【07】
選択の朝は来た





   【一】

 茶色いねこっ毛に丹念にブラシを通し、腕を上げて頭の上に高く結い上げる。小さな物なのでしょっちゅうなくしてばかりおりいい加減にうんざりとし、それ専用に作ったフックから学校指定の紺色のヘアゴムを取り上げて手早く束ね、襟足に跳ねた髪をヘアピンで留めていく。
 仕上げに右左と向いてポニーテールの出来具合を確認してから、千尋は
「よしっ」
 と小さく気合を入れて、リビングキッチンへと足を踏み入れた。千尋の動作を追って、セーラー服のプリーツスカートがふわりとひるがえる。
 食欲をそそる香ばしいベーコンエッグやコーヒーの匂いが部屋いっぱいに漂っており、千尋はいそいそと自分の席へとついた。もう中学二年生。体重が気になる年頃ではあったけれど、それ以上に、食べても食べてもお腹がすくのでせっせと朝食を攻略し始める。さきの気合は『今日も一日がんばるぞ』の意味ではなく朝食へと向かう為の気合であったりした。そんな少女であるのに、友人達が羨ましがるほどに食べても食べてもなぜか太らない体質であった。
 本当はもうちょっと太った方が可愛いのだろうけど……との思いは偽らざる本心だ。いつまでたってもこことかあそことかあちらとか他の子達のようにふっくらしてくれないどころか、手足は小学生のように細いままだ。ので、千尋はせっせと滴り落ちるほどにハチミツをかけたトーストを食べ、ボールほどに大きな器に入ったサラダを攻略する。
「あ。お母さん、もう一枚ちょうだい」
 ミルクをたっぷりと入れたコーヒーでよく咀嚼したトーストを流しこみ、立ちあがった母親にお願いする。その間にも指についたハチミツをぺろりと舐め、アプリコットジャムを落としたヨーグルトをせっせと口に運んでいた。
「もう、いい加減自分で焼きなさい」
 だってわたしが焼くと真っ黒になるんだもん、とそこだけ手をとめて唇を尖らせた。そんな娘の仕草を見た悠子は、肩をすくめつつトースターに三枚目となる厚切り食パンをセットした。中学二年にもなるのに少しも『中学生らしい色気』のない我が娘に呆れ果てたのだ。自分が二年生の時なんて、朝食抜きまでしてたのに。『なんて羨ましい』と言うか『嘆かわしい』と言うか。弁当箱だって、ちんまりとした可愛らしい弁当箱なんかではなく、しっかりとした容量のもので。それで運動部に入っているわけでもないし、肉付きがよいわけでもなく逆に手足が棒みたいに細くて詐欺もいい所だ。食べた物体は一体この細い身体のどこに消えているのだろうと我が子ながら不思議になる。あんまりにも燃費が悪過ぎだ。
 ふと自分の夫の食事風景を記憶の中でふりかえればその食べっぷりは遺伝なのだろうと納得もいくけれど、こんなところは似ないで欲しかったとは母親としての当然の願いだろう。
「お母さん、牛乳まだある?」
 ……食べ盛りの息子がいるわけでもないのにエンゲル係数が右肩上がりで、ため息しか出ないのだから。

   ◆◇◆

「いずみーん、田中、おはよー」
『ちひろんおはよー』との声の後ろから『おー』との軽い挨拶が追いかけてきて、千尋はそれに手を振り返した。中学校の校門前、千尋が進む先からこちらに向けて歩いてくる和泉が元気よく手を振り、その隣で俊二が荷物を掲げるように手を上げた。和泉は普段通りの歩調を速めるでもない俊二を気軽に見捨て、小走りにかけると千尋と合流し、肩を並べて校門をくぐった。
 俊二はそのふたりの後ろ姿を見ながら普段通りの歩調で校門をくぐった。俊二としてはこの状況に難癖をつけるつもりは毛頭なかった。なにせ、これは毎朝の光景であるのだから。自分より背の低いふたりが急ぎ足で歩いたところで自分の一歩はそれを軽々と追いかけられるのであるし。それに、千尋と和泉の仲が小学五年生の夏から続く、筋金入りだと知っている為に。今も肩を寄せ合って、まるで恋人同士のようになにやらひそひそと喋りながら歩いているのであるし。
「それにしてもねぇ、田中、どうなの?」
 後ろをのっそりと歩いている体格のよい俊二は、自分の話題が目の前で繰り広げられているとも知る術がなかった。
「実はすっごく意外だったんだけど。いずみんと田中が付き合ってるって」
 山の上の、まるで離れ小島のような住宅地の中学校生徒数など数が知れている。千尋のように転入出生徒が数人いる以外はそのほとんどが小学校、ひどければ保育園・幼稚園からの持ち上がり組みだ。しかも、学年で小人数のクラスがやっと三つできるような過疎地帯、学年全員が顔見知りと言って過言ではないこの状況で、和泉と俊二がよもや付き合うような性格と状況になるとは予想もしていなかった千尋であった。
「あたしも予想してなかったよー」
 だってあいつ小学校の頃から図体でかくて喋らないし声でかいしすぐ怒るし怖いしー。
 と声はひそめてあるが明るく言い放つ和泉に千尋は笑い声をたてた。それだけ悪条件を挙げられるくせにこの状況は一体なに? と膝を付きあわせて問い詰めたくもなるではないか。
「あたしはもっとこう、年上で細くてかっこよくて可愛くてよく喋ってくれるやさしーい人がいいんだけどっ」
 髪も細くてさらさら〜〜としてる人がいいんだけど! 
 こぶしをつくって力説されるが、見事にすべてが『今カレ』とかけ離れている条件ばかりだ。
「じゃぁなんで?!」
 それほとんど全部田中と正反対の希望なんじゃ……同い年だしがっちりしてるしかっこよくないとは言わないけれど可愛くはないし無口だし怖いし、髪も不潔ではないが手触りと言う点では悪そうだし……希望と現実は違うって見本かな? と思いながらも千尋が勢い込んで食らいつくと、和泉はふと遠い目で青い空の彼方を眺めやり、
「さぁ、それがどうしてなんだろうねぇ……」
 と老成感を漂わせた声色でしみじみと呟いた。
『って、告ったのっていずみんなんでしょ?』
 と、千尋はそのぼんやりと遠くを見ている親友の横顔を盗み見た後、ちらりと後方へ視線をやった。そこには、あいも変わらずのそのそと歩くでかい図体が。
『まぁ、六年生になったあたりからだいぶあいつ変わったけど……』
 と評価する。外見もややスマートになり、元から背が高かったので今はがっしりとした男子、の印象におさまっている。顔の方もどうした変化なのやら、なかなかに格好良いと言えるランクに入っていた。なによりもすぐに切れる性格が落ち着きを見せ始め、とっつきやすさが漂っていた。図体のでかさとその微妙な性格変化があいまって、今の俊二は『コワモテで無口で大きくて怖い』のと『あの人無口だけどいいよね』との二極の評価を周りから受ける存在となっていた。その両極端評価の後者の代表が、誰あろう河原ア 和泉だった。
 中学に上がってからのレクリエーションの時になにかしらがあったらしいのだが、そのことに関して和泉にしては珍しく口を開こうとしなかったので千尋は首を傾げていたのだが。大方乙女チックでドラマチックな展開でもあったのだろう、和泉と俊二の間で。それらは聞きたいような怖いから聞きたくないような類の話だろうからあまり深く突っ込みはしないけれど。まさか、自分が俊二に転校当時からずっと見られていたお蔭で和泉のピンチを彼が救うことになり、現状に至ったのだなどとは思いも寄らない千尋であったが。
『まぁ、人生ってそんなものか』
 予測もつかないことが起こるのが人生か、と千尋は納得するのであった。


