【09】
清き流れよ





   【一】

 森は、どんな嵐が内側に存在していようとも、そこに息づく命達を守るかのようにどっしりと構えてそこにあった。
 地上に根を張り水分を吸い上げて神経路となし、空に吹く風をも螺旋を描いて引き集め、おのが力とする。
 大きな力場。そうなるように、『学の蔵書』と称される年経た魔女が、長い時間をかけて手を加えて作り上げた結界なればこそその森は生半な嵐では揺らぐことはない。ただ受け流し、または自身の内へ力として蓄える。
 けれど、今その森は静かに燃えていた。ざわざわと梢を揺らし、小さな波紋を広げていた。常人では聞き取れない音で唸りをあげていた。その場でこれから行われるであろう事柄を伺うように、ひっそりと。
「選択――?」
 記憶を探るまでもない。あの『夢』の中で、千尋が『瑠貴』と呼んだ青い鳥。その鳥が目の前に立ち、ハクに向けた言葉は『選択』の二文字。
「なにを選択すると――」
 いや、それ以上に、どうしてこの少年――否、『神』は私と彼女にこうまでしてかかわるのだろう。『神の気まぐれ』で片付けるには、あまりにも瑠貴に益がなさ過ぎるし、微塵も楽しい物でもないだろうに。ハクは不思議でならなかった。それともこれは、他の無聊に過ぎる神との遊びの範疇であるのだろうか。私達は知らぬ間に、盤上の駒にされていたのだろうか。
 自然険しくなるハクの表情に、それでも瑠貴は態度ひとつ変えるつもりにはならないらしい。優しげな顔にあいも変わらず柔和な笑みを浮かべている。まるで、目の前のハクと千尋が、昔からの親しい友人ででもあるかのような態度だ。
 が、瑠貴はその笑みのまま銭婆の式神へと視線をやり、ひらりと指を一閃させた。途端、銭婆の式神は黒い影に包まれ、力なく地面へと落ちた。
「あれ……」 
 千尋はその光景を見て息を飲んだ。あれと同じようなやり取りをみたことがある。油屋の赤い太鼓橋を息を詰めて歩いた記憶もすぐ身近に感じられている今だからこそ気がつく類似。異形の霊々に混じり、ハクの左腕にしがみつくようにして歩いていた時突如現われた青蛙に驚いて思わず息をしてしまい、その後の混乱をやりぬける為にハクが手の平を向けて青蛙になにかをした。それは今の光景と類似した黒い影だった。
 黒い影に包まれて青蛙がどうなったかを知ることはできなかったけれど、それでも現在の千尋なら、その影に包まれた銭婆の式神もなんらかの妨害なり影響なりを受けたのだろうと推測できる。実際、家でカオナシとともに森の中の状況を見守っていた銭婆は、突如真っ黒になり少しの光も宿さなくなった水晶玉に舌打ちを余儀なくされていた。
 けれども、銭婆の安否を気遣う余裕は、ハクにも千尋にもありはしなかった。その同じ指先を、瑠貴は躊躇いもせずふたりに向けたからだ。
 襲い来るは黒い影。視界も世界も意識すらも黒く暗転し、ハクと千尋は知らない場所へと放り出される感覚を味わうのであった。互いをしっかりと抱きしめたその感触さえまやかしかと思えるほどの黒い世界へと。

   ◆◇◆

 緑豊かな山から流れる、一筋の流れ。
 それはまだ見ぬ海を目指しながら前進し続け、いつしか『川』となった。その流れに満々と水と栄養を蓄え、生き物を宿し、土地を潤し、緑を増やしながら。穏やかな流れは徐々に伸びゆく。水の道を刻みながら。
 やがて、川に沿って人々が集まってきた。村ができた。田畑ができ、果樹園ができた。人々と川は密接な関係を築き上げた。
 村人達は祠を建てた。川は良きことばかりを運んでくるわけではない。川は時として荒らぶる。溢れ出した水が引けば肥沃な土が田畑に残るが、家々を薙ぎ倒し人も家畜もお構いなしに飲みこんでいくので人々は川を恐れた。川には尋常ならざる存在がおり、川の氾濫は『それ』の怒りであると思われた。よって、祠を建て『それ』を奉り、川の穏やかなるを願ったのだ。
 その為であるのか、それともそれよりも前から存在していたのかはもうわからないけれど、たしかにその川には尋常ならざる存在が宿っていた。
 その存在は人の心を集めるまでは『神』と呼ばれる存在ではなかったかもしれないが、今はもう『神』であった。ニギハヤミコハクヌシ――その名は『神』となったから冠されるようになったのか、元からその名を戴いていたからそう呼ばれるようになったのかは知らないが、たしかにその者は穏やかな流れをあらわす名で呼ばれていた。
 コハクヌシは『竜』と呼ばれる者だった。水と風で作られた、白銀の鱗に水底色の鬣、翡翠色の眸を持った獣であった。空を泳ぐよりは水を泳ぐのが好きなその獣は、よく川を治めた。子供と言うには年月を踏み、大人と言うには未熟なその竜は年若い存在であったが穏やかな生活に退屈するでもなく、のんびりと日々を送っていた。彼を取り巻く存在は、彼が大好きであった。
 そんな彼でも、長い長い時を過ごしていると、ふと普段とは違う感情に囚われることがあった。いつもと少しずつ違いそれなりにすることもあり忙しい生活ではあったが、大きな変化もない日々。『力』は川を治める為に必要な物ではあったが、川の中でだけ存在する自分自身に疑問を持つ瞬間がある。『もっと何かできるのではないか』――そんな欲がコハクヌシの心に忍び寄る。けれども、そんな気持ちもすぐに押し流され、彼は『幸せ』と言える生を送っていた。
 

