【03】
CARTAIN CALL





   【一】

「銭婆様! これは一体どう言うことなのですか?!」
 ハクは閉じていた目を開けるなり、そう叫んでいた。
 彼を取り囲むのは、人の手の入らない森の木々。その実、銭婆が何十年とかけて築き上げた魔法力の集結陣を描いた中心部であった。樹の一本一本が陣を形作り、大地の力を集め、森を流れる風の力さえも呼び寄せている。
 その森の樹木はハクの声を吸い込むかのように、枝葉を揺らせた。その証に、ハクの声はどこにも届いていないような奇妙な静寂に飲み込まれて行く。さわさわと揺れる梢だけが妙に生々しい音を奏でていた。
 この場でハクと森のどちらが主導権を握っているかと問われれば、間違いなく『森』であると答えるほどにハクの存在はそこに埋もれていた。否、森に溶けこんで一体化しているとも表現できなくはなかったけれど。
『そんなに大声出さなくても聞こえているよ、ハク竜』
 銭婆の声がすぐ耳元で聞こえるが、その姿は見える範囲にはなかった。魔法で声をハクの元へと届けたのだ。銭婆自身は一定の距離を保った陣の外で首尾を窺っているのであろう。
 ハクは何もない宙の一点を睨みつけるようにして口を開いた。
「しかし、昨日の今日で千尋が異界に連れ込まれるなど尋常ではありません!」
 今の世は、電気に支配され明かりが国中に広まり、闇は片隅に追いやられ、闇に対する畏れも敬いも薄れ行き、神々もあやかしもその存在を必死に繋ぎとめている殺伐とした世界。そんな状況であるのに、ただの人の娘が人ならざる者と一度ならず二度までも、しかも昨日の今日で関わりを持つとは普通の事態ではない。
 ハクはぎゅっと唇を噛みしめた。これでは何の為に彼女をあちらの世界に戻したのかわからないではないか。これでは明らかな害意のただ中に放り出しただけではないか。結果を先送りしただけではないか。傍にいて護れないのであれば、何の為に。彼女はこのようなことに関してはなんの力も持たない非力な娘であるのに。こちらにいれば、少なくとも彼女の危機に駆けて行けるのに。こんなまどろっこしい手順など踏まずとも、この身ひとつで翔けて行けるのに。ハクは唇を噛みしめた。
『仕方がないさ。あの子はこちらと関わりを深く持ちすぎた。それ以前に、川の神であったお前と知り合う、そんな、もうあちらではあまりにも稀有な縁を結んでしまっていたのだから』
「……それでは、私と彼女の出会いからして、彼女にとっては災いであったと?」
 そんな台詞はお言いでないよ、と銭婆の冷静な叱責が耳朶を打ち、ハクははっと我に返った。
 ここはあちらと違っていぜん言霊が強い力を保っている世界だ。言葉に現実が引きずられてもおかしくない。悪しき言葉には悪しき現実が、良き言葉には良き現実が引きずられてくる。人を呪う言葉を吐けばそれは我が身にも返り、人を寿げばそれもまた返る。現実を悲嘆する者には更なる深みが用意され、前を向いて努力する者には更なる成長の機会が与えられる――その力があちらとこちらの境界線を飛び越えて、彼女に影響を及ぼさないとは誰にも断言できないのだ。良き言葉でなく、悪しき言葉であれば尚のこと慎重にならなければならないのに。
 ハクは、思慮深い魔女の言葉に、素直に頭を垂れるしかなかった。
「……無用心でした」
 いいさ、お前は冷静を欠いているんだ。と、今度は頭上から柔らかく降ってくる魔女の声は焦燥を抱えるハクの心をしんと鎮めさせるには充分なもので。
 ハクは見えざる魔方陣の中央でひとり佇むしかなかった。

