HIBIKI


【 2 


 響はどきどきしながら下り坂を駆けおり、白い屋根の家へと走って逃げた。
 母親の墓に行って、白い竜を見た。竜が男の人になった。母の名を親しげに呼ばれた。自分の名を聞かれた。
「響……か」
 良い名だな、と誉められた。どきどきして仕方がなく、逃げるようにして墓地を飛び出してきた。綺麗な綺麗な人だった。まさか、あんなに綺麗な人が――いや、お話の白い竜が本当にいるなんて思いもしなかった。
 それと同時に、響は気がついた。母が語ってくれたあのお話は本当の話だったのだと。女の子が赤い門をくぐるとそこは不思議な町で、変な神様達がお風呂に入りにくるのだ。そこには白い竜の男の子がいて、女の子は色々な冒険の果てにこちらの世界に戻ってくる……。
 桃太郎や人魚姫のように誰もが知っている話だと小学校に上がるまでは思っていたが、誰一人としてそんな話を知る者はいなかった。三年生になる頃には、自分の為に作ってくれた創作話なのだと考えついて嬉しくなったものだ。けれども今日あの竜を見てはっきりとわかった。あのお話に出てきたのは、きっとあの人だ。ならば必然的に女の子は
「お母さん?」
 そうなるのではないだろうか。
 響は自室に駆け上がってドアに鍵をかけると、白いベッドカバーをかけたベッドに倒れ伏した。
 裏切られた気がした。

 父親と母親は学生時代に知り合って、社会人になって結婚したと聞いた。祖父や祖母はふたりの恋愛を『大恋愛だった』と評した。たしかにふたりは仲が良かった、子供がそれで拗ねてしまうほどだったのだから間違いない。
 なのに、母にはあんなにも綺麗な竜がいた。そして母に会いに来た。死んだ後までも追いかけて来た人。
 父親は、母が死んでから人が変わってしまった。前は『家庭人』と呼ばれる人だったのに、今は仕事に打ち込んで入る。それも裏返してみればそれだけ母親を愛していたことになるのだろうけれど、それは、ひとりで大きな家に残っている自分のことも見てよと叫びたくなるくらいに寂しいことで。けれど、そう叫ぶには幼さが足りなかったし、それができるほど愚かでも我侭でもなかった。自分はもっと賢いつもりであったから。
「もっと小さければ良かった」
 ベッドの上に言葉を転がしてみる。もっともっと幼ければ良かった。自分を見て! 構って! と大声で叫べるほど幼ければ良かった。身体全体で叫んでも恥ずかしさのかけらも抱かずに済むほど幼ければ。水がないと死んでしまう魚と同じなのだと臆面もなく存在そのもので訴えられるほど幼ければ。けれど、もうわたしは『愛情』だけあれば生きていられるのだとは思えない年になっていて。
『死』が『遠くの世界に行ってしまっただけ』なのだと信じられる年であればよかった。もう十一にもなれば『死』の意味は誤魔化されないほどにわかってしまっている。『死』は『生命の終わり』で『もう二度と会えない』こと。いつか会えるなんて希望はかけらもないこと。
 あの竜ならば死んだ母にも会いに行けるのだろうかと考えると、止まったはずの涙がまた頬を濡らした。眠ってしまいたかった。

   ◆◇◆

 リンゴン リンゴン 鐘は鳴る。
 リンゴン リンゴン なんの為?
 リンゴン リンゴン――誰の為?

 少女が呟いていた歌とも言えない言葉の羅列を、ハクは教会の白い屋根に腰を下してつぶやいていた。眼下に広がる墓石にも屋根にも白い雪は降り積もり続けている。
 リンゴン リンゴンとなる鐘の音は、祝いを知らせる鐘ではなくて、弔いに響いていたものなのだとわかると妙に寂しい。自分をずっと支えていた約束は結末を知らず、胸にぽっかりと穴をあけてそこにあった。まさかこんなことになっていようとは予想していなかった。
 時間が経っているとはわかっていた。多分千尋は誰かと寄り添い、子を成しているだろうとは思っていた。人としての喜び、それを断ち切る権利は誰にもないし、それは祝福すべきことなのだから望んでもいた。千尋に一目会えるだけで充分だったのに。
 なのに
「たった半年」
 たった半年の差で、あの少女は永遠に失われてしまったのだ。受け取り手のない約束だけをハクの胸に残して。
 すべてがひどく空虚だった。心の穴を埋めるように、黒い空から白い綿毛が次々と降り続いていた。まるで星が転がり落ちている光景に思えた。
 寒かった。それは、ずっと癒されることのない寒さだった。