 幾度目かもわからない倦怠感に襲われていたのは、櫻もとうに散り去り躑躅の赤い花も朽ち落ち、向日葵が誇らしげに咲き開く、七月の終わり。水ぬるむには熱がまだまだ足りない早朝の陽射しに照らされた水面はきらきらと白く煌き、爽やかな風が流れの表面を撫でていた日であった。
 コハクヌシは、銀の鱗を煌かせて泳ぐ若鮎のように下流より上流へと緩やかに登っていた。水流を遡るのはたいそう気持ちが良い。水の流れが鬣を梳き流し、水の流れを操る尻尾がゆらゆらと揺れると細かな気泡が跡をつけて来る。
 差し込む陽光は水の膜を通しているので目に優しく、岩の間から立ち昇る細かなあぶくに反射して美しい。反面、岩陰は黒々として、その中に小魚が寄り集まっているのが見えた。上流より花や葉が流れて行くのを見送る為に立ち止まったりもする。
コハクヌシは翡翠色の目を細めてそれらの現象を楽しみながら遡上して行った。そうしていると、少しなりと全身を覆うけだるさが和らぐ気がした。ゆらゆらと気分が高揚してくるのだ。
 下流では人々が群れ集い昼も夜もなくなにかと騒がしい上に、水も濁り果てて川底の石は変な色に苔むして澱み異物で溢れかえっていたが、まだ上流は自然に満ちていたので、最近は何事もなければ上流へと引きこもっているコハクヌシである。けれども、なにかにつけて問題があるのは下流であり、コハクヌシは幾度となく下流へと赴かざるを得なかった。それはたいそう気の重いことで、下流へと向かう竜の姿はいつも覇気がないものであった。キラキラと光を弾く鱗も水底色の鬣もくすみ色褪せ、舵を取る尻尾も力なげに揺れるばかりである。川中や頭上の光景を楽しむこともなく、ただ淡々と川を下っていく白い竜。その心中は『気が重い』――そんな言葉で表現し切れる程に単純ではない色で染め上げられていた。
 そんな気の重いことなど今は微塵も思い起こさないようにしながら、コハクヌシはやがて一番ゆったりとできる場所へと辿りついた。そこは流れも緩やかで三角洲もできあがった場所で、川底には上流から流された小石と砂が敷き詰められていた。
 こぽこぽと鼻からあぶくを吐き出し二本の髭を揺らめかせながら大きな身体を川底へと沈めて長々と身体を伸ばして伏せると、腹に小石がこりこりと当たってなんとも気持ちが良いものだ。思わず目を閉じてうっとりとしてしまう。
 竜の耳に流れ込むのは水流の調べで、それは竜の中を流れる水と同じリズムでたいそう心地よい。人工的な音はすこしも感じられない。水と水が弾きあってちかりと高い音が時々する。
 時折薄目を開けると、警戒心もなにもない小魚が白い尾鰭を閃かせてコハクヌシの周囲を右に左にと泳ぎまわっていた。だらりと投げ出した前足を伝い登ろうとするザリガニもいた。
 長い首をもたげて水上を見上げると、川に沿って豊かな緑が繁っている。川が流れているからこんなにも青々としているのか、それとも緑が豊かであるから水も煌きながら下っていけるのかはわからなかったが、コハクヌシは水のすべてと同じくらいに外の自然が好きだった。緑の葉を透かして落ちる太陽の光も、風に遊ぶ梢の揺らめきも好きだった。水面からついと突き出た岩や中洲の砂に舞い降りる鳥達や、水を飲みに来た獣達の姿に心が和む。コハクヌシは水中の生き物が好きなように、森や山の生き物達も好きだった。心が穏やかであると、おのれが皆を見守っているのではなく、皆がおのれを見守ってくれている気持ちになってくる。川を取りまく緑や小動物や昆虫も――もちろん小魚達も、おのれの友であり兄であり親である気がする。
 思えば、昔はこんな場所がどこにでもあったのに、いつからこんなにもこのような場所が『貴重』だと思えるようになったのだろう。コハクヌシは心底不思議でならない。竜や神の寿命は長く時間の観念がどことなく希薄になりがちだが、こんな状況になったのは長い長い年月をかけての変化ではなかったと思われる。大きな石が川を転げ落ちやがて小さな丸い石に磨かれるような、人が何十世代も移り変わるような時間の長さではなく、たった数代でこんなにも川は汚れて落ち着きのない場所になったような気がしてならない。それはコハクヌシにとっては『昨日の今日』にも等しくて、思い起こせばなんともめまぐるしい。
 そこまで考えて、コハクヌシは思考を振り切るかのようにしっぽを揺らした。イソギンチャクを寝床とする熱帯魚よろしく、小魚が鬣の中に入り込もうとしてくすぐったかったのだ。鱗になにかあると思っているのか、それとも汚れを落とす岩と間違えているのか、白い鱗を口先でつついたり身体をこすりつける魚もいた。
 ぶるりと全身を震わせると小魚たちはわっと離れるが、こりもせずすぐに鬣の中への進入を再開する。
 コハクヌシはその様子がおかしくて二度三度と身を震わせたが、何度やってもしつこく入り込もうとする小魚たちの執念に感服して、もうされるがままになっていた。
 ぴんと尖った竜の耳も水に流れるに任せた。その中にも入り込もうとする魚を追い払う為に耳をひらひらと動かす以外は弛緩しきって水底に寝そべる。穏やかに過ぎ行く朝であった。
 久々にゆっくりした一日を送れそうだ、とうとうとと薄い闇にも似たまどろみの中へと片足を突っ込みかけた頃、伏せ加減になっていた耳がなにやら異音を捉えて無意識にぱたりぱたりと左右に打ち振られた。がちゃがちゃと、あきらかに自然が奏でるものではない音が地上から聞こえてきたのだ。
 コハクヌシは閉じていたまぶたを薄く開け、それでもかわらず穏やかに流れる水中のどことも言えぬ一点不機嫌そうに見つめる。不機嫌極まりない様子で鼻から吐き出された息が大や小のあぶくとなってまっすぐこぽこぽと立ち昇っていく。
 人だ。あの音は絶対に人だ。タヌキやキツネはあんな甲高い音や大きな音や、小石を大きな物体で蹴散らせる音などたてやしない。
 冷たい光を宿した翡翠の眸を半分だけ覗かせて耳に神経を向けると、バタンッバタンッといくつも音がして、『なにか』から『人』が一斉に出てくる気配もする。それは、車でそこまでやってきた人間たちが出てきた音であった。
 大きな気配、小さな気配がわぁっと地上に満ちて、コハクヌシは知らず鼻先に皺を寄せた。せっかく穏やかな一日になりそうだと思っていたのに、一変してしまった。人とはなんと無粋な。そう思わずにいられない。
 小さな気配が、わぁぁぁっと川めがけて走り来た気配がした。さらさらと下流へと流れる水面を蹴散らし笑い声をあげるのは子供であろうか。
つと中洲方向に視線をやれば、浅瀬に浮き袋を浮かべた子供の足が四対ほど、不器用な水鳥のようにバタバタと水をかき回していた。
 大声をあげて子供に注意をしているのは大人であろうか、水の中には地上の野太い男の声はかき消されてよく通らない。けれども、先ほどまで満ちていた静寂を打ち破るには、どれもこれも十二分に騒がしいものであった。
 コハクヌシは移動しようか、しまいかと少しばかり逡巡してから四肢に力を込めた。騒々しいのは御免である、もっと上流へと移動しよう。そう決めて頭を持ち上げると、先ほどの、面白がって身を震わせていたのとは違うのだと雰囲気で察したのか、小魚もザリガニもわっと散った後小岩の影へと一目散に逃げて行ってしまった。