   ◆◇◆

「ちひろ〜ん? ちぃちゃん? ちひちひちゃーん?」
 コメディ番組やドラマのように目の前でぱたぱた手を振って名前を呼んでいるのに、机に頬杖ついてぼ〜〜と宙を眺めている親友は無反応。お気に入りのダッフルコートを脱ごうか脱がまいかと考え込む最近の日課すら忘れ、コートを着たまま椅子に腰かけている千尋の魂は半分以上抜けているようだ。目がうつろである。
 和泉は『だめだこりゃぁ』と心中でため息をついてから、すぐににやりと笑みを浮かべた。触ってみたいと常々思っていた千尋のふにふにほっぺをふにふにと触り始める。手足は自分と同じように細いのに、その頬だけがふにふにして柔らかそうで、常々触ってみたいなぁと思っていたのだ。今やらないでいつそれをやる。やるっきゃない! と和泉は指先でつつく。
 ふにふにふに。ふにふにふにふに。おぉ、これだけ触ってもまだ魂戻ってこない? 筋金入りのぼんやりさんだなぁ、ちょっと珍しいかも。
 和泉の笑みはまさしく『悪魔の笑み』であった。
「って、黙ってればいずみん、好きにして――っ!!」
「やっと戻って来たなぁこんの半死人!」
 し……死んでないよぉ! と千尋は腕を振り上げて抗議するが、その手には今だ手袋がはめられていた。この子、手袋外すのさえ忘れていたのか、ぼけ倒しているなぁ。
「どしたの? なんかあったの?」
 さては寝坊して朝ご飯食べられなかった? それとも宿題忘れてきた? と千尋にのしかかったままカマをかけてみると、さっきの抗議が嘘のようにぱくんっと口をつぐんで沈黙されてしまう。
「うー……そうじゃなくてねぇ」
 夢の中で王子様が出て来たって言ったらどうする? 
 とぼそぼそとのしかかったままの身体の下から続けられ、ある意味千尋にはとても縁遠い気がしていたその『夢見る単語』に和泉は一瞬ほうけてしまったが
「はぁ、王子様」
 なになに夢の中でひとめぼれ? 
 素早く立ち直り机に食いついた。昨日自分の色恋話に食いつかれた意趣返しも多分にあったが、それよりもなによりも千尋のその手の話を聞くのははじめてであったので、野次馬出歯亀根性。
「そんなんじゃなくってぇ、夢の中で助けてもらったの。知らない男の子に」
 助けてもらったのなら『王子様』って言うのかなぁって思って。
 けれども、またもやぼんやりとした妙に反応の薄い千尋に、今日は一日中魂が戻ってこないのだろうなぁと感じた和泉であった。

   【二】

 彼女はその町の猫にとって、特別な存在だった。誰からも愛された櫻の姫と友であり、その地の縄張りを代々受け継いでいた最後の娘である点を除いても、彼女は特別な猫であった。
 昔より、長生きをした猫はあやかしになると言われていた。所謂猫又である。それはただの与太話ではなく、事実でもあった。
 雪白は長生きをした猫であった。この町一番の長寿である。それは野良猫の平均寿命をはるかに上回っていた。あと一日生き長らえていれば、妖力を得ると言う程に。見えぬ右目に宿った『影を覗き見る力』は、彼女の中に芽生えつつあった『力』の発露であったのだ。
『けど』
 と、声がわりもしていない少年がぽつりと闇の中で呟く。
 彼女はその『力』を得る前に死んでしまった。その一部始終を闇の中から見守っていた彼からすれば、彼女の行為は明らかなる自殺にも思えた。彼女は殺されたのでも、往生したのでもない。自分の意思で死を選んだのだ。死に方を自分で用意したのだ。とある少女と少年の力を借りて、もう一度会いたかった存在を招き寄せたのだ。精霊とは言え逃れ得ぬ『黄泉路』を辿っていた櫻の姫を呼び寄せる為、魂の残り火を煌々と燈し道標として高く掲げ。
『雪白は、きっと――』
 別の生き物になるのが嫌だったのだろう。大好きな櫻の姫が知らぬ『別の生き物』に自身が変化するのが嫌だったのだろう。彼女は彼女のままで死にたかったのだろう。その気持ちはわかる気がする。
 そうはわかっていながらも、少年はうつむき唇を噛みしめた。うつむいた先にはぽっかりとあいた暗い闇しかなかったけれど。
 僕だって雪白が大好きだったのに――雪白の子供が大好きだったから、とその白い姿を思い描く。
 思い起こせば、彼女が姿をあらわしてくれたのは、彼女の何番目かもわからぬ子供――又は孫、曾孫かもしれない――を拾ったのが自分であったからだろう。
 塀の上に突如現れた大きな年老いた白い猫と、自分が拾い上げたグレーの子猫とが身内だとは思いも寄らなかったが、手の中で嬉しげにじたばた手足を動かし、みぃみぃと鳴いた様子にピンと来た。その仕草が可愛らしくて、子猫を頬にすりつけると、今度は頬をぺろりと舐めてくれた。その様子を見守るようにしてから白猫はひとつ頷く仕草をし、悠然と白いしっぽを揺らしながら塀の向こう側に消えて行ったのだから。
 それからちょくちょくと様子を覗くかのように彼女の姿を見かけ、最後には足にその体を擦りつけてくれるまでになった。自分と子猫の関係に合格点をくれたようで嬉しかったのを覚えている。
『雪白』
 その名前を知ったのは、この、暗くて冷たくて時間も止まったような『ここ』に来てからだ。
 猫の色々を知ったのも『ここ』に来てからだ。
 彼女がとてもとても櫻の姫を好きであるのだと知ったのも『ここ』に来てから。
 彼女のことを知ったのは、『ここ』に来てから――……

