HIBIKI


【 3 


 ハクは――そして響は、互いに信じられないものを見ていた。
 翌日の、まだ朝もはやい時間帯に響があの墓地へと訪れて発見した、屋根の上の――雪に固められた白い竜に響は目を丸くした。
 そしてハクは、まだ眠っているのが普通であろう人の娘の姿を死人達の地で見つけ、なんとも言えない顔になった。
 響は、あの綺麗な白い竜が雪まみれになっている光景に。ハクは、こんなに寒い雪の日に人が出てきては風邪をひいてしまうだろうとの思いで――見つめ合ってしまったのであった。

   ◆◇◆

 ハク。
 屋根の上から降りてきた竜はそう名乗った。
「ハクは――お湯屋にいる竜?」
 母親の物語に出てくる白い竜は『お湯屋』に勤めていた。
「……もう辞めてきたけれどね」
 懐かしさの色もなにも含めない、無色の声で返すハク。なにやら掴み難い、色。ただの事実を口にしただけである口調。
「お母さんに会いに来たんでしょ?」
「そのつもりだったのだけれど……」
 竜の視線の先は、見なくてもわかる。『ちひろ』と刻まれた墓石だ。ふたりで肩を並べて座っているのは教会の礼拝堂内部ではあったが、その壁の向こうにはたしかに死者の眠る墓地が広がっている。
 目の前には十字架や火の灯っていない燭台が朝の光にきらきらと小さな光を弾いて耀いている。色鮮やかなステンドグラスから差し込む光に、あるかないかの埃もきらきらと光った。綺麗だった。
 静謐。そんな言葉がなによりも似つかわしい空間であった。厳かで、穏やかで、なにもない。しんと静まり返って、生きている気配は小さく縮こまってそこにあった。
 たしかな『現実』であるのに、響には非現実そのものに思えてならない。それが『怖い』のかと問われればそうではないと即答するのだろうが。いっそ響には好ましい非現実さでもあった。
 侵されざる非日常の空間にすっぽりと全身を包まれながら、響は竜に問いを向ける。肩口からさらりと零れ落ちたおのれの黒髪を払いもせずに。ただ自然に、するりと疑問を口にする。
「どうするの? ハクは」
 恐れもせずに話しかけてくる響にすこしばかり感心しつつも、ハクは根気良く答えを返して行った。
「どうしようか。考えてもいなかった」
 こちらの世界に戻り約束を果たす。ただそれだけを目標にしていたから、その先を考える余裕なんかありはしなくて。正直、響に指摘されるまでその事実に気がつきもしなかった。朝に陽が昇り夕に沈むようにそれはハクにとっては当たり前の約束であって。――その先など問題ではなかったと言えば嘘になるけれど。
「結構ぼんやりさんだね」
 響は少しだけ笑えた。こんなに綺麗な生き物なのに、本当になにも考えてはいなかったらしい。響の小さな笑い声は、雪白の光に、しんしんと沈む礼拝堂に、名前の通り響き渡る。幾重にも重なって、小さな波紋を広げて。
 ステンドグラスから振りそそぐ朝の光にしらしらと照らされる白い竜の青年を横にし、響は『笑えている』現実を不思議に感じていた。肩口で揺れる自分の黒髪はゆるやかに身を打った。昨日散々に泣いたのに、一夜あければ普通に笑っている。母親を恨んだ夜は雪の中に埋もれて新しい朝の光の中に溶けてしまったようだ。
「本当はまだ信じられない」
 だから、ぽつりとハクがつぶやいた時、迂闊にも響はなにも考えられず、ただ瞬きをくりかえしてハクの横顔を見つめるしかなかった。『なに』を信じられないと直接には言い表さなかったハクの言葉がわからない響ではなかったから。母親から伝え聞いた話では、白い竜は聡明な少年、との印象が強かったので、彼がそんな弱音によく似た色の言葉を持っているなんて信じられなくて。
「信じられないのは――」
 その現実を認識するには辛いものだから?
 あまりにも予想とかけ離れていたから?
 人がいつまでも生きているものだと信じていたから?
 約束は必ずまったき形で叶えられてしかるべきと考えていたから?
 響は心のどこかを引っかかれた気がしてそう問い詰めたくなったけれども、きゅっと唇を噛みしめてなんとか耐えた。どれかひとつでも図星をついたならば、この心地良いひんやりとした静寂の世界が壊れるとわかっていたからだ。口は災いの元、言葉が破壊の力を持つこと、そしてそれが『幼いから』なんて甘えで許してもらえるとはもう思ってもいないので。
 途中で言葉を見失った響の様子に、ステンドグラスから落ちてくる冷たく光る青い色を見つめていたハクが視線を向ける。自然向かい合う、青年と少女。
 静寂の空間にぴりりと走った静電気のような、緊張。それすらも心地よく感じながらも、このなにもない空間にふたりきりでいるのが耐えられそうになかったのは、響が幼いながらも悲しみを知っている少女であったからだろうか。しんと静まりかえった空気は彼にはよく似合っていたが、自分までそれに染まりそうで少しばかり恐ろしくて心が震えた。
 響は見えない誰かに背を押されるようにして口を開いていた。
「なんにも考えていないのなら――」
 遊園地に行かない?
 幼いながらも心情とはうらはらの笑顔を浮かべ無邪気に響は提案し、その唐突な展開にハクは先の響きと同じように瞬きをして少女を見つめるのであった。