「ちひろん、今日のびっくりおやつは?」
 午前の授業の半分が終了した時点で、和泉がとことこと千尋の机へとよってくる。和泉の言葉に千尋がにっこりと邪気のない笑顔で学生カバンより取り出したものは、なぜか文旦飴であった。青地に黄色の文旦のコントラスも賑やかな箱だ。もちろん中学校に菓子など持ちこみ厳禁であるが、千尋は堂々とそれらを持ちこんでいた。ある意味常習犯であった。
「じゃん! 今日はボンタンアメ!」
 嬉しげに取り出したのは、ポケットに入るサイズの小さな箱。開けてみれば薄いオブラートに包まれたオレンジ色の半生飴が十四粒ずらりと行儀よく整列している。今時の中学二年生にしては選択が渋い駄菓子でもある。
「あ、ボンタンアメ! あたしにもちょうだい!」
「あたしもあたしもー!」
 あーやだ、やめてよ〜〜! との千尋の悲鳴も聞かず、わー懐かしーこんなの買うのちひろんくらいだよーとわらわらとのびた女生徒達の手が次々と十ニ粒を攫って行き、手元にはたったのふた粒しか残らなかった。ひとつ多く残っているのは、細い体つきながらも成長盛りの食べ盛り、いつでも『お腹すいた』とへにゃへにゃしていてこのままでは早弁しそうな千尋を考えてのクラスメイト達の遠慮と配慮なのだろうか。それともその場に十二人しか女子生徒がいなかった為とも解釈できそうだ。
 それにしてもふた粒とは取りすぎたか、と和泉が後悔する。このままではお昼までこの子もたないかもしれない。本当に早弁したらどうしよう、中学二年の女の子で早弁する子なんてあんまりいないのに。最近では男子だってあんまりいないよ、そんな子。友達としては『早弁する女の子』の汚点レッテル――と思っている――をこの子に貼りつけるのはさすがに忍びない。って言うか、そんな子と友達ってのもなんかいやん。
「ちひろん、それで足りる?」
 足りそうでなかったらこっそりと持ってきたクッキーをわけてもよいかな、と頭の片隅に残っていた良心にうずもれて考えていた和泉に、へこたれていないのか千尋はまだ無邪気な笑顔を向けた。
「大丈夫! だってふた箱持って来たもの!」
 じゃんっと掛け声とともに差し出されたその手には、封も切っていない文旦飴がもうひと箱存在していた。
「そうだよ、あんたってそう言う子だよ」
 と和泉は遠い目になるのであった。

   ◆◇◆

 部活も終わって学校から帰りつくと、千尋は電話へと飛びついた。相手はもちろん一番の親友である和泉だ。その気配をキッチンで夕食を作りながら察して、悠子は額を押さえて盛大にため息を吐き出した。
 中学二年生ともなれば学校や部活だけでは話し足りないのか、電話代がとんでもないことになっていて、家計を預かる悠子の頭を日々悩ませるエンゲル係数と同じく右肩上がりであった。話している内容はどうせ学校のことやら自分のことやら他人の恋愛模様など言ってしまえばどうでもよい事柄ばかりであるのに、年頃の娘達にとってそれらは一刻を争う内容であるらしい。自分自身にも身に覚えがあるのであまりぐちゃぐちゃとうるさく言えないのがなんなのだが。今なら自分の母親の気持ちがよくわかる、と思っても後の祭りだろうが。ちょっと気になるから後で実家に電話でもしてみようかしらととりとめもなく考えてしまう。
「千尋、ご飯よー」
 リビングから顔だけ廊下に突き出して、二階の我が子に声をかけるのは七時前だ。電話代をなんとかする為には夕飯をはやく作って電話を切らせ、さっさと風呂に追いたて、後は勉強勉強と小うるさくするしかない。悠子はそんなところだけ女の子らしい我が子にまたもやため息をつくのであった。せめてどちらかにしてくれないだろうか、食欲魔人か電話魔か。両方は切実に勘弁して欲しい。どれだけ家計を切り詰めても足らないではないか。うちの旦那は娘の電話代と食費を稼ぐ為だけに働いているわけではないのに。食事だって『いかに安くボリュームある食事を作るか』なんて、大家族のテーマではないのだから。優雅に夕食を娘と一緒につくるのがおおっぴらにはしてはいなかったけれどひそかな夢だったのに。
「お母さん、今日の夕飯なに?」
 嬉々としてこちらに聞いてくるこの顔には弱いのだけれども。小学生時の食の細かった頃を思い出せば良しとするしかないのだろうか。そのわりには細いままだけれども、この子。詐欺だ、詐欺もいいところだ。
 我が子であるのに、悠子にとっては宇宙人にも等しい心底不思議な存在であった。


 母親に追いたてられるようにして入浴している最中、千尋は湯船の中で自分の身体を見下ろした。水の屈折によりゆらゆらと揺れる自分の身体のラインは湯気で白くぼやけて見えた。
 中学に上がってから、成長期であるので猛烈にお腹がすくのでしっかり食べているにも関わらず……その食べっぷりに周囲より「あんたヘン、絶対ヘン!」と突っ込まれたのは一度や二度ではないくらい食べているはずであるのにあいも変わらず貧相な自分の身体。キューピー体型とは少し意味が違うが小学生みたいに細い手足にふくらみに乏しい胸。体育の授業の為に着替えるクラスメイト達の体型を見てみれば、早熟な者が多い昨今であるのでほとんどが出るところは出ているか出かけているかだ。可愛らしい下着にふんわりと包まれた胸は心底うらやましかった。
「だって、こんなだったら、名前負けどころか下着負けだもん」
 いくら貧相とは言えもう中学二年生であるので下着もそれなりにつけているが、今の状態ではあまり意味がないと言うかよけい貧相に見えて憐れまれると言うか。実際「あんたはまだ着けなくてもいいんじゃない?」と体育の着替え中に和泉に突っ込まれたこともあるくらいなのだ。おまけにまわりのクラスメイト達からその時おおいに賛同を貰ってしまう不名誉も一緒に与えられてひどくへこんでしまったのは記憶に新しい。
 湯船の中で、下から持ち上げるように胸に手を添えてみても手に乗るものは少なかった。自分的には『貧相』より『哀れ』である。
「うー……むなしい」
 湯船につかりながらがっくりとうなだれる千尋を見る者はいなかったが、かなり憐れな光景であった。

 勉強して、友達と馬鹿やって楽しんで、家族とゆっくりと過ごす。女の子らしい悩みは自身にとっては重大ごとではあったが、命の危機と言うほどのものにかかわることもなくあくまで平和。
 そんな日常がいつまでも続くのだと、千尋はその日も信じて疑わないのであった。