   ◆◇◆

「あぁもうヤダなぁ」
 千尋は足元の石を蹴っ飛ばし、ぶうたれた。その仕草で、怒りと苛立ちにまかれて無造作に突っ込んだランドセルの中身ががちゃがちゃと音をたてる。
「仕方ないよー、最後は多数決だったんだし」
 こー言うのを年貢の納め時って言うんだよねぇ、と和泉が妙な慰め方をする。千尋は更に肩をがっくりと落とした。
「もう、誰よぅ、わたしの名前なんてあげたの」
 千尋の小学校では、三学期にクラスの音楽発表会がある。今日の『かえりの会』でその歌の説明をする役を決めたのであったが、会が終わって結果が出てみると、見事千尋がその役を押しつけられてしまっていたのだった。転校生であるのになんてついていない――いや、転校生であるから悪目立ちしてしまったのであろうか。とにもかくにも、千尋のクラスの説明係りに千尋がおさまってしまっていた。
 はじめは立候補で役を決めようとした。しかし誰も名乗り出なかった為、教室の端からひとりずつ推薦人の名前をあげさせたのだ。はじめのうちは消極的であるのかそれともうらまれたくなかったからなのか誰もが『考えつきません』と答えていたのに、ふっと『荻野千尋』の名前が出てからは誰もがその名前をあげはじめた。
「こんなの公正じゃないじゃない!」
 さすがの千尋も『これはあんまりだ。こんな方法でこんな役どころを押しつけられるのは不本意だ』と噛み付いたが、結局多数決で押しきられてしまい今のぶうたれ顔になっている。
「あたし、言いだしっぺのヤツの名前言ったんだよ。なのにだーれも名前言ってくれなかった」
 千尋の名前を最初に言い出した男子の名を、腹立ちを込めて推薦した和泉への賛同者は誰もいなかった。なにせ、いつでもぶすりとした体の大きな男子であったからだ。すぐに切れる乱暴者であるのだし。目をつけられるのはたまらない。それが皆の本心であったのだろう。歌が好きではない点と、いつもつるんでいるスネ夫がいない点を除けば現代版ジャイアンだと評したのは誰であったろうか。それを聞いた千尋も無言で頷いて同意したものだ。
「う〜〜。仕方ないと言えば仕方ないけどー」
 まだぶつぶつぶつぶつと口先で呟きちっとも『仕方ない』とは思っていないであろう千尋の横顔をこっそり見やり、和泉は少しだけほっとしていた。朝のあの魂の抜け具合を考えると不安で仕方なかったのだ。あのままぼんやりと歩いていたら車に突っ込むとか池に落ちるとかしそう。この子、あたしの家の前で別れてからちゃんと家まで辿りつけるのだろうか、と心底心配だったのだ。原因はどうあれ、魂がちゃんと元に戻っているようならその心配はないのだし、まぁいいか。そんな具合である。愚痴ならいくらでも聞いてあげるし、役への協力だってするのだし。
 対して、大役を押しつけられた千尋は本気でどうしようかと考えていた。こんなにも心がぐちゃぐちゃしているのにこんな苦手な役押しつけられちゃって。考えたいことがいっぱいあるのに。シオンやユキシロのことや――あの、少年のことを。あの夢が『夢』と言いきってしまうにはあまりにも生々しかったから。自分が狂っていないのだと思い込みたいだけなのかもしれなかったが。
 千尋は足元の石をもうひとつ、かつんっと蹴っ飛ばしたのであった。

