【08】
緑陰と花の世界より





   【一】

『淡き光立つ 俄雨
いとし面影の沈丁花
溢るる涙の蕾から
ひとつ ひとつ香り始める』
 なにやも知れぬ森の中に、美しい歌声が響いていた。樹木にとまる小鳥達ですら耳を澄ませ、または歌にあわせるかのようにさえずり出すほどに、自然な伸びやかさがある声であった。
 古く苔むした岩陰や太い樹の影からタヌキやキツネやアライグマなどの獣達が顔を出し、丸や三角の耳をそちらに向けていた。尻尾が右に左にゆぅらゆらと揺れ、とても嬉しそうである。
『それは それは 空を越えて
やがて やがて 迎えに来る』
 誰が歌うかと小鳥達や獣達の視線を追えば、そこに青とも瑠璃色とも表現できる、人ではあらざる色の髪を長く伸ばしひとつに束ねた、十五・六才ほどの少年の姿を見つけられるだろう。そのいでたちは、ついぞ見られなくなった古風な衣をしゃんと着こなした雅やかなもの。空を見上げた双眸は、青を煮詰めた黒。
 森の中にこんこんと湧く清水のふちにつと突き出した岩に腰を下ろし歌っているその姿は、小鳥がちょこんと岩の上で身体を休めがてら、それでも歌が好きだとばかりに喉を震わせている光景にも思える。
 恐れを感じることもなく、尻尾をふさふさとさせた栗鼠が一匹、同じ岩の上によじ登って、その者の声に耳を傾けていた。
『春よ 遠き春よ まぶた閉じればそこに
愛をくれし君の なつかしき声がする』
 人の言葉で作られた『詩』であっても、その者が――瑠貴が歌うとどこか非現実めいた色を帯びる。詩の意味を考えるよりも先に、水面を渡る風が奏でた音か、はたまた風に揺れた梢の音にとらえられてしまうのだ。それは、どんなに切々と愛や哀しみを歌い上げても、結局は誰の心にも深くは届かない錯覚にも似た声だった。
「あぁうるさいねぇまったく。その歌をやめておくれ!」
 その自然の光景をそんな無粋な言葉で掻き乱したのは、太い老婆の声であった。唐突な声の出現と同じく、少年よりすこし距離をとったそこに突如現れた青いドレスの老婆に、少年はにっこりと笑って視線をやった。膝にまでよじ登り手元にまで近づいていた栗鼠は、老婆の声に慌てふためきまろびながら、岩より大脱走をしてしまった。
「しかもその変な歌はなんなんだい?」
「これ? すこしばかり昔に流行った歌」
 気持ちが良い歌でしょう? と、強面の老婆に睨みつけるようにされていても怖がりもせず柔らかな笑みさえ浮かべる青い鳥。その様子に、老婆はこの上もなく不機嫌な、むすっとした表情になった。
「亜麻色の長い髪を 風が優しくつつむ〜♪ の方が相応しいかな?」
 おとがいに手をやり小首を傾げ眉を寄せ真剣に思案しはじめるし。この子供のこんなところが嫌いなのだ。暖簾に腕押し。糠に釘。曲がりなりにも世間一般では『怖い魔女』と恐れられている自分に対してのこの態度は、剛胆で器が大きいのか、それともそんなことすら関係無い馬鹿なのか迷うところである。世俗を超越した尊大な態度をとることもできるのに普段は至ってこのように世俗まみれ。それとも、こんなおとぼけな性格でも『神』は『神』として成り立つのだと?