 逃げて行った水の生き物たちの姿を見送ってまた不機嫌の度合いが深まったコハクヌシは、水の幕の向こう、すぐ川縁にとても小さな気配を感じ取ってつと頭を巡らせた。
 甲高い声をあげてはしゃぎまわる子供たちより少しばかり離れた上流――そこに、小さな小さな、白い足が――猫柳の白い穂よりもまだ小さい指が並んだ足がひとそろえあった。子キツネの足よりももっと小さくて頼りない印象を受ける。健康な魚の腹のように柔らかさや弾力もありそうだ。
 はて、これはなになのだろう?
 そんなことを思いながらもっと上へと視線をやると、そこには流れる水でゆらゆらと歪んだ『人』の顔を竜の目が捉えた。『人』と言っても、ほんの子供だ。薄くて短い頭髪を無理やりに頂点でくくった、ふにふにとした頬の、ぽっこりと膨らんだ腹部に、あってないような短い首をした子供。その子供の産毛のような眉の下にある透き通った白目と黒々としたつぶらな瞳が、水中を覗き込んでいた。
 ならば、この小さな『足』はこの人の子の足か。
 普通に考えればすぐにわかる事柄だが、コハクヌシは妙に感心してしまった。人の世のことなどよく知りはしないが、この足の小ささや顔を見上げるに、きっとまだ生れ落ちてすぐ――まだ満足にたてもしない赤子ではないだろうか。卵の殻を突いて破り、光の下に転がり落ちた雛や稚魚にも等しい、弱くて小さな存在。
 よくよく思い出してみれば、川にそって小さな集落が広がっていた頃は、よく女たちが子供を水浴びさせていた。その頃にはこんな幼子もよく水浴びさせられていたものだ。そんな光景がなくなったのはいつ頃だろうか、気がつけば川で沐浴する姿も見受けられなくなった。
 コハクヌシはそんなことを思い出しながら、さらにその幼子を眺めやった。脇の下に誰か大人の手も見えるし、水中から胴体へと続く短い足もふらふらとして頼りなく、なんの前触れもなくかくりかくりと折れ曲がっている有様だ。それにあわせて、頭の頂点に結わえられている歯の抜けた逆さほうきに似た髪がぴょこぴょこと前後し、足元では弱々しい波紋が広がっていく。きっと大人が水浴びよろしく幼子の足を川に浸しているのだろう。大人の姿は子供自身の後ろにいる為か、それとも水の揺らめきの為かよく見えなかった。
 あちら側にいるこの幼子にとって、こちらの水中世界はまったく見通せない世界であろう、とコハクヌシにとっては鮮明この上ない幼子の顔をとっくりと眺めながら思う。それ以上に、人の目はおのれとは違い遠くまで鮮明に見通せないものであるし……幼子であれば尚のこと。
 けれども、こちらが幼子の顔を眺めている間中、幼子はじっとこちらを見下ろしていた。そしておもむろに顔をくしゃりと崩し、両手をばたばたとしはじめた。まるで愛嬌を振りまいているようであった。腕をばたばたと振り回すと、先ほどよりも元気よくぴょこぴょこと頭の逆さほうきがはねた。
 こちらが見えているのだろうか。そんな気になってくる。瞬きを繰り返して小首をかしげ、心持ち首を伸ばし身を乗り出し加減に幼子を見上げると、幼子は歯の一本も生えていない口を開けきゃっきゃっと声をあげはじめた。手をたたいて喜んでいる。
「あら千尋、誰に向かって笑ってるの?」
 水の流れにぼやけてはいたが、若い女の声が竜の耳に届いた。ご機嫌さんねぇ、と続けたその声がこの幼子の親であり手の持ち主であるのだろうとコハクヌシはあたりをつける。
 そして同時に、やっぱり今のこの幼子の状態は『機嫌がよい』ものであるのだと認識する。人ではない生き物であるコハクヌシが見ても、幼子の状態は『ご機嫌』以外の何物でもなかった。
 それにしてもどうして今この幼子はこんなにも機嫌がよいのだろう? コハクヌシがまじまじと水上を見上げて反対側に小首を傾げると、今度は口をすぼめてぷぷぷぷと唇を震わせて幼子は遊び始めた。
 きゃっきゃと声を上げ、すぐにぷぷぷぷと口を鳴らす。手は相変わらずばたばたと振り回し、身体を大きく上下にゆすっていて、見上げているコハクヌシにとってその様子は不思議で不思議でたまらなかった。子供とはなんと大忙しで大騒ぎな存在なのだろう。振り回している腕で反動がつき、元から頼りない足は今にもかっくりと折れてしまいそうだ。独特なリズムで身体を揺する子供の、動物を模した絵がプリントされたオムツが水面につくまであと少し。
「お、千尋、機嫌がいいな」
 今度は、幼子と若い女の後ろあたりから、太くて若い男の声が聞こえた。スニーカーで川砂利を踏みしめる大きな音にも幼子は気がついていないようであった。男の声に注意を向ける様子もなく、水中に向けて右手をうーんと伸ばしている。足も首も短ければ腕も相応に短いので、幼子がどんなに伸ばしたところでどうにも指の先さえ届くはずはなかったのだが。
「そんなに機嫌がいいの、公園ででかい犬と遊んだ時以来じゃないか?」
「あのゴールデン・レトリバー? もう、犬に向かっておおはしゃぎしてたわねぇ。ずっとしっぽを触ろうと手を動かしてたし。いつ噛まれるかとひやひやしたわよ。でも今ほど笑ってなかったし。ご機嫌な時の口鳴らしもしてなかったし」
「千尋がそんなに喜んでるんなら、川辺のバーベキューに来てよかったな」
 あなた、川はブトがいるだと蚊がいるだのしぶってたものねぇ、と若い女が笑うと、男はバツが悪そうに笑った。
 そんな彼らに、中洲のなかばから誰かが声をかけた。
「オギノさーん、準備はじめるよー」
 おー、今行くー、と男が砂利を蹴散らしてその声のところに戻っても、幼児は気にする風もなくますます両手を振り回し、ついに足はかっくりと折れ、小さな水飛沫を散らして幼子のお尻は水の中へ。
 けれどもオムツが衝撃を吸収したのか、それともそんなことにすら気がつかなかったのか、目を丸くしたのはほんの少しの間だけで、水をたっぷりと吸って重くなったオムツのままで幼子は面白げに甲高い声をあげて笑った。ようやっと届くようになった水面をぱしゃぱしゃと小さな手でたたいて喜んでいる。ぺったりと座り込んだまま前へと手を伸ばし、動けるはずもないのに前へと進もうとする。
 はっきりと言ってその声の甲高さや水面を不器用に叩くそれらはコハクヌシにとっては不愉快そのものであったけれど――そうであったけれど、悪い気はしなかった。乳の匂いさえしそうな柔らかな頬を膨らませたりくしゃくしゃにして笑いかけられるのは悪いものではない。それどころか幼子の様子は、体全身で喜ばれているようにも思える。それも、こちらに向けられた好意である気さえする。水の感触や水面に散る陽光に対して喜んでいるのだとしても、それはコハクヌシに向けられたのと同意であったので――どこか、胸の辺りがこそばゆくて仕方ない。
 コハクヌシは先ほどまで持っていた不愉快間などすっかりと忘れ果て、もう一度川底に腹をつけて身を伏せた。そしてゆらゆらとしっぽを揺らし始める。
 小魚やザリガニがうれしそうにもどってきて、穏やかにまぶたを閉じて目を伏せ長々と身を伸ばして寝そべった竜の鬣を出たり入ったりするのであった。


