【10】
神隠しの森





【一】

「コハク、選択をした?」
「ハク、どうしたの?」
 青い青い空間は、ハクの物とも瑠貴の物とも言えない色に染まっていた。しっかりとあるようで、どこかゆらゆら揺れているそこは、それでも不快ではなかった。その揺らめきは、水の揺らめきに似ていた。懐かしさに溢れていた。
 その空間が、突如風に煽られた蝋燭の炎のように激しく揺らめき色あせ始めた。白い光に照らされて色あせるかのようにその色がゆっくりと溶けさった後には、見慣れた森があらわれていた。
 ハクと千尋と瑠貴しか存在していなかった静かな空間であったそこに、様々な命の気配がどっと溢れた。木々に、風に、鳥に、小動物の気配。鼻先をかすめるのは、花や草や水の匂い。どこまでも静かだと感じられていた森には、ほんの隙間もないくらいに色や香りや目に見えぬ者たちの気配でひしめきあっていた。
 どうしてこんなにもはっきりとした『命』の気配に今の今まで気がつかなかったのだろう?
 人としての感覚しか持っていない千尋にとっても、神としての感覚を持った――その地に長く留まっていたハクにとってもそれは驚きに値するほどで。どれだけおのれ自身しか見ておらず、自身の内側に篭っていたのか、ハクは思い知らされた。自身の不運を嘆き悲しんでいるだけでは招きよせる現実も悪化していくのだと、あの油屋での体験でわかっていたはずなのに。
 あの青い空間から締め出されていた銭婆の式神からもかすかに魔女の気配がして、それはとても近くに感じられた。今までそんなことを感じたこともなかったのに。銭婆がどれだけ親身になってくれても、所詮傍観者であり当事者ではないと考えていたのに。
 一番強い気配は、腕の中にいる少女のそれだ。青い空とハクを見上げた、茶色味を帯びた眸はきょとんとしている。
 彼女の、高く結い上げた髪をとめているのは、ハクが奪い去ったのとそっくり同じ紫の髪止め。それがきらりと光をはじいて瞬いた。その事実はもう驚きでもなんでもない。きっとこれは瑠貴の仕業。否、ハクの手を離れ、それでもめぐりめぐって彼女の元にあの髪止めがたどり着いたのかもしれない。銭婆や、魔女の息子や、孤独な者たちの寿ぎの想いをこめて作られた、世界でたったひとつの『特別な品』であるのだから、もうそれは不思議には感じられなかった。どんなに細切れにしても、どんなに形をなくしても、想いや縁が消えないのと同じように、この髪止めにもそれだけの『意味』がある。ただ、紫の髪止めの光と千尋の気配と彼女を取り巻くすべてが複雑に混ざり合って、なんとも言えない色に染まっているのが綺麗だった。
 世界はこんなにもたくさんの気配であふれていたのに、どうして私は。
 ハクは自問せずはいられない。先ほど迷い込んだあの『過去』の世界では、私は自然にそれらを嗅ぎ分け感じられていたのに――どうして私は今の今までそんなことを忘れていたのだろう。まるで、辛いのは私ひとりだとでも言うかのように、目を閉じて立ち尽くし、ただ時が流れるのを見ているだけであった。
 どうして私は――そんな無意味な選択をしていたのだろう?? 守るべき場所から逃げ、流れ流れ着いたこの世界で、それでも私は『生かされていた』のに。彼らのかわりに『生きなければ』ならなかったのに。どうして私は――どうして私は。
「私の使命とは――」
『使命』なんて大仰なものではなかったのかもしれない。生きること。生き続けること。叶うならば――豊かに生きること。それこそが『使命』であったのかもしれない。それはすべての存在が持ち得る、最低にして最大の使命であったのかもしれないけれど――それを実践するのはこの上もなく難しいことで。
