【04】
願 う





   【一】

 闇は闇でも色々な『色』があるのだと、千尋はその碧い闇を見上げて知った。『闇』と言えばひたすらに真っ黒な、色も無い、冷たく暗い世界を想像するけれど、その世界も『闇』であるのだと感じる。
 光もないのに、薄く明るく柔らかな碧なのだとわかる。
 なにもないのに、どこかゆらゆらと揺れている。
 まるで、光が届くぎりぎりの海中。
 風もないのに、頬を撫ぜる感触がある。 
 ふと、海水には大量の金が含有されているとの話を思い出した。たしか、なにかの本の小話として載っていたのではないだろうか。その金を抽出する方法さえ発明できれば、大地を削って何トン中の何グラム、と言う気の遠くなるような数字を求めるよりも大量の金が簡単に手にはいるのだと俗っぽく説明されていた。地面の下にある金が海中にあるのは何故だろうと考えれば、雨が土中に染み込んで濾過され川に流れ、やがて海へと辿りつくその過程があるのならそれもおかしな話ではないかもしれない。あくまでその『過程』も、千尋程度が考える『想像』であったが。
 よくよく考えれば、微細な金があの青い海にたくさん含まれているのはなにやら不思議であったけれど。海はあくまでも透明や蒼や碧であり、けして金色ではなかったから。それでも金があると言うのなら、他の物質も海中には存在しているのだろうか。例えば、鉄や銅や――銀。そんな物質も。
 千尋は碧い空間をゆぅらりと裂き、目の前に現れ出でた白銀色の大きな物体を見上げて、海中の白銀を全部集めたらこれくらいになるのだろうかとぼんやり考えていた。その物体はあの夢の中の竜。ゆらゆらと揺れる碧い闇に鬣をそよがせているさまは、まるで水の主のようだ。犬に似た大きな顔にある鼻の横からにょいと伸びた二本の髭が、揺れる空間にそってゆらゆらと動いていた。表情など読み取れるはずがないのに、どこか嬉しそうだと思わずにはいられない。
「今日の夢は綺麗だね」
 もう不思議な夢も五度目だ。それに、目の前に存在しているのは、穏やかな翡翠色の瞳。はじめてこの竜を見た日のあの目を思い出せば、なんと穏やかなのだろう。こちらにもそんなことを言えるだけの余裕ができようものだ。知らず浮かぶ笑みを千尋は不思議に思いはしなかった。
 手を伸ばしてみると、すり、と竜が鼻面を押しつけてきた。しっとりと湿った鼻が手の平をくすぐって、千尋はくすくすと笑った。まるで本当に犬と遊んでいるみたいだ。犬にしては大きさが尋常ではないけれど。ひなたぼっこしている動物の匂いまでしてきそうな錯覚すらする。なんとも言えないいい匂いだと千尋は思った。胴体には鱗がびっしりとあったが、頬に擦りつけられている竜の顔には短くて柔らかい毛が生えていて、なんともくすぐったい。
「この夢を作っているのは、竜のお兄ちゃん?」
 竜は小首を傾げて、長い睫毛をぱちぱちとさせて瞬きをした。
「今までで一番綺麗な夢」
 すると、竜は嬉しかったのか、長い身体の向こう側でゆらゆらと楽しげに尻尾の先を揺らしているのが見えた。ごろごろと猫が喉を鳴らすような音まで聞こえる。翡翠色の目を細めて、こちらの顔を覗き込むように首を動かしている。まるで遊んで遊んでとねだる子犬だ。翡翠色の中に金色の光が瞬いて見えた。
 その様子がおかしくて、千尋はさらにくすくすと笑い声をあげた。その笑い声に反応するかのように、そこここでパチパチと小さな泡が弾ける音がして小さな光が明滅する。まるで炭酸ソーダの中に迷いこんだようだ。頬でパチパチと泡がはぜる感触がくすぐったかった。その泡にあわせて竜の姿がふわりと掻き消え、千尋が目をぱちくりさせている間に竜はあの少年へと姿を変じさせていた。
 押しつけられていた鼻のかわりに千尋に触れていたのは、その少年の両手で、思わずやわりと包み込まれた自分の両手をぽかんと見つめてしまう。学校の男子にそんな風に手を握られたこともなかったので、とても珍しいものを見る心地だ。しかも、包み込む手は白くて少しばかりひんやりとしているのにそれでいて柔らかいのだからその矛盾が不思議でしょうがなかった。
