【05】
静寂にひそむ沈黙と嘘と





   【一】

「ちひろ〜ん? どした、顔がえらくぶっすー」
 二月を数日過ぎてようやく本格的に降り始めた雪を、どこか不安定な安机に頬杖ついてぼーと眺めていた千尋は、そんな級友――もとい悪友の声が背後から襲ってくると共にべしゃりと机に這い蹲ってしまった。
「い……いずみん、重い……」
 予告もなく乗っかってくるなー! と和泉の体の下でバシバシと机を叩いて抗議するものの、和泉は
「ま! このアタクシを『重い』とおっしゃったわね?!」
 なんてひどい方なのかしら! 
 なんぞと芝居がかった口調でショックをあらわして取り合ってくれない。後ろでやられているのではっきりとはわからないが、小指を立てた右手をわざとらしくそり返し口元にあてがっているに違いない。最近の彼女のお気に入りは『ガラスの仮面』に『エースを狙え』なのだ。どうにもお嬢様気質なキャラクターが気に入ったらしく、無駄なほど派手なリアクションを楽しんでいる節がある。
『予告してれば乗り放題なの?!』と突っ込まれないだけマシかもしれないが、とにもかくにも千尋は机の上で脱力した。机にへにゃりと張り付く様子は、船上に投げ出された蛸であった。
「いいよぉ、好きなだけ乗って行きなよぉ」
 今なら閉店セールの出血大サービス普段の七割増しでいいさね、と千尋がブツブツと呟くと、意味をちゃんとわかって言っているのか『暴利だ、ぼったくりバーだ』と和泉が喚く。『閉店セール』への突っ込みはないらしい。お嬢様では口にしない台詞が連発しているが、お嬢様もメッキでは簡単に剥げ落ちるものだ。
「あー、じゃなくて! なんか熱くない? ちひろん」
「ふぇー?」
 千尋のポニーテールに和泉が鼻先を突っ込むようにして背後から丸い額に手を伸ばすと確かに熱かった。なにやら手が触れると千尋の頬の赤味もぱっと増した気がするのは目の錯覚なのだろうけど。蛸は蛸でも茹蛸だ。
「顔赤いぞー。まさか風邪? インフルエンザ?」
 昨日カマクラつくったりユキダルマつくったりして遊んだからなぁ。これだから都会育ちの子はーやれやれ。
 と和泉は内心でごちながらもぱっと身体を離して駆け出し、教室後ろの荷物置き場から千尋のお気に入りであるダッフルコートを持ち出してばさりと放り投げてやった。千尋は頭っからダッフルコートをかぶってしまい、重たい生地をもぞもぞと緩慢な猫手でかき寄せる。
「保健室行って今日はもう帰りなよ! どうせ明日も雪なんだろうからさぁ! ちゃんと『幸せの青い鳥』にお迎えしてもらいなよー!」
 できれば学級閉鎖へのお手伝いをしてくれれば嬉しいよーん。
と、和泉は嘘か本気かよくわからない台詞で千尋を送り出したのであった。


 確かに熱はあった。けれど、頬がいつにも増して赤くなっていたのは、けして熱のせいだけではないのだと千尋は気がついていた。
 ひとりでぽつぽつと帰宅の途についている間中、半月ほど前に見た夢での光景を思い出していると、また自然に頬が赤くなってくる。あの、ハクと名乗った竜の少年との会話。そしてその最後を思い出すと、風邪の熱を一足で飛び越してしまいそうな大量の熱がぼっと身体にともるのだ。
 夢の中で彼はひんやりとした手でずっとわたしの手を握っていて、それで、それで――……
 ひゃぁぁぁぁっ
 千尋はひとりジタバタと心の中で暴れまわる。『アレ』をなんと言うのか知らない、なんて言えるわけもなく。そして『ソレ』がこんな自分に訪れることがよもやあろうなんて思ってもいなかったので。どれだけ時間が経とうとも、ハクとの行為を『アレ』とか『ソレ』でしかあらわせない千尋を和泉あたりが見れば『子供だ』と評してくれただろう。『不意打ち』は半月経っても千尋の中身をぐるぐる引っ掻き回していたのだった。
「だって、夢なのに夢なのにーっ」
