【06】
たまゆら





   【一】

「鳥?」
 顔をあげて口を開いた薄氷の精・雪麗よりもたらされたその言葉に、ハクは一瞬聞き違えかと耳を疑った。けれども雪麗は再び同じ言葉を口にする。
『鳥でございました。ワタクシ達の元を訪れ――娘に願えと残していった者は』
 青い青い鳥でございます。小さな、手で握りつぶせばひとたまりもないような。ワタクシ達冬の精霊がほんの少し冷たい息を吹きつければたちまちに凍え死にそうな、小さな小さな青い鳥。
 けれど、と雪麗はふと口をつぐませて、小首を傾げた。薄青い眸には困惑が揺れて見えた。薄青い髪が肩先を滑ってしゃらりと音をたてる。
『いいえ、子供であったかもしれません。青い髪をした、黒い眸の――コハクヌシ様と同じくらいの背格好の――同じ程に貴いお方――力の主――あぁわかりません。鳥であった気もします。子供であった気もします』
 雪麗は苦痛に歪む顔を誰にも見せまいと水に頭を埋もれさせるようにして、細い身体を両手で抱きしめて震え始めた。肩を覆っていた長い髪が川水に混じって流れる様は美しいものの、主にも等しい存在からの質問にはっきりとした答えを返せない自分を無意識に痛めつけているその悲痛な姿にハクは内心で舌打ちをする。
「よい、雪麗。もう――いい」
 噛み殺した声で告げられた許しの言葉に、雪麗は全身からゆるゆると力を抜いてほぅと吐息をもらした。ハクが――雪麗のもたらした言葉と彼女の状態で、その『鳥』がただの鳥ではないとの確証を得たとも知らず。


「銭婆様」
 薄氷の精をどこへなりと逃がした後、ハクはこぶしを握りしめて偉大なる魔女の名を口に載せた。俯き加減のその姿勢は、雪麗の去った川面を眺めているようでも、曝された事実に打ちのめされその痛みに耐えるようでもあった。どちらにせよ、肩先で切り揃えた髪が顔を覆い表情を押し隠してしまっていた。森は変わらず光に満ちて、川は変わらず清いままであったけれど。
「銭婆様、私はどうして消えなかったのでしょう」
 彼女をあちらの世界へと返し、師である湯婆婆から放蕩されたこの身であるのに――もう誰も私を必要としてなどいないこの世界で――どうして。
 表情は見えずとも、苦痛に満ちたハクの声。それに返す答えは銭婆ですら見つけられないものであった。魔術を知り、理を知り、深い思慮の泉かと思われるような魔女であろうとも。
『さぁ。でもこれでひとつ理由ができたのではないかい?』
 あたしはあの日、お前に言ったはずだ。『千尋を守りなさい』――と。
『あちらの世界であの子が『不思議』に巻き込まれているのは、もう『偶然』の言葉で済ませられる事態ではないのだよ。あきらかに他者の――いや、あきらかに『神』の作為があるね』
 巻き込まれたあの子が救い手を求めるからお前が存在しているのか、それとも『守れ』と言ったあたしの言葉が生かしているのかは知らないけれど。
『行きなさい、ハク竜』
 ――あちらへと。お前が逃げてきたあの閉塞された世界へと。お前の『使命』はここではなくあちらにある――間違いなく。

