくて嬉しくて幸せな気持ちにさせてくれる。
 と、そのルキがなんの前触れもなく首をもたげ、ばさばさと両の翼を広げて暴れ出した。くちばしを開けてちぃちぃと威嚇の声を甲高くあげるルキに千尋はつられて焦ってしまった。
「な……ルキ?! 危ない!」
 千尋はその唐突さに慌てながらルキを取り押さえようとするものの、このまま力をこめていては羽根を傷めてしまうと気がついてルキを解放した。
「はぁ、なんだったんだろ」
 今度は千尋の手から逃げるかのように空へと舞いあがり、家とは逆方向へ一直線に翔けて行ったルキの姿を見送りながら、千尋は疑問符を飛ばすしかなかった。気まぐれな鳥の気まぐれな行動と言えばそれまでではあろうが、なんだか意味もなく嫌われてしまったようで悲しいではないか。今の今までほわわんとした幸せを感じていたので、手の中の寂しさがいや増すではないか。
 気持ちが一直線に下降した千尋は、さっきとは打って変わってとぼとぼと歩き出した。視線もどんどんと足元に近づいて頭も伏せがちになる。頭の上で結い上げた髪が、歩くたびにうなじを打って、それもまた鬱陶しい。
 そんな千尋の視界に、薄汚れた白い物体が飛び込んできた。道の端にうずくまってこちらを見上げている、白くて大きくて年老いた猫。毛繕いも満足にできないのか、昨日の雪でぬかるんだ土に汚れた毛皮が乾いて茶色く染まっていた。右の目はなにやら病気なのか、目やにがびっしりと張りついて半分も開いていない上に白く濁っている。青い左目は長い年月かけて蓄積された疲れを宿して見えた。どこにでもいる、年老いた野良猫。それ以外には有り得ない存在であった。
「……」
 千尋はその猫の横を通りすぎる間じっとその白く濁った片目を見ていた。可愛そうだとは思ったけれど、もうどうしようもない気がする。病院に連れて行って目を診てもらう? でもこの猫はそんなことを望んではいない気がする。こんなにぼろぼろになっても人間に媚びようとしないこの猫を捕まえたところで、それは猫の意思を踏み躙る行為に思えたのだ。 
 同じ状況であったルキはならばどうなのだと聞かれれば答えに窮したであろうが、ルキはそれでも生きようとしていたし助けを求めていたと思えるのだ。ただみてくれが小さく可愛らしかったから千尋は助けたのではない。ルキが『助けて』と声をあげているのが聞こえた気がするから咄嗟に手を伸ばせたのだ。この猫にはそれがない。『生』にはあまり興味がないように千尋には感じられた。
 無言で見つめ合ってすれ違った後も、千尋の心はとっぷりと暮れていく冬の夕日のように暗く沈んでゆらゆらと揺れたままであった。
 そんなしょぼくれた千尋の後ろ姿をじっと押し黙ったまま見送った白猫は、おもむろにその重い身体を持ち上げ立ちあがるとよろりと一歩踏み出した。それは千尋が行った方向で。
 よろりよろりと白猫は千尋の後を追う。音もなく静かに忍び寄る。昨日の雪がそこここに薄い水溜りを作っていたが、白猫はそんなものに頓着せず、ただまっすぐに歩を詰めていた。薄汚れた毛皮に新たな染みができその水滴が容赦なく体温を奪っていくが、そんなものは白猫にはとっては些細なもので。ただ千尋の後を行く、それだけが今の白猫のすべてで。
 千尋が後ろからの無感情な視線に気がついたのは、あと少しで青い屋根の家が見えてくる場所であった。ぴたと足を止め、何気なく振りかえる。視線を徐々に下に向け――小さく息を吸い込んだ。背後から忍び寄ってきた、白い猫の、あの右目を見つめてしまって――

 後ろを振りかえる。呼ばれもしないのに振りかえる。
 そしてその、白濁してもうなにも映し出さない目に――囚われる。
『お嬢ちゃん』
 白い猫はにやりと口の端を持ち上げて、声ならざる声で語りかける。
『このあたしの右目はなにも見えないけれど、見えない『モノ』を覗き見ることはできるんだ』
 それは、神の領域。または死の、影の領域。そんな薄暗い、見えざる場所を覗き見ている――
 白く濁った目はその時、取り込めないはずの光を取り込んで乱反射していた。まるでそれは白い万華鏡のようにきらきらとしていて――様々な色に変わる。ほんの些細な光と色彩を無限に拡大させて、光り輝く。それはやがてその小さな路地の光と色彩を取り込み――世界は裏返った。影の世界へと白猫は踏み込んだのだ、千尋を連れて。
 振りかえったのは千尋の意思。
 いざなったのは白猫の意思。
 さ迷い込んだのは、この世とあの世の狭間。