 なんで夢なのにこんなに意識しなきゃならないのーっ。
 と千尋は歩道の真ん中で頭を抱えて蹲りそうになる。そんな発作にこの半月間何度襲われたことか。一緒に帰る和泉がいなければ発作のままにジタバタと『危ない子』をしていただろう。
「なんなのよー、あの子」
 なんであんなコトするのよー、ホントに。今度会ったら絶対にとっちめてやるんだから! と千尋は真っ赤になった顔を片手で隠すように押さえながらひそかに決心するのだった。きっと恥ずかしくて絶対に聞けないであろう小心者な自分や、思い出すだけで頬を真っ赤にしたりひとりドキドキする自分はこの際棚上げして。
 と、そこまで考えて、千尋はあの夢以降『変な夢』を見ていないことに今更気がついた。千尋にとっての『変な夢』とは紫媛や雪白や俊一のような、一面識もなく好き勝手を言う為だけに自分を巻き込んでいく夢を指していた。その『変な夢』の中にはハクも一部分含まれてはいたが、なんとなく『ハク』はその『変な夢』とは少しばかり違う気がしてならないのだから不思議だ。なにがどう違うのだと問われればはっきりと答えられないであろうけど。
「やっぱりただの夢だったのかなぁ」
 なにか怖い本とかテレビとか見て、それがシンソウシンリとかに留まっていて――折れた櫻を見たとか、白い猫に会ったとか、子供が死んだとかの記事を見て、それで夢に見ちゃっただけなのかなぁ。
 千尋は熱でぼぅっとした頭でぐるぐるととりとめもなく考えてはいたが、やがてぶるぶると頭を振ると
「とりあえず帰ろ」
 と思い直して、今の今までジタバタと足踏みして止めていた足を前に繰り出すことに専念し始めた。
 雪雲に掻き曇った空を見上げても、和泉が言っていた『幸せの青い鳥』は見当たらなかった。珍しいかも知れない、と考えて、いつでもそうそうルキがお迎えに来てくれるなんてないだろうと自分で突っ込みをいれる。だいたい、あれこそがすごい偶然でしかないのだから。
 けれど、千尋は和泉のその台詞が妙に心のどこかに引っかかって離れないのを感じていた。
『幸せの青い鳥』は手元にいるのに知らないフリ気付かないフリ。それとも、鳥自体が意地悪にも目の前から隠れてしまっているのか。こんなにも近くにいるのにその存在に気がつかないなんて。
 わたしはなにかを重大事に気付いていないのかもしれない……千尋は心のどこかがそわそわと騒ぎ出すのを感じていた。
『幸せの青い鳥』――その言葉自体に引っ掛かりを覚えているのだと、その時の千尋は気がつかないのであった。

   【二】

 ハクは森の中に流れる川とも言えない細い水の流れの縁に片膝をつき、白い手をその流れにひたしていた。
 川上から絶え間なく流れる水を手が遮った箇所がゆらゆらと揺れている。
 透き通った水の下できらきらと煌く白い石と小魚の鱗。
 頭上を覆う物は深い翠と高い蒼穹と淡い雲で、そこからちらちらと零れてくる光は暖かく優しく穏やかであった。肩の上ですっきりと切り揃えたハクの髪を時折揺らせる悪戯風もいる。
 そこここから賑やかなひそやかな鳥のさえずりが聞こえてき、そんな調べの中に身をひたすのは、元自然神であるハクでなくとも大層心地よいものであろう。
 ハクが落す薄い影に覆われた、手が遮っているその箇所は、水の色とも川底の色とも違う色に輝いていた。色が違うどころか、その小さなさざなみはまるで別の世界を映す鏡ででもあるのか、有り得ざる光景をハクに教えていた。さざなみだった小さなそこには、茶色味を帯びた髪を高く結い上げてこげ茶色のダッフルコートを着込んだ少女の姿がゆらゆらと揺れながら映し出されていたのだ。
 その世界はこことは違い気温が低いのか、少女の口元からは絶えず白い息がもれていた。頬は薔薇色と言うには少しばかり過ぎた赤色に染まっていたが、ころころとひとり百面相をしてはじたじたとする様子を見ていれば心配はなさそうであった。