   【三】

 誰もいない体育館は、そのだだっ広さとあいまってとてつもなく寒かった。
 二階部分にずらりと並んだ柵の向こうにある窓の外は曇天で、雪でも降っているのだろうか、視界がやけに曇っていた。
 冷たい床は底冷えして、足の指をじんじんとさせる。どこか窮屈な体育館シューズであれば尚のこと突き刺さる冷たさだ。
 ボールから窓を守る為にかけられた緑色のネットは全て端に寄せられ、幾重にも折り重なり団子になっていた。
 広々とした体育館の床には、色とりどりのビニールテープが貼り付けられている。バスケット・ボールの陣地を描いた物や、生徒が並ぶ為の基準となる線だ。そのところどころが剥がれかけていて、妙にだらしなく汚らしい。
 ワックスだけは厚く塗り込められているのか、てかてかと天井や照明の光を映しこんでいる。
 そんなものを徒然に眺めやりながら、千尋は体育館の前部分にしつらえられた壇上に腰掛け、足をぶらぶらと揺すっていた。踵にあたる壇下は引き出し形の収納スペースになっていて、踵を跳ね返す感触が妙に不安定だ。スチール椅子がぎっしりと入っているのだろうに、とても軽い反動で跳ねている。
 とつん とつん とつん、と千尋は踵でリズムを刻み続けながら、ぼぅと反対側の壁にかけられた時計を眺めた。可愛げもなにもない、銀色の縁取りがあるアナログ時計。黒い短針と長針が数字の間を細切れにしていた。
 どうして誰もいないのだろう、今日は発表会の練習日なのに。舞台で歌えるチャンスなんて数回しかないのに、どうして誰も来ないのだろう。
 そこまで考えて、必然的に、押しつけられた仕事まで思い出してしまう。このクラスの人達、だらしなさ過ぎだよ、まったく。ぶつぶつと呟いてしまう。
 舞台の端に置きっぱなしにされた黒いグランドピアノを見やれば、冷たく鈍い光を弾いていてことさらに冷たく感じられる。緞帳だけが分厚く濃い藍色であたたかそうであったが、今は陰気なだけであった。
「荻野さん、どうしたの?」
 身体を半分捻ってグランドピアノを見ていたので、千尋は反対側からそう声をかけられ、慌てすぎて壇上から転げ落ちそうになってしまった。
「え?!」
 まずはじめに、靴紐の長さがきちんと揃った、丁寧に蝶々結びをされた体育館シューズが見えた。上へと辿っていくと、同じ年頃の少年だとわかった。ジーンズに暖かそうな栗色のセーターを着た、細い身体つきの少年だった。
「あぁ、僕、そこの音管室にいたから」
 驚かせたならごめんよ、とその少年は謝る。良く洗っているのであろう、古びてはいるが清潔な体育館シューズと同じ、優しく清潔な笑顔だった。
「一組の、田中 俊一。荻野さんって、ほら、転校生だったろ? ここ、あんまり生徒数ないからさ。学年のほとんどの名前は覚えてるんだ」
 ほどほどの間隔で、俊一も壇上に腰かける。壁にかけられた時計を見上げて、かすかに眉をひそめたのがわかった。
「荻野さんのクラスの人達、来ないね。次、一組の順番なんだけど」
「うちのクラス、あんまりやる気ないみたい」
 説明係も嫌な決め方で押しつけられちゃったし。
 俊一が穏やかに話しかけてくれるので、千尋も思わず本音がぽろりと出てしまった。それに、どこかで彼を見たような気がしてならないのだ。
「荻野さんもなの? 僕も説明係。立候補したわけでもないのに、多数決で押しつけられちゃってさぁ」
「わたしもなの! ここの係の決め方っていつもこうなの?!」
 前の学校だったら、紙に書いて推薦して多数決とかだったのに、ここでは名前を上げていくんだもんなんかやだなぁと千尋がぶつくさとうめくと、俊一が困った顔になった。演技ではないように思えて、千尋は少しばかり罪悪感を抱く。まったくの初対面の人になに言ってるのだろう、わたし。クラスメイトの悪口なんて気分の良いものじゃないのに。
 そう内心で千尋が反省しているところに、俊一はなにかを考えこむように腕を組んだ。まるで名探偵の考察ポーズのように千尋には思えた。
「う〜ん、そう言われれば、紙に書いて多数決の方がまだ公正な気がするなぁ」
 今度あったらそれを提案してみよう、と俊一が頷く。千尋のいたたまれなさを感じとってさり気なく話の流れを変えてくれた気がした千尋は、ただ俊一の顔を見上げるしかできなかった。
「でもさ、ちょっと嬉しかったんだ」
 人前で自分ひとりだけ喋るなんて恥ずかしいけどね、嬉しかったんだ。と続けた俊一の顔には笑顔が。
「嬉しい?」
「だって、クラスには他にいっぱい人がいたのにさ、僕に是非やって欲しいってことだよ。なんか、僕を認めてくれたんだなぁって」
 だってほら、大切な役目だろ? クラスでひとりしかできない役目だろ? 俊一は妙に嬉しげだった。
「だからさ、荻野さんも頑張りなよ? 『嫌な役を押しつけられた』って後ろ向きに考えてたら勿体無いよ」
 俊一はとびきりの笑顔で笑った。寒くて仕方がなかった体育館があったかい場所であるような錯覚さえ抱く、純粋な少年の笑顔だった。千尋もつられたように唇で笑みを刻む。
「うん、そうだね。前向きに行かなきゃね――」