 身体の内と外、現実と非現実、世界の光と影を逆転させたかのような凄まじい衝撃の内に放り出されて、千尋は意識が真っ白に焼き尽くされたのを感じたのであった。

   ◆◇◆

 みぁぁぁ――……
 みぁぁぁぁ――……
 暗い暗い闇の中。どこかから子猫の鳴き声が途切れ途切れに聞こえる。弱くて、不安で、かそけき。けれども、一生懸命に『ここにいる』と鳴く、生きている声。一生懸命に生きようとしている、声。
 千尋はその声をさがして、右に左にと視線をさ迷わせる。けれどもなにも見つからなかった。月のない夜の道のようになにもわからない不安に心を絞めつけられながら佇むその場所は、その声と千尋の呼吸以外はどこまでも静かだった。
 みゃぁ。
 その声が、少しだけ色を変えた。弱くてか細いのはそのままだったが、不安の色が消えて喜びに溢れている。
 千尋はふぃと後ろを振りかえった。するとそこには、スポットライトにあてられたかのようにぼんやりと明るい藪があり、そこに白くて大きい猫がいた。千尋との距離はかなりひらいてはいたが、その猫が緑色の両目を持っているとわかった。そして、その傍らには子猫が三匹。茶斑と灰色の猫に挟まれるようにして鳴いていたのは――青い目をした白い子猫だ。小さな口を開けて一生懸命に鳴いている。ひくひくと動く鼻と揺れる短い髭、ピンク色した口から覗く柔らかそうな白い牙のなんと可愛らしい。ふにふにとした肉球を丸め、なにかをたぐりよせるような仕草を右手で何度もする。
「淡雪、また今年も生まれたね」
 その親子の傍らに静かに佇んでいたのは、黒地に小花が散った模様の着物を着た、艶やかな黒髪を肩の上で切り揃えた童女であった。年に似合わずたおやかに両手を揃えて立ち、猫の親子を愛しげに見つめていた。白い頬や小さな唇に浮かぶのは、慈愛の笑み。背後には櫻の樹が低く枝を這わせ、櫻の季節でもないのにちらちらと幻の花びらを振りまいていた。まるで、小さな命を祝福するかのように。
 親猫はその少女を見上げて、みぁと一声鳴いた。
「うん、今年も名前をつけさせてくれるの?」
 わたしが淡雪の名をつけたように、淡雪のすべての子に名をつけたように、今年も名前をつけるね。次もまた名づけの儀式が行えるように――願いを込めて。
「茶斑のお前はオスだね。ならば葉波。灰色のお前もオスで――魁呂」
 大きくおなりとその頭をひと撫でし、紫媛はつぶらな瞳を残りの白い猫へと向けた。二匹の猫に向けるよりも、深い眼差しで。
「白いお前だけがメスだね。淡雪の紛れもない跡取りの娘」
 ならば母の名から取って――
「雪白と名づけよう。雪色の流れに似たその白をあらわして」
 お前の一族には代々真っ白なメス猫がいて、その猫がこの紫媛と友達になるのだよ? 跡取りの娘は、紫媛が『雪』の名をつけてあげるの。
 紫媛は嬉しげに楽しげに笑みを刻んだ。けれどもその中には、隠しきれない『哀しみ』も確かに混じっていた。
「雪白、これからよろしくね」
 白い猫が生まれれば、その母親は遠からず紫媛の元から去るのだと彼女達は知っていたからだ。それもまた、連綿と紡がれるこの猫の家系が負った約束事であった。

『それでも大好きだった。母である淡雪がすぐに死に、兄達と離れ離れになってしまっても、あたしには紫媛がいた。紫媛が名づけてくれたユキシロの名はあたしの宝物だ。紫媛はとても優しい。あたしは紫媛が大好きだった』
 それなのに、それなのに――人は紫媛を苦しめ――
『あんたは――紫媛を――殺したんだ』
 
 どうして――?!