「とりあえず、なにごともないようだ」
 おまじないが効いたかな、とハクは少しばかり口元に笑みを浮かべる。どこか悪戯っ子めいた笑みであった。
『なにがおまじないだい? この不良竜が』
 と、そんなハクに苦笑するかのような声が空から降ってくる。
「銭婆様」
 ハクはばしゃりと水を掻き乱しながら空を仰いだ。そこにはもう見慣れた巨頭の老婆の使いである式神が漂っていた。
『真面目な顔をしてやることは天然かい。あの子もさぞ苦労するだろうて』
 まぁ結果的にこの半月無事であるのなら良いがねぇ。
 どこか呆れ口調がまた空から降ってくる。
『でも、それもいつまで続くかわからないねぇ。なにせ、あたしの『守り』すら半年しか効かなかった。このあたしが、五年はもつと踏んでいたのにだよ』
 それがたったの半年だなんて! 十年――いや、一生だって大丈夫だと思っていたのに! 
 ハクは白い式神を黙って見つめた。その式神の向こうで額を押さえている巨頭の老婆の姿が見える気がした。
「銭婆様が、カオナシや坊やハエドリとともに編んだ髪止めの守り。一生でも大丈夫だと銭婆様に言わしめたそれが、たったの半年――」
 それがどんな事態であるか、ハクにもよくわかっていた。千尋を取り巻く状況が尋常ではない、それ以外には有り得ない。
 銭婆はこの世界でも高名な魔女――その銭婆が、千尋の平穏を祈って作った『お守り』の加護がたしかに働いているのに、現状は千尋を『常ならぬこと』に巻き込もうとするはっきりとした意図を持った輩が周囲を徘徊している。それもたったの半年で効力を薄れさせていると言うのだ。または、『お守り』の加護の為にこれだけの事態でおさまっているのか――すべての『常ならぬこと』にハクが駆けつけられているのか。それはまだハクにも銭婆にもわからなかったけれど。
 ハクはもう一度細い流れに視線を戻した。それをそのまま下流へと流す。翡翠色の瞳から先ほどあちらの世界を覗き見ていた時にあった柔らかな光が瞬時に掻き消え、かわりに冷徹な光が宿った。柔らかい笑みを刻んでいた白い口元も引き締められ、そこにいる少年が、川の流れに手をひたし目を細めて笑みを浮かべていた先の竜の子と同じ存在であるとは到底思えない雰囲気を纏ってしまった。
 視線の先には、川の水に囚われるようにして立っている白い女の姿があった。比喩ではなく、新雪の肌をした女であった。小さな顔におさまった薄青い色をした瞳の白目は面積が少なく、それ以上に不自然なほど白く輝いている。血の気のかけらすらない薄紫の唇は違和感無くそこにあった。ほっそりとした体躯に纏うのは風変わりな着物で、まるで薄氷でできているかのようにキラキラと光に透けて輝き、しゃりしゃりと小さく音を弾けさせていた。薄い肩を覆う長い髪もどこか薄青い。薄い金属片を埋め込んでいるかのように、薄青い髪で、新雪の肌で、薄氷の衣で光を弾いている様は美しかった。一目で『人』ではない生き物とわかる存在。異形の佳人がそこにいた。
「薄氷の精」
 その存在は、ハクが口にした通りの存在であった。あらゆる自然に『神』や『主』は存在するが、目の前の存在はただの下っ端の精に過ぎないとハクは知っていた。所詮『冬』の季節でもなければ表に出てこられぬ脆弱な生き物。『季節』の隷属者。『主』の婢のひとり。その力などたかが知れている。現に、ハクであれば心地よいと感じるこの常春の森の気温でさえも、この女にとってはじわじわと体力をこそげ落としていくものだろう。冬の季節の中にあっても、できることと言えば雪雲に混じり雪を降らせ寒風を吹き付けるくらいだ。その身はどこまでも危うく儚い存在でとハクは十分にわかっていた。