   ◆◇◆

 チィチィチィ チッチッチッチッ
「うんにゃぁ……??」
 頬をつんつんと突かれ、ついでしゃくしゃくとした肌触りの物を押しつけられて、千尋は半覚醒状態でそんな間抜けな声をあげていた。右の頬が妙にくすぐったく、あたたかくて柔らかくて香ばしい匂いと感触がする。
「るきー??」
 ぼんやりとした視界にうつるのは、はっきりしっかりと鳥の顔で。つぶらな黒い眸をぱちくりさせ千尋の顔を覗き込んでいる。カーテンの隙間から零れている光は朝のましろい色だ。
「あさー」
 右手をばたばたさせて頭上の目覚まし時計をひっつかむと、じーと時計の針を見る。八時十分。
「はちじーじゅっぷーん」
 ……遅刻? の文字がぼんやりと頭に浮かぶけれど、同時に『きょうはどようびーでおやすみー』とも思うわけで。週休二日制万歳、である。
「でもめずらしー。こんな時間まで寝てるなんてー」
 少しばかりはっきりとしてきた頭で考えると、確かに珍しい。ルキが部屋にいついてから、この早起き鳥の為に早起きが定着していたのに。今日は八時まで眠っていた上に、まだ頭の奥に眠気がたまっている。まるで変な夢を見て疲れが取れていないかのように。
 そんなぼんやりとした千尋を催促するように、ルキは諦めずにつんつんと千尋の頬をつつくのを再開するのであった。

   ◆◇◆

「どうして僕だったのだろう」
 暗く冷たい場所で少年は呟く。命のあたたかみなどひとかけらもないような――そんなものの存在など許さぬとばかりに深く暗いその空間で、その声だけは仄かにあたたかかった。
「どうして僕でなければならなかったのだろう」
 どれだけ考えても永遠に答えは出ないだろう問いに宿る疑問は、深く暗い色を帯びていたけれど。
「どうして僕が……」
 ――どうして、僕が。

   ◆◇◆

「どうして彼女だったのでしょう」
 柔らかな光がともる暖かな部屋で、少年が呟く。
「どうして彼女でなければならないのでしょう」
 どんなに考えても、答えなど見当たらない謎。
「どうして彼女が……」
 ――どうして、彼女が。
「さぁ、あたしにもわからないさ」
 巨頭の老婆が呟く。
「けれど、これは確かにおかしい。それだけはわかる」
 砂糖に群がる蟻のように彼女に群がる常ならぬ現象。その原因が果たして彼女にあるのか、それとも他者にあるのかすらわからないけれど、ただ現状が常ではありえない物であるとその空間にいる者達にはよくわかっていた。
 どうしたらよい? どうしなければならない? まだその答えはかけらほども見つからなかった。

   ◆◇◆

「わ、お母さん、なにそれ?」
 千尋は、学校が休みの土曜日いっぱいを友達の家で過ごしてから帰宅して、まずそんな言葉を吐き出していた。ただいまの挨拶よりも先にそれが出てきたのだ。それほどにショックな物体が目の前にあった。
「なにって、あんたの服よ」
 そうしれっとのたまう母親の手には、およそ今まで自分とは縁がみじんこほどもなかった、ひらひらふりふりのピンク色のワンピースが存在していた。
 柔らかそうなピンク色の生地をたっぷりと使ったスカートの裾にはつやつやした緑色のリボンが縫いこまれてあり、細かな白いレースがしつらえられていた。どこをとっても『ロマンチック』とか『夢見る少女』とかの単語が似つかわしい一品。
「開いた口が塞がらないってのはまさに今のわたし」
 なんぞと冷静に自分つっこみをしてしまう。または、この家にはわたし以外の女の子が住んでいただろうか、それとも知らない間にパラレルワールドに……と真剣に心配になってくる。なにを考えてそんなものを買ってきたのだろうか。お母さんだってこんなひらひらふりふりの少女趣味な服、好きじゃないはずなのに。ピアノの発表会か七五三じゃないの、これじゃぁ。とりあえずピアノは習ってないし、七五三も済んでいる。
 そんな思考方向を顔の方が言葉よりも雄弁に物語っていたらしい。あきらかに気に喰わなげな娘に、悠子はむっとした。
「珍しいあんたの晴れ舞台用と思って大奮発して買ってきたのに、なに、気に喰わないの?!」
 逆切れもいいところの母親の言葉と態度に、千尋はぷちんっとどこかが切れたのを感じた。主に、頭の中のどこか、だ。
「いやー! そんなの着て行ったらなんて言われるかわかったもんじゃないよー!」
 絶対にいやーっ! 
 と叫んで、千尋はだだだっと階段を駆け上がり自室へと駆け込んだ。バタンッと後で母親に怒られる勢いで閉じられたドアに、部屋の調度品ががたんっと大きな音を経てて抗議する。
 信じられない信じられない信じられないよー!
 切絶な心の叫びをあげている千尋の耳には家具達のそんなささやかな抗議は届くはずがないのだが。
「るきー、信じられないよー、あの服―」
 部屋に駆け込むと、ちょうど帰ってきたばかりであるのか、ルキが窓の外を旋回していた。乱暴な手つきで施錠をはずし、いつものようにルキを迎え入れる。布をかけていない鳥カゴに一直線したルキは、水をちょんちょんとつついている。
 千尋がカバンを投げつけるようにベッドに降ろし、そのままそこに突っ伏して今更の如く茫然と憤然の気持ちを器用に同時に抱えていると、満足するまで水を飲み終えたのかルキがぱたぱたと羽音を響かせてベッドへと舞い降りた。ぼんやりと開けた千尋の目の前をルキがてんってんってんっと横切っていく。
 千尋の気持ちなど知らぬげに、右から左へとお尻をふりふり横切っていくルキを見送って、
「あ、同情もしてくれない」
 しくしく、ルキまで見捨てるーとぼふっと枕に顔を埋める千尋はどこからどう見てもおかしな子であった。
 だいたいあのびらびら服、どこから見つけてきたんだろう、どこから? そう言えば複合センターの開店が過ぎても埋らなかった空きテナントに服屋が入ったとクラスの子に聞いたけれど、まさかそこからだろうか。けど、そんなテナントにはあのお母さん自身近寄りそうにないのに。あの人はさっぱりとシンプルな服を好むのだし、わたしだってそうだし。
 それ以上に、たかが校内の発表会の、たかが説明係、そんな気負った衣装でやるもんでもなし。男子に後々までからかわれるのがオチである。
「絶対返品! 断固返品!」
 千尋はベッドの上で握りこぶしを作って断固戦う意思を固める。今後の学校生活を平穏に過ごす為にも頑張らねば。そんな千尋を、ルキは不思議そうに右に左に首を傾げて見つめていた。
 子供にもいろいろと難しい問題があるようであった。