 そして――来た。
 闇は隅に押しやられ、休むことを知らぬ光がすべてを照らし、自然は荒廃の果てを覗こうとし、神の息を殺し続ける――こちらの世界へと――戻って来た。

   ◆◇◆

 ごぅっと世界が揺れて、千尋は突如として襲ってきた眩暈にぎゅっと目をつぶって耐えた。全身を包む空間が荒々しく揺れるのにどこにつかまれもできず、ただ歯を食いしばって耐えるしかない。それ以上に身体が本当に動かないのだと思い知らされた。ただ揺れるにまかせる不安定な状況に、千尋は悲鳴を噛み殺す。
 その嵐ははじまったのと同じ唐突さでもってぴたりとやんだ。ぐらぐらと激しく揺れていた世界は突如として安定を取り戻し、先のは錯覚であったのかと思えるほどにあっけなく終わった。けれども、恐る恐る開けた目の前には、さっきまでは存在していなかったものがあらわれていた。
「ハク」
 白い竜が、目の前にいた。瑠貴を挟んで向こう側にいる竜がひたりと翡翠色の眸をこちらに向けている。そこに宿っているのは、静かな炎。まるで、彼にはじめて会ったあの『夢』――いや、あれは夢でないのなら『はじめて会った日』と表現するのが正しいのだろうか――その日の再現であるかのような立ち位置に、千尋はまたしても視界がくらりと揺れるのを感じた。
 ぐるるると地の底から湧き出ているような竜の威嚇の声に、瑠貴はゆっくりと振り返った。
「遅いよ、コハク」
 どこか嬉しげな声色と表情で。
 瑠貴の態度に、竜は眉間に深い皺を刻んだ。白い牙が剥き出しになる。翡翠色であったはずが、今は燃える金色に輝いて見えた。
千尋はその眸に見据えられ、動かない身体の中で心が震えるのを感じていた。『恐怖』とも『不安』ともはっきりしないその『震え』を、どこか他人事に感じながら。
 ただ、そんなに怒らないで欲しい。彼にもう怒らないで欲しい。いつでもハクはなにかに怒っているようだけれども、けしてそればかりではないともう知っているから。笑えるし、悪戯もするし、わたしを困らせたりもできるのに――ハクはちゃんと笑えるのに――どうして怒るのだろう? 
 いや、どうしてハクは『わたしの為』に怒っているのだろう。彼はいつも『自分の為』に怒っているわけじゃない。全部『わたしの為』だった。ハクはわたしにとってなになのだろう? 
 考えても答えの出ないその疑問は、千尋が今まで少しも考えようとしなかった疑問であった。
 ざわり、と白い竜が身体を震わせると、鬣がざわざわと音をたてた。まるで、燃えているようであった。
 白銀色に輝く鱗の一枚一枚が逆立ち、しゃりしゃりと音を奏でているのか、とても不思議な綺麗な音がした。けれどもそれは、竜の怒りのあらわれであるのだと千尋にはわかって、素直に聞き惚れられなかった。
 白い燐光が青い空間を埋めつくし、千尋はその眩しさにまぶたを閉じる。まぶたの裏さえも白い光に侵食されて、なんの意味も持たなかったが。
 膨大な光が生み出されているわりに空間はどこまでもしんとして静かで、千尋が恐る恐るまぶたを押し上げてみると、眩い光がひいたそこにはあの少年が立っていた。竜の時と同じ険しい目をした彼は瑠貴を見据えていたので、胸の奥が氷を押しつけられたみたいにぎゅっと冷たくなってしまったけれども。
 瑠貴はと言えば、ハクに睨みつけられながらも優しげな笑みを口の端に浮かべたままだ。優しげと言うよりは、どこか心の踊る楽しげな笑みであった。
「彼女から離れろ」
 押し殺したハクの低い声は竜の威嚇にも似て、千尋はもうなにも言えないのだろうかと悲しくなった。瑠貴の背後にいる千尋にも、ハクの怒りのかけらが容赦なく突き刺さり、痛くて恐くて哀しい。
「どうして私の名を知っている?!」
 瑠貴に向けられる痛いほどの怒りに、千尋は泣きたくなった。瑠貴は悪くないのに。瑠貴はなにも悪いことしてないのに。
「でも、ハクも悪くない」
 小さな千尋の呟きは誰にも届かない。
「コハク、どうして怒りを押し殺しているの?」
 瑠貴の声はとても優しくて、穏やかだ。あからさまな敵意を向けられているのだとわかっていないわけでもないだろうに。