 けれどもハクは、この精霊をとらえ――否、あちらの世界から『水』を手繰って呼び寄せると言う乱暴な手段でもってこちらへと引きずり込み、こちらの世界の『水』にとらえた。ハクにとってはただの季節の使者、精霊の一匹に過ぎないが、千尋に風邪をひかせた張本人、そしてそれ以上の災厄を与えようとしていた存在であれば――千尋に悪さをしようとするのなら話は別だ。
「どうしておのれが囚われたか、わかっているか」
 ささやかな願い――『千尋が元気でいること』――そんなささやかな私の願いさえも叶えられないのか、私の願いはだいそれたものなのだろうか、とわざとらしくため息をつきながらも底冷えのする声で問いかける目の前の少年に対して、外見上は年上に見える女は悔しげに薄紫色の唇を噛みしめた。彼が言葉の奥にひそませた本当の問いに対する答えがわかってはいたが、そこに含まれた彼の真意がわからず、そんな困惑を知られたくなくて唇を噛みしめる。
 薄い色をした瞳は唇が形作る感情とは違う、女本人さえもまだ気がつかぬ恐怖や困惑を作り出していた。川辺に立つ少年が見掛け通りの存在ではなく、自分がどう抗っても太刀打ちなどできない力の主であると無意識に感じ取っていたので。水辺にいるからか、それとも自身の内にある力の種類であるからなのか、薄氷の精の目にハクは『水』に飾られた存在に映っていた。
『水の竜神』
 天の水と最も近き地の水の主――自身が仕える主とは違えども、親近感と畏怖心を同時に抱くであろうその相手に対して、自身が今持っているのが純粋な『恐怖』であるのが薄氷の精には信じられなかった。目の前の少年は、自身が仕える『天の水の主』に劣らぬほど煌びやかな力の主であったのに……そんな彼が、なぜ自分をこのような水の檻にとらえているのだろう。
 薄氷の精は視線をそらせず手足の先に力を込めてみるが、それらはぴくりとも動かなかった。触れればさわさわと逃げていくであろう形のない水ががっちりと薄氷の精を捉えている。そんな不思議は『水』に連なる薄氷の精自身にはなんら不思議ではない。『無形』は『有形』であるのと同義、なににでもなれる『水』はある時はなによりも柔軟でそれ以上に堅固な戒めとなるのだから。
「セツリ」
 ハクの口からそのみっつの音が連なりとして出てくると、薄氷の精はびくりと肩を震わせた。その単語をハクが口にした瞬間、水がざわりとざわめいたのを女は全身で感じとった。じわじわと心臓を締め上げる拷問にも似たそのざわめきに、薄氷の精は眩暈を感じた。ぐらぐらと揺れ始める視界に惑いそうになる。水の戒めがなければ、膝をついてしまいたい程に不快であった。
「セツリ、なにゆえあの者に近づいた」
 冷徹な瞳のまま、その色そのものの声で語りかけてくるハクに、叶うならば一歩足を引きたいと願う薄氷の精。
 女はきっかけを求めてぼやけた視界をふらふらとさ迷わせるが、ここは春陽に包まれた緑深い森の中、自身が属する『冬』に近しい存在はなにもなかった。属性に近い『水』ですら自分を捉える檻となり、拒絶の言葉だけを纏わりつかせていた。
 ハクのすぐそばに浮かぶ白い紙切れにはなにがしかの力を感じるものも、それは自分の干渉など歯牙にもかけない者に仕える紙片であるとすぐにわかった。傍観者の視線を『それ』から感じてならないのだ。
 ここにはなにもない、自分を助けてくれる者も、そのきっかけとなるような物も、なにも。すでにここは竜神のテリトリー、自分は犯してはいけない罪を犯してしまったのかと心が凍えた。孤立。それ以外の言葉は、今のこの女には当て嵌まらなかった。
 うろうろと薄氷の精が視線をさ迷わせている間にも、ハクはひたとその女を見つめていた。なにかをさぐるような――否、彼女の中の『なにか』を引きずり出し、支配しようとするかのような気迫を持って。その視線に気がついて、薄氷の精ははっきりと乾いた息を飲み込んだ。
 もう抗えない、この水の竜神は見つけてしまう!