 その言葉はどちらの言葉であったのか。その暗い空間に存在しているひとりと一匹にはわからなかった。

「わ……わたし、シオンなんて知らな……」
 いつの間にか目の前に現われていたその猫は、夕暮れの帰り道で見かけた老いぼれ猫とは思えないほどに凛とたたずんでいる。しゃんと首を伸ばし、ひたと両目を見開いて千尋を見据えていた。右の目だけがきらきらと光に満ちていたが、それは生気と呼べるものではなく――どちらかと言えば仄暗い炎を宿していた。
 その瞳に見つめられて、千尋は知らず知らず両腕をおのれの身体を抱きしめるようにぎゅっとまわし、がたがたと震えていた。歯の根のあわない唇を必死に開き、なんとか言葉を紡ぐ。シオンなんて知らない。ましてや誰かを殺してなんかいない! そう叫びたいのに叫べない。自分の口であり喉であるのに、信じられないほどに重くて痺れて気持ちが悪かった。込み上げてくる吐き気を押し殺すのに必死であった。
『知らないはずなんてない。だってあんたからは紫媛の匂いがする。紫媛の血の匂いがする』
 あたしが間違うはずないだろう? ねぇ、そう思うだろう? 
 白猫は小首を傾げて、千尋を足元から見上げた。その仕草が記憶の奥底を引っ掻いて、隠された記憶を引きずり出そうとする。
 目の前にちかりと小さな光が瞬いたよう――……
 この仕草をどこかで見たような――下から見上げられて、小首を傾げるつぶらな瞳を見たような――……
 静かな、静かな――そして、奥底に、子供の千尋ならけして知り得ない、尋常でない光を秘めた瞳を見たような――……子供の千尋ならけして理解できない光を宿した瞳を見たような――……
「あ……」
 こことよく似た、黒い黒い世界で――闇が溶け出した漆黒の髪に黒い瞳、闇を排除した白い肌を持った女の子と会った記憶がある。
 黒い着物にはらはらと舞い散っていたのは、櫻模様であったのか、本当の櫻の花びらであったのだろうか。
 綺麗だけれど、見てはいけない、触れてはいけない、禍々しい風景にわたしは確かにいたような――……
 色鮮やかな手毬が跳ねた音が耳に甦る――……跳ねたのは本当に『手毬』だったの??
「あ……わた……し――」
 白い猫を優しい目で見つめていたあの女の子を知っている。
『雪白』
 と、優しい口調で名づけ、小さな手で、更に小さな子猫の頭を撫でたその女の子をわたしは知っている――あんなにも優しい表情ではなくて、苦しさを隠した、冷たく、正気を手放した顔であったけれど――……触レラレタ手ハ 柔ラカソウデモ 温カソウデモ ナカッタケレド。

 いけない。それ以上はいけない。
 心の中で誰かが叫ぶけれど、千尋は雪白の暗く静かな瞳から逃れたい一心で、厳重に封じ込められていた最後の記憶の扉を掻き開けてしまった。
 震える手で。冷たさにかじかんだ指で。誰かが施した鍵をこじ開けてしまう。
 ただ助けを求めて。真実を知りたくて。
 ――するりと開いた扉の向こうには更なる闇しかないのに。

 はらはらと花びらを涙のように零している、闇の中の櫻。
 そこに半分隠れるようにしてこちらを見ていた童女。
 さらりと揺れた絹糸の黒髪、ぽってりと赤い唇が紡ぐ謎かけ言葉。
 襲いかかる櫻の花びらと静かな嘆願。
 掻き切られた首と、それでも動く胴体が――
 血の赤と、花びらの白と、黒い闇が交錯して千尋に襲いかかる――塞がれた呼吸の苦しさと、それでも身体の中を駆け巡ろうとする血の音が――……