 それに、こんなにも自然に溢れた場所は落ちつかない、と老婆は不機嫌そうに鼻を鳴らした。齢を重ねたどっしりとした樹木が重たげに飾る緑の深さ、その隙間から降り注ぐ陽光もどこか穏やかで柔らかく優しい。時折吹く風は花と緑と花と水の匂いを含んでいて甘い。しんと降り積もる静寂と、静かに奏でられる鳥達の歌は耳に心地が良いものだ。いけ好かない姉が好みそうな場所であるのがよけい腹が立つ。――自分が普段どんなにあくどいことをしているかが際立つから、とは思わないところがこの老婆らしいと言えばらしかったが。実際、この土地の樹を伐採して売り払う、とか、自然を『売り』にした宿を作って――勿論その中には得意分野である俗世的な遊びも兼ね備えさせて――などを無意識に考えているくらいであった。
「瑠貴、あたしだって暇人じゃぁないんだ。こんなところにわざわざ呼び出したってことは……」
「そう。選択は為された」
 さらりと告げられたその事実に、老婆――湯婆婆は、清水の反対側にも広がる変わらぬ緑を眺めやった。その表情は苦々しい物でもなく、さりとて嬉しそうでもなかったが、疎ましそうな物でもなかった。なんとも表現しづらい表情の老婆を、小鳥の仕草で小首を傾げて眺めやる瑠貴はやはり楽しそうだ。
「嬉しくない?」
「嬉しいのはあんただけだろう?」
 為された選択は誰の希望通りだい? そもそもその『選択』とやらも懇切丁寧な根回しに御膳立てじゃないか。そんなのは『選択』じゃなくてあたしに言わせればおんぶにだっこ状態だよ、と湯婆婆は遠くを眺めやったまま口を開く。
「僕の希望通りだとでも言いたい? けれど、どれだけ根回ししても御膳立てしても、最後にそれを選択していったのはあの子達だよ。そうなればこれはふたりの希望だとも言わない?」
 それに、もっとおんぶにだっこしてあげたかったのに、あの子達ってば意地っ張りで計画を台無しにしてくれて。特にあの子は『繋がり』をみずから立ち切ってくれるし、探し出し作り直すのにこんなにも時間がかかっちゃった。困っちゃうのは僕の方だよ。
 瑠貴は唇を尖らせて肩をすくめる。その仕草も口調も『冨州原先輩』を演じている時より幼く見えた。
 口ばっかり達者で! とそこだけ真心込めて憎々しげに吐き出す老婆へと、楽しげな笑い声をたてる青い鳥。
「それでも、この流れには湯婆婆の希望だって含まれているじゃないか」
 これは、僕だけの希望だけではなく、あのふたりの希望だけでもなく、湯婆婆や、銭婆や、かかわるすべての人達が願った結果だよ。
 なにが『願い』だよ。きっかけをつくったのは紛れもなくおまえだろう! あたしは大損以外のなにものでもないんだからね! とそれでもにくたれ口をたたく湯婆婆に、瑠貴は心底楽しそうに笑うのであった。
「大損もなにも、僕だって大損だ。折角受け継いだこの小さいとは言え古い森を根こそぎ奪われてしまったのだから。この土地はあの子と同等の価値があると思わない?」
「だからっ! あたしはこんな自然自然めかした場所なんて嫌いだと何度言えばその鳥頭に覚えさせられるんだい?!」
 しかも譲渡の条件が『自然に手を加えないこと』だとは足元見過ぎもいいとこだ! と湯婆婆は吼えた。うまく使えばあの不肖の弟子の何十倍もの価値を生み出すであろうこの地と、あの崩れ竜神を等価と評して身請けの代金としてこの森をほってよこした酔狂の相手も楽ではない。
『酔狂と言うより素っ頓狂の方が似合うけれど』
 のらりくらりと言葉を返すその頭の作りを覗いて見たい気もする。売ることも開発もできない、ようするにどんなに価値が高かろうが現状のままでは湯婆婆にとって無価値なこの土地を笑顔で押しつけてきてこの飄々とした態度はおおいに気に食わない。お綺麗だけれど役立たずの弟子が、お綺麗だけれど無価値な土地にかわっただけではないか。何度考えても腹が立つ。土地は算盤が弾けないだけ尚悪い気がする。
 けれども、この件であの取り澄ましたいけ好かない姉が何年もイライラとしているのを遠目に見られ、その上これからの展開に驚くであろう光景を考えるだけで相殺な気がしないでもないのだ。自分達はとことんと仲の悪い双子であることよ、と自嘲気味の笑みで湯婆婆は口を歪めた。
「それでも、その条件を飲んでくれるから湯婆婆が大好きだよ」