 そんな穏やかな優しい記憶も、数年すればコハクヌシの中からも薄れていってしまうものだ。
 忘却の生き物と呼ばれる人の記憶よりはまだ形が確かだろうけれども、いつまでもそこに完全なかたちで留まらせることはできなかった。
 記憶とは、どうしても嫌な、辛いことばかりが鮮明に残り、膨大な記憶の渦から簡単に浮かび上がってくるのだろうと、コハクヌシは不思議に感じる。
 大事にしようと思った、小さな小さな喜びや愛おしい気持ちや穏やかな気持ちは、辛い現実と記憶に飲み込まれやすく、この上もなく儚い。
 コハクヌシは、下流の滞った流れに身をひたし考える。私は一体なにをしているのか――と。
『人』が勝手に行った河川工事で、その場所の流れは変わってしまった。幅広く大きく湾曲し緩やかに流れていたそのコハク川の流れは、まっすぐに整えられてせせこましい場所へと追いやられ、コハクヌシの主観から言えば有り得ないほど不自然な流れになっていた。
 両脇に葦原が広がりサギが舞い降りていたそこは、コンクリートや、もう少し見栄えがよければ洒落た色のレンガに覆われてしまった。遊歩道や花壇ができていたが、それは小奇麗とも言えず、コハクヌシには醜悪に感じられてならない。それは、人が人の為につくったものであって、川やその周辺の自然の為のものではなく、自然から大きく外れた光景であったので。
 人がどれほど計算して考えて流れを整えたとしても、川の主の目からすれば、勢いをなくした水は滞り、そこここにゆがみが生じていた。虫や魚の生態系は大きく崩れ、川が抱えた命たちの悲鳴がコハクヌシの耳に届かない日はなかった。なので、コハクヌシは日々の大半を狭く汚れた流れに身をひたし、歪みをどうにかしようと奔走していた。
 かなしくてむなしくて仕方がなかった。上流に流れを堰き止める『ダム』なるものを作られてしまった主の嘆きに比べれば些細なことかもしれなかったが、コハクヌシにとっては目の前にある悲しみは絶対のものだ。深く悲しまずにはいられなかった。
 時の流れとは――人の行いとはなんと無慈悲で無情なのだろう。ここにこんなにも悲しんで苦しんでいる存在がいるのに、彼らはそれを知ろうともしない。日々毒を流し込み、水を汚し土を汚し空を汚し続けている。
 どうして彼らにはこの『声』がとどかないのだろう――否、どうして私はこの『声』を聞くことのできる存在なのだろう。それが今心底疎ましくてならない。
 もっと痛みに鈍感な存在であればよかった。いや、痛みや悲しみを理解できない自身よりは感じ取れる自身である方がよいが……ならば、もっと『力』のある存在であればよかった。なにものにも脅かされないほどに強い『力』を持つ存在であれば――なにものをも飲み込んで、心穏やかに暮らせるだろうに……。
 降雨があってからの川の増量などを考えると、それは、昔では考えられないほどの増量加減であった。雨がそのまますべて川に流れているのではないかと思えるほどだ。そうなると、それはそのまま山や森の保水力が低下しているのだと――地に水を蓄えていられないのだと――山や森の主たちの衰弱を意味していた。それを考えるとコハクヌシの胸も痛むが、幾日か多めの雨が降るたびに不自然にあらぶろうとする川の流れを治めるのに忙しく、気が休まる暇もない。
 それに、ここ数年は雨ばかりが続いている気がしないでもない。空を司る神々たちも力を弱めているのではないだろうか。
 それらももしかしたら『人』に原因があるのかもしれない。穿った考えであるとはわかりながらもそう考えずにはいられない。様々な事象が密接に繋がりあっているこの世界の歪みが大きくなっているのは、『人』が大きな力を得て川の流れすらも変えるようになった時期からなのだから。
 考えても仕方のない思考にとらわれた自身を自嘲するかのように、コハクヌシは頭をひとつ振った。すると、その動きが巻き起こした流れが、新しくできていた岩陰の澱みを下流へと押しやった。三日前に降った大雨が川の澱みをあらかた押しやり川の水量も増し、普段よりかは水質も澄んでいるとは言え、そこここにある深い澱みまで消え去るものではなかったのだ。
 泥をかぶった草葉に引っかかった、腐食した空き缶に、泥まみれのビニール袋。その上をよじ登ろうとしている、奇形のカニがいやでも目に付く。
 コハクヌシはしっぽをゆらりと揺らし、狭くなってしまった川をのぼって上流を目指した。今日はもう流れを正すのはよいだろう。否、もうなにをする気力もなかった。
 ゆっくりと流れを遡ろうとしても後をついてくる小魚一匹もいない背後を振り返る気力もなく、コハクヌシは流れを遡る。
 と、コハクヌシは、少しばかり上流の、綺麗にならされた河川敷に人の影をみつけた。遊歩道と花壇の場所で子供たちが遊んでいるようだ。ここ最近は雨ばかり、昨日も天気はぐずぐずとしていて、今日はようやっとの晴れ間だ。親子が散歩にでも来ているのだろう。
 その前を通らないと上流へは行けないが、今の人の子に竜の姿が見える心配など――悲しいけれどもそんな心配などするだけ無駄であったので、なんの躊躇いもなく通り過ぎようとする。
 けれどもコハクヌシは、ふとなにかに気をとられて泳ぎをとめた。小さな子供がひとり遊歩道から外れ、川岸で石を踏んで遊んでいる。年の頃はふたつかみっつか。短いワンピースの裾から出た足は細く、やや大きめのピンク色の靴を履いている。重心がうまくとれないのか、安定の悪い石を踏む足取りはふらふらとして危なっかしいことこの上ない。いつつるりと足を踏み外すかわからないではないか。時折屈み込んでは小さな手で水面を弾いているが、そのまま前のめりになりそうだ。