   【二】

 いつもと同じように髪をポニーテールにして、母親に呆れられるほどしっかりと朝食をとり、学生カバンをひっつかんで家を出る。
 いつもの道を歩いて、角の家のゴールデン・レトリバーに挨拶をして、ガーデニングに凝っている家の花をつれづれに鑑賞して、ほどほどの距離を歩くと辿りつく中学校。
 その手前で和泉と俊二に出会うのも計ったようにいつもと同じであった。
「ちひろん、おはよ〜」
 朝の挨拶が、和泉が先か千尋が先か、くらいの差しかないいつもの朝。いつでも必要最低限しか言葉を発しない俊二を置いて、千尋と和泉が肩を寄せ合って歩き出す。
 と、和泉がきゃぁっと黄色い声をあげた。
「冨州原先輩っ! るっちゃん先輩!」
 和泉の視線の先には、すらりとした体格の男子生徒の姿があった。ふと振りかえった仕草、ついで声をかけたのが誰かと気がついてにこりと笑う。男子生徒であるのにその仕草や笑みや物腰が柔らかく、まさに朝に見るに相応しい存在であった。
「和泉ちゃん、おはよう」
 またしてもきゃぁっと声をあげ「おはようございまーす!」と挨拶をかえす和泉へ苦笑するさまも嫌味ではなく、むしろ『るっちゃん先輩』と呼ばれるのも頷けるほどどこか愛嬌のある先輩であった。背はそれほど高くないが、細身で、優しげな顔立ちと雰囲気が一種独特で印象的だ。
「荻野さんもおはよう」
 和泉の隣でぽかんと口を開けて閉じるのを忘れている千尋へも当然のように挨拶をする彼に対して、千尋はどう反応をしたらよいのか一瞬戸惑った。
「あ、はい、おはようございます……」
 千尋の気弱な尻つぼみの挨拶に
「どうしたの、荻野さん。どこか具合悪い?」
 いつも荻野さんは元気なのにどうしたの? 
 小首を傾げて問いかけてくるが、千尋はそれにもどぎまぎとしてしまった。
「ちひろん、どうしたのよぅ! るっちゃん先輩が心配してるよ!」
「え、でも」
「まるではじめて先輩を見るみたいな顔、へんなのー」
「あ、荻野さん、僕を忘れたの?」
 わー傷ついちゃうなーと傷ついてみせる仕草もどこか可愛らしく、和泉はそれにすら可愛い可愛いと囃し立てた。
「だから和泉ちゃん、可愛いも傷つくよ?」
 ついでに『るっちゃん先輩』もなんだかなぁと思うんだけど? と困った顔をしてみせる冨州原に
「駄目です、冨州原先輩が可愛いのは周知の事実なんですから諦めて下さい!」
 るっちゃん先輩が嫌ならるー先輩とどっちがいいですか?! と和泉が畳みかける。
 暗黙の了解でもなくて周知の事実なの……るー先輩もなんかやだ、と冨州原と呼ばれた彼はがっくりと肩を落としてみせた。その漫才のような和泉と冨州原のやりとりに、千尋ばかりかどこか口数の少ない俊二までもがぶっと吹き出す。確かに一学年上であるのに『暗黙の了解』では済まないほどに『可愛らしい』と冠されるのが似合う彼の仕草であったので。
 千尋は笑い声を立てながら、昨日和泉が言いあげた
『年上で細くてかっこよくて可愛くてよく喋ってくれるやさしーい人』
 を体現しているような人だな、と冷静に突っ込みつつ、目の前の人物をよく知らない気がするのは単なる気のせいだと思ったのであった。なぜなら、笑い声をあげている間に次々と彼に対しての情報を思い出したからだ。
 目の前の人物は、自分と和泉が所属する部活の先輩で、時々勉強を教えてもらったりもする。たしか両親は外国に赴任していて祖母とふたり暮し。家事全般も得意な上に、塾にも行かないのに成績は十番以内を維持している、千尋にとっては特異な人物だ。『パーフェクトに可愛い』と和泉の評した『パーフェクト』はどこにでもかけられるだろう。
『なんだ、ちゃんと知っている人じゃないか』
 千尋は冷静に自分へと突っ込みを入れた。
 なんだ、一時的な物忘れかわたし。こう言うのって若年性健忘症って舌噛みそうな名前ついているんだっけ。どちらにせよ先輩を忘れちゃうなんてホント失礼な。あれだけよくしてもらってるのに。
 千尋は、こつりと自分の頭をたたいておいた。


「冨州原先輩にカレーパンって似合わないと思うの」
 中学二年生ともなれば――ましてや運動部でもなければ――自分のスタイルとカロリー摂取を気にするものである。けれども、机をふたつくっつけたまわりに固まっている少女達の弁当箱は両手にすっぽりとおさまるほどの大きさでしかなかったが、千尋のそれはしっかりがっしりとした大きさであった。
「お兄ちゃんのお弁当箱に匹敵する大きさだよ」
 と、高校生の兄を持つクラスメイトがそう評するほどに色気のない弁当箱にぎっしりと詰められた食べ物を千尋はひょいひょいと口に運んでいた。
 ダイエットと称して食事制限をしている女生徒が
『あんたの食べっぷりを見ていると気持ちよくなる時と吐きそうになる時と殴りたくなる時があるわ』
 と大真面目に語ったくらいの食べっぷりであった。
 そんな食事時での、先の発言である。クラスメイトも和泉も思わず吹き出しそうになってしまった。この子、実は今とてもカレーパンが食べたいのではないかと勘繰ってしまえるのだ。あながちその予想が外れていないだろうからどうにかならないものか。
 唯一口に物を入れておらずに難を逃れたクラスメイトがよせばいいのに合いの手をいれた。
「そうそう、カレーパンってイメージじゃないのにるっちゃん先輩ったらカレーパン大好きなんだよねー」
 しかも六軒館の激辛カレーパンが大好きなんだって! 
 との新情報に、
「だからーカレーパンは似合わないっての!!」
 と和泉がじたばたと反論する。
「るっちゃん先輩に似合うのはサンドイッチであって断じてカレーパンじゃなーい!」
 しかもカツサンドじゃなくてたまごサンドとかハムサンドとかトマトサンドのヘルシー系! ベーグルでも良しっ! と握りこぶしで熱く語る和泉にそうだそうだーと賛同する少女達であるが、話題は一所に落ちつくはずもなく次々と移っていった。
「六軒館のワッフル好きー。あそこの食パンも好きだよ、ほんのり甘くって。一本で買ってきて、さくっと切るのが好きなの」
 語尾にハートマークをつけそうな雰囲気で話題を転がしたのは千尋だ。
「あんたの場合、切るだけじゃ済まなくて食べるのも好きなんでしょ……」
 一本で何日持つのよあんたの家、と、和泉がその場にいた全員の疑問を代表したのだが、その問いの真意がわからなくて千尋は無邪気に小首を傾げるのであった。

   【三】

『――ねぇ、忘れたままでいいの?』
 問いかける声が聞こえる。
『――忘れたままでいいの?』
 耳元でささやかれているような声。遠くのこだまのような声。
 ひそやかな、けれども、しっかりとした意思を奥底に秘めた声。
『――本当にそれでいいの?』
 疑問符を形作っていても、それはどこか『疑問』とは違った色に思えて。
 問いかけではなくて追いつめるかのような色に、
「でも」
 反論の言葉を呟く。
 だって、それが『希み』だったんでしょう? 『忘れたまま』でいるのが『願い』だったんでしょう?
 あぁ。でも。それは――『誰』の『希み』で『願い』だったの……?


「……」
 カーテンの隙間から朝の光がさし込んできて、窓の外では雀のさえずりがかしましい時間。
 千尋は自分のベッドに上半身を起こし、掛け蒲団を猫手で握りしめてなにもない宙空を半眼で眺めやっていた。まるでなにか息苦しい夢を見た後のような疲労感が全身を包み込んでいる。
 ぼんやりとしながら思い返すのは、覚醒する前の出来事――つまり、覚えていることこそ珍しい『夢』の内容だ。
 一体何を見たのだろう。なにか大切な夢であったような。それともどうでもよい夢であったような。なにひとつ覚えていない。ただ『疲れた』との感想とぼんやりと白濁した疲労困憊の頭が残るばかりだ。ぼんやりと宙を舐めまわしている千尋には、小学生時のあの起き抜けの良さはかけらも残っていなかった。
「……ま、いっか」
 所詮夢だし。それよりも学校の方が現実的だ、今日は嫌いな世界史があるのだし、と千尋はもう一度後ろに倒れて夢の中に猛ダッシュで帰りたい事柄を思い出してげんなりとするのであった。