 湯場婆がそれだけの考えを持っていると多分気がついているであろうに、瑠貴は澄んだ笑い声を立てた後、口をあんぐり開け目が飛び出そうなほど気色悪がっている湯婆婆をそのままにぐるりとまわりを見まわし、
「そろそろ頃合かな?」
 今までとはまったく違う笑みを浮かべるのであった。


   【二】

 目の前に提示された『選択』は、とても小さくて、とてもさり気ないもので、でも、とても大切だったもの。『願い』を込めて編まれ、手渡された紫の髪飾り。
「わたし、どうして忘れてたんだろう?」
 千尋は髪止めをつけた途端に甦ってきた記憶の渦の中、ぽつと呟いた。洗面所に落ちたその疑問に応える者などいないとわかっていてもやめられなかった。
『どうして忘れていられるの?』――冨州原の――否、瑠貴の問いかけと同じものを、今、自分自身に激しく問いかけたい。
 どうして忘れていられたのだろう。シオン、ユキシロ、田中俊一――そして鳥の『瑠貴』を。
 それ以上に、あの――太陽に焼かれた恐ろしいまでに鮮やかな茜の空と、迫り来る夜と、闇色に染まるその町を。
 おぼろにかすむ霊々の姿を。恐ろしい魔女を。多腕の老人を。働く人々を。姉とも思えるあの人を。旅をした仲間達を。
 黎明の空を飛翔したあの感覚を。繋いだ手の感触を。
 透明な水面を渡る――藍色に染め抜かれた月夜を翔ける――綺麗な白い竜を。
 舞いあがった鱗が綺麗だと感じたあの気持ちを――嬉しくて泣いたあの夜を――……
 人は忘却の生き物。忘却がなれけば生きていられない程に人は弱い生き物。すべてを覚えていては、辛いこと悲しいことに押しつぶされ、やがてパンクする。けして忘却は悪いものではない。
「そんなこと、知ってる……っ!」
 そんな言葉は都合のよい言い訳だ、少なくともわたしに限っては嘘だ、と唇を噛みしめる。
 あの体験はすべて大切なことだった。いつかは毎日の生活に押し流され、忘却にも等しいほどの深みへと追いやってしまう記憶であり過去であったかもしれないけれど、それであっても、そのすべては――あの時間は――今までの一瞬は――『わたし』を形作っている要素であったのに。あの経験を――不思議の町での出来事を――こちらの世界での『夢』の出来事を――忘れ去ってしまうのも、心の中で『過去』に変えてしまうのも、全部『わたし』が選ぶべき行いであったのに。こんな、誰かの手によって無理矢理に押しこまれ、消されてしまってもよいものではなかったであろうに。
「それが誰の『願い』であっても――」
 わたしは――嫌だ。
 千尋はきっぱりと口にして、躊躇いもせず洗面所から飛び出し、もどかしげに靴を履くと玄関の扉を開け放した。途端、千尋を行かせまいとするのか押しこめるかのように玄関に風が吹き込んだが、千尋はそんなものに惑わされず一歩を踏み出した。
 後ろも振り向かず、目指したのは――あの日の白い迷い道。

   ◆◇◆

 身体が軽い。
 そう気がついたのは、夢中で足を繰り出している最中であった。
 ううん、違う。
 そう気がついたのは、次の瞬間であった。身体が軽いのではない。足を繰り出すよりも確実に多くの距離が流れている。一歩一歩ごとの風景がまったく色や形を変えている。それは、鮮やかな赤い門をくぐり抜けた時から続く、まるで魔法のような不思議な感覚。
 どこに行けば良いともわからずただまっすぐに走っているのに、足元に正しい道が敷かれているかのような強い確信が胸にある。この足が向かう先が目的地なのだとわかる。一歩ごとに飛び去っていく風景の先に求めるものがあるのだと信じられる。
『これは誰の導きなのだろうか?』
 そう思うものの、千尋は足を動かすことをやめられなかった。誰かの作為を感じながらも、そんなものは千尋にとって無意味であった。ただ足を繰り出す、それのみに専念した。
 異界へと続く門を抜け、古びた民家がまばらに立ち奇妙な岩がそこここに突き出た草野原に踏み込んだかと思うと、いつの間にか雨がつくった真水の海の上を水滴を散らしながら跳ねていた。
 足が水に濡れるよりもはやくに景色は飛び去り、次は海原電鉄の乾いた路線を辿っていた。遠く霞む向こうまで真っ直ぐに敷かれた路線を認識できたのは一瞬だった。光を弾いて鈍い黒に光る二本の線、その間に等間隔で並べられた古ぼけた枕木。それらを照らしていたのは確かに朝光であったはずなのに、その一瞬後に顔を照らした陽射しは夕焼け色だった。