「私の名前は、ハクと言うんだ」
「……ハク?」
「そう、ハク」
「白い竜だから、ハク?」
 そう問い返すと、ハクは少しばかり困った顔で笑った。
「そうではないけれど。それでも構わないよ、そなたが覚えていてくれるなら」
 すると千尋は、その答えによりも、ハクの困った笑みに目を丸くしてしまった。思わずハクも笑みを消して困った表情を更に深くしてしまった。
「どうしたの? それではやはりおかしい?」
「えぇと、そうじゃなくて。名前はそれでもいいんだけど……」
 ハクはずっと怖い顔ばかりしていたから、笑うなんて思いもしなかったから。
 と、千尋は段々と顔をうつむかせてもちょもちょと口先でいい訳を。
「あぁ、怖がらせてしまったね」
 ハクは千尋の手を包み込むようにしていた両の手の平に力を込める。『怖い』――そんな言葉が千尋の口から出てくるほどに自分は恐ろしい顔をしていたのだと――今更ながらに思い知らされながら。
「私は余裕がないね。そなたを怖がらせたくなどなかったのに」
「ううん、違うの! ハクは悪くないよ!」
 だっていつでも助けてくれたもの。シオンからもユキシロからも――あの田中君からも守ろうとしてくれていたの、知ってるもん。
 千尋は弾かれたように上を向いて必死に言い募った。自分を守る為にあらわれてくれたハクを自分の不用意な言葉で傷つけたのではないかと思ったら胸のあたりが苦しかった。けれども、目の前にあるのは、不思議な翡翠色の瞳。それはあの白い竜と同じ目で、けれど今は少し違う色を宿してみえた。
「ハクは怖くない。怖くないの」
 重ねて何度も否定すると、翡翠色の瞳がふっと和らいだ。それで千尋は『少し違う色』が『恐れ』にも似た色であったのだと気がつく。ハクはなにを恐れていたのだろう、それがどうしてわたしの言葉で消えていったのだろう……その謎が千尋に残ってしまったけれど。
「ありがとう」
 ふわりと微笑まれる。困った色など微塵もないその笑みに、千尋はまたもや驚いた。ありがとうなんて言われることを言ったつもりはなかったので。
 千尋は口をぱくぱくと開いてハクを見つめていたけれど、なにも言えそうになかったので仕方なく口をぱくんと閉じた。
「それにしても、どうしてそなたはここに来てしまったのだろうね?」
 小首を傾げたハクにそんなことを今更のようにさらりと問いかけられたので。
「どうしてって……ハクが呼んだんでしょ?」
 そうじゃないとわたしこんな所に来られないよ? と、今度は千尋が困惑する番だ。不思議の生き物であるハクがわからないことが人間であるわたしにわかるはずがないではないか。
「いや、たしかに呼んだのは私なのだけれど、こんなにも簡単にこちらに呼びこめるとは思ってもいなかったから……」
 あまりにもそなたの存在は『うつつ』では希薄過ぎる、との言葉をハクは飲みこんだ。それは告げなくても良い事実であるので。告げても悪戯に千尋を怖がらせるだけだとわかるので。
 そんな想いを含んだ沈黙に、千尋が意を決したように口を開いた。
「あのね、ずっと聞きたかったの。ハクはどうしてわたしの夢に出てきてくれるの?」
 何度も助けてくれたり、今日だって夢に出てきてくれたり。『夢の中の王子様』だって、ただの暇人でボランティア精神に溢れているわけではないだろう。
「理由がいるの?」
「普通はいるよ」
 案外しつこく食い下がってくる千尋に、ハクは少しばかり面白げな気持ちが湧くのを感じていた。真顔で尋ねられた質問は、ハクにとってはとても些細で自然なモノである気がしていたので。
「すこし気になって調べてみてね。昨夜のあの少年のことを」
 ハクがそう言うと、すこしばかり離れた場所の空間がゆらりと揺らいで、そこに見知った光景が現われた。まるで映写機で映し出されたかのようなぼんやりとしたそれに、千尋の肩がおもわずびくりと揺れた。それは、今はもう残骸しかない、櫻の樹。そしてその櫻の根元に佇む、今はもういない猫の姿であったから。
