【09】
清き流れよ





   【二】

 そこまで考えて、コハクヌシは思考を振り切るかのようにしっぽを揺らした。イソギンチャクを寝床とする熱帯魚よろしく、小魚が鬣の中に入り込もうとしてくすぐったかったのだ。鱗になにかあると思っているのか、それとも汚れを落とす岩と間違えているのか、白い鱗を口先でつついたり身体をこすりつける魚もいた。
 ぶるりと全身を震わせると小魚たちはわっと離れるが、こりもせずすぐに鬣の中への進入を再開する。
 コハクヌシはその様子がおかしくて二度三度と身を震わせたが、何度やってもしつこく入り込もうとする小魚たちの執念に感服して、もうされるがままになっていた。
 ぴんと尖った竜の耳も水に流れるに任せた。その中にも入り込もうとする魚を追い払う為に耳をひらひらと動かす以外は弛緩しきって水底に寝そべる。穏やかに過ぎ行く朝であった。
 久々にゆっくりした一日を送れそうだ、とうとうとと薄い闇にも似たまどろみの中へと片足を突っ込みかけた頃、伏せ加減になっていた耳がなにやら異音を捉えて無意識にぱたりぱたりと左右に打ち振られた。がちゃがちゃと、あきらかに自然が奏でるものではない音が地上から聞こえてきたのだ。
 コハクヌシは閉じていたまぶたを薄く開け、それでもかわらず穏やかに流れる水中のどことも言えぬ一点不機嫌そうに見つめる。不機嫌極まりない様子で鼻から吐き出された息が大や小のあぶくとなってまっすぐこぽこぽと立ち昇っていく。
 人だ。あの音は絶対に人だ。タヌキやキツネはあんな甲高い音や大きな音や、小石を大きな物体で蹴散らせる音などたてやしない。
 冷たい光を宿した翡翠の眸を半分だけ覗かせて耳に神経を向けると、バタンッバタンッといくつも音がして、『なにか』から『人』が一斉に出てくる気配もする。それは、車でそこまでやってきた人間たちが出てきた音であった。
 大きな気配、小さな気配がわぁっと地上に満ちて、コハクヌシは知らず鼻先に皺を寄せた。せっかく穏やかな一日になりそうだと思っていたのに、一変してしまった。人とはなんと無粋な。そう思わずにいられない。
 小さな気配が、わぁぁぁっと川めがけて走り来た気配がした。さらさらと下流へと流れる水面を蹴散らし笑い声をあげるのは子供であろうか。
つと中洲方向に視線をやれば、浅瀬に浮き袋を浮かべた子供の足が四対ほど、不器用な水鳥のようにバタバタと水をかき回していた。
 大声をあげて子供に注意をしているのは大人であろうか、水の中には地上の野太い男の声はかき消されてよく通らない。けれども、先ほどまで満ちていた静寂を打ち破るには、どれもこれも十二分に騒がしいものであった。
 コハクヌシは移動しようか、しまいかと少しばかり逡巡してから四肢に力を込めた。騒々しいのは御免である、もっと上流へと移動しよう。そう決めて頭を持ち上げると、先ほどの、面白がって身を震わせていたのとは違うのだと雰囲気で察したのか、小魚もザリガニもわっと散った後小岩の影へと一目散に逃げて行ってしまった。
 逃げて行った水の生き物たちの姿を見送ってまた不機嫌の度合いが深まったコハクヌシは、水の幕の向こう、すぐ川縁にとても小さな気配を感じ取ってつと頭を巡らせた。
 甲高い声をあげてはしゃぎまわる子供たちより少しばかり離れた上流――そこに、小さな小さな、白い足が――猫柳の白い穂よりもまだ小さい指が並んだ足がひとそろえあった。子キツネの足よりももっと小さくて頼りない印象を受ける。健康な魚の腹のように柔らかさや弾力もありそうだ。
 はて、これはなになのだろう?