 声無き叫びをあげた瞬間――
「雪麗」
 ハクはとうとうみつけた。薄氷の精――セツリの真なる名を。
 名を呼ばれた瞬間、雪麗は水の戒めがさらさらと流れに乗って溶け去ったのを感じた。そして同時に、ハクに対して抱いていた雪麗の『恐怖心』も溶け去ってしまう。精霊にしてはやけに複雑な色を宿していた眸が穏やかになり、強張っていた身体からゆるゆると力が抜けていった。まるで、冬陽に凍えていた湖上の薄氷が春陽に照らされて溶けゆくように。
 雪麗はしずしずと水中に膝をつき、頭を垂れる。どこか薄青い髪が水の流れに受け入れられてゆらゆらとたなびいた。
 式神の目を通してハクの手腕を見ていた銭婆は、気取られぬように感心していた。この竜はあまり強引な戒めを施すなど好まない性格だと認識していたが、いやはや容赦がない。それは、その対象があの人の娘に害意を持っていた、その一点がある為の変貌なのかもしれないけれど。
『この子もまた神であり竜だねぇ』
 そんな者に関わりを持ってしまったあの娘にとって、それは幸いとなるのか災いとなるのか。今の銭婆には未来など見えはしなかったけれど、彼女がもう普通の生活を送れないであろう事実だけはしっかりと感じられていた。それは、魔女の予言と言うよりは、『竜』がなんであるかをよく知る者の推測であったけれど。
「答えろ、雪麗。その名にかけて、真実のみを」
 命令するに慣れたハクの声に、命令されるに慣れた雪麗に拒否権はなかった。ハクの下についた雪麗であれば尚のこと。
『ニギハヤミコハクヌシ様、ワタクシはただ『冬』の者達がいられるように願っただけなのです』
 名を支配されると同時にハクの名を受け入れた雪麗は、先ほどの無言の抗いも焦燥感のかけらも感じさせない冷静な声色で話をはじめた。心の内では『ニギハヤミコハクヌシがおのれの真の主ではない』とはわかっていたが、もうそんなことはどうでもよかった。そうなれば、目の前の少年が投げかける問いに答えるのになんの抵抗もなく、むしろ答えられる自分が嬉しくて誇らしくてならない。どこか恍惚とした光を宿した薄青い瞳が揺れていた。
「その願いとは?」
『コハクヌシ様、ご存知でしょうか。あちらの世界の『歪み』を。あちらはもう『冬の季節』であるのに、今だ冬らしくありません。ワタクシ達は焦りました。これでは次代が残せません』
『冬』に属する者達の仕事はそのもの『冬』に集中していたが、次代を残すそれもその季節でこそ成り立っていた。そこのあたりの事情はハクにもよくわかる。『冬』の精達はその寒気の中で婚姻し子を為すのであるから。『水』に仕える精霊達が、水その物の中で生活をし、使命を果たし、次代を残し、天寿をまっとうするのと何ら変わりがない。それはすべて『水』がなければ成り立たぬ法則で、それはそのまま目の前の存在にも当てはまっていた。
『焦っていたワタクシ達の元に、あの者が現われて言ったのです。この町でならその歪みは正される、あの娘に願え――と』
「あの者――?」
 森のどこかで鳥が一斉に飛び立ったような風が吹いた。ハクはその風に惑わされぬよう、水中で跪く女の言葉に注意深く耳を傾けるのであった。

   ◆◇◆

「あら千尋、顔真っ赤じゃない」
 ふらふらと気だるげに冷蔵庫から牛乳を取り出している時に母親から声をかけられ、千尋はぼんやりとそちらを向いた。熱っぽく緩慢なその動きに、悠子はあからさまに眉をひそめた。
「顔、赤い?」
「真っ赤じゃない。早退したのならちゃんと寝てなさいよね」
 昼前に帰ってきてテレビばかり見てなんの意味があるの! 