 似ている点などほとんどないのに、よく似たふたりが対峙しているように千尋には見えた。けれども、ふたりの抱える感情は見事なまでに正反対のもの。千尋はその波を感じて眩暈を起こしそうになった。胸の奥がぐらぐらとする。
「どうしてもっと怒らないの」
 瑠貴の言葉はハクの心をざらざらと逆撫でる。それは奇妙な感覚だった。煽られるに従い怒り狂いたい、けれどその声を聞いていると――何故だか心の一部がしんと落ち着いてしまうのも事実であった。それがまたハクの心の内にどうにもならない苛立ちを産み出そうとしている。
「ねぇ、どうして?」
 千尋もハクも、瑠貴を『優しい』のだと感じてしまう。これは錯覚なのだろうか。瑠貴を挟んだ後ろと前で、怒りと哀しみのまったく違う感情を抱えたふたりが同じ思いに囚われている。
「そんなことは……貴様には関係ない!」
 瑠貴が笑みをたたえているからなのだろうか、ハクは反発するように声を荒げていた。『笑み』など頭蓋骨の表面に貼り付いた仮面に過ぎなくて、どんなに腹黒い存在でもいっそ美しいと表現できるほど魅力にあふれた笑みを浮かべられもするのだ、とハクは知っていた。『笑み』など記号に過ぎないのに……それに惑わされそうになるのはなぜなのか。真実彼が『優しく』て『笑み』が似合う存在であるからなのか。
 どこか崩れそうになる瑠貴への敵愾心を、ハクは必死に支え続けた。なんとも複雑な色に染まった胸のうちを抱えながら。
「そう、関係はないかもしれない」
 どこか他人事のように呟く存在に、ハクはなにを言えば伝わるのかと、一瞬言葉を失った。
「貴様が関わらなければ、彼女は知らなくてもよいことまで知らずに済んだのに……っ」
 薄氷の精が告げた事実――『娘に願え』――その言葉の前には『彼らのように』との言葉があって――ハクはその言葉で、今までのすべてに――紫媛や雪白や俊一を唆し関与したのが、瑠貴であるとわかってしまった。雪麗は四番目の、瑠貴の手駒として向けられた者であったのだ。今瑠貴を目の前にして、それが実感できる。銭婆の守りを看破し、彼らを唆し、千尋を災厄に巻き込むだけの力を彼が持っているのだと――雪麗の言葉通り、おのれに匹敵するだけの『力の主』であるのだとわかってしまった。『神』や『神に連なる者』に外見は関係ない。その内側にある『力』と『意思』こそがすべてだ。ハクは自分よりすこしばかり年を重ねた少年の瑠貴が弱い存在だとは間違っても思えなかった。
「確かにね、千尋は知らなくてもよかったのではないかと思うよ」
 ハクは細められた黒眸を睨みつけた。
「ならばなぜ彼女を巻き込む?!」
「彼女でなければいけなかったから」
 さらりと言いきる瑠貴の横顔を、千尋は見上げた。
 なにを言っているのだろう、ふたりは。この『夢』なのか『現実』なのかもうわからない微妙な境界線で繰り広げられている少年達の会話とも言えない会話の中にあげられているのは自分の話であるようなのに、その論点がさっぱりとわからない。ただ、今までの事柄に瑠貴が関わっているのだとハクは怒っており、瑠貴は否定もしないのだとわかるだけで。
 千尋はゆるゆると動かない手の平に力を込めて、ぎゅっと握りしめた。
 どうしてふたりともこんな会話をしているのだろう。不思議で仕方がなかった。悲しくて仕方がなかった。
 瑠貴はわたしの部屋に住んでいる青い鳥で――ハクは何度も助けてくれた白い竜で――ふたりともとてもとても優しい人なのに――……
「やめてよ、ふたりとも……っ」
 わたしの声は届かないの? こんなにも非力な、なにも知らない子供の声は届かないの?!
 千尋は唇をぎゅっと噛みしめた。手の平に爪が食い込んで痺れるほどに握りしめていると気がついていないほどに。
 いいぇ、届いた。あの時はちゃんと届いた。ユキシロを殺さないでと叫んだ。ハクはやめてくれた。ちゃんと届いていた。
 千尋は目の前のふたりから目を逸らせず、身体中の力を残らずかき集めた。
「ハク、瑠貴! お願い、やめてよ――ツ!!」