 そんなことを思いながらもっと上へと視線をやると、そこには流れる水でゆらゆらと歪んだ『人』の顔を竜の目が捉えた。『人』と言っても、ほんの子供だ。薄くて短い頭髪を無理やりに頂点でくくった、ふにふにとした頬の、ぽっこりと膨らんだ腹部に、あってないような短い首をした子供。その子供の産毛のような眉の下にある透き通った白目と黒々としたつぶらな瞳が、水中を覗き込んでいた。
 ならば、この小さな『足』はこの人の子の足か。
 普通に考えればすぐにわかる事柄だが、コハクヌシは妙に感心してしまった。人の世のことなどよく知りはしないが、この足の小ささや顔を見上げるに、きっとまだ生れ落ちてすぐ――まだ満足にたてもしない赤子ではないだろうか。卵の殻を突いて破り、光の下に転がり落ちた雛や稚魚にも等しい、弱くて小さな存在。
 よくよく思い出してみれば、川にそって小さな集落が広がっていた頃は、よく女たちが子供を水浴びさせていた。その頃にはこんな幼子もよく水浴びさせられていたものだ。そんな光景がなくなったのはいつ頃だろうか、気がつけば川で沐浴する姿も見受けられなくなった。
 コハクヌシはそんなことを思い出しながら、さらにその幼子を眺めやった。脇の下に誰か大人の手も見えるし、水中から胴体へと続く短い足もふらふらとして頼りなく、なんの前触れもなくかくりかくりと折れ曲がっている有様だ。それにあわせて、頭の頂点に結わえられている歯の抜けた逆さほうきに似た髪がぴょこぴょこと前後し、足元では弱々しい波紋が広がっていく。きっと大人が水浴びよろしく幼子の足を川に浸しているのだろう。大人の姿は子供自身の後ろにいる為か、それとも水の揺らめきの為かよく見えなかった。
 あちら側にいるこの幼子にとって、こちらの水中世界はまったく見通せない世界であろう、とコハクヌシにとっては鮮明この上ない幼子の顔をとっくりと眺めながら思う。それ以上に、人の目はおのれとは違い遠くまで鮮明に見通せないものであるし……幼子であれば尚のこと。
 けれども、こちらが幼子の顔を眺めている間中、幼子はじっとこちらを見下ろしていた。そしておもむろに顔をくしゃりと崩し、両手をばたばたとしはじめた。まるで愛嬌を振りまいているようであった。腕をばたばたと振り回すと、先ほどよりも元気よくぴょこぴょこと頭の逆さほうきがはねた。
 こちらが見えているのだろうか。そんな気になってくる。瞬きを繰り返して小首をかしげ、心持ち首を伸ばし身を乗り出し加減に幼子を見上げると、幼子は歯の一本も生えていない口を開けきゃっきゃっと声をあげはじめた。手をたたいて喜んでいる。
「あら千尋、誰に向かって笑ってるの?」
 水の流れにぼやけてはいたが、若い女の声が竜の耳に届いた。ご機嫌さんねぇ、と続けたその声がこの幼子の親であり手の持ち主であるのだろうとコハクヌシはあたりをつける。
 そして同時に、やっぱり今のこの幼子の状態は『機嫌がよい』ものであるのだと認識する。人ではない生き物であるコハクヌシが見ても、幼子の状態は『ご機嫌』以外の何物でもなかった。
 それにしてもどうして今この幼子はこんなにも機嫌がよいのだろう? コハクヌシがまじまじと水上を見上げて反対側に小首を傾げると、今度は口をすぼめてぷぷぷぷと唇を震わせて幼子は遊び始めた。
 きゃっきゃと声を上げ、すぐにぷぷぷぷと口を鳴らす。手は相変わらずばたばたと振り回し、身体を大きく上下にゆすっていて、見上げているコハクヌシにとってその様子は不思議で不思議でたまらなかった。子供とはなんと大忙しで大騒ぎな存在なのだろう。振り回している腕で反動がつき、元から頼りない足は今にもかっくりと折れてしまいそうだ。独特なリズムで身体を揺する子供の、動物を模した絵がプリントされたオムツが水面につくまであと少し。
「お、千尋、機嫌がいいな」
 今度は、幼子と若い女の後ろあたりから、太くて若い男の声が聞こえた。スニーカーで川砂利を踏みしめる大きな音にも幼子は気がついていないようであった。男の声に注意を向ける様子もなく、水中に向けて右手をうーんと伸ばしている。足も首も短ければ腕も相応に短いので、幼子がどんなに伸ばしたところでどうにも指の先さえ届くはずはなかったのだが。
「そんなに機嫌がいいの、公園ででかい犬と遊んだ時以来じゃないか?」
「あのゴールデン・レトリバー? もう、犬に向かっておおはしゃぎしてたわねぇ。ずっとしっぽを触ろうと手を動かしてたし。いつ噛まれるかとひやひやしたわよ。でも今ほど笑ってなかったし。ご機嫌な時の口鳴らしもしてなかったし」
「千尋がそんなに喜んでるんなら、川辺のバーベキューに来てよかったな」
 あなた、川はブトがいるだと蚊がいるだのしぶってたものねぇ、と若い女が笑うと、男はバツが悪そうに笑った。
 そんな彼らに、中洲のなかばから誰かが声をかけた。
「オギノさーん、準備はじめるよー」
 おー、今行くー、と男が砂利を蹴散らしてその声のところに戻っても、幼児は気にする風もなくますます両手を振り回し、ついに足はかっくりと折れ、小さな水飛沫を散らして幼子のお尻は水の中へ。
 けれどもオムツが衝撃を吸収したのか、それともそんなことにすら気がつかなかったのか、目を丸くしたのはほんの少しの間だけで、水をたっぷりと吸って重くなったオムツのままで幼子は面白げに甲高い声をあげて笑った。ようやっと届くようになった水面をぱしゃぱしゃと小さな手でたたいて喜んでいる。ぺったりと座り込んだまま前へと手を伸ばし、動けるはずもないのに前へと進もうとする。
 はっきりと言ってその声の甲高さや水面を不器用に叩くそれらはコハクヌシにとっては不愉快そのものであったけれど――そうであったけれど、悪い気はしなかった。乳の匂いさえしそうな柔らかな頬を膨らませたりくしゃくしゃにして笑いかけられるのは悪いものではない。それどころか幼子の様子は、体全身で喜ばれているようにも思える。それも、こちらに向けられた好意である気さえする。水の感触や水面に散る陽光に対して喜んでいるのだとしても、それはコハクヌシに向けられたのと同意であったので――どこか、胸の辺りがこそばゆくて仕方ない。
 コハクヌシは先ほどまで持っていた不愉快間などすっかりと忘れ果て、もう一度川底に腹をつけて身を伏せた。そしてゆらゆらとしっぽを揺らし始める。
 小魚やザリガニがうれしそうにもどってきて、穏やかにまぶたを閉じて目を伏せ長々と身を伸ばして寝そべった竜の鬣を出たり入ったりするのであった。