「シオン、ユキシロ……」
 道路拡張工事に巻き込まれた櫻の樹の根元にまで歩道の石畳が敷かれ、大人がふたり肩を並べてようやく歩けるほどの歩道のすぐそばには車道が走っていた。無骨な白いガードレールだけが櫻と車道を遮る全てであった。『とちの木台』に引っ越してきたばかり、通りすがりにその光景を見た時『窮屈で息苦しそう』と感じた記憶が脳裏に甦る。狭い場所に追い込まれながら立っている櫻は好きでそうしているわけではないのに、と哀しくもなった。きっと櫻の方が先にそこで生きていたであろうに、後から来た人間が息苦しい場所に追いやったのだ、と。
 千尋はその物悲しい光景に目をこらした。櫻からほどほど離れたガードレール脇に、枯れた花束がくくりつけられているのを見つけたからだ。子供が好みそうなスナック菓子と甘いジュースの缶が一本転がっている。排気ガスだろうか、それらはどこか黒く煤けて汚らしかった。
「ハク、あれは……」
「櫻の主とあの猫をどうしてあの少年が知っていたのかと思ったら、どうやらあの子はここで死んだらしいんだ」
「死……」
 そちらを向いた千尋の顔が歪むのをハクはただ見つめていた。普通なら関わり合いにならずに済んだ『死』に心を痛めている少女。どうして『過去』が彼女にまとわりつくのかその理由はわからなかったけれど、すでに関わってしまった『過去』との絆をもう断ち切られはしない。それに『彼』は彼女を励ました存在だ。彼の『死』を認める作業は彼女にとっても必要であると思えたのだ。
「でも、田中君、ちゃんとお空に行けたからいいんだよね」
 儚いながらも笑える彼女は、とても弱くて――反面とても強くて。ハクは千尋が浮かべた笑みに、無意識に緊張させていた心のもう一本の糸がゆるゆるととけるのを感じた。『死』を真剣に考える、千尋の心根が嬉しかった。
「でね、それでもやっぱりここまでしてくれる理由がわからないんだけど?」
「そなたが心配だったから、ではダメ? そなたが元気でいればいいといつも願っているだけなのだけど」
 なかなか周囲がそなたを放っておいてくれないから大変だけれども。その言葉も飲みこんだハクであった。かわりに、幼い少女の心を掻き乱すであろう言葉だけを簡単な言葉で提示してみる。さて、どう反応するのやら。
「……」
 千尋は間抜けにも口をぽっかりと開けたままハクの顔を凝視するばかりであった。目の前の少年に『心配される』理由が千尋にはとんと見当つかなかったので。ハクはその間が抜けた千尋の表情に毒気を抜かれてしまった。 
「本当だよ。ただ、それだけ」
 本当にそれだけなのだから、と呟く言葉は彼女に届くのだろうか。苦笑めいた表情で告げる言葉に説得力は半減されるのではないかと頭の隅で考えながらも、千尋と話をしているだけで表情がころころと変わる自身を不思議に感じてもいた。自分は本来、こんなにも多彩な表情や感情を持っていただろうか。遠い過去も、近しい昔も。目の前の少女を少しばかり困らせてみたいとか考える思考方向なんて持っていなかった気がするのに、どうにもからかってみたくなる。
「……」
 言葉を重ねても、どうやら千尋には理解ができていないらしい。目も口もぽっかりとあけたまま千尋は固まってしまっている。
 ハクはふと、言葉で駄目なら触れ合えばわかるのだろうかと考えた。両手をぎゅっと包み込んでいるよりも、もっと深く、もっと柔らかい箇所で――心を押しつけるようにしてみれば――
「?!」
 千尋は、ハクがゆっくりと頬を傾けて顔を近づけ、唇を重ねてきてからも暫く目をまん丸くして固まっていた。なにがどうなっているのかも考える余裕があるどころか、完全に思考が止まってしまった。
 しっかりととらえられた両手に、唇に感じる熱に、なにがどうなっているのかわかるようなわからないようなわかるようなわからないような――……