   【四】

「荻野さん、よく似合うよ」
 千尋はそんな言葉をかけられて後ろを振り返った。それが誰だか声だけでわかり、顔を真っ赤に染めながら。
「田中君」
 目の前には、栗色のセーターにジーンズ姿の俊一が。そして『よく似合う』の言葉が何故なのかと自分の姿を返り見て千尋は言葉を失った。それは、夕食後に母親とぎゃんぎゃん言い合いをして返品を約束させた、あのピンク色のワンピースであったからだ。裾に縫いこまれた緑色のリボンもレース飾りもそのままの。それを着て、俊一とはじめて会った体育館で、同じように壇上に腰かけていたのだ。顔だけでなく耳まで真っ赤になる自分を自覚する。
 レースがぐるりとしつらえられたスカートの裾から、棒切れのような自分の足が出ているのがとてつもなく変に感じられてならない。とことんとこんな可愛らしい服は自分には似合わないのだと思い知らされる。俊一の言葉を疑うわけではないけれど、自分自身としてはそう思うのだから仕方ない。
「あれ? どうしてこれ……」
 それ以前に、このひらひらの服を着てわたしは登校したのだろうか。いや、そんなレベルではなく、いつの間にわたしは体育館に来たのだろうか、そのあたりの記憶がまったくなかった。
「わたし、いつの間に体育館に……」
 窓の外を見やれば曇天。今にも雪が降りそうな空。春色をふりまくワンピースには似つかわしくない、掻き曇った空だ。
「うん、荻野さんは体育館に来たわけじゃないから」
 前にもまったく同じ色の空を見たことがある、とぼんやり考えていると、俊一がそんな言葉を告げた。
「来たわけじゃないって……」
 どう言う意味? 
 突然、背後に立つ俊一がただの子供ではないのだと気がついて、千尋は傾げかけた首を押しとどめ、そのまま固まってしまった。問いかけの言葉も喉の奥で塊になってしまう。振り返ることも、壇上から飛び降りて逃げることも叶わなかった。身体が無意識に凍りついてしまっていた。
 どうして田中君を同級生だと思ったのだろう、こんなにも『普通の子供』ではあり得ない雰囲気を纏っているのに。後ろに立たれただけで、背筋がぞくりとして身体が凍りつくほどの冷たさを纏っているのに。
 あぁ、でも。
 千尋はごくりと息を飲み込みながら思う。肌が自然に粟立つ冷気は確かに色濃いけれど、それ以上に暖かいモノも確かにある。この人の本性は本当に優しいのだとわかる。優しさや穏やかさを真似ることはできるかもしれないけれど、彼の持つそれらは正真正銘彼が持っている特性であるのだとわかるのだ。彼は優しい。きっと、今まで自分が出会った人の中で――誰よりも純粋に優しい。もしかしたら、夢の中で助けてくれたあの竜の少年よりも――……