   【二】

 青く澄んだ空間は、まるで瑠貴の翼の色に似て複雑で、そして綺麗だった。その空間いっぱいに広がるのは、少女の懸命な願いであり叫び。
「千尋」
 叫びに応えるかのようにゆっくりと振り返った瑠貴と、千尋の目がかち合う。
「……瑠貴」
 どうしてそんなに嬉しそうなのだろう? 千尋は、瑠貴の黒い眸に宿る嬉しげな光にそんな疑問を抱いた。とても嬉しそうだ。自分の言葉のなにが彼をそんなに喜ばせているのかはまったくわからなかったけれど。
 瑠貴がぱちんと指をひとつ鳴らすと、千尋は全身がふっと軽くなったのを感じた。痺れた身体で握りしめていたこぶしまでが軽くなり、その勢いでぎゅうと爪が食い込んで慌てて手の平を解放する。それで、千尋は今までこの空間に身体が故意に囚われていたのだと知った。
 突如として身体に安定した重力が襲い掛かり、千尋は足元をふらつかせた。床などがあるのかもわからない空間でしっかりと素足を踏ん張るとなんとかまっすぐに立てるのだと気がつき、とても不思議であった。
 お気に入りのパジャマの裾から出た素足へと向けていた視線を床とも言えないそこからまっすぐ前に向けると、楽しげな光を閃かせた黒い眸を見つけてしまう。
「千尋が嫌なら、やめる」
 千尋が嫌がることをしたいわけじゃないから。
 瑠貴はにっこりと笑いながら、今までの行動を否定する言葉を吐いた。
「痛かった? 大丈夫? 恐がらせるつもりではなかったのだけれど」
 打って変わって心配そうな雰囲気をまとった瑠貴の言葉に、うぅん、大丈夫……と口にしかけた千尋は、瑠貴の向こう側から痛いほどの気迫でもって自分達を見ているハクの視線に気がついて口を噤んだ。
「でも、千尋は知らなければならないんだよ。だって、君は歪んでいるから」
 だって、君はこの世界ではもう不可能な程に『霊々』と関わりを持った。そんな存在が浮き上がって見えないはずがない。この世の理からも外れた存在。神々の愛ぐし子。人の忌み児。その身体の隅々にまで、その記憶の奥底にまで、染み渡った異界の息吹を感じない?
 千尋は、さらりさらりと清い水を飲むような簡単さで、難しい言葉を内容とは正反対の表情のまま連ねる瑠貴をただ茫然と見つめるしかできなかった。なにか大変なことをたくさん言われた気がするものの、なにひとつ千尋には理解ができなかった。ふたりきりの時に言われた言葉とよく似ている気がするが、言葉が持っている闇の深さが違うのだとわかるだけだ。
 ゆがんでいる? ことわりからはずれたそんざい? かみがみのめぐしこ? ひとのいみご? いかいのいぶき? なにひとつ理解ができない言葉ばかりで、呆然とするしかない。
 混乱しすぎた頭と心はもう飽和状態で驚く余地など微塵も残されていなかった。ただ、どこか毒を飲んだ痺れにも似た感覚が全身を包んでいるばかりだ。
「うん、でも今日は退散するよ。コハクが怒っているし」
 そんなにも混乱している千尋に向かって瑠貴はにっこりと微笑み、『バイバイ』とでも言うようにさらりと手を振ると、その姿は青い闇に溶けるかのようにふぅと掻き消えてしまった。
 けれどもその姿が本当に掻き消えてしまう寸前に――瑠貴は今迄浮かべていた『笑み』とは異なる、壮絶な――恐ろしいまでの笑みを浮かべて――
「けれど覚えていて、千尋。君の存在は――害悪だ」
 鳥が歌うようなささやき声で残していった。
 千尋はその笑みを向けられて、身体を硬直させ立ち尽くした。自分が助けたあの時からずっと一緒にいたあの鳥が最後に向けた笑みは、それほどまでに美しく――それだからこそ怖かった。意味がさっぱりとわからない言葉を――それ以上に『存在そのものが害悪』だと告げられたのが恐ろしくて。千尋は心のどこかを鋭い鉤爪で一気に抉り取られた気がした。
「瑠貴?!」
 はっと我に返った千尋が名を呼ぶが、それは受け取り手不在のまま空間へと吸い込まれていく。
 青や瑠璃の残像さえ残らないそこを見つめて、千尋は金縛りが解けたかのように急に震えだした。全身の血が足先に集まりそこから零れてしまったかのように冷たくなっていく身体の反応を、かすかに残った冷静な部分で不思議に感じる。『手足が冷たいのだ、怖いから』と冷静に判断を下し、ぎゅっとまぶたを閉じた。
 その妙な反応の波さえも感情と心を絡めとって退いてしまった後には、純粋な恐怖だけが残っていた。自分で自分を抱きしめてうずくまる。とてもではないが立ってはいられなかった。瑠貴が怖くて。瑠貴の言葉が怖くて。好きだった存在が、ほんの一瞬で『恐ろしいモノ』に変わったのが――信じられなくて。瑠貴を『怖い』と思った自分が信じられなくて。
「はく……ハクっ」
 かたかたと震える自身を、冷たく真っ白になった指で思いきり抱きしめる。寒くて仕方ない。寒くて寒くて仕方ない。
 それ以上に――『害悪』と呼ばれた自分が――恐ろしくてならない。そう評される自分の存在が心底恐ろしい――
「ハク……怖いよ」