 不思議そうに見上げている千尋の顔より視線を外し、ハクは広がる森を見た。年経た樹の、枝の先についた葉の一枚一枚は良く似ていてもどこか違う色。それが風に吹かれればえも言えぬ葉擦れの音を奏で、光が差し込めば影絵を創る。雨が降れば水の玉をつくり、地に落ちて腐れ果てれば大地の養分へとわかる。
なんて不思議。
 私はこの連帯の中に帰りたい。帰りたい。帰りたい――……。あの祭りの灯を遠くから眺め、あの輪の中に入ってみたいと考えていた、その思いにも似た感情。
 そう思わせる森の中に、瑠貴が立っている。ハクの視線の意味が先とは違っているからか、瑠貴は今ではその森の中に溶け込むようにしてひっそりと存在していた。まるで葉影で涼む小鳥のようだ。誰を害する者でもなく、なんの思惑も持っていないような、自然な存在にハクの目にはうつる。だからこそ、罪のない櫻の精や年経た猫や幽鬼の少年や冬の精を唆した、その行為が彼の仕業であるのだと信じられない。その事実はもう間違えようのないものであったが、困惑はさらに色を深めた。
 どうして彼は私達に関わるのだろう。彼の行動のすべてがハクと千尋のふたりに集結する、彼の思惑が図り難かった。けれどももうそれはどうでもよいものに思えてならない。過去をかえりみることを知らない者は愚か者だけれども、過去にとらわれすぎるのも愚の骨頂。
「コハク、選択をした?」
 重ねて問われるその真意に、もしかしたら裏なんてものはないのかもしれない。
「私は、ここを出る」
 そう気がついたからこそ、ハクは素直にその言葉を口にできた。ここを出る。この森を出る。腕の中に少女とのかかわりを断つ結界であり、彼を何物からも隔てていたその森を出る。
 ハクは自由だ。竜であり守護者であるから『力』があったのか、『力』があるから守護者でならなければなかったのかはもうわからないけれど、もおうその責からも解き放たれ、彼はある意味自由であった。それに気がつかず、川を取り戻そうと『魔法の力』を求めてみずから泥沼に身を落とし、悪足掻きしていた日々。今彼を取り囲んでいるこの美しい森も、結局は湯婆婆や油屋となにもかわらない。両方とも、彼の足枷。
 それに気がついたからこそ、ハクは森を出る決心をした。千尋の為にハクが絆を断ち切ったのと同じことを――もしかしたら半身である川の流れも、そこに住んでいた民たちもハクの為にしたのかもしれないのに――彼らとともに滅びる勇気もなかった身であれば、いっそおのれの幸福を願って足掻いてみるのも良いかもしれない。彼らの『使命』を託された者として豊かに生きられるように足掻くのも良いかもしれない。もう彼らに問いかける言葉も失ったこの身であるのなら――それも良いと思う。なぜなら、いつでも光の中におのれをひっぱりだす少女が――千尋の手がここにあるのだから。
 瑠貴はハクの言葉を聞いて、いつもと同じように笑みを刻んだ。けれども、それはどこか満足げなものだった。
「ならコハク、この森を出なさい。それがお前の選択であるのなら」
 この先幾つも立ち現われる様々な『選択』のひとつめであるこの一歩を踏み出せと、瑠貴は笑う。
 あぁもしかしたら、とハクはその笑みを見つめて思う。もしかしたら瑠貴は、私を見ていたのかもしれない。ずっとずっと昔から見ていたのかもしれない。こちらが気がつかないほどに自然に。軽い口調や謎めいた言葉や、真実味の薄い笑みに惑わされがちだが、彼はおおらかに構えて揺るがない。
「ハク、帰ろう?」
 過去と未来が同時にハクの背中を押す。
 ハクはもう微塵の躊躇いも抱いてはいなかった。
 美しい森から――泥沼から飛び立つ白い竜。
 先はどうなるのか――過去を覗き見ても未来を透かして見ても、その結果はわからなかったけれど。