 と悠子が冷静な口調で突っ込みを入れた。熱も心配するほど高くなく、咳もしていないからインフルエンザなどの心配はしてはいなかったけれど、このぼんやり加減は目に余る。やはり病院に連れて行くべきだろうか。けれど、熱もそんなに高くないのに病院に行って別の病気を貰って来る可能性の方が今の時期は高いと考えればそれも躊躇われる。頭痛や吐き気がするのならまだしも。冬の小児科にかかるなど、できれば御免被りたかった。待ち時間は長いし、こちらが病気になりそうな気がしてならない。
「そう言われてみれば、なんかこのあたりふらふらする……」
「頭痛いとか吐き気とかはないのね?」
 うん、と頷きながら額の上あたりを指でぐるっと指し示す我が子に呆れ果てた悠子は、さっさと千尋の手から牛乳を奪い去ると
「後でホットミルクつくって部屋まで持って行ってあげるから、さっさと着替えて寝てなさい」
 千尋専用の、熊絵のついたマグカップを取り出して中身を注いだ。
「ハチミツ入れてね、お母さん」
「スプーン一杯でしょ?」
 今回だけよ、と悠子はふらふらと洗面台に向かう、頼りなく感じられてならない細い娘の背中に声をかけるのであった。

   【三】

 青い、青い世界と言っても、どこか底の見えない闇に沈み込んで、
『あぁハクが来たのかな?』
 と千尋は思った。青い世界の夢と言えばハク、それしかないだろう。昼間に『とっちめてやる』と言ったから来てくれたのかと考えたのだ。けれど身体が自由に動かなくて、前はこんなんじゃなかったのにと思い直す。それではハクではないのかもしれない。熱があるから動かないだけなのかもしれないけれど、それよりもこの『夢』が本当にただの『夢』だからなのかもしれない。第一、紫媛も雪白も俊一も――ハクさえも、ただの『夢』であるかもしれないのだから。でも、この夢は綺麗だ。それは変わりない。とてもとても綺麗で、深い青で、前の『夢』と同じにゆらゆら揺れている――なんとも言えない静寂が心地よい。
 千尋は熱に朦朧とした視界をゆっくりとまぶたで塞ぎ、手足から力を抜いて身体をその空間の波に委ねた。どこか、ゆっくりと頭から落下している感触が全身を包んでいるが、それは不快ではなかった。喩えるならば、気持ちの良い睡魔――目を閉じたままでいれば、夢の中なのに更に眠れそうだ。洗い立てのパジャマの感触や、頬を髪先がくすぐるのが気持ちよい。
 身体が心地よい波に乗っているからか、意識もふわふわとし始めた。けれども、かわりに聴覚が敏感になっているようだ。いや、全身が耳になっているみたいだ。普段なら気がつけるはずも無い、かすかな気配を感じる。
 どこか遠くで、ざわりと音がした気がした。けれども、それも嫌な音ではなく、とても綺麗な音だった。まるで、幾重にも連なる鳥が一斉に羽ばたいたかのような音。音楽。自然の。身体の奥深い所で知っている繋がっている気持ちの良い音色。それがどこかでしている。鳥の羽ばたきによって空間が揺れ、巻き起こされる波が全身をゆらゆらと揺らして包んでいる。気持ちが良い。それはどうして??