   ◆◇◆

「千尋大明神様々! ちひろんマリア様! 二限目の数学当たるの宿題見せて〜〜! 自信ないよー!!」
「まーたーかーっ!」
 もうそんな光景も見慣れた感があって誰も振り向きもしない千尋と和泉のじゃれあい漫才が今日も繰り広げられていた。クラスメイト達は『またか』と呟く。
「わたしだって数学得意じゃないんだから、間違ってても知らないからね!」
 それでもなんとかノートを貸す千尋を眺めやり、確かにあんたは数学得意じゃないけどいずみんはそれに輪をかけて得意じゃないよねと心の中で冷静に突っ込みを入れるのは小学生時代からの持ち上がり組みである――つまるところ大部分のクラスメイトの行為である。
 ついで、これが地理や世界史になると和泉の方がまだ得意で
「なんで昔の人の名前ってこんなしちめんどくさい名前なのー。似たり寄ったりだしー! 年号だってもうわちゃくちゃー! こんなあるかないかの国の名前なんて日本人には関係ないわーっ!」
 頭を抱えて騒ぎたてた末に和泉に泣きつく千尋がいるのだから、ある意味良いコンビだと再確認するのだけれど。
「まぁ進歩ないふたりとも言うけどさ」
 辛口のクラスメイトがそう評するのだが。
 そんなふたりでも、やはり『進歩』または『変化』はあった。
「いずみん薄情だ!」
 いつも通りの弁当タイムも終ったあたりにひょっこりと教室ドアから顔を覗かせたのは隣のクラスの俊二だ。なにやら仏頂面で手招くでもなく立っているが、その姿を見て、たらりらたらら〜とステップでも踏みそうなほどに浮かれているくせにそれを表に出すまいとしてさり気なさを装い席を立って走っていく和泉の後ろ姿に千尋が頬を膨らませてぶうたれる。今日最後の授業である世界史のノートをお昼休みに見せてくれるって約束してたのにーっ! と叫ぶ千尋の声を和泉は綺麗さっぱり黙殺したらしい。俊二とふたりでどこかへ行ってしまった。
「だってあんた、そんなの当たり前じゃない?」
 そうだそうだと声を揃えて賛同する友達に、
「女の友情って成立しないの?!」
 千尋が握りこぶしでくってかかるが
「時と場合によるわよ。とりあえず平時は男をとるかな」
 大丈夫、緊急時には女の友情を取るからさーと千尋の肩を叩きながらクラスメイトの葵が慰めるが
「たぶん。きっと。努力するわ!」
 と続けられてどっと脱力した千尋は
「わたしにとっては今がその緊急時だよ……」
 と遠い目をする。けれどもそうやってふざけた口調をつくりながらも、千尋は胸のどこかがちくりと痛んだのを感じていた。それは、ぶすりとしながらも、明るく『アイツなんてアイツなんてー』と言いながらも、仲がよさそうなふたりの姿を見た時から刺さった棘だ。
 まさか、わたし、田中のことが好きなの?! それともいずみんに友情以上の気持ちを持っているとか?!
 呆然と頭の隅で考え、『や、それ絶対ないし』と裏手パンチで速攻自分ツッコミをいれつつぶんぶんと心の中でだけ頭をふる。そんなんじゃなくて、なにかとても変な感じなのだ。
『忘れたままでいいの?』
 誰かがまたそう言った気がした。


「まぁまぁちひろん、いずみんも謝ってるしさぁ」
 部活動の本拠地である二階角部屋の第二音楽室で、葵はまだ千尋にかまけていた。なにせ、五・六限の授業が終ってもまだ千尋がぶすくれていたからだ。
 勿論千尋が本気で根に持っているわけでもないし葵もそれはわかっていた。中学二年生の微妙な年頃ではそんな些細なことでも一種のイベントと化けさせているだけで『すねている役』である千尋と『宥めている役』である葵と、そして『友情をとりもどそうと苦労している役』を演じている和泉が出演者なだけだ。
 そんな芝居じみたやりとりは日常茶飯事でなんら珍しいものでもなかった。その証拠に、そこにたむろしていた一年生が下敷きと丸めたハンカチを持ち出して『下敷きバトミントン』をはじめると、誰ともなく準備してやりはじめるのだから。和泉と千尋もなんの疑問も持たずにペアになって下敷きバトミントンをはじめてしまった。
 椅子を片付けてある程度の広さを確保すると、あちらこちらでバトミントンもどきがはじまる。開け放した窓から爽やかな風が吹き込み、それに乗って少女達の無邪気な笑い声や真剣な掛け声が外へと響いて行った。
 音楽部であるのに、そしてそこはグランドピアノも設置してある音楽室であるのに、なぜか繰り広げられている『下敷きバトミントン大会』を今ちょうど音楽室へとやってきた冨州原が開け放したドアに貼りつき無言で眺めやっているのに気付くまでそれらは続けられた。その頃には千尋も葵も和泉までもが昼休憩の出来事など頭からすっとばしていた。複雑でいて単純な年頃でもあった。
「あ、るっちゃん先輩帰ってきた」
 無邪気な一年生がきゃらきゃらと笑い声をたててカバンに下敷きを片付ける様子はまったく悪びれたものがなかった。なにせ、この『下敷きバトミントン』を普通にはじめてしまうのはこの部にとっては日常茶飯事で、ある意味『音楽部』としてはやる気ゼロの部活員達も今更であったので。
「北川先生から書類だよ」
 グランドピアノの脇に冨州原が立つと、餌が貰えると勘違いした羊のようにわらわらと群がるその様子も今更だ。
「とりあえず、今年はコンクールに出てみようってことになったのだけれども」
 書類をくばりながらの冨州原の言葉もどこかいい加減だ。なにせ、この音楽部は名ばかりの部活であったからだ。
 三年生は副部長の冨州原と部長の男子生徒のふたりしかおらず、二年も一年もそれぞれ女子ばかり八名ずつしかいない。しかも部長である森本はどちからと言うとかけもちしているコンピューター部に本拠地を置いているようで、パソコンに厭きるサイクルが来ると音楽部に顔を出す程度だ。対外的に『所属部はコン部』と言い放っている部長である。
 冨州原も森本も一年生時に副担任になった音楽部顧問である北川にいつの間にかはめられてなし崩しで音楽部に所属させられていた口であるので真剣味が足りないのはあたりまえでもあったが、それなりに楽しんでいるふたりであったので北川の観察眼は正しいと言えるかもしれない。
「えぇ? 出るの?」
 どこからともなく上がる声に
「はい、出ます。とりあえず僕達も今年が最後だし、一年生がたくさん入ってくれて今年は人数も多いし、一度くらい予選にでてもよいかなぁと」
 やはりどこまでも真剣に活動していない発言でありやりとりであった。文化祭で一曲二曲を歌うとならない限りその存在さえ生徒に知られていない音楽部には相応しいかもしれなかったが。
「それでまぁ、曲をどうしようかってことになって、一通り選曲してみたのだけれどもどれがいい?」
 ちなみに課題曲は『羚羊の祈り』だと報告すると、途端にブーイングがあがる。むずかしそう、と言うのが一番多い意見であったが、少しでも真面目に部活動をしているのならばわけのない選曲ではあった。けれどもこの音楽部は活動らしい活動など皆無、やったとしても最近の流行りの歌やアニメ映画の歌をカラオケよろしく歌いまくっているくらでいある。正統派の曲など倦厭しまくっていた。もう一人の音楽担当教諭がこの地区でも有名な吹奏楽部の鬼であるのに音楽部がこの虚脱状態なのは、それはそれでバランスがとれていると言えなくもないのかもしれない。
「ちなみに、地区予選突破したら、最終的にはもれなく東京遠征がついてきます」
 との言葉に、女性部員は色めき立った。予選突破の東京遠征とはすなわち全国大会に他ならないとわかっていながらも『東京旅行』または『東京見物』と脳内で変換するのはわけがなかった。
「だからその前に、自由曲の選曲ね」
 さり気なく副部長に話の流れを戻されていても今度はもう少しぴりりとしたものが宿った。
「佳乃子ちゃん、好きな曲ある?」
 なんの前触れもなく名指しされて、一年の佳乃子はどぎまぎとしながらも曲名を口にした。手元の紙になにやら書き留めては、新たな一年生を指名する副部長。
「悠ちゃんと咲月ちゃんは?」
 二年生にも移って行き、和泉ちゃん、葵ちゃん、とひとりずつ名指しされ、最後に千尋の番が来た。
「荻野さんはどう?」
 そこで千尋が口を開ける前に、一年生の佳乃子が声をあげた。
「そう言えばるっちゃん先輩、わたし達はちゃん付けなのに、千尋先輩だけ『荻野さん』ですよね?」
 あれ? 言われてみればそんな気がする、とあちらからもこちらからも声が上がり、千尋もその些細な差に首を捻った。指摘されなければ軽く聞き流してしまいそうな自然さで呼びかけられていたが、言われてみれば冨州原は大概が下の名前を呼ぶことが多い。それは同級生の男子生徒であろうと、下級生の女子生徒であろうと。下の名前まで間違えずに覚えているその記憶力に感心した記憶があるくらいであるのに、どうして自分の名前だけ『荻野さん』なのだろう?
「はっは〜ん、わかった!」
 なにかの探偵をきどった仕草でポーズをとり、そんな声をあげたのは葵だ。
「ちひろんはるっちゃん先輩の『特別』なんだ!」
 えぇやだっうらやまし〜〜! とその当人達の前でいやいやをする女性部員の大半の行動に、冨州原は否定するでもなく
「うん、そう。荻野さんは特別」
 と油をそそぐ言葉をのせる。
「でも、葵ちゃんも和泉ちゃんも、咲月ちゃんも悠ちゃんも佳乃子ちゃんも、皆特別だけどね」
 と続けるところは天然の女たらしかもしれない。
「じゃぁどうして千尋先輩だけ『荻野さん』なの?」
 しつこく食いついてくる一年生に、冨州原はにっこりと笑った。その笑みに「やーんかわいいー」と叫ぶ後輩達に、冨州原は「やーめーなーさーいー」と魂の抜けたような声色と苦笑で怒っていた。
「だって、名前で呼んだら囚われてしまうだろう?」
 やー意味わかんなーい、と怒られてもまだ騒ぐ部員達を笑顔で丸め込むかのようににこにことしている冨州原の笑顔の奥に千尋だけはなにか違和感を覚えて、騒ぐ周囲をよそに押し黙り
「それでもって、適当にやっている部活動はとりあえず週三に増えるので覚悟してね」
 コンクール前は合宿なんかも予定してますーとの冨州原の説明に、嬉しいやら困惑やらの声がきゃぁきゃぁと覆いかぶさり、千尋のおかしな様子に気付く者は誰もいないのであった。