「ぶふっ?!」
 千尋は唇に感じる変な感触に目をぱっちりと開ける。その覚醒の急激さは、まるで耳元で盛大に銅鑼を鳴らされたような感じで。体全体がびくりと鋭く跳ね上がり、オフからオンへの意識のスイッチが一瞬で入った。
 そんな唐突な覚醒状況で一番最初に認識したのは、口の上にちょこんと座ったルキの姿。折りたたんだ鳥足や柔らかな羽毛が唇をくすぐっている。ひなたぼっこした健康な動物の匂いが鼻先をくすぐっていた。
「ひゃぁっルキーっ!」
 ばたばたと両手を振り回して暴れると
『寝坊しているからだ』
 とばかりに冷たい視線を投げつけて鳥カゴの上へと舞い降りたルキ。
 色々な意味で心臓に悪い、最悪な目覚めであった。

   【二】

 その少年は、穏やかな性質をしていた。
 小柄で優しげな顔をしていたから、その性質とあいまって、同い年の子供達には軟弱者だと思われていた。なにを言われてもしまりなく笑っていると誤解された。本当は、他人の心無い言葉に誰よりも心を痛め、それ以上にその言葉やその人を許すことのできる強い心と優しさを両手に持った少年であったのだけれど。
 同じ年頃の子供達には理解がし難い存在ではあった。もう少し齢を重ねた者達なら彼のその性質を好ましく思えたであろうに。実際に彼の両親は、彼の心根を愛していたし評価してもいた。手のかからない子供、そう言ってしまえば単純ではあったが、彼はその一言でくくれる存在ではなかった。今の子供が無くしかけている『優しさ』を持つ彼はたしかに愛されていたのだ。

   ◆◇◆

「あれ、あいつ」
 学校が終わって帰宅してから、千尋は紫媛がいたそのバス通りへと赴いていた。手には庭から切り取ってきた小さな花束と小遣いで買った缶ジュースがあった。あの夢の少年に供えようと考えてここまで来たのだが、千尋は細く伸びた歩道の先に先客を見つけてとまどった。その人物は、よく知った者であったので。同級生にしては縦にも横に大きく伸びた、がっしりとした少年だ。もっとはやく説明するなら、発表会の説明係に自分の名前を一番にあげた、あの男子。
「田中じゃない?」
 そこまで考えて、千尋はふとその名前に気がついた。あの夢の少年は『田中 俊一』と名乗った。そして同級生の彼の名は『田中 俊二』ではなかっただろうか。俊一と俊二はまったく兄弟らしくないふたりであったけれど。背格好も顔立ちも、その性格さえも対極のふたりであったので俄かには信じられなかったけれど。
「まさか」
 でもそうでなければ、今ここに彼がいて、新しい花束をガードレールにくくりつけている理由がわからないではないか。
 嫌なことがあるとすぐに暴れ出す、問題児。そんな印象しかないその相手は、冬の夕陽を浴びて静かに佇んでいた。その様子は、学校での彼からは信じられない静けさを纏っていた。じっと見つめている新しい花束が風にかすかに花びらを揺らせている。彼が選んだのだろうか、どこかぶっきらぼうな色味をした素朴な花束。
 その彼が、ふと視線に気づいたのか、こちらを見た。はじめは目を丸くして、ついで自分を見つめているのが誰であるのか気がついたのか、ふいと向こうを向いて頭をがしがしと掻いた。千尋はその様子に足を止めて驚くばかりである。
「なんだよ、荻野。なんか用か」
 ぶっきらぼうに尋ねられて、千尋ははたと我に返ってぱたぱたと駆け寄った。
「田中、なにしてるの?」
 わかりきっているけれど、なんと声をかけて良いのかわからなかった。
「あー、ここ、兄貴がいるからさぁ」
 それよりもお前なに花とか持ってんだよ、とちらりと千尋の荷物に一瞥をくれた。
「どうでもいいでしょ、そんなの」
 千尋は俊二を無視するように、手にした花と缶ジュースを供えて手をあわせた。
「荻野、兄貴を知ってたっけ?」
 知るわけないじゃない、と言うべきだとは思うけれど、そんな言葉は言いたくなかったので口を噤みながら一生懸命に手をあわせる。まったく知らないわけではなかったので、俊一を否定する言葉を口にしたくなかった。
「知るわけないよな。お前、転校生だし、兄貴が死んだのは二年も前だし」
 やっぱりなんでここに来たんだ? と俊二は更に問いただしてきたが、千尋はそれにも無視で答えた。
「どうでもいいか、んなこと」
 どうでもいいさーホントに。俊二は投げやりな口調で夕陽に向かって言葉を投げつける。
 そんな俊二を、千尋は見上げるばかりであった。こいつがこんな顔をするなんて知らなかった。どこか俊一と似ているかもしれない。どこにも似ている箇所なんてないのに。微塵もないのに。
「田中は――どうして来たの?」
「あ? 今日、兄貴の月命日だからさー。親父もおかんも仕事仕事って言ってるし」
 俺くらいしか手があいてるヤツいないからさぁ。そう続けた俊二の声は、なんの色も感じられない声色であった。
「親父もおかんも、本当は俺じゃなくて兄貴に生きていて欲しかったって思ってるんだろうけどさ。俺みたいのが残ってても迷惑なんだろうけどさ」
 こればっかりは仕方ないのにさ。
 千尋は、事情をよく知りもしない自分に心境を吐露する俊二の気持ちがよくわからなかった。彼はどれだけの重荷を背負っているのだろう。その重荷が彼を乱暴者の問題児にしているのだろうか。
 事情はまったくわからないが、自分と同じ年で『自分が残っていても迷惑だろう』なんて言葉がでてくるのは、あまりにも可哀想だった。
「田中は――いてもいいと思うよ」
 千尋は、俊一が最後に言った『心残りはある』との言葉が、この弟を指すのではないかとふと思った。なにがどうなって彼をここまで追い詰めているのかはわからないけれど、この弟の状況を知ってあの俊一が心を痛めないでいられるわけはないであろうから。