『血管を流れる水の音』
 生きている限り全身を渡り続ける音にも似ていた。幾重にも聞こえる鳥の羽ばたき。巨大な。空間を揺らすほどに。波の音にも似た。ざわりざわりとした振動。母の鼓動、自分の鼓動、空気の流れ、水の流れ――……これはなに? そう疑問符を作る思考さえも波に飲まれて遠く運ばれてしまいそうだ。
 千尋はふと、なにかがすぐ傍にいるのではないかと気がついた。けれどこの青い空間や振動が心地よくて、目を開ける気分にはなれなかった。かわりに全身の神経を更に研ぎ澄ませる。すると、やはりなにかが――誰かがいるような。それも、本当にすぐ傍。顔を覗き込まれている気がしてならず、千尋は緩慢な動きでまぶたを押し上げた。それはこの心地よさを失うかもしれない、一抹の寂しさと痛みを伴っていた。
 ぼんやりとした意識のわりには鮮明な視界に映ったのは、青い世界を凝縮したような不思議な黒色で、千尋は瞬きをひとつした。その黒色は一対の眸なのだと気がつくと、もうひとつ瞬きをする。けれどもその一対は消えはしなかった。その眸がやはり自分の顔を覗きこんでいるのだ。
「だれ――?」
 しびれたような喉元からかすれた誰何の言葉を送り出すと、黒い眸がかすかに笑った気がした。
『誰だかわからない?』
 もうひとつ瞬きをすると、その眸の持ち主が、自分より五つばかり年上の外見をした少年であるとわかった。青とも瑠璃色とも見える長い髪を結わえ、不思議な着物に身を包んだ、すらりとした少年だった。優しげな面差しに黙って笑みが浮かべられていると、なんだか『変な夢』であるのにほっとする。
「だれ……?」
 けれど『誰だかわからない?』と問われても、千尋にはその少年に見覚えなどなかった。ゆるやかな動きで小首を傾げる。純粋な疑問だけを浮かべた表情で。
 会ったことなんてないのに、こんなお兄ちゃんに。覚えていないだけ、と言うよりは、本当の本当に会ったことないのに。こんなにも印象的な髪の色に優しげな面差しを忘れるなどできないだろうに。
『本当に?』
 面白そうな色を滲ませた笑みを浮かべ、少年がそっと手を伸ばした。ふわりと頬に触れられた羽根のように軽い感触に、千尋は心が大きく震えるのを感じた。柔らかで優しいその感触は、確かに知っていた。よく知っている感触だった。
 千尋は驚きの色を閉じかける眸に宿して――呟く。
「ルキ――瑠貴」

   ◆◇◆

 鳥の羽ばたく音が、ぼんやりとぼやけた耳のすぐそばで聞こえた。全身を包む空間の波動が更に強くなった気がした。眠気を誘うその音や波に意識を攫われそうになりながら、千尋は必死の思いでまぶたを押し上げる。
「瑠貴、だよね?」
 名を呼ばれ、覗きこんでいるその少年はゆったりと微笑む。
 千尋は目の前の少年に、あの夏の日に自分が助けた鳥なのかと問いかけながらも、まだどこかこれは夢であるのだからこんなのもありかもしれない、とぼんやりと考えていた。なにせ、鳥が人になる、人が鳥になる、なんて有り得ないのであるし。それに、人の姿を見て『鳥の瑠貴だ』と直感したのも、夢ならではの思考手順を飛ばした発想であると思えたので。
 けれども瑠貴はそんな千尋の、一種現実逃避とも、幼いがゆえの疑いを知らぬ純粋な発想とも、または現実をそのまま受け止めようともしない頑固さをも含めて、柔らかく微笑む。
「そう、瑠貴だよ」
「これは夢だからだね。瑠貴が人みたいになるなんて、びっくりだね」
 瑠貴はその無邪気さを装った千尋の言葉に、軽やかに笑い声をたてた。元が鳥であったからか、その声は楽しげで柔らかくどこか音楽的な響きであった。首から下げた青い勾玉飾りがしゃらりしゃらりと音をたてて、千尋の耳にころころと転がり込んでくるのも気持ちがよかった。
「夢なんかじゃないよ。これは正真正銘『現実』と呼ばれるもの」
 気がついていなかったの? それとも全部『夢』だと思いこんでいたの?