 寝耳に水状態でコンクール参加を告げられたので、やはりと言うか当然と言うか、その日のうちに自由曲が決まるはずもなかった。
 自由曲選曲は次回にまわすとして、と冨州原が言葉を切り
「じゃぁあとは課題曲の練習をやります」
 とグランドピアノを弾きはじめると、なんだかんだと騒いでいた部員達もじっと耳を澄ませて大人しくなるのだから不思議だ。
 細身で優しげな顔立ちをしているがれっきとした男子生徒だと知っているだけに、その冨州原がらくらくとピアノを弾きこなす姿はギャップよりも羨望しかない。新しく作られた住宅街の市立中学であるのでたいした設備も装飾もない音楽室にそれでも優雅なピアノ曲が流れ、その黒光りするグランドピアノを囲んで音楽に聞き惚れる少女達の図とはなにかの絵の題材にでもなりそうな光景であった。掃除だけは行き届いた板張りの床を軽やかに音符が転がっていく。
 そんな、音楽部にしてはいやに真面目な部活動がはじめて行われたその日、千尋は他の部員がいなくなった音楽室にまだ残っていた。ぼんやりと椅子に座り込み窓から夕陽を眺めやっている。
 近寄る者もいない音楽室に遠い運動部のざわめきが忍び込む。四角く切り取られた窓がずらりと並ぶ廊下をひたひたと進んでくるのは静寂と沈黙だ。奥底霞む廊下の先になにが潜んでいるのか、音楽室にいる千尋にわかるはずもなかった。生徒や教職員がたしかに存在しているであろうに、どこか隔離された感触を受けるその校舎の静けさと遠いざわめきは千尋を完全に孤立させていた。
『なんだったのだろう』
 なにをするでもなく椅子に座り込んだまま立ちあがれずに、千尋はぼんやりと思う。虚脱した身体がやけに重かった。
『あれはなんだったのだろう』
 左の頬に夕陽を浴びながら。
『なんの意味だったのだろう』
 あのわけのわからない言葉は。感じ取った違和感は。
「だって、先輩なのに」
 憧れの先輩なのに。優しい先輩なのに。どうして『変』だと感じたのだろう。それ以上に、よく知っている冨州原に違和感を覚えた自分自身が信じられなかった。そろそろと吐き出した息はピアノの音のように床を転がっていかず、重く千尋にのしかかるばかりであった。
 と、千尋はドアからひょっこりとあらわれた頭にびくりと身体を震わせた。なにせ、それは思考の中心にいた冨州原であったので。
 けれどもいつも通りの『可愛らしい』と言われる仕草で顔を覗かせた彼の姿に、千尋の中の違和感が悲鳴をあげた。
「あれ? 荻野さん、まだ残ってたの?」
 あ、やっぱりここだ、と呟きながら音楽室へと踏み込んでグランドピアノの椅子の上から書類を取り上げる冨州原の動きを、それでも千尋は目で追わずにはいられなかった。そして、ピアノの椅子の上にそんな目立つ物体があったのだと今更ながらに気がつかされた。そこは視界に余裕で入っていた場所であったので、その自分のぼんやり加減に驚くしかなかった。
「あの……っ」
 本当は今すぐにでも席を立って部屋から出てしまいたいのに、なぜか魔法でもかけられたのか、身体が動かなかった。
「わたし……っ」
 そんな千尋を、小首を傾げて不思議そうに眺めた後、冨州原は普段と同じ人好きのする笑顔をのせた。そのまま千尋の隣の席に座り込む。千尋は心があげる悲鳴がしんっと静まりかえるのを感じた。否、騒ぐだけの力も縛り上げられたかのような不思議な感覚に囚われてしまった。
「荻野さん、どうしたの?」
 冨州原の声も口調も表情も、千尋がよく知った『冨州原先輩』のものであったが、千尋は体の奥の奥にある『心』がぴくりと跳ねたのを感じた。
「あのっ冨州原先輩っ」
 あの……と、言葉にもならない音ばかりを繰り返しがちがちに固まった千尋に、冨州原はくすりと笑った。その笑みを見て千尋は状況に反して身体が弛緩するような錯覚に囚われたのだが……
「どうして忘れたままでいられるの――?」
 さらりとそう問われて、息を飲みこむのであった。
「とよすはらせんぱい……」
 力のこもらないかすれた声で名を呼ぶ行為が、自分のしていることであるのにやけに遠かった。
「とよす……」
 喉は喘ぐかのような息しか取り込めずにいる。
「忘れ……って」
 ――この人は誰?
 千尋の中の声が盛大に警鐘をならすが、千尋はそれに従って逃げることも抗うこともできなかった。
「どうして……」
 何を忘れていると? そして、あなたは何を知っていると――??
 すると、冨州原は笑みを深くした。
「だって、帰るのも忘れているみたいだし?」
 昨日だって僕を忘れてたみたいだし。若年性健忘症って言うのそれ? 
 と言った後で、単なる疲れでぼんやりしているだけだよねー、健忘症なんて失礼だよねーと冨州原は自分でつっこみを入れていた。
「あ、そう……そうですよね。わたし、帰るのも忘れちゃって……」
 千尋は弾かれたように椅子から立ちあがり、音楽室のドアの向こうを目指した。もつれそうになる足を無理矢理に動かして脱出する。
「荻野さん、顔色悪いからちゃんと寝るんだよー」
 疲れていたら神経もまいっちゃうからねー、との心優しい冨州原らしい言葉に背中をやんわりと押されながら、千尋は校舎の玄関めがけて廊下を走るのであった。