 次は一面の向日葵畑に――黄金の穂が揺れる麦畑に迷いこんでいた。空は真昼の白色だった。距離どころか時間までも飛び去っているようであった。
 世界はとても美しかった。きっと、それは、『こちらの世界』だから『美しい』わけではないのだろう。目にうつる光景に『あちら』も『こちら』も区別などなかったからだ。すべては見方ひとつなのかもしれない。
 千尋は様々な場所、様々な時間を一足で渡った。自分を取り囲む世界が巨大な万華鏡になった心地がした。その景色や時間の流れの不思議よりも、自分の中にある浮きたつ心のありようの方が不思議でたまらない。トコトコと音をたてる心臓よりもはやくと急ぐ心が一番不思議な――……
 そして、最後に辿りついたのは、深い森の中だった。ましろい朝の光が木々の隙間から零れ落ちて踊り、気持ちのよい風が吹く場所。木や土に濾過された甘く清からな水の匂いが充ちた場所。懐かしささえ込み上げてくる場所。けれども、心底までの安らぎを許してはくれない――どこか細い緊張の糸がすこしの弛みも許さずぴんっと張られたかのような空間であった。
 そんな場所に存在していたのは、白い紙片と――白い衣の人。まるで自身が『森』の一部ででもあるかのように、ただ自然にそこに存在している人。その人を、緊張の糸の端を視線で辿って見つけ、千尋は息を無意識に止めてしまった。
 すっと伸ばした背中と、そこに流れた結わえ髪しか千尋には見えなかったが、それでも千尋にはそれが誰であるかわかった。――わからないはずがなかった。
 震えそうになる喉を一生懸命なだめすかして、心に浮かんだ音を押し出す。そっと――けれども確信を込めて。
「ハク……っ!」
 ハク。今はもうないコハク川の主で。不思議の町にある湯屋の帳簿係で。魔女の弟子で。そして、夢で何度も助けてくれた人。怖くて、恐ろしくて――それ以上に優しい――ましろい竜。
 最後に見た時よりも背が伸びて大人になっていても、振り返り驚きに見張った目の色は――愛しささえ呼び起こす翡翠色。


「……千尋……?」
 ハクは、その名を呼び戻すのに、全身の力をすべて使い果たしたかと思った。千尋との絆をみずから断ち切る為に、彼女の名も、はじめの出会いも、油屋での再会も、夢での逢瀬も――すべてすべて押し込めていたから。かけらさえも残らぬほど粉々に砕いて、身体を流れる水に溶かし流し込んでしまっていたから。
 けれどもその苦しみは、目の前に現れた見慣れぬ少女に『誰だ』と疑問を抱くよりも短い時間でしかなかった。少女の名ははじめからそこにあったかのようにハクの手の中に戻っていた。そして、目の前に現われた少女に視線を奪われる。
 川の中に落ちてきた幼女は、次に出会った時は細い手足をした子供になっていた。その子供が、少女になって目の前に立っていた。時の流れのはやさと、少女の成長をまざまざと見せつけられて、胸のどこかがちくりと痛んだ。
 千尋は、森の中央にあるこの小さな広場、それを囲む樹木の下に突然そこに立っていた。ほどほどの距離を保ち、こちらの名を呼ばわったまま強張った顔をしてそこに突っ立っている。
 光が頭上から直接降り注いでいるこちらとは違い、少女の上には緑の葉を繁らせた枝が天幕のように伸び、柔らかく光を零していた。光が落ちて緑の影となったそこにいる少女は、ぷくぷくとした頬が幾分細くなり、棒切れのようであった手足はすんなりと伸びていた。口元は強張ってぎゅっと引き締められ、目は大きく見開かれたままだ。その表情は、不思議の町で再会した時の夕陽に照らされた驚きの表情と同じもので、彼女との再会はいつでもこの『驚き』であるのかと少しばかり楽しくもなるハクであった。夢の中での、恐怖に染まった白い顔よりはよっぽどよかったので。思わずこちらの口の端にも笑みが浮かびそうだ。
 茶色がかった髪を高く結い上げているのは変わらなかったが、ハクはそこまでを見て取ってふと違和感を覚えた。少女の髪を飾るのは、祈りを込めて編まれたあの紫色の髪止め。ハク自身がその手で少女より奪い去った、『異形』との関わりを持った過去の象徴でもあるかのようなそれが、今彼女の手元に戻っていた。
「千尋?」