   ◆◇◆

「千尋……」
 ハクがそこに辿りついた時、千尋は白い猫と見つめ会ったままぼんやりと立ち尽くしていた。けれどもハクには瞬時にその状況が『異常』であるとわかってしまって、彼女の名を力なく呼ばわるしかできなかった。
 無理矢理に塞ぎ止められ隠されていた昨夜の闇色の記憶が、その反動によって津波となって心に襲いかかり千尋はその記憶に心を奪われてしまった。ぼんやりと見開いた瞳にはなにもうつっていない。千尋をひたと見つめている白猫も、目の前に現われたハクの姿さえも。
 闇色に染まった心と輝きを失った瞳をした少女を目の前にして、ハクは声を失った。喉の奥が引き攣れて痛い。辛うじて搾り出した彼女の名の響きはおのれの声とは思えないほどに無残で。
 一度声を絞り出したら、次は止まらなくなった。ハクは千尋の肩を揺さぶりながら幾度も名を呼ばわった。私を見て! そう願いながら。
「千尋!」
 どうしてこんなことに――。ハクは、千尋の名を呼びながら心で叫ぶ。千尋の状況を見れば、なにが原因かは一目瞭然だ。おのれが隠した真実がこの少女を打ちのめした、それ以外には考えられない。
 ただの人であるこの娘には、あの暗闇や櫻の精は色濃い毒で――否、目の前で自害する生命の記憶など、普通の生活を送っている娘であれば無縁のもので。知らないで済むなら知らないままで――あったことをなかったことにできはしないから、せめて忘れてしまって――そう願ったのに。
 真実は千尋の魂を大きく傷つけた。恐らく、無理矢理に封印した――その歪みが更なる衝撃となって。
「千尋……ッ!!」
 お願いだから、壊れてしまわないで――!
 ハクは千尋の細い身体を抱きしめて願った。その感触はどこか少女の身体と言うよりは生暖かい肉の塊にしか感じられず、ハクはそのことに更なる衝撃を受けながらもぎゅうと抱きしめる。まるで、抱きしめていれば見えない傷が癒えるとでも言うかのように。魂が戻ってくるとでも言うかのように。
 お願いだから、こんなところで壊れないで。こんなことで壊れないで。どうしてこの子は穏やかに生きていけない?! どうしてこの子を放っておいてくれない?! 彼女を彼女のまま生かしてはくれない?!
 願いと疑問がハクの心の中で激しく渦巻く。それは怒りにも似た衝動で、ハクはそれを抑えるかわりでもあるのか、千尋の身体を強く抱きしめ、その薄い肩口に顔を埋めた。
 生気をなくした千尋の身体はとても冷たくて、ハクの身体も冷たくなっていく。それに抗うかのように、ハクは千尋の名を呼び続けた。
「千尋、お願いだから――」

 戻ってきて。

   ◆◇◆

 赤と白と黒が交錯するその世界の果ても果てで、誰かが名前を呼んだ気がするのはなぜだろう? 
 それは、花の淡い白とも、紫媛の肌の白さとも違う、透き通った白いモノ。
 キラキラと、ほんのすこしの光を集めて、弾いて、幾倍にも膨れ上がらせて、その身を飾る。
 心が浮き立つような音と風と香を纏って現われた――……
『竜』
 その存在が名を呼んだ気がする。
『千尋』と。

 違う。名を呼んだのは年上の男の子だったはず。
『遅くなってごめんね。もう大丈夫だから』
 と、抱きしめてくれた。大丈夫、大丈夫と何度も言ってくれた。ぎゅっと抱きしめてくれた。優しい感触。頬に触れた髪の感触はさらさらしていた。抱きしめる両腕には力が込められていたけれど、苦しくはなかった。気遣ってくれていた。どこか懐かしい優しさだった。
 あの暗くて怖い世界で、そんな体験が――あった。あそこは怖いばかりの場所では――なかったはず。


「千尋?!」
 瞬きをひとつして鮮明になった視界に、記憶がそのまま再現されているのかと思えるほどに先の光景と同じ状況ができあがっていて、千尋は忙しく瞬きを繰り返した。母親にがりがりだと酷評されている細い自分の体をぎゅっと抱きしめてくれている少年の顔が頬に触れそうなほどすぐそこにあって。
「あ……」
 喉元から無意識に出てきたのは、擦れに擦れた、意味もない音。なのに、目の前の少年はほっと息をついたようであった。不思議な翡翠色の瞳さえ色を変えるような――深い安堵感。
「千尋、良かった。私がわかるかい?」
「わ……わたし……」
 なに――を。どうしていたのだろう。なにがあったのだろう。よくわからない。けれども少年のあからさまな安堵の表情や言葉が、なにかとてつもない状況の中に自分がいたのだと知らせていて。
 わたしはどうしていたの? そんな言葉を紡ぎ出そうと気力をかき集めて口を開きかけた千尋であったが、半身を捻り猫を見やったハクの横顔の冷たさに言葉を失ってしまった。その横顔は、あの白い竜であった時に見せた怒気そのもので。
「や……」
 いつの間にやら座り込んでしまっていた千尋をそのままに、すっくと立ち上がり一歩猫へと近づく為に歩を進めたハクの手が肩から離れて、千尋はそれを呆然と見上げるしかなかった。
 ――ダメ。
 そう思うのに、言葉が喉元で凍りついてでてくれない。気力を一生懸命集めてもどうしようもなくて。けれど、それ以上に『ダメ』と思う気持ちの方が強かった。
 だって、このおにいちゃんはこの猫を――。この猫を、生きる気持ちをかけらも持っていないこの猫を――……
「だ……」
 お願い、頑張って……!
「ダメ……」
 そんな小さな弱い声じゃ、もうあんなにあの猫に近づいているおにいちゃんには聞こえないよ。
「ダメ」
 あと一歩しか距離がないのに――……

「ダメ、殺さないで! 殺しちゃいやぁッ!!」
 シオンみたいに殺さないで! 殺さないで――ッ!!