 それでもまぁ、心配することも、その義理もないのだとすぐに思い直す。あそこは浅瀬になっているし――それに、もしなにかしらあったとしても、あれは『人』の子供だ。川の流れを曲げた『人』の子なのだ……。
 そう考えて、コハクヌシは通り過ぎようとした。だが、鮮明な竜の視界の端に、子供が大きく動いたのがうつって、彼は振り返らざるを得なかった。
 振り返った先に、ピンク色の物体がぷかりと浮き上がり、流されているのが見えた。
『どうせあの子供の親が拾うだろう……』
 そうでなければ、あのまま捨て置かれるだろう。川底にはそうした異物が山とあるのだから。
 コハクヌシはもうそんな些細なゴミに気を配る気力もなく、緩慢な動きで前へと顔をもどしてさっさと上流へと引っ込もうとしたのだが、それでも後ろへと向けられていた感覚が、なにかしら大きな水飛沫をとらえた。ちりちりと遡ってくる水の波動が、白銀の鱗の表面を撫でていく。
 コハクヌシは先ほどの緩慢な動きとは比べようもないほどに素早く振り返ったかと思うと、翡翠の眸をこらした。
 なにが、なにが水飛沫をあげた?
 なにが、なにが――落ちた?!
 あわてて視線をめぐらせ、川辺で遊んでいた子供の姿を探すけれど、そこに子供の姿はなく、水の流れにその姿をみとめてコハクヌシはしっぽの先まで震えた。
 子供が流れている。きっと、大きかった靴が流れてしまって、子供はなにも考えずに川中へと追いかけたのだろう。あそこはたしか浅瀬になっているけれど、すぐに深い場所へと出るし、大雨の影響でまだ流れは速い。あんな子供ではれば自力で助かるなど思えない……けれど、これは私の出る幕ではない……それに、人の子を助ける義理など……けれど……けれど。
 コハクヌシは複雑な色をした葛藤を胸に躊躇っていたが、身体は知らぬ間に方向をかえ、下流へと向かっていた。遡上していたコハクヌシと、身体が軽く流されていた子供の距離は、竜にとっても長かった。
コハクヌシは水を手繰って泳ぐ。
 川で生まれる命もあるが、川で死ぬ命も多い。そんなことはわかっている。生まれるも死ぬも、何者にも歪み得ない自然の摂理。それに他者が介入するなどもってのほか。その他者がたとえ『神』であろうとも。
 そんなことは重々承知であったが――目の前で死んでいこうとしている命を――おのれが助ければ助かるとわかる命を見捨てることはコハクヌシにはできなかった。何年も何十年も生きるであろう『命』であれば尚のこと。
『人』は自分たちを苦しめる。けれど、それでもコハクヌシは人が好きだった。遠い遠い昔の、人と川は密接な関係を結んでいた記憶がコハクヌシの胸を強く突く。
 川へ捧げられる人々の優しい気持ち。日常に深く溶け込んでいた川の存在。
 夏の暑い日に水浴びをする子供たちの騒がしさも、子を背負い夕涼みをする女たちも、蛍を眺めている家族の光景も好きだった。
 火事が起きて、みなみなが川を目指して走る、その高揚感の先におのれが頼られていることがうれしくて誇らしくこそばゆかった。
 コハク川から田に水を引き入れた村の秋祭りをこっそりと眺めるのが好きだった。ゆらゆらと揺れる松明、打ち鳴らされる手拍子に、人々の笑い声。陽気な歌に踊りに心が弾んだ。金の稲穂が垂れる光景は、コハクヌシの目にも美しく映った。
 倒木が偶然橋となり、獣たちが渡るのを見て人も向こう岸へと渡った。その橋が、樹皮を剥いだ木を何本も連ね長く太くなり、または複雑に組み合わせた橋となり、金属や石でつくったものになっても、その上を歩く子供たちの笑い声はかわらなかった。
 すべてのものが一連の流れになっている。川も大地も空も人々もすべて川のように繋がって流れている。人も自然の一部だ。だから心底からは憎めない。
 大好きなものだった。大好きな存在だった。今はちょっとだけ心が離れているだけ。いつかは帰ってきてくれる、この川に。遠い遠い昔から、川と人は一緒に暮らしてきたのだから……。
 コハクヌシはさらに水を手繰った。いつもならおのれに逆らわない、清く流れるコハク川の水が、その時ばかりは疎ましく感じられた。同じ向きに流れているのに、どうにもコハクヌシの四肢を絡めとり上流へと繋ぎとめるくさびに思えてならない。コハクヌシの速さに水たちはついていけずしがみついてくるのだ。
 それはもしかしたら『川の主は川の為だけに存在せよ』『あるべきものをあるべき姿にせよ』との訴えかもしれない。人の生き死にに介入してはいけないとの戒めであったのかもしれない。人によって多くの同胞が黄泉路をたどった恨みからではなく――水の生き物たちはすべからく優しい存在であるとコハクヌシは知っていたからだ――純粋に『あるべき死』を歪めてはいけないと諭しているのかもしれない。
 だが、コハクヌシは姿勢を低くして、逆らおうとする水を手繰った。逆らう水を宥めようともせず、力を振るう。そんな余裕はない。陸の生き物が水中で長く生きられないとよく知っているから。命は儚い。そして、幼子ひとりでは、この水の檻から抜け出るなど叶わぬとコハクヌシは知っていた。
 水に流され、激しく上下する小さな身体を取り囲むのは小さなあぶく。きらきらと陽光にあぶくが煌くさまは美しかった。
 意識を失っているのか、蒼白な顔が水面を浮き沈みしている。ぎゅっと閉じられたまぶた、ぽっかりと開いた口元。ゆらりと揺れる茶色味を帯びた髪。片方だけ履いたピンク色の靴。細い腕の、小さい手の、短い指の先に並んだ小さな薄い爪が光を弾いて鈍く煌き、白いワンピースの裾がひらりひらりとコハクヌシの目の前で踊っている。水を掻き分けもがいていたであろう手は、今はもう力もなく水にもまれている。