 一歩前に足を繰り出すと、千尋はびくりと肩を震わせて、今まで手をついていた巨木に身体を隠すようにしてしまった。今はポニーテールの髪先だけがわずかに揺れて見えるだけだ。
「千尋?」
 もう一度名を呼ぶと、その髪先までも木の向こう側に消えてしまう。ハクは一瞬、この森に住まう、古びた樹木が憎らしくなった。少女の細い身体をすっぽりと覆い隠してしまう巨木に罪はないとわかっていながらも。
 こちらから歩を詰めてそちらに行けば顔が見えるかと一歩を踏み出しかけるが、竜の知覚は千尋が木の裏で身をさらにちぢこめたのを感じ取っていた。
 小さくため息をついて、もう一度名を呼んでみる。まるで天の岩戸に隠れたアマテラスと、その原因となったスサノオではないかと思いながらも、それもまた妙に楽しい気持ちになるもので。不謹慎この上ないと考えながら。
「千尋」
 ひらひらと風に舞う式神を通してその様子を見ていた銭婆も苦笑しているらしい。あきらかに風の流れとは違う揺れ方をした。
 暫くして、また木の向こう側から茶色い髪の先がゆらゆらと見え、ついで身体の半分をおずおずと出してくる千尋があらわれた。それでもまだこちら側に来る決心がつかないのか、その両手はしっかりと木の幹を掴むようにしている。
 ハクはその様子に、目を細めて苦笑した。なんの前触れもなくなんの手がかりもないはずである彼女はここに現われたのに、どうしてその重大事をこなした後で光の下に踏み出すのを躊躇っているのだろう? それが心底不思議でならなかった。
「千尋、おいで」
 右手を差し伸べて名を呼ぶと、もう少しだけ身体を木の幹から出してくる。それでもまだこちらを伺っている体勢は崩さない。驚きの表情が、今は困惑や戸惑い――僅かな怯えを含んだ複雑な色に染まっていた。眉はすっかりと八の字になっており、なにやらこちらが苛めている錯覚にすら陥りそうであった。
「ハク、怒ってない?」
 千尋がこちらの名を呼んだ次に口にしたのは、そんな問いかけであった。おずおずと半身を樹の後ろに隠したままであるので、その頬に木洩れ日と葉陰のコントラストを乗せながら。
「怒るって?」
 右手をのべたまま、ハクも問い返す。何を怒ると言うのだろう。怒られるべきはこちらであろうに。千尋の意思も聞かず、無理矢理に彼女の記憶をいじり、そしてこちらも故意に彼女を忘れ去ろうとしていた。『人権侵害』なんて言葉でくくれる行為でもないし、どんなに謝っても済む行為ではないとわかっているだけに、彼女がなにを怖がっているのかが皆目見当がつかなかった。彼女が自身の『記憶の改竄』に気がついていないとは思えなかった。どこまで覚えているのか――どこまで思い出したのかはまだわからないけれど、きっと今の今までこちらのことを忘れさせられていた事実には気がついているだろうとわかるので。
 そんな困惑は千尋にも理解できたのだろう。もう一歩足を踏み出して、こちらを覗き込むように首を傾げる。まだその身体のほとんどは葉陰の下だ。それが大層もどかしい。こちらとあちら、そんな境界線があるようで。
「だって、わたしがこちらに来るのって、ハクが困るんじゃないかと思って」
 わたしが忘れたままでいるようにって願っていたのは、ハクなんでしょ?
 恐る恐る口に乗せられたそんな言葉に、ハクは言葉を失うしかなかった。確かにその願いはハクの願いではあったけれど、それが本心からのものであったなんて有り得るはずがなくて。
 彼女の平穏な生活を望む為、『異形との関わり』をすべて断ち切ろうと仕向けたのは確かにハクではあったが――できればそんなことはしたくなかった。人は『忘却の生き物』と言うけれど、忘れ去ってしまうとしてもそれは彼女が自然に行うべきであって、誰かの作為で為されてよいはずではなかったから。
 それ以上に――自身のことを忘れて欲しくなかった、覚えていて欲しかった。『忘れた』と思っていても、心のどこかにこちらの世界や『ハク』の存在を置いて欲しかった。今はもうないコハク川で出会ったことも、はっきりとは忘れていながらも心の片隅に残していてくれた彼女には。記憶の奥底にわだかまる白い影としてでも良いから――と願っていたのだ、本当は。
 どうしたらその気持ちを千尋に伝えられるだろう? 思い込んでしまっている千尋にどう説明すれば、あの最後の夢で為した行為が本心からのものではないと伝えられるのだろう? 
