HIBIKI


【 1 


 リンゴン リンゴン 鐘は鳴る。
 リンゴン リンゴン なんの為?
 リンゴン リンゴン――誰の為?

   ◆◇◆

 人には見えざる白い生き物は、排気ガスに曇った空を翔けていた。白銀に煌く鱗をさざめかせ、薄い雲の中を、身をくねらせて泳ぎまわっている。竜。かつてコハク河を治め、ニギハヤミコハクヌシと呼ばれていた者。今はもう『ハク』の呼び名の方が身にしみついている者。霊々が癒しを求めて訪れる不思議の世界の魔女に弟子入りし、その契約を破棄してようやく元の世界に戻ってきた。
 その者が、この現に舞い戻ってきたのは、連日雪が降り続いている季節であった。ふいと見上げた視線の先にもちらちらと白い綿毛が舞い降りて、ハクは目を細める。陽もあたらぬ山には溶けやらぬ雪の白が降り積もったままだ。視線を下にやれば、山々を切り開いて張りつくようにして立ち並ぶ家々が見えた。色とりどりの屋根は陽に褪せ、曇天もあいまって鈍い銀色にくすんで見える。
 ハクは雪が舞い散る中を、北へ北へと進んで行った。

   ◆◇◆

 リンゴン リンゴン 鐘は鳴る。
 リンゴン リンゴン なんの為?
 リンゴン リンゴン――誰の為?

 少女は小さく歌いながら、緩やかな上り坂を登っていた。手には庭で摘んできた白い花。一歩一歩足を進めるたびに、背の真ん中まで伸ばした髪がゆるく背中を叩いた。
 やがて辿りついた丘の上の小さな教会の鉄柵を押し開け、少女は裏庭へと足を踏み入れる。慣れた仕草で裏庭を見回し、躊躇いもなく進んでいく。
 そこは『裏庭』と言うのは間違いな場所で、簡潔に言うならば墓地以外の何物でもない。白や黒の墓石が立ち並ぶ場所であったが、彼女にとっては『裏庭』と表現できるほど慣れ親しんだ場所だ。と言っても、ここに出入りをはじめて何年も経っているわけではなかったが。
 ふっと空を仰ぐと、今にも降り出しそうだった空から雪が舞い降りてきた。少女は首に巻いていたシルバーピンクのマフラーを鼻先まで引き上げると、木立の下にある白い墓へと小走りに駆けて行く。そしてその前に白い花を供え、膝をついて頭を垂れた。今日はこの墓の下に眠っている人の月命日なのだ。
 細い肩に、これ以上は堪えきれぬとばかりに本格的に降り出した雪が降り積もった。組んだ細い指が白く凍えていっても少女は頓着せずに祈り続ける。


 ハクは、白い屋根に白い雪が降りしきる光景の中、ひとりの少女を発見した。雪が降り冷たいであろうに、白い石畳に膝をつき、頭を垂れている。薄く葉をつけた木が幾分かは雪を遮ってはいるだろうが、人の娘にとってこの環境が良いものとは到底思えない。そのアンバランスな光景に心が惹かれ、ハクは空中で身をくねらせてその少女をじっと見つめた。
 と、少女はなにかに気がついたのか、ふと顔をあげて空を見上げた。そこはちょうどハクが留まっている場所で。
『……見えるのか?』
 竜は翡翠色の眸を細めた。人の世でもう竜を見る目を持つ者がいるとは思えない。それも、この世界に舞い戻ってひとり目にあたるなんて偶然はないだろう。けれどもハクは竜の首を伸ばし、少女をもっとよく見ようと近づいてみる。驚きで丸くなった黒めがちな眸、背のなかばまで伸ばした髪は真っ直ぐな黒髪。細いけれどすんなりと伸びた手足。愛らしい少女であった。
「竜だ」
 呆然と呟いた少女の声を聞いて、ハクは身の内のどこかがぎゅうと握り締められたような感覚に陥って、瞼をぎゅっと閉じたのであった。


「竜だ」
 白くて長くて大きな生き物が、白く鈍った雪雲の中から自分を見下ろしている。錯覚ではないだろうかと目をしばたたせてみるが、それは消えはしなかった。身体の先についている尻尾がゆらゆらと揺れている。白銀の身体に、水底色の鬣に、二本の角が生えている不思議な生き物だ。
「お話の中の竜だ」
 その竜が首を伸ばしてこちらを見ている。そう思っていると、それはそろそろと近づいてきた。墓地の上空まで近づいてくると竜の身体がぱっと弾けて、そこには人が現われたので更に驚いてしまった。白い着物を着た男の人だった。
 その人が目の前まで白い石畳を歩いてきて、口を開く。
「寒くないの?」
 ………寒いよ。ずっと。
 そう声を出したいのに、喉は言葉を押し出してはくれなかった。その人の声があんまりにも優しかったので、突然湧きあがった嗚咽を堪えるのに忙しかったからだ。


 ハクは突然泣きはじめた少女にうろたえた。年の頃は十をいくつか越えたところか。その顔がくしゃくしゃと崩れて、ぽろぽろと涙を零し始めたのだ。なにか悪いことをしただろうかとうろたえてしまう。
そう言えば、小さな子供は大人から見下ろされると恐怖感を抱くのだとなにかで読んだ気がする。あの時は、この年頃の少女との身長差はそれほどなかったなとふと頭の隅で考えながら、石畳に片膝をついて視線の高さをあわせてやった。
「どうした?」
 真向かう形になった少女は、それでもまだ泣き止む気配がない。
「どうしてこんなところに?」
 ぐるりと頭を巡らせてみれば、周囲には様々な形の石が立ち並んでいた。見慣れない形ばかりではあったけれど、多分ここは墓地なのだろうと見当がつく。死人の眠る地は独特な空気がある。神ならざる者であってもわかることが、元神であったハクに分からないはずがない。
「お母さんに会いに来たの」
 ようやく応えたその声は、どうにも鼻声で。
「母?」
 事故か病気で死んだのだろうか。この子供の母親であれば、まだまだ若いだろうに。
「ここ。お母さんのお墓なの」
 涙で濡れた目で指し示したのは、白い石だった。アルファベットで刻まれた名前を視線で追って、ハクは言葉をなくす。
「ちひろ」
 墓石には、たしかに『CHIHIRO』と刻まれていたのだ。

   ◆◇◆

 たしかにここへと来たのは、懐かしい少女の気配を探ってきた結果であった。あの草原で交わした約束を守ろうとして――。かなりの時間が流れているのだとはわかっていたけれど、一目彼女にあって、約束を守りたかったのに――。
「千尋は――」
 ――いつ? と訪ねた声が予想外にかすれた声になって、ハクはその不甲斐無さに更に言葉を失った。
「半年前」
 事故で。と続けた少女の声もかすれている。
「そなたは、千尋の子供? 名は――なんと」
「……ひびき。遊免 響」