 突如体育館の中央で白い風が舞い上がった。重い緞帳をばたばたと揺るがせたその風は、巻き起こったのと同じ唐突さで沈黙をした。風が止んだそこには千尋の考えに呼応したかの如く、その、竜の少年が現われていた。
 風の最後のひとかけらが肩の上で切り揃えられた少年の黒髪をゆるくなぶった。真っ直ぐに切り揃えた前髪の下から覗く目は鋭い光を宿してひたと目の前の少女とその背後に立つ少年を見据えている。
 千尋には見慣れぬ白い着物から伸びた彼の白い手はかたいこぶしを作っていた。かすかに震えるそのこぶしは、まるで手綱を解かれるのを待ち構えている獣であった。けれども、千尋はその少年を真正面からとらえ、紫媛や雪白の時のように彼が怒りにまかせて俊一を消そうとしているわけではないのだと悟っていた。
 それと同時に、竜の少年の登場により、この体育館自体がやはり『夢』であるのだと千尋はようやく理解ができた。なぜなら、竜の少年――ハクは夢の中でしか会えない人物であるから。そして、彼が出てくるとなれば、この『夢』がただの『夢』でもないのだと、もう三度目の異常事態を経験すれば必然的にわかろうものだ。背後の俊一が優しい人だとはわかるものの、心は自然に逃げ出そうとしている。けれども身体はなぜか射竦められたように動かなかったのだから。
「彼女から離れろ、幽鬼め」
 千尋にかわって動いたのは、ハク。
「ゆうき……?」
 聞き慣れぬ言葉に、千尋が小さく言葉を口にする。
「そうだ。その者は『幽鬼』――死にながらもこの世にしがみついている者だ」
「僕は『幽霊』なんだ。恐がらせてごめんね」
 ハクの物言いは千尋には難しすぎたのを察したのか、ハクの言葉を引き継いで俊一が口を開いた。
「幽霊?」
 幽霊であるのならばこの冷たさの説明もつく気がする。けれど、それにしてはおどろおどろしい雰囲気など微塵もなく、にわかには信じ難くて千尋は困った。本人が認めるのであればそれは事実であるのだろうし、この異常な『夢』に出て来るとなれば尚のこと事実なのだろうけれど。
「彼女になにをするつもりだったんだ」
 答えろ! とハクが一歩間を詰めながら押し殺した声で静かに問いただして、千尋は茫然と困惑の海に溺れていたそこからはっと我に返った。
 お兄ちゃんを止めなくちゃいけない。田中君はわたしになにもしてない。ただ話していただけなのだから……。
 千尋はその思いが胸の中いっぱいに渦巻くのを感じ取っていたが、唇は凍りついたままだ。
 この白い竜はいつでもわたしの真正面から『怒り』を静かに燃え立たせているけれど、それはいつまでも慣れられるものではないから。けど、田中君は優しい人だとわかるから、お願い、そんなに怒らないで――お兄ちゃんも優しい人だとわかるから、もう、怒らないで――……わたしは無力だ。どうして声がでないのだろう。止めたいのに止めたいのに止めなくちゃいけないのに……
「怒らないでよ。僕は荻野さんになにをするつもりもないんだ。櫻の姫や、雪白はどうなのか知らないけれど」
 ハクの静かな挑発など知らぬげにさらりと言い切った俊一の言葉に、ハクは全身がざらりと怒りにまかれるのを感じた。櫻の姫と雪白、それが誰でありなにをしたかをハクは十全に知っており、そのふたつの存在を知っておきながら『なにをするつもりもない』とぬけぬけと告げる目の前の子供に怒りが湧いた。けれど、ハクはこぶしを更に握り締めることでそれを捻じ伏せる。怒りに目を曇らせていては真実は惑うばかりであろうから。隠された真実を見なくてはならない、例え怒りを宿していても――その怒りに身を任せてすべてを引き裂いてしまいたくとも。
 それに、言葉をなくしてこちらを見ている千尋の目は、あの、雪白へと立ち向かおうとしていたおのれへと向けた、あの時の目と同じで。その目を見てしまうと冷水を浴びたように心のどこかが急速に安定をとりもどした気がする。彼女はいつでも信じている。理解ができぬであろう現象へと引きずり込んだ尋常ならざる者を。そして、こんな――おのれを。弱くて強い千尋。それは少女特有の弱さであり強さなのか、それとも彼女が彼女である為なのか。ハクにはよくわからなかった。
「荻野さん、困っていたからさ。頑張って欲しかっただけなんだ」
 発表会の説明係、頑張って欲しかったから。
 と、どこか寂しげに告げる俊一は、やはり怖い雰囲気はすこしも感じられなかった。
「発表会――?」
「うん、そう。前に言ったよね? 荻野さんと同じ方法で、僕も説明係に選ばれたって。それでも嬉しかったんだって。僕は――それをちゃんとできなかったからさ、荻野さんにはやり遂げて欲しかったんだ」