 それは自身の死に直面しての懇願にも似た、色。

「あ」
 ハクは、背後から響いた必死の叫びに、ぴたと足を止めた。
 すぐ目の前には、千尋の心を傷つけるきっかけを作り出した、白い猫。なんの感情ものぼらせず、ただそこに端然として存在している、物体。なにが望みであったのか、それすらももう意味をなしてはいないであろう、抜け殻のような。
「私……は」
 怒り。それしかなかった。千尋を傷つけたその対象に『怒り』しか抱いていなかった。全身を冷たい氷に抱きすくめられたように、または炎に閉ざされたように、ただ『怒り』しか感じていなかった。怒りにまかれて握りしめた両手には、痺れを残すほどに力が込められていた。
「私はどうしようと」
 この猫をどうしようと。原因を知ろうともせずに、私はどうしようとしていたのか。殺して終いになると?! 怒りに引きずられてこの猫を殺しても、消し去っても、千尋の心をますます傷つけるだけであるだろうに。


『なんだいなんだい。黙ってみていれば、意気地のない』
 猫は人間臭い仕草で頭を振って見せた。やれやれとでも言いたげだ。
『あたしはその子を勝手にこんなところに連れ出して、紫媛の仇をうつつもりだったってのに、あんた、そんなんでいいのかい?!』
「なにを……」
 言っているのだと、ハクの言葉も掠れて意味をなさない。
 ハクと千尋は、青と白の、万華鏡のように色をばら撒く猫の両目を見つめるしかなかった。
『そんなことではこの先どうなっても知らないよ? このお嬢ちゃんを狙って大勢のモノがやってくるだろうに』
「大勢のモノ?」
 それはどうして……ハクはその疑問を飲み込んだ。なぜ、どうして、彼女が狙われると?
『あたしにはすべてはわからんよ。でも、紫媛は確実になにかの目的でこのお嬢ちゃんと会ったんだ。そんな人間がただの『人』だとは思えんし』
 あたしのこの見えない右目がうつす世界では、お嬢ちゃんは『ただの人』にも見えないしねぇ。
 雪白はそこだけ口の端を持ち上げ、両の目を細めて笑った。
「ただの『人』では……ない?」
 それはどう言う意味だとハクが声を荒げる前に、雪白はふぃと上空を仰ぎ見た。そこもまた真っ黒な空間であろうに。雪白は視界をこらすかのように両の目を細め、ぼろぼろと抜け落ちた髭を震わせた。
『あぁ、来たよ。待っていたよ、紫媛が来た――!』
 生きることに疲れた、淡々とした声色であった雪白が身体を打ち震わせはじめて感情を露わにして告げたそこを、ハクも千尋もつられて見上げた。
 はじめはなにもない、黒い空間だった。けれども、ちら、と白い何かが舞い落ちてきて。それは次第に数を増やし、ちらちらと零れ出した。
「櫻の花びら……?」
 なにもない空間からちらちらと櫻の花びらだけが零れてくる。常ならぬこの空間でも尋常でない現象であったが、その光景はなにやら美しかった。それを見上げる白猫が、みてくれはボロボロであっても目が澄みきっていたからか、そんな白猫を包むように淡い光をまとって花びらが優しくふわりふわりと零れているからか。
『紫媛がもういなくなるのだとは、知っていたさ。ここにお嬢ちゃんを連れてきたのは紫媛を呼びたかったからさ』
 なぜなら、あたしの子供の中には、白いメス猫は生まれなかったから。代々紫媛と友達になって跡を継ぐ娘が、あたしにはできなかったから。あたしは紫媛と一緒に逝く定めを負っているのだと知っていたのさ。


 ハクと千尋の目の前で降り落ちる花びらは量を増し、白い猫の姿を隠しやった。
 黒一色であった世界が白い花びらに埋め尽くされるまで、ハクと千尋は空を見上げていたのであった。