 ハクは説明の言葉を一生懸命に探ろうとするが、それも目の前にいる千尋を見ていると無駄な努力に思えた。過去はどうあれ、理由はどうあれ、今目の前に彼女がいる、その真実は変わりようがないのだから。
 ハクは口元に浮かべていた笑みを消した。翡翠色の双眸でひたりと千尋を見据える。口元の笑みが消えただけで、無表情と言うよりは無感情の色合いの濃い、どこか冷たい存在へと変わってしまった。
 その視線に見つめられ、千尋は一歩踏み出しかけていた足を再び引こうかと思わずにはいられなかったが、抱きつくようにしていた幹にぎゅっと身体を密着させるにとどめる。『怒っている』と言われたらどうしようもないではないか、なんて馬鹿な言葉を吐いたのだろう自分は……と泣きそうになるし、ハクの表情はまさしく『怒っている』以外には解読ができなかったので。
 指先に触れる樹肌は見た目よりもざりざりとして『こんなところにしがみつくよりももっとしがみつきがいのあるモノがあるだろうに』と苦笑しながら背中を押されているようだ。それでも千尋は幹にしがみつくのをやめられない。まるで、この場でハクよりも強いのは――かろうじて対抗できるのは、この樹なのだと言わんばかりにがっしりとしがみついていた。その態度が、ハクの無表情な顔の下で微妙な感情を呼び覚ますとも知らないで、千尋は必死の表情でぎゅっと全身を幹に密着させている。
「来なさい、千尋」
 ほら、言葉まで怒っているではないか。声は冷たくて端的な言葉しか向けてくれないではないか。それはあからさまに事務的な響きを帯びて千尋の耳には届いていた。
 千尋は身体をちぢこませて樹の裏側に隠れるどころか走って今来た道とも言えない道を逆戻りしたい衝動に駆られたが、ハクの視線がそれを許してくれそうになかった。ハクの無言の命令に、名残惜しい、どころではない努力で樹から手を離し、そろりそろりと足を前に出し、じりじりと距離を縮めるしかなかった。
 ハクがいつでも優しくてそれ以上に真剣なのだと、油屋での出来事やこちらでの出来事ですでにわかっていたので、その真面目なハクの願いを裏切ったわたしにどれだけ怒っているだろう? それを考えると一歩毎に千尋の胃はきりきりとした。泣きたい。泣いてしまいたい。目元はすでに熱を持っていつでも泣ける状態になっていて、それがまた妙に弱虫な態度に思えて泣きそうであった。
 千尋は無言でじりじりと歩を進め、ハクも無言でそれを待って、千尋が手を伸ばしてもハクには触れられないがその逆は可能な距離へとふたりの間が縮まったのに、それでもハクは口元を緩めようとはしなかった。あと半歩近づいて千尋でも指先でかろうじてハクに触れられる距離になったのにそれでもハクは動かず、千尋は恐る恐るもう半歩足を出す。どこまで進めばいいのだろうか、気持ちは蛇の生殺し拷問状態だと千尋は内心でだらだらと冷や汗をかきまくっていた。
 本当の本当にハクの真ん前、そんなところまで長い時間をかけてじりじりと無言で千尋は近づき、もうこれ以上はどうしようもない! と無言でハクを見上げた。両手は抱きついた幹から離れてからと言うもの、走って逃げたくなっている心臓を抑えこもうとするかのように胸元でかたく握りしめられている。
 千尋はハクの怒った表情と降り続く沈黙に耐えかねて、下を向いてぎゅっと目を瞑った。どれだけ怒られるだろう、どれだけ怒っているだろう?! もう『胃がきりきり』なんて生易しいものではなく、内臓が全部口から飛び出て内と外がひっくり返ってしまいそうだった。耳元はもう自分の鼓動でうるさく、バクバクとやかましい。
 もう『沈黙が怖い』なんて状況ではなかった。無意識に止めてしまった呼吸と忙しく駆け回る血流のお陰で酸欠状態と、緊張の為に頭の奥がふらふらとしてきた。もしかしたらこの状態こそがハクの『怒り』なのだろうか。たしかに、怒鳴られるよりもひっぱたかれるよりも精神的肉体的に辛いかもしれないと千尋はぐるぐるとした頭の中でぐるぐると思考する。どうでも良いからはやくなんとかして欲しい。はやく状況が変わって欲しい。千尋は心底どこぞの神に祈った。
 と、ハクは、千尋から見えないのを良いことに口元を柔らかく歪め、両手を広げてすっぽりと千尋の身体を包み込んでしまった。
 千尋の方はと言えば、一番はじめに怒鳴られるのだろうか、ひっぱたかれるのだろうかと思っていただけに、身体にまわされたハクの腕の感触がなになのかわからず、ぎょっとして思わず目をあけてしまった。けれども、しっかりと抱きすくめられていてどうにも身動きがとれず……身体を包むほのかな暖かさがハクの体温なのだと気がつくのに千尋はとてつもない時間が流れた気がした。
「は……ハク?!」
 どうしてこうなっているの?! 今どうなってるの?!