 はやくはやくあの子へと。
 あの陸の子供へと。
 命を助ける為に――手を――伸ばす。

 耳元で、静かな流れを湛えていたはずのコハク川がうなった。
 まるで、コハクヌシの全身を打ち据えるかと思えるほどに轟々と。
 コハクヌシはそのうなりにも気づかぬのか、もっとと手を伸ばし、水を切り裂く。
 触れるか触れないかまで接近して、ついにその身体を掬いあげたと思った瞬間。
 訪れたのは――痛いほどの静寂。

 ――もしかしたらその痛みは、ひとりの人間の運命を捻じ曲げた痛みなのかもしれなかった。

   【二】

「コハク、君は何度でも千尋を救う。その選択をする」

 ハクは両の目を開いた先に映る腕の中のものと、耳に届いたその言葉が、一瞬なにであるのかわからずに瞬きをした。視界はこの上もなく鮮明であるのに、その意味が掴み難かった。意識を白く染めるほどに耳元で騒いでいた――否、全身を包んでいた水の唸りは微塵も残っておらず、その急激な変化に意識は更に揺れた。
 視線の先、腕の中には、見慣れぬ衣服を身に纏った少女の重みがあった。手足を力なく投げ出した、閉じたまぶたの、沈黙してなにも語らない少女、ハクは小さく息を呑む。先ほどおのれが必死に追いかけていた子供であるとわかるのに――私は間に合わなかったのだろうか。記憶が混同してハクは動くに動けなかった。
 けれども腕の中の少女は確かにあたたかく、胸元は緩やかに上下している。眠っているだけのようだ。先ほどの姿よりも手足がすんなりとし、頬の丸みもすっきりとし、流れに乱されていた髪も伸びていて、幼子とも子供とも呼べない姿になっていて、確かに追いかけていた子供と同じ人の子なのだと気がついたけれど、それはハクを安堵させる要因以外にはなにようもなかった。
 ハクはそこまで認識してから、ようやっと今いる場所が、先ほどまで自身が身を浸していた川の中でも、じっと動かずにいた森の中でもないのだと気がついた。周囲は、深い深い瑠璃色とも青とも言えぬ水の深みにも似た世界だ。
 視線を声の元へとやると、そこには予想していた通りの存在がいた。瑠貴。あの少年だ。櫻の姫を唆し、年老いた猫をこの身に立ち向かわせ、優しい少年の心の隙間につけ入り、冬の精に甘言を吹き込んだ。傀儡たちの糸の先。混乱の、諸悪の根源とも言うべき憎むべき存在。
「貴様は――何者だ?!」
 先ほどの幻影は、まるで今体験している事柄に感じられた。過去をなぞったあの出会いは、正しく過去に成されたもの。そんな幻影に、堕ちたとは言え神であるハクを取り込んだ目の前の少年。
 はじめてあった時から――千尋に彼が接触しはじめた時からのことを考慮に入れれば、尋常な存在ではないとわかってはいたけれど、幻影に飲み込まれている間中その違和感に微塵も気がつかなかったその手腕に改めて脅威を感じた。
 目の前にいるのは誰だ。なぜに私と彼女にかかわりを持つ?!
 考えても答えの出ない疑問に苛立つかのように、千尋を抱きしめた腕に力を込めるハクであった。
 ハクの鋭い誰何に、瑠貴はやはり笑った。第三者がその場にいれば、それはどこか今までとは違う笑みであるようだと語るであろうが、悲しいかなその場には誰もおらず、千尋も目を閉じたままで、怒りを胸に抱いたハクの目でその違いがわかるわけもなかった。はくも冷静であれば気がついたであろうに――瑠貴の中に深い慈愛と悲しみが存在していると。
「気がつかないの、コハク?」
 気がつかないのならいいんだよ、と瑠貴にしては弱気の言葉に、ハクはいぶかしむ。どう言う意味なのだろう、それは。それではまるでこちらが彼の招待を知っているような口ぶりではないか。
「私は知っている?」
 いや、そんなはずがない。あちらの世界でも、こちらの世界でも、目の前の少年など見たことがない。
『神』にとって外見がなんの意味も持たないと――それこそ、今現在のおのれがこんな外見をしていることすらその人物の存在を知るなんの基準にも手がかりにもならないのだと知っているだけに、ハクは外見に惑わされているのではない。
 確かに『外見』は『内面』を強くあらわすものではあったが、『外見』などどのようにも変化できる。力強き『神』にとっては『外見』ほど不確かなものはない。
 だからこそハクは目に映る姿形を透かして見える純粋な『瑠貴』と言う存在の輝きを見ているのだが――それでも彼に心当たりなどなかった。だが、なぜだか――瑠貴が心底憎めない存在でもあるのだとハクは感じ取っていた。
 この矛盾はなになのだろう、瑠貴がしてきたことはハクの逆鱗に触れるに等しい行為であるのに、けれどもハクにはその行為を甘んじて受けている奇妙な錯覚すらあるのだ。
