HIBIKI


【 4 


 ハクは、響の提案に乗ってしまった自分に正直驚いていた。なにをする予定もない、なにをするつもりもないとの言葉通り、なにもすることがないのであるし。響の提案を拒む正当な理由ひとつ持っていない。『約束』も『果たすべき事柄』も――些細な『予定』ひとつ持っていないおのれはやけに空虚な存在に思えた。
 響の言う『遊園地』がどんな場所をさすのかもハクはわかっていた。あちらの世界であちこち出張と言われ出向いているハクは、いろいろなものを見てきているのでもう世間知らずの河伯ではなかった。そんな時に訪れたわりと大きな町で見た、移動式の遊園地。響からしたら、衰退も著しいデパート屋上の遊園地以下と評価を下すような、古めかしく錆の浮いた小さな遊具ばかりでその光景はセピア色に染め抜かれていたが、たしかにハクが見たものも『遊園地』と表現されて間違いがない代物であった。だからなんとなくこれからどんな場所に行くのかもわかる。あちらの世界の『遊園地』もどこかしら興奮に包まれた、教会の静けさとは相反する場所だとわかっていた。けれどもそれでも良かった。どこにでも行ける自分の自由を満喫する気分ではなかったけれど。
 かくして、ハクと響は町から電車で一時間程揺られた先の大きな町にある遊園地へと来ていた。
「……変じゃないだろうか」
 広大な敷地に青い尖塔を持つ城や、海賊船を模した建物があり、たくさんのアトラクションがある遊園地。日曜日ではあるが気候が気候だからか、その遊園地にしては入場数が少ない、それでも充分過ぎる人々で溢れかえっているその中に混ざっているハクの姿は、先の白い衣の姿ではなく普通の服装であった。
「まさかその格好のまま行こうなんて考えていないよね?」
『遊園地に行こう』の次に、長椅子から勢いよく立ちあがった響に見下ろされて言われた台詞に、そんなところまで考えてもいなかった自分のぼんやり加減にハクはまたもや驚いたりもしたのだけれど。本当に、昨日知った事実は予想以上に自分を打ちのめしているらしいと感じると同時に、目の前にいる少女が本当に千尋の血をひいているのかとも不思議に思う。あの、芯は強いけれどどこかおっとりとした面持ちとそれを裏切らない性格の少女とは似ても似つかない響。てきぱきとハクを家に連れ帰り、父親の私服を持