 方法はどうあれ、まるで『自分』の存在を認めてくれたみたいで嬉しかったんだ。とても楽しみにしていたんだ。でも僕にはできなかったから――荻野さんには頑張って欲しくて。
「ごめんね。まるで、荻野さんを僕の身代わりにしてるみたいな言い方だけど、頑張ってね。それだけ伝えたかったんだ」
 僕は僕の人生を全部演じ切れなかった。カーテン・コールにさえ出られなかった親不幸者なんだ。お父さんもお母さんも、僕が大役を任されたんだと言ったらとても喜んでいたのに。その笑顔を涙にかえてしまった。後悔してもしきれない。
「僕は早期撤退の役者なんだ。それはとても残念なことで。だから、荻野さんには頑張って欲しくて」
 頑張って欲しくて。精一杯生きて欲しくて。櫻の姫や雪白のように、漫然と死に向かう存在に触れて闇の世界に傾いては欲しくなくて。同じ場所にいる存在でもそう思っている者だっているのだと知らせたくて。
 千尋は胸がいっぱいになりそうで、喉元まで込み上げた嗚咽を必死に飲み込んだ。きっと田中君は幼くして死んでしまったのだ。はっきりとは語らないけれど、きっと、今後ろに立つその姿のままで。そんな年で死んでしまったのだ。なのに、恨み言を言うでもなく、一面識もないわたしを励ましてくれている。なんて優しいのだろう。なんて哀しいのだろう。人によっては愚かと評するかもしれないけれど――……。
「うん、わたし、頑張る」
 背後に立つ俊一の顔は振り返らないと見られない。けれど千尋は真っ直ぐ前を向いたまま、そう言いきった。今後ろを振り返る、それは彼の望みに反する気がしたから。優しい彼を裏切らないでいられるなら、嘘でもなんでも口にできそうだった。嘘にも色々あるから。そんな嘘なら――きっと『優しい嘘』になるだろうから。
「頑張る……からっ」
 嗚咽が漏れそうだった。どうして彼が自分の望みを自分で叶えられないような状況にならなければならなかったのだろう。そう考えると、可哀想で。神様は理不尽だ。どうしてこんな優しい人が死ななければならなかったのだろう。
「荻野さんは大丈夫だよね。だって、あのお兄ちゃんみたいな人もいるし」
 まるで射殺されそうだよ、僕。
 と、おどけた口調で肩をすくめた俊一の様子に、ハクは逆にこぶしに入れていた力をゆるゆると解いていた。彼は本当に千尋を害するつもりはないらしい、それがようやくわかって。
「あのお兄ちゃんを信じなよ、荻野さん」
「お兄ちゃんを……?」
「あとね、櫻の姫も雪白も、荻野さんを嫌いなわけじゃないんだ。それも知っていて欲しい」
 櫻の姫と雪白を見ていた僕はそれを知っているんだ、と笑った俊一の姿がみるみる薄くぼやけて行く。その淡い姿を見たハクも、思わず問いかけずにはいられなかった。俊一が優しい幽鬼であると、ハクにももうわかっていたので。
「行くのか?」
「行きます。僕はあまりにもここに留まりすぎたから。櫻の姫と雪白のあとを追ってみようと思って」
 心残りはまだあるけれど、こうしてひとつでも願いを告げられるチャンスがある幽霊なんてあんまりいないんだから、これ以上は高望みってもんだよね、と俊一は小首を傾げておどけてみせた。
「迷わず行きなさい」
 そんな俊一に向けて、ハクは解いた右の手の平を差し伸べた。その手の平から薄い光の欠片が次々と生まれ、体育館中央から壇上へと舞い上がる。まるでそれは、風に舞った櫻の花びらにも似て。幻想的で美しく、柔らかくてあたたかかった。
 守護する川を見捨てた情けないおのれよりも遥かに重い使命を持っていてもおかしくない目の前の少年が、なにゆえこんなにも年若くて死なねばならないのか、その不思議に戸惑いながらも、ハクは彼を送る為になにかをしてやりたかった。生も死ももしかしたら誰かの気まぐれで決められているのではないか、そう思いながらも。なれば、『見えざる使命』を捜して足掻いているおのれはなんと滑稽な。そんな自嘲の笑みを噛み殺しながら。
 隣を舞い飛んでいく薄い光の筋を追って、千尋は背後を振り返った。薄く消えかかった全身を光に取り囲まれた俊一の姿はまさしく『幽霊』そのものであるのだとわかったけれど、『ありがとう』――口の動きだけで述べる俊一の顔は、とても優しく満ち足りたものだった。
 千尋はその姿をしっかりと見つめ、精一杯笑った。涙が滲みそうな笑顔であったけれども、笑った。
「ありがとう」
 励ましてくれて、ありがとう。わたしから贈る最後の言葉。
 千尋は小さくそっと呟いた。