 睨み付けるばかりではない複雑な視線を瑠貴に向けるハクであったが、先ほど覗いた瑠貴の感情はもうその時には掻き消えてしまっていた。今いるのは、いつもと同じく飄々として謎の言葉しか紡がない歌い鳥。
「それよりも、思い出した? コハク。人の記憶は移ろいやすいものだけど、神のそれだって同じだ。あんなにも一生懸命追いかけられた命も救い上げられたことを忘れ、あんなにも一生懸命追いかけた者もその後の悲しみに記憶を押し潰す。宿りの場を失い、流れ流れ着いた場所は穢れの場だ。そんな場で善き記憶を抱え込んで正しくあれるなど神にも難しい。魔女にその身を操られたままで、お前が正しく喜びの記憶を持っていられたとは思えないのだけれど。差し伸べられた手と、つないだ手の感触を」
「私は……忘れてなどいなかった!」
「けれど、正しく覚えてもいなかったのではない?」
 不思議の町を支配している強欲な魔女の元に流れ着いた頃には、コハクヌシの全身を美しく飾っていた鱗も乾ききりひび割れ剥がれ落ち、水を切って揺らめく水底色の鬣も色あせ、なによりも翡翠色の眸は濁りきっていた。
 コハク川を救えなかった自分自身を責めるのにも疲れ果てていた。あんなにも強い力を持っていたのに――成す術もなく住処を、庇護すべき存在たちを奪われてしまった名ばかりの川の神。
 いっそ人を恨めればよかったのに、コハクヌシにいはそれすらもできなかった。黒く塗りつぶされたコハクヌシの心のどこかに、人々と共に過ごした記憶が残っていたのだろうか。笑いさざめく水遊びの子供たちがあげる水飛沫のくすぐったさを。西瓜が冷えるのを今か今かと待ち望む子供たちの顔が残っていたのだろうか。コハクヌシや川や、川の同胞に容赦なく襲い掛かるあの大人たちも、昔はあの、川遊びに興ずる幼い子供だったのだと思うと力が萎えてしまった。
 それを悔いるかと問われれば、遠く流されてしまったコハクヌシには返す言葉がなかったけれど。ただ、重たい身体を引きずって倒れ伏した草原の向こう側に忍び寄る静かな夜と、空の星よりも明るく輝く無意味な地上の星の煌きを虚ろに眺めていた記憶だけがコハクヌシとしての最初で最後の記憶と成り果てていた。
 あとは瑠貴が言ったように、湯婆婆に操られて落ちるところまで落ち、命じられるままに悪事に手を染め、記憶も曖昧として、感情すらもコハクヌシのものとも『ハク』のものともしれなかった。コールタールの海に頭の先まで浸かっているような奇妙な感覚と、時折鋭く差し込む痛みしか覚えていない。そんな中で、千尋との再会を正しく覚えていられたのかと問われれば否と答えるしかないではないか。
 けれど――確かに覚えていた。覚えていたのだ。それは間違いようもない。どんなに辛い記憶に押し流されていても、記憶の奥底に沈んでいても、確かにハクの中にあった。小さな断片と成り果てていようとも、小さな人間の子供との出会いは、確かに。たくさんの――些細な――触れ合いとも言えない触れ合いのひとつにしか過ぎなくとも――覚えていた。その記憶がハクをこの森にまで救い上げるきっかけとなったのだ。あの日の子供の手に導かれるようにして。
「記憶――……」
 どうして記憶はこんなにも儚いのだろう。なによりも印象が強く大切にしようと思っていた記憶も想いも、なんの約定もない願いと同じほどに儚い。
 その儚さは誰のせいだと問われれば、持っている本人のせいかもしれない。その者を取り巻く環境のせいかもしれない。もしかしたら誰のせいでもないのかもしれない。記憶とは――想いとは、流され薄れ行き儚いものであるのだと定められているものなのかもしれない。
 けれどもハクは、今その事実が悔しくてならなかった。腕の中の千尋をぎゅっと抱きしめる。
『千尋が元気であればよい』――その願いはあまりにもささやかで儚くて邪魔ばかりが多かったけれど、彼女はここにこうして『存在』している。過去の記憶のままでは一時も定まらない命だとは言え、忘れたくなかった姿であったのに、歪めて覚えていたおのれ自身に歯噛みする。
 もしかしたらもっと忘れていることがあるのかもしれない……例えば、目の前に立つ少年の存在を、歪めて――忘れ去っているのかもしれない。青とも瑠璃とも言えない髪に、青い闇を煮詰めたような黒い眸。異なる色を纏いながらも、どこか懐かしいとも思える――心底までは憎めないこの存在を。
「あなたは――……」
 頭の奥、記憶の奥の奥で小さく何かが閃く。なにかを思い出しそうだ。
 ハクは意識をこらす。今度は、瑠貴に無理矢理突き落とされるように過去への邂逅を果たすのではなく、おのれの意思で。
 けれども、それに覆いかぶさるように浮かび上がってくるのは――なぜか――右手を引っ張って
『はやくはやく』
 と捲くし立てる――少女の明るい声。


 私はなにを忘れていたのだろう?