 ハクは、青いなにやも知れぬその空間にうずくまり震える千尋を目の前にして、唇を噛みしめた。瑠貴が残していった言葉は、千尋本人だけでなく、ハクさえも打ちのめしていた。
『千尋の存在は害悪』
 ただの人であれば向けられないであろうその言葉。しかも、それを向けたのは、あきらかに『神』に連なる存在であろう瑠貴だ。人が人に向けるのとは意味の重さがまったく違う言霊。その言葉の重大性をより理解したのは当人である千尋ではなくハクであり――その理由がおぼろげながら理解できたのも、ハクの方であった。
「千尋」
 なんと言葉をかければいいのかわからない。
 ハクは、瑠貴がいたその空間だけを千尋との間に横たわらせて、ぎゅっとこぶしを握りしめる。爪が食い込むほど力を込めているのだと気がつきもせず。
「千尋」
『大丈夫だ』とか『私が守る』とか、そんな言葉は気休めにしかならないのだとハクにはわかっていた。言葉の気休めで事態が好転するのであれば、ハクは一晩でも二晩でも慰めや励ましの言葉を千尋に贈っただろう。それで足りないのであれば、頬に触れ、抱きしめて、彼女が安心して眠れるまでそばに居よう。彼女の安息を守る為に全力を尽くそう。彼女を害そうとするすべてを排除しよう。けれども、そんなレベルではない事態を理解して、ハクはそんなまやかしや一時しのぎをする気にはなれなかった。
 何故なら――すべての元凶が、彼女の『中』にあるのだから。それも、一番最初の種を蒔いたのが――他ならぬおのれであるのだと気がついた為に。
 あの晩、千尋を自分の世界に招いた時の、反発の弱さをハクはまだ覚えている。すんなりとこちらの世界に引きこめた千尋の存在は、どこまでも薄く軽く――否、『千尋の住む世界』よりも、影や神の世界に馴染みやすいもので――。まるで、千尋はこちらの世界に生をうけていたとでも言うかのように――または幼い頃からこちらの世界に馴染んでいたかのように。
「千尋」
 青い世界をハクが一歩踏みしめて千尋に近づくごとに、世界の透明さが増した。深い青から明るい光を含む澄んだ青へと変化する。ゆらゆらと揺れる水の世界へと塗り替えられていく。今この世界の主は、瑠貴ではなくハクになっていた。
「千尋」
 震える千尋のそばに片膝をつき名を呼んでも、身体全体で震える千尋には気がつく余裕などありはしなかった。外界の一切を遮断するかのように自分自身を抱きしめている千尋が、それでも呼ぶ名はハクの名であったのだけれども……そのハクの声すらも認識できないのか、千尋はうつろな目でただ震えるばかりであった。
「千尋」
 ほんの少しでも口にしてはいけない言の葉を紡いだからこんな結果になったのか。それともその言の葉を紡ぐことまでもが瑠貴の思惑の内であったのか――わからなかったけれど。震える彼女を見るのは辛い。瑠貴に手渡された言葉によって彼女がどれだけ傷ついたのだろうと考えるのは辛い。その根底にあるのがおのれの存在であるのだと考えるのは――尚辛かったのだけれども。
 伸ばした指の先で千尋の肩先に触れると、ほんのすこしのぬくもりにしがみつくように千尋が両腕を伸ばしてきた。
「ハク……っ」
 子猫が母猫にしがみつく本能にも似た仕草で、千尋はハクに抱きつく。細い手で、一片の木切れにしがみつこうとする強さでハクの身体にしがみつく。恐怖に充ちたうつろな眸をぎゅっと閉じたまぶたで覆い隠して。震える唇でハクの名を呼ばわりながら。
 緊張と恐怖でがちがちに固まり震える千尋を、ハクはぎゅっと抱きしめた。それ以上の力を込めて抱きついてくる千尋ごとひとつの塊になるかと思えるほどに。腕の中の冷たい身体にどれだけの恐怖が詰まっているのか、それをすべて理解してやれない我が身が口惜しい。
「ハク! わたし……わたし、いちゃいけないの?! 生きてちゃいけないの?!」
 大好きだった青い鳥は、去り際に千尋のすべてを否定していった。自分はそんなにも罪深い存在だったのか……千尋の心は真っ黒に塗りつぶされる。
「違う、千尋。そうじゃない」