 ハクに抱きしめられているのだと理解できたとしても、千尋は現状が把握できずに動転の極地だ。
「え? えぇ?!」
 怒鳴られる、とばかり思って身構えていたので、そのハクの行為に、千尋は変な声をあげるしかなかった。心と身体の方向性が一致しなくて、じたじたと動くこともまともな言葉を考えるだけの行動も起こせない。ただ、すっぽりと抱きすくめられたままかちんと石になり固まるばかりである。
 ハクはそんな千尋の混乱をその様子からわかっていながらも、これ幸いとばかりに更に囲い込むように深く抱きしめた。ゆっくりと、少女らしい柔らかな身体の感触を楽しむ。深く息を吸い込むと『生きている匂い』がした。それが嬉しかった。最後に抱きしめた彼女の身体は、とても『死』に近いものであったので――その違いが嬉しかった。光も闇も、ひなたも夜も混じりあった『生きている』匂いがする。願っていた通りの無事な姿で再びまみえることができた、それが嬉しかった。
 その喜びと同じくらい、最後に会った時はおのれと同じほどの背丈であったのに、今はすっぽりと抱きしめられるほどの体格差ができてしまっているのが不思議でならなかった。千尋の成長を思い知らされると同時に、自身の成長をも思い知らされる。
「はくっ! ハク、あのっ!」
 長い時間の果てにようやく千尋が正気を取り戻した頃には、ハクが怒っているわけではないと千尋にもわかっていた。自分の全身を包んだ空気が柔らかかった。この場所に来た時に感じた、たしかに存在していた緊張の糸はもうすっかりと溶けて消え、今は落ちついた穏やかな場所以外には思えずにいた。暖かい外気と自分を包む両腕に頬を撫でられ、とてつもなく居心地が良い。
 あの緊張の源はハクだったんだ。
 千尋にもようやくそれがわかった。それと同時に、一気に思い出した『過去』の中で『ハク』と言えば竜で、少年で、それ以外の存在ではなかったのに、今身動きも取れないほどに自分を抱きしめている人は見知らぬ人になっていた。細身に見えるけれど、自分を完全に包み込んでしまう大きな身体は、先ほどまでしがみついていた古木のように安心できる大きさだ。まるではじめて会った人にも思えるけれど――それでもどこかでちゃんと『知っている』と思えるから不思議だ。会っていた時間よりも離れていた時間の方が遥かに長いのに……どうしてだろう?
 少女をしっかりと抱きしめた竜の若者、そしてすっぽりとその腕の中におさまっている少女。その、どこかこそばゆくなる光景を水晶玉で覗き見、これ以上は野次馬出歯亀と言うものだろう、銭婆が手を打ち振ろうとしたその瞬間――それは――来た。

 高く響く――空気を切り裂く――希望の音――が。 

「この音――……」
 胸を悪くする空気を切り裂いた、爽やかな香りは森のもの。きらきらと瞬いた音。鳥の羽ばたき。緩やかに空気を揺らす微風。暗闇でうずくまりそうな心と身体さえ引き上げてくれる喜び。
 千尋はこの音や匂いや風をどこかで感じたことがある、と無意識にハクの胸元にぎゅっとしがみつきながら記憶を探った。否、探るまでもなかった。誰かの思惑によって一瞬にして甦った様々な記憶は、まるで数瞬前の出来事のように『現在』に並列して千尋の内にあった。心の中を目をこらしてみれば、すぐにでも甦ってくる昂揚感に心が震える。確かに自分はこの音や香りや空気を知っている。
「あの時の――……」
 紫媛や雪白が作った暗い世界に鳴り響いたその音は、白い竜が黒い異世界を切り裂いて飛ぶ希望の音だと思っていたが――よくよく耳を澄ませば気がつく。その音は、香りは、感触は――
「――瑠貴?」
 彼そのものであるのだと。
 名に呼応するは青い髪、黒い眸の、古風な衣をまとった青い鳥の少年。その彼が、銭婆の式神とは反対側に現われいでていた。
「ご明察!」
 まるで、とびきり嬉しいことがあったかのような明るい声に笑みを浮かべ、森の香りを纏って現われいでた謎鳥。その姿に千尋がびくりと肩を震わせ、ハクが表情を固くしたことなど、彼はお構いなしであった。楽しげに細められた目は裏も表も微塵もないように思えてならない。
 あいも変わらず、細いながらもしっかりと十五・六歳の少年であると思えるのに、口元に笑みを浮かべていると一気に幼く見える年齢不肖さであった。それは、彼が『冨州原先輩』を演じていた頃と同じ印象で、千尋はどうしてあの時すぐに『冨州原先輩』と『瑠貴』が同じ存在であるのだと見抜けなかったのだろうかと自問せずにはいられなかった。その不可思議さに、思わずハクにしがみつく手に力を込めていた。