   【四】

『忘れたままでいいの?』
 だって、仕方がないじゃない。
『仕方がないですませられるの?』
 それが『望み』であったのだから、仕方がないじゃない。
『それは千尋の望み?』
 それは違う。忘れたくなんかない。たとえ、怖かったり、辛かったり、寂しかったり、哀しかったりする『過去』でも。怖さや辛さや寂しさや哀しさを知って優しくもなれると思うから。
『では、どうして忘れたままでいられるの?』
 だって、それが『あの人』の『望み』だったから――
 ワタシハ忘レタクナンカナカッタノニ。絶対ニ忘レタクナンカナカッタノニ。

 どこかで、誰かが、くすりと笑った気がした。

   ◆◇◆

「寝不足も二日続いたらやる気なくなるよー」
 千尋は前日と同じように、なんとも表現しづらい疲労感に包まれて目を覚ました。昨日と同じに、掛け蒲団を握りしめてぼんやりとした表情でなにもない空間を眺めているばかりだ。その顔色の悪さをみれば、状況は尚悪いとも言える。元から猫背気味の背がそのまま前のめりになりそうなほどであった。否、実際に前のめりになり、潰れた『つ』の字になっている。
「がっこう……」
 行かなくちゃ。と呟いたきり、千尋はこくりと黙り込んだ。いつもなら『お腹すいた』とベッドから飛び起きるほどに活力に溢れているのに、今は身体の中のどこにもそんな気力などかけらもみあたらなかった。思わず額を右手でおさえて目を閉じる。薄い闇が居心地良くて、そこから出るのはとても嫌だった。
「ごはん……」
 がっこうにいくまえにごはん。と行動順序を思い出すが、食事を取ると考えるだけで億劫だ。
 和泉あたりが見れば
「ちひろん、どうした? とうとう食あたり?」
 とでも突っ込みそうなほどの異様さであった。

   ◆◇◆

 ここ最近では珍しいほどに勢いのない朝食になり、母親のまた別の意味での心配げな顔に送り出され、ぼんやりと歩いて辿りついた中学校。
「いずみん、たなか。おはよー」
 いつも通りの挨拶さえ脱力気味で、こちらは普段通り爽やかに向かえた朝であったのに『朝っぱらから縁起が悪いなぁ』との感想をふたりが思わず抱いてしまうほど景気の悪い千尋であった。いつものように和泉と肩を並べて校舎まで歩くその距離も、どちらかと言うと『もたれかかっている』に近いもの。
「ちひろん、もう帰ったら?」
 そんな言葉を和泉が吐いたのは、弁当タイムの最中である。なぜなら、弁当だけはいつも通り色気のかけらもないしっかりと大きな弁当であったが、自分が弁当を食べ終わってもまだ千尋はもそもそと一口二口としていたのであるからだ。いつもなら自分と同じ時間に食べ終わるはずであるのに、見ているだけでこちらの方が胸につかえて仕方がないではないか。いつもの豪快な千尋の食事に見慣れているだけに、なんだか違和感が際立ってしまう。
「そうそう、いつものちひろんならとっくの昔に食べ終わってるだろうに、まだ食べてるんだもん、びっくりしちゃった。ご飯の時だけはどんなに失敗した後でも元気になるあんたがそんなってのはよっぽどだと思うよ」
「ポニーテールもなんかへたれてるし」
「昨日からなんか変だし」
「そう言えば、今日のびっくりおやつもなかったよね」
「あれ、あたし、いつも楽しみにしてるんだけどなー」
「今日は絶対『滋養豊富 風味絶佳 ミルクキャラメル』だと思ってたのにな」
「一粒で百メートル走?」
「それはグリコー」
「今日のおやつはフランの新作なんだけど」
「え?! ダメだよ、ちひろんにフランなんてイマドキモノは似合わない!」
「そうそう! ちひろんには一万歩譲ってもプリッツのサラダ味とかが似合うんだからー」
 どうしたのちひろん? お腹の調子でも悪い? 変なモノ食べたがるなんて??
 その場にいた友達から素直に受け取れない心配のされ方をして、千尋はひとり
『一体わたしをなんだと思ってるのーみんなー??』
 とぐるぐる考えるものの、はいともいいえとも返答できずにいた。お菓子の趣味はこの際横に置いておくとして――お腹の調子は、たぶん、すこぶるよい。けれど、全身を包む疲労感はひどくなるばかりで。食事をとるのも億劫だった。ざわざわとした教室の雰囲気さえ肌に突き刺さって気持ちが悪い。よく午前中耐えられたものだとすこしばかり感心するくらいだ。できることならこのまま帰って眠ってしまいたい。いや、今すぐにでも眠りたい。和泉の肩にもたれかかって目を閉じたい誘惑にかられてしまう。
 でも、
『寝たらまた言われる』
 と心が無意識に呟いて、千尋はこてんと小首を傾げた。
『言われる』ってなにを?
 自分の心の言葉であるのに、その意味が千尋自身にはわからなかった。
「ちひろん、やっぱり帰りなよ、あんた」
 顔色悪いもん、大真面目に。
 和泉がはじめの言葉とは心配の度合いが深いいたわりの言葉を口にのせるほど、千尋の顔はみるみる青ざめていった。
「だって、言われるもの……」
 ちっとも減らない弁当箱と動かない箸を握りしめて千尋がぼんやりと呟くが、和泉はそれらを千尋の両手から強引にもぎとって弁当袋へと詰め込み始めた。そのまま千尋の荷物もまとめはじめてしまう。
「ホント、あんた帰りな。なんか熱もあるみたいだし、寝言を寝てもいないのに言えるくらい重症な人ってはじめてみたよ」
 先生には言っとくからさ、あんたは帰って寝ること!
 と、無理矢理に千尋の背中を押す。
 千尋は以前にも和泉に追いやられるようにして学校を後にしたことがあるような気がしてならない。それはいつだったのか……すっぽりと記憶が抜け落ちているようで、それが堪らなく気持ちが悪かったが、それは熱の為の体調不良なのかどうかもさっぱりとわからなかった。