 少しばかり色を変えた瑠貴の声が降ってきて、千尋はたまらずまぶたを閉じた。少年の声はどこまでも眠気を誘う穏やかなものであったから。
 このまま本当に眠ってしまえたらどんなに心地よいだろう。意識は半分以上ぼんやりと眠りの海を漂っていた。
「紫媛も雪白も俊一も、すべて『夢』なんかではないのに。彼らはすべて『現実』であったのに」
 君は『別の世界』に引きずり込まれていたのに、すべてを『夢』と誤魔化すの? それでよいの? それとも『その方がよい』の?
『あぁ、瑠貴は面白がっているのだ』
 と、閉じたまぶたの裏側を見つめながら千尋は感じていた。自分の声にかすかにひそむ、怯えや不安や、それ以上に自分の中を占める疑問の色を瑠貴が感じているからこその彼の態度であると何故だかわかる。
「夢じゃないの?」
「夢ではないよ。君はしっかりと生きている『人』であるのに、どこか歪んでいる。少し手招けば、『神の領域』にも『影の領域』にも簡単に連れて来られる。そこは僕達にとっては『夢』なんかではないのだから、連れて来られた君にとっても『夢』でなどあってはくれないだろう?」
 瑠貴の話は難しすぎて、千尋にはよくわからなかった。けれども、どうやらこれは『夢』ではないらしいとだけ理解ができる。『歪んでいる』とか『簡単に連れてこられる』と説明されてもぴんとこないし、だからと言ってどうだとは思わないしどうもできないけれど。
「それってダメなの?」
「普通は駄目だろうね」
「ふぅん。でも、瑠貴が悪いことするなんて思えないよ?」
 今回ここに千尋を連れて来た張本人であるのに、どこか瑠貴の言葉には真剣みが足りなかった。だから千尋もあまりこの事態が重大であるとの危機感を抱けもしなかった。そうでなければ、目を閉じてゆったりと空間に身体を泳がせているなんて無防備な行動はとれないであろう。不安や怯えを千尋は確かに抱えていたが、それは『瑠貴』に対してではなく、こんな状況でものんびりとしていられる自分自身と、今後どうなるのか――その未知数さゆえであって。
「それは千尋の主観だろう? 僕はそんな無害な存在ではないかもしれないじゃない」
 そんなに無防備で良いの? と聞かれ、千尋は口元に笑みを浮かべた。
「悪いことしようとする人が『これから悪いことするかもしれないよ?』なんて聞かないと思うんだけど」
 千尋はまだ目を閉じたままであったが、自分の言葉に瑠貴が声もなく笑った気がした。ゆらゆらと空間が楽しげに揺れたので、そうであるとわかるのだ。それに、頬が触れそうなほど間近で覗き込まれているのであるし。
「瑠貴、どうしてここにわたしを呼んだの?」
「それ以前に『どうしてわたしに近づいたの?』とは聞かないの?」
「聞いて欲しいの?」
「どちらでもよいけれど」
 この話のはぐらかし方は、まさしくあの鳥の瑠貴だと思わずにいられない。気まぐれに部屋の中を飛びまわったり、首を傾げて顔を覗きこんできたり、そんな仕草とよく似ている。
 千尋はゆっくりと目を開けた。やはり楽しげにしている少年の顔が見えた。黒と言うにはもう少し複雑な、青い闇を煮詰めたような目が印象深かった。楽しげな光が閃いて見えた。
『あれ? どこかで似た人をみたような――……』
 どこがどう似ているとははっきりとわからなかったが、どうしても一度そう思ったらその考えは頭から離れてくれなかった。
 背格好や年頃はすこしばかり似ているかもしれない。時代劇めいた着物が尚のことそう思わせるのかもしれない。
 瑠貴はよく笑って優しげだけど、彼は少しとっつきにくい冷たい表情だったりなにかに怒ったりしているのに……
 とそこまで考えて、この前会った時はずっと嬉しそうに笑っていたと思い出した。でも、纏う空気は全然違う。優しくて柔らかくてあたたかいのは一緒なのだけれど……どこかが違う。
 だからその名を呼ぶ。違和感を込めて。
「――ハク?」

 その名に呼応するかのようにその空間に生まれたのは――嵐。そして咆哮。