 腕の中に千尋を抱きしめながら、この言葉は今の彼女にちゃんと届くのか不安に感じながらも、ハクは必死に言葉を連ねた。
「そうじゃないんだ……っ」
 その声は、千尋の声よりも掠れて弱々しく、悲壮に満ちたものであったけれど。
「そなたはなにも悪くないから――ッ!」
 自分よりも泣きそうなハクの声に、千尋は心を惹かれて顔をあげてみた。頬が触れるかと思えるほど近くにあるハクの顔は蒼白だった。
「ハク」
 泣きそうな顔――そんなハクの感情に溢れる顔を至近距離で見てしまって、千尋は言葉を失った。とんっと胸のどこかをつかれた気がした。
「ハク……?」
 どうして泣きそうなの――? 問いたいのに喉も唇も震えてハクの名前以外を紡ぐことができない。
「そなたはなにも悪くない。悪いのは――」
 ――私だ。
 ハクはその言葉を飲み込んで、ゆっくりと千尋の唇をおのれのそれで塞いだ。いきなりの口づけに千尋は目を丸くするが、先のハクの表情を思い出すと抗えはしなかった。ぴったりと身体をくっつけて抱きしめあっているのは緊張と恐怖に疲弊した身体に気持ちが良かったし、唇を重ね合わせているとほっとするから。
 けれどややして、千尋は一向に離れようとしないハクの唇に焦りだした。口づけに慣れていない千尋に息継ぎなどできるわけがない。苦しげに身を捩るものの、ハクはその動きを封じ込めるかのように更に力を込めて千尋を抱きしめる。
「んんっ!」
 酸欠で頭の奥がぐらぐらする。苦しさにぎゅっと閉じたまぶたの端に涙が滲んだ。けれどもハクはどうやっても離れてくれない。
 狭い視界に薄ぼんやりと紗がかかっていき『意識がなくなりそう』と千尋が頭の隅で思った刹那、ハクが片腕の戒めを解き、つっと腕を伸ばした。そして、千尋の髪を結っていた髪止めをするりと外す。
『あ……』
 どうして……??
 いつ頃手に入れたのかもわからない紫の髪止めは、ハクの手の中で星を連ねたかのようにきらきらと瞬いておりとても綺麗だった。だが、千尋が認識できたのはそこまでで、ぼやけた視界にきらきらと紫の光を残したまま千尋の意識は暗い所へと吸い込まれてしまった。ここで気絶してしまってはいけないのに……心のどこかが懸命に叫ぶけれど、千尋にはどうすることもできなかった。息苦しさと疲労に抱きすくめられ続けた身体と意識はすとんと闇の中に落ちてしまった。
 くったりと身体を預けて意識を失った千尋を抱きしめて、ハクは囁く。千尋の耳元で。もう彼女にはなんの言葉も届かないのだと知りつつも――否、届けてはいけないのだと知りつつも。揺れる魂にもうほんの少しも触れてはいけないのだと知りつつも。
「すまない――私と出会ったばかりに……そなたは『人』から歪んだ者に――そなたが私の川へと来て、川に落ちたあの日から――そなたは歪んだ者になってしまったのだね」
 ならば、その些細な出会いすら消し去ってしまおう。
 そなた自身が忘れ去っても、この小さな身体の中に残っていた記憶や痕跡を、すべて消し去ってしまおう。
 ほんのわずかな歪みさえも消し去ってしまおう。
 あの夏の日に再会したことも、赤い塔を見下ろしながらかわした別れ際の約束も、魔女のお守りも――私が担っていたのかもしれない、私が生かされている『理由』であるかもしれない『使命』さえも――すべて消し去って――奪い去って。

「私達が結んだ『縁』を――かけらも残さず――……」

 壊してしまおう。

   ◆◇◆

 ハクは、夕陽が照らし出す千尋の部屋で、千尋の寝顔を見下ろしていた。先の恐怖の表情が嘘のように穏やかな寝顔の少女がベッドで眠っている。すぅすぅと規則正しい寝息は安心しきった眠りの証拠であった。
 ハクの手には、夕陽を弾いてきらきらと光を放つ紫色の髪止めがひとつ。
 無言で千尋の寝顔を見下ろし、ふとあいた手を柔らかな頬にのばしかけ……ハクはその手で空を握り潰した。彼女に触れる、それが彼女にどれだけの影響を与えるか――それを考えれば恐ろしかった。

 ハクは再び舞い戻ることができたこちらの世界のなにものをも振りきるように夕陽に溶けこみ、ふぅと姿を消したのであった。