 歌っている。誰かが。遠くで。近くで。
『ささやくような』
 いいえ、気取らずに、自然体で、口ずさんでいる。
『きれい』
 柔らかくて優しい声だ。歌詞もなにもない『歌』だけど、誰かが歌っている。どこかで聞いた気がする『歌』だ。いつでも耳にしている『歌』だ。
『なにを歌ってるの?』
 どうして歌ってるの?
「歌いたいから」
 歌うことを知っている生き物だから。
 返って来るとは思わなかった問いかけの答えに、千尋は眠りの中で閉じていたまぶたを押し開けた。耳にした声が信じられないものであったので。
「――冨州原先輩?」
「そう。人は歌うことを知っている生き物だろう?」
 そうして夢の中でにっこりと笑ったのは、なぜか冨州原だった。
「歌っていたのは、先輩?」
「音楽部は歌うものだろう?」
 たしかにそうだけれども……と口篭もっても、冨州原は柔らかく笑ったままだ。
 まわりを見まわすと、夕陽が差し込む第二音楽室にふたりきりであった。
 冨州原はいつものようにグランドピアノを弾いている。なんの曲なのだろうか、綺麗な旋律であった。男にしては細い指と、白と黒の鍵盤。夕陽色の空気を緩やかにすべっている音符。あわせるように声を乗せる冨州原のそれは、部としては真面目に活動していない音楽部であるのにとても自然にのびていた。彼の声は元からが音楽的であったのだと今更の如く千尋は気がついた。和泉達が気軽に会話をし、懐いていたのは、この懐かしささえ感じる声にあるのではないかとふと思う。
 大きくあけた窓から柔らかな風が吹き込んで、千尋のポニーテールの先と制服のプリーツスカートをゆるくはためかせた。どこまでも穏やかな空気に満ちていた。夢である不自然さが際立つのにどこまでも自然で鮮明な冨州原の姿に、昨日から脅えていたことすら忘れそうになる自分に千尋は驚いた。昨日から彼が怖くて怖くて仕方がなかったのに……どうして。
「先輩はどうして……」
 わたしの夢に出てくるの――? 
 そう問いかける頭の隅で、前にも――遠い遠い過去に、似た質問を誰かに向けた気がしていた。
「だって、千尋が逃げるから」
「別に、わたし……逃げてたわけじゃ……」
「うん、体調が悪いんだってね。和泉ちゃんから聞いた」
 そこで千尋は小首を傾げた。なにやら、夢にしては不思議なやりとりだ。まるで、本物の冨州原と話をしているようだ。けれども違う点をあげるとすれば、冨州原の自分への呼びかけ方だ。葵や和泉があの日指摘したように、冨州原は自分だけ『名前』で呼ばなかったのに――……。
「歌うと言えばさ」
 千尋の困惑を知らぬげに、冨州原は旋律を紡ぎ続ける。
「地球上で『歌う』共通点を持つ生き物がいるよね」
 歌うことを知っている、歌を楽しんでいる生き物が。
 唐突なその言葉に、千尋は面食らった。冨州原の言葉はいつでも謎めいている。優しげで、けれども曖昧で、不確か。
『不確かと言えば』
 彼の家族構成や趣味まで知っているのに、冨州原の『名前』を知らないのだと突然気がついた。和泉達が親しげに『るっちゃん先輩』と呼んでいるが、それがどんな名前の略なのか千尋は知らない。
 冨州原のなにげない問いかけに気がついた事実。それらが千尋の中でぐるぐると渦を巻いて気持ちが悪かった。立っているのも億劫だった。背後にずらりと並べられた生徒用の椅子に座り込んでしまいたかった。けれども動いてこの柔らかな空気を乱すのが勿体無くて――少しでも動けばそのまま叫び出しそうで、恐ろしかった。
 目の前でピアノを弾く冨州原を見つめながら、よくまわらない頭で考える。動かせない身体のかわりに。逃げ出せもできなかったので。
『歌うことが好きな生き物』
 人間以外の。
『人との共通点を持つ生き物』
 知らない冨州原の『名前』は――……
「瑠貴」
 千尋は瞬きをひとつした。そこに存在しているのは、たしかに『瑠貴』だった。青い鳥の瑠貴。夢の中で一度だけ見た少年姿の瑠貴。
 どうして今まで気がつかなかったのだろう、こんなにも彼は『彼』であったのに。捉え所のない優しさは鳥の気まぐれか彼の本質なのか。悪戯めいたやりとりは鳥であるからか彼であったからなのか。髪の色が違う、髪型が違う、服装が違うなんてものは些細な差であり、それ以上にはっきりとした共通点が多かったのに、どうして今まで気がつかなかったのだろう――? 
 鳥の瑠貴の記憶を鮮明にしようと目をこらしても曖昧にぼやけてしまって、今の今までそんな鳥の存在すら忘れてしまっていたけれども。同時に『冨州原先輩』など、やはりはじめからいなかったのだと知り得た。あの朝に感じた不可思議な感触は正しく違和感であったのだと今なら理解できる。あの朝までは存在していなかった『瑠貴』が何食わぬ顔で千尋の学校生活に入りこんでいたのだ。
 冨州原――瑠貴は、正しく名を呼ばれたからか、今までとは意味合いの違う笑みを浮かべた。そして、その上で同じ質問を再び千尋へと向けるのだ。
「どうして忘れたままでいられたの?」
 少しばかり意味合いの違う質問を。千尋にはそれが正しくなにをさすのかもわからない問いであるのに。
「それは……瑠貴のことを……?」
 恐る恐る口に乗せたその問いは、言霊として押し出した瞬間に『違う』とわかった。彼のことを『忘れていた』ことなど彼にとっては関係ないのだとなぜかわかる。彼はずっと『どうして忘れたままでいられたの?』と問いかけ続けていたけれど、それは千尋が自身を忘れ去っていたことではない。
「わたし、なにを……」
『瑠貴』を忘れていた以外に、なにを忘れていたと――??
 その言葉に、瑠貴はゆっくりと笑みを深くして応えたような気が千尋にはした。けれども、やはり意味がわかる応えではなくて、はっきりとしない。明確な答えが欲しいのに、と千尋は内心で唇を噛みしめる。旋律に連なっていた最後の音符が空気を震わせて消えていったのが、千尋は自分の心の震えに感じられた。
「それは、千尋が選択すること」
 さぁ、もう朝だ。千尋は起きないと――。
 白い鍵盤から離れた、男にしては細くて長い瑠貴の指が、つんっと千尋の額を軽く突ついた。
『選択って……なにを?』
 どうやって??
 そう聞き返したいのに、千尋は、夢の中で更なる夢に落ち込むような感覚に囚われて、意識を闇の中へと隠された。
 その闇の底の底で、千尋は、瑠貴がひいていたピアノ曲を思い出した。ドビッシューの『夢』だ。繊細で綺麗なのだけれど、どこか不安定さを秘めたその曲は、先の夢と瑠貴にとても良く似合っていた、と千尋は思うのだった。 

   【五】

 ここ暫く寝起きはすこぶる気分が悪かったが、学校を早退してぐっすりと眠ったからか、何日かぶりに気持ちよく目覚められた朝。
 千尋はセーラー服のプリーツをひるがえし足音も軽く階段を駆け下り、洗面所でいつもの通り身支度を整えていた。
「千尋、今日は学校に行けるの?」
 足音を聞きつけて顔を覗かせた悠子に
「うん、今日は行けるー」
 お母さーん、今日の朝ご飯なにー?
 と明るく会話を返す声は普段と同じもので。
 娘の顔色の悪さを思い出しては大丈夫かしらと心配していた悠子は、その相変わらずの声や質問に肩を軽くすくませ
「今日は和食よ。鮭にお味噌汁」
 具はジャガイモにタマネギにワカメがいいなぁと洗面所で笑った娘に
「まったく、子供嗜好なんだから」
 と返しながら頭をひっこめた母は、この後その娘が唐突に姿を消すなどと思いもよらなかった。


 千尋はいつものように茶色がかった髪に丹念にブラシを通し、腕を上げて高く結い上げる。そして片腕を伸ばして、髪止め専用のフックから髪止めを取ろうとしてふと指を止めた。そこには、紺色と紫色の髪止めが。
「……」
 躊躇うように指先を揺らしたが、今日は紫色の髪止めがしたくなった。『無性に』とも『なぜこんなものがここに』との疑問はかけらも持たず、ただ自然にそれを選択していた。自分の髪止め、それ以外の認識もなにもなかった。窓からさし込む朝の光に、キラキラと光を弾いている紫の髪止め。
 すっと持ち上げた紫色の髪止めはしゃらしゃらと指先を滑り、とても小さな物であるのに気持ちが良い。それをそのまま左手で固定していたポニーテールの根元へと滑り込ませる……
「え……?」
 ぱちんっと目の前で風船が割れた心地がした。または、夢から醒めた気分のような。モノクロの写真が突然色をまとったような。一瞬で世界が反転したような――。静かな、けれどもたしかな衝撃が千尋の全身を駆け巡った。
 千尋は、震える指先で口元を覆った。そうしないと大声で叫び出しそうだったので。どうしてどうしてどうして。その気持ちがぐるぐると渦を巻く。
 膨大な情報と色彩と音が駆け巡っているのに、千尋がその時認識できたのは、『忘れていた自分自身のあり方』と『無色』と『無音』世界で。なにものからも孤立した寂しさと、それでも誰かを知っている――愛しさ。その二色に千尋は全身を抱きしめられていた。