『存在が害悪』だと言われたのが今この瞬間であるかのように錯覚する『過去』の記憶が千尋の身を束縛してもいた。森を渡る風がそよと衣を揺らす様さえ雅やかな存在から『害悪』などと向けられた時に受けた衝撃は、思い出しただけで千尋の心臓をぎゅうと絞めつける。その恐れから逃げるかのように、千尋は手に力を込めてハクにしがみつき身を寄せる。
 ハクは、力ある『場』である『森』の中心地に突如として現われたその存在に険しい表情を向け、腕の中の千尋を庇うように身構える。結界の主である銭婆の許可なくこの『場』に存在する、それがどれだけの力ある存在であるのかの証しでもあった。それに、きっと目の前の存在は、ただひとである千尋をあちらの世界からこちらに送り込み、尚且つこの場へと導いたのに違いない。それすらも簡単な事柄ではないのだと、おのれの身ひとつ自由に行き来することもできなかったハクにはわかるのだ。悔しいことに、力の差は歴然としていた。ハクは千尋の肩を抱きしめる手に力を込めた。
 しっかりと互いを抱きしめあうようなふたりに、瑠貴はいつものように笑みを向けるだけだ。けれども、ハクにとっても千尋にとっても無条件に心が和むものではない笑みはふたりに警戒心を呼び起こすものでしかなく。
 その、冬の精霊である雪麗の言葉通り『力の主』であるとわかる瑠貴が、その笑みのまま言の葉を紡ぐ。『選択』はまだ続いているのだと指し示す。
「千尋は選択をしてここまで来た。彼女の道は彼女の『希み』によってここまで通じた。その道は誰にも邪魔し得ないもの」
 さぁ、今度はコハク、君の番だよ。
 ――青い鳥は謎の言葉しか口にしない。いつもの邪気のない笑みを浮かべて、簡単に困惑の渦へとふたりを突き落とす。

   ◆◇◆

 躑躅に牡丹に杜若。
 桃に櫻に金木犀。
 紫陽花、竜胆、鈴蘭や、椿に、小手毬、花水木。
 藤の花房ゆらゆら揺れて、ちらりちらりと花の雨。
 季節感の違和感もその満開の光景に溶け去るような豪勢な花園に飛び交う虫と言えば、鮮やかな色彩のアゲハチョウ。
 四季折々の花が季節を問わず咲き狂う湯屋『油屋』の庭は、今日も変わりなくそれぞれの香りを惜しげもなく振り撒いていた。どれもが独自の芳香を主張していたが、微妙な加減で混じりあって独特な香りのうねりを形作っている。受粉の必要もなく蕾をつけ咲き続けるそれらは、それでも甘い香りと蜜を滴らせてアゲハチョウを呼び続ける。それは清いものではないのかもしれない。どこか『湯屋』そのものに思える、共存とも言えぬ花と蝶。花は咲けども実をつけぬ湯女とその花達は同類か。
 その強い、なんとも言えない花の香を巻き上げて吹き込んだ風を遮るべく、その湯屋の主は大粒の青玉で飾った人差し指を一閃させた。途端、音もなく閉じる窓が起こした微かな風に、豪奢なカーテンがひと揺れして沈黙する。
 最後に部屋に満ちたのは、百合であろうか、水仙であろうか。湯屋の経営者の身分でありながら『湯女』を連想させるその甘ったるい花の香りが今日は煩わしくて仕方がなかった。
「ふん」
 湯屋の主は書斎机の椅子にどっしりとその大きな身を沈め、不機嫌そうに鼻息をたてやる。
 不機嫌な眼差しで睨みつけているのは、左手にした白い紙の束。墨の色も涼やかな文字が滔々と流れる清水のように連なった、けれども内容は文字の涼やかさに反した細かな契約書。湯婆婆はその契約書の内容を読むともなく視線でつらつらと追いながら、もう一度不機嫌そうに唸った。
 それは、瑠貴がしたためた契約書であり譲渡書であった。あちらから話を持ち込んだにしては、あまりにもこちらが不利な条件の数々に、それでもここまで丸め込まれたような形で了承してしまった自分自身が実は信じられずにいた。いくらあの小鳥が『神』で、不肖の弟子と関わりがあろうとも、こんな条件を自分が呑む必要はなかったのではいか。この紙の束を見るごとに考えずにいられない。まるでペテンにかけられた気分だ。それともこのあたしを術中に嵌められるだけの高位神であり力量があの能天気鳥にあったとでも?
「ふん、どうでもいいさ」
 湯婆婆は自分自身の選択を素直に認めようとはせず、それでも遠い森の中で繰り広げられているであろう光景を――不肖の弟子が今から行うであろう選択の結果をちらりと気にするのであった。