「あんた、隣村に来てるお芝居の役者さんでしょ?」
 軽やかに弾む声。好奇心を抑えきれない少女の声が、顔の判別さえも容易ではない夕闇の中から聞こえる。
「うちの村、これからお祭りなんよ。一緒においでよ」
『黄昏』とは『誰そ彼』とも言う。互いが誰であるのかわからない夕方の薄い闇の中で、あなたは誰だと問いかける時刻。誰であるのかわからないから、『私』が何者であるのかと正体を証しあう時刻。それは人ならざる者が徘徊をはじめる時刻。
 けれどもその村には祭りの夜が忍び寄っている。祭りとは常ならぬ世界が広がる場所。
 そこでは『知っている者』が『知らない者』になり、『知らない者』が『知っている者』にすり替わる。神と人すらも交わる。それが『常ならぬ世界』である『祭り』だ。
 小さな村の、小さな祭りの気配に誘われて地上へと彷徨い出てきたコハクヌシを探し出し、祭りの賑わいへと連れ出すのは、いつでも少女であった気がする。
 普段はすすに汚れた頬に、爪にまで入り込んだ土に汚れた手、または冷たい川で粗末な家族の着物や野菜を洗っているささくれた指先をしているのだと知っている『少女』が、その日ばかりはこざっぱりと身支度を整え、歯の抜けた櫛を髪に挿して精一杯に着飾っている。
『常ならぬ世界』へ行こうと心構えをして、いつもとは違う雰囲気に満ち充ちた村をぱたぱたと忙しげに歩き回り、そして雑木林からぼんやりと祭りの様子を眺めているコハクヌシを目ざとく見つけては屈託もなく声をかけるのだ。
 八百万の神々への捧げ物として燈された松明が村を明るく照らしながらも、そこは闇の只中であるのに、恐れもせずに。
「今年は米がようさん取れたんよ。だからみんな浮かれてるの」
 夏には松さんとこの子供が足を痛めたくらいで、だぁれも死なんかったし。川で溺れた子もおらんかったし。
 浮かれ口調でべらべらとまくしたててはぐいぐいとコハクヌシの手を引っ張って行く少女。
 頭ふたつぶんは軽く差のある少女の歩幅は、ヒトの姿をとり足音もたてずに優雅に歩くコハクヌシのそれとあまりかわらない。少女が大きく足をくりだして歩くからだ。
 年の頃は十二・三だろうか、まだ幼い彼女の目にはコハクヌシはどう映っているのだろう。ささやかながらも年に一度の秋祭りに興奮した村人達も、あきらかに外の人間――人間とも言えないコハクヌシの存在に奇異の目を向けたりはしなかった。祭りとは神とあやかしとヒトが交わる時であるからだ。そこここに、松明の火や陽気な空気に興味をしめし、顔を覗かせている木や土や花や大岩の精霊の姿さえも見えることにコハクヌシは気付いていた。
 今年の夏も暑かったとか、井戸がひあがるかと心配したとか、コハクヌシにはよくわからない話をべらべらと話しかけていた少女が、つと口を噤ませた。
「あんた、口きけんの? それともうちの話、つまんない?」
「いや、つまらなくなどない」
 その声に、いつも少女は――少女達は目を見張って後ろを振り返り、あんなにも威勢よくくりだしていた足をぴたりと止めてしまうのだ。だからコハクヌシは――いつでも第一声の後には慎重に歩を止める。
「わぁ、川の流れみたい。うち、好きなんよ、コハク川が」
 そして顔中に笑みを浮かべるのだ。なんの気負いも打算もない、純粋な笑みを。
 一番最初に声をかけ、手を引っ張ってくれる少女達の、川の神へと捧げられる言葉や笑顔はいつでもこそばゆくて嬉しくて守りたいもの。

 あぁ、だから私は『人』が好きなのだ。

 いつでも。
 いつの時代でも。
 どんなに時が流れても。
 いつも最初にいるのは少女だった。
 水が流れる、緑深き場所で、『好き』だなどと、なんの思惑も含まずに河伯に伝えられる者。
 脆弱で、ひとりでは生きられなくて、けれども大きな存在に丸ごとを預ける川の民のようでもなくて、あらゆる者の庇護を受け――なんて存在なんだろうといつも思わせる。この者は山の神にも空の神にも火の神にも風の神にも感謝を捧げ、そして水の神にも等しくそれを捧げられるのだ。同じように恨みの念も分け隔てなく抱くのだろうけれど――水から一歩外れれば生きていることすらできない存在などではなく、なんて柔軟でしたたかな存在。人だけがたくさんの神々を受け入れている。ひとつを一途にあがめるでもなく、ひとつを激しく嫌悪することなく。共存。人のもとであれば神々も共存できていた。
 そんなことを強く思わせるのは、どこぞの優しい姫君でもなく、教養深い理知的な娘でもなく、神と繋がる巫女でもない。ただの娘。水の神の心をざわざわと揺らせるのは、いつでも少女達だった。着る物や話す言葉や、顔立ちさえ違っていながらも、同じ目をした少女の手に導かれてどこか『違う世界』へとコハクヌシは迷い込むのだ。
 それはいつでも、深い緑に包まれた場所。川が生まれる緑のふもと。最初のひと雫を知る山々が連なる場所。
 少女の姿とその緑は重なって同じ存在としてハクの中にあった。ハクの好きだった中洲に身をひたしていた時感じていた穏やかな視線は、少女のそれなのか、それとも周囲の緑のものなのか――……

 なにかわかりそうなのに――……
 思い出せそうなのに――……
 あと少しなのに――……
 思い出したいことを――とても懐かしいことを――真実、を。

 けれども、その思考の糸はぷつりと途切れた。腕の中の千尋が身じろぎをし、うっすらと目を開けたからだ。
「ハク――?」
 恐れもせず名を呼ぶ少女。
 あぁ、やはり彼女だ。人の賑わいを遠くからぼんやりと眺めていた私を『違う世界』へと誘うのは――この少女なのだ。
 その存在を『異質』と言わずしてなんとあらわすのだろう。生きている者はすべてどこか特別だけれども、彼女は――彼女達は、神々と結びつきが強い、呼吸をするのと同じくらいの自然さで神を認識する、その点が『異質』なのだ。
『違う世界』を垣間見るだけでなく、神々さえも誘う……ある意味では『害悪』の存在。」神々やあやかしさえも光の届かぬ片隅へと追いやられた現在において、それを『見知らぬ恐怖』と捉えぬ者はいないかもしれない。だから紫媛や雪白や幽鬼の子供や薄氷の精霊までもが唆された、千尋を通せば『こことは違う世界』に辿りつくのだ。ハクにはそれがわかった。
 彼女は『私』と出会ったから『異質』なのではなく、元からその使命を帯びていた存在なのかもしれない。それでも『千尋』ひとりが特別なのではなく、誰もがその可能性を秘めていただろうに――この世界は今、神もあやかしも受け入れない、それが彼らの目を曇らせ異形の者を闇へと追い立てている。

 ハクの心に浮かび上がろうとしていた『ひとつの答え』は儚く掻き消え、ハクは『現実』を選び取った。いつでもハクを『知らない世界』へと導く、腕の中の少女を。あちらの世界においてはすでに『害悪』以外のなにものでもない使命を帯びた少女を。稀有な心を持った少女を。

 きっと、ハクにとっての『瑠貴』は過去の象徴。忘れ果てていた過去がつきつける試練。
 ハクにはそう思えて仕方がなかった。