「わたし……」
 どうして。
「忘れてた」
 思い出した。
「選択を」
 目の前に並べられたそれを。
「今」
 した。

   ◆◇◆

 森はいつでも穏やかなままであった。春に新葉をつけ、夏に青々と色を増し、秋に水気を失い、冬には雪を身に飾る。淡々と時を紡ぐその場所は、同じだけ淡々と生きている魔女の巨大な結界の一部。
 今、その結界の中央に、もうすっかりと馴染み、その者自体が結界の一部かと思われるほどにひっそりと佇む存在があった。すっきりとした姿形に、長い黒髪、白い衣の男である。
 その彼は、風が吹き髪や衣の裾を柔らかく揺らす以外には微動だにしない。まぶたさえも閉じ、なにも見ようとしないし聞こうともしていないような姿であった。なにが起こっても彼は彼のまま動こうとしないのではないか、火が足元についても逃げ出さない――否、逃げ出せない存在である樹や岩であるように、そこでそうしているのが生まれた時からの自然な姿であるかのような。
 その彼が、前触れもなく両の目を開いた。晒されるのは翡翠色の眸だ。森の色を溶かし込んだかのような色。
 その目で見据えるのはどこも同じである森の狭間であったが、そこには今の今まで有り得なかった物が現れていた。白い紙片だ。それが風も吹いていないのにそこにひらひらと漂っていた。
「銭婆様」
 唇は閉じているのが自然だと思われた彼が、口を開いた。
「なにごとです?」
 疑問符を乗せながらもどこか感情に乏しいその声に、肩をすくめたかのような空気がその紙片から伝わってくる。彼の翡翠色の眸には、真実肩をすくめている老婆の姿が見えていた。
『いいや。いつまでそうしてそこにいるつもりなんだろうねぇと思ってね』
「愚問です。いつまででもここでこうしていますよ」
 ここでずっと時を過ごします、と返してきた彼に、銭婆はもうひとつため息を吐き出した。白い紙片――式神を通じて覗きこんだ森の中に佇んでいるのは、あの冬の日から姿を緩やかに成長させた竜の子供だ。その白い顔は少年の幼さをなくし、すっきりとしたラインを描いている。その頬に落ちる影は憂いが深かった。
 神にとっての『外見』とは生まれてからの『年』とはなんの関係もない。意思によって如何様にも変えられる。年齢も、髪や眸の色や纏う衣さえも『神』の身分やその存在をはかる正確な手段には成り得ない。
 けれども、彼が湯婆婆に使役されていた時、年端もいかない少年の姿をとっていたのは、穢れても穢れてもそれでも保っていた彼の潔癖性を強くあらわしていたのだろうと銭婆は推理づけていた。内面を表にあらわすことによって聖性を保つ――それはきっと無意識の行為であったのだろうけれど。
 だが、今の彼は『少年』を脱却した姿である。その姿をとっている理由が、おのれの為ではなくて他の為に彼が心を砕いた、その苦悩のあらわれであると知っている銭婆に、その、男にしては美しい姿に見惚れ賛辞を送れるわけがなかった。彼の取る美しい姿は、それすなわち彼の苦悩の深さゆえであるのだから。神の外見は如何様にも偽れる。けれど、それは裏返せば、その気がなければ外見は内面を強くあらわすのだと考えられる。ハクが現在とる姿は、彼自身の、孤独なまでの矜持と神聖をそのまま映しとった美しさなのだろう。
 どうしてこの子は幸せになれないのだろう。
 それが銭婆の常からの疑問であった。
 どうしてこの子は穏やかに暮らせないのだろう。
 かつて、竜の子が人の子へと抱いたその疑問を、今この時、年老いた魔女が若い竜へと抱いていた。表情に乏しい白い横顔が透徹とした美しさを増せば増すだけ銭婆の疑問は深く重い物となっていった。
 どうしてこの子は、いつでもなにかを諦めなければならないのだろう? 穏やかな生活や、守りたい『モノ』を守るその権利さえも諦めなければならないのだろう? この子が悪いわけではないのに……何者からも捨て置かれこんなところにまで流れてしまったのに、どうして――誰が彼を苦しめるのだろう、と。半身とも言える川を失う、それだけでは彼は許されないのだろうか? 彼が知らずに持っていた業はそれだけ重いと? 彼はささやかな幸せすら求めてはならないと――??
 唯一彼に残っている『絆』をも自分自身で断ち切ってしまわなければならないなんて哀しすぎるではないか。『彼』を知っている唯一の人の子に害を及ぼさぬよう、彼女からの絆を断ち、また、おのれからの絆をも断ち切る為に彼女の記憶をみずから封印した彼はなんの為に生きているのか? 動けぬ岩のようにただこの自然の結界の中で立ちつくしている彼は『生きている』と言えるのか……。しかも、彼がこうしているのは、彼女が天寿をまっとうする、その瞬間まで続くのだ。彼女の人生が穏やかなるを願いながらもその死を待ちわびてでもいるような彼のあり方が憐れだった。
 あぁ、それでも、と銭婆は思う。久方ぶりに晒された翡翠色の眸はとうに閉じられいつものように押し黙ってしまったが、その竜の横顔を見つめて、それでもこの子はあの子の為に生きているのだ、と。どんなにあの子のことを忘れようとしても、真実彼の中に彼女との絆をさがしてもさがしてもかけらほども見つけられないほど奥深く隠され粉々に分散されていようとも、その行いこそがすべて彼女との絆となる。彼は彼女の為にそうして生きている。そして、彼女が彼の望み通り、すべてを忘れ去り穏やかに生きているだけで――ただそれだけでそれすらも絆になるのだ――と銭婆は思うのだ。どこに救いがあるのか、そう問われれば銭婆は口を閉ざすしかなかったが。いつまでも堂々巡りをするこのふたりの関係に銭婆は挟む口を持たなかった。時折ハクの姿を見ていることも辛くなり、今のように目を伏せてしまうほどだ。
 あちらの世界に戻ったとほっと胸を撫で下ろしたと思ったら、すぐに戻ってきたハクの様子になにも言えなかったのは何年前の出来事であったろうか。それまでは、『夢』を渡ってあちらの世界に行く為にこの森の結界に踏み込む以外は銭婆の家に身を寄せていた彼が一歩も結界の中心部から出なくなって何年だろうか。それと同じだけの時間があちらでも流れているはずだ。
 今頃あの子は十四・五才だろうか。小さな子供の成長は著しい。きっと背も伸び、幼い子供も少女らしさを増しているだろう。毎日の生活を楽しみ――もしかしたら恋をしているかもしれない――同じ種族である『人』の異性に。
 その考えと同時に、この子はあと何年こうしていなければならないのだろう、と銭婆が思考を遠い空の下へとはせた時、びりりと振動した空気に目を見開いた。ざっと走らせる視界に映った森の結界――その中央に位置する、樹の影――そこに、今しがた思い描いたばかりの――セーラー服姿の少女がいたからであった。やせっぽちで、身体の丸みもさほどなく、けれども、彼女以外の何者でもない『彼女』が。

「ハク……っ!」
 
 その声に閉じたまぶたを押し開けた彼と、その翡翠色を食い入るように見つめる彼女。

 どちらの心の針がより大きく振れたのか。
 それはふたりにもわからない。