 願いは、どうして届かないのだろう。
 自分が供えた花と俊二が供えた花を見つめてぽつりと零した千尋の横顔を、俊二は珍しいものを見たような表情で見つめていた。今までそんな言葉を吐いた者はいなかった。父親も母親もなにも言いはしなかったけれど、態度の端々に『俊一が生きていれば』『俊二のかわりに俊一が』と語っているように思えたので。聞き分けの良い兄が生きている、そちらの方がこの不出来な弟が残っているのとは比べようもなく喜ばしいことであるのに。
 そんな比較だけを残して勝手に死んでしまった兄を恨んだ。けれど、二年も経てば心も変わっていく。今はただ兄にいて欲しい。図体ばかり大きくてあの日の兄を追い越してしまった出来の悪い自分とは違って、小柄で優しくてなんでも知っている兄。本当は自慢の兄だったのに。ただ元気で家にいてくれさえすれば良かったのに。そうしたら今もあの家はあたたかい場所であっただろうに。
 あの日些細な喧嘩をして家を飛び出すなんてしなければよかった。まだ十にもならないのに気ばっかり強くて我侭で問題児の自分を捜して町に出て車に跳ねられるなんてなかっただろうに。そうしたら自分もここまで『すぐきれる』とか『問題児』だとか言われないですんだかもしれない。
 わけもなく暴れている時に心の奥底にあるのは、いつでも兄の事故のことなのだろうともうこの頃にはわかってきた。だからと言って、どうしようもない、できるわけがない。自分は子供なのだ。感情ひとつコントロールできない未熟な存在なのだから。――だからと言って、それですべてが許されるわけではないけれど。
 願いはどうして届かないのだろう。こんな自分は嫌だ。兄には元気でいて欲しいだけであったのに。それしかないのに。
 かわりたい。こんな存在からはかわりたい。けれど、そのきっかけがどこにあるのかわからなかった。多分、とても近くにあるのだろうに。自分の目はまだ曇ったままで、はっきりと見えない。それが今無性に悲しくて悔しくてやりきれなかった。


「いても、いいと思う」
 千尋は、自分の横顔を食いいるように見ている俊二の視線に気がついてはいたが、顔をあげる気にはなれなかった。まだ彼と真正面向いて顔をあわせる勇気がなかった。感情の吐露、そんなものを向けられてこんな自分が受け止めきれるわけがないから。だけど自分自身を責めているような俊二の声を無視するなんてできるわけもなかった。
 多分俊一は弟に『自分をそんなに責めるな』と言いたかったのであろうに。どうしてその言葉は届かないのだろう。――きっと、言葉だけが耳に届いてもどうしようもないことはあるのだろうけれど。どうして願いは届かないのだろう。だいそれた願いなんかではなく、どこまでもささやかで優しい願いであるのに――どうして。


 俊二と千尋を嘲笑うかのように、冬の冷たい風がふたりの髪をなぶっていった。背後で、切り株だけとなった櫻の樹が、見えざる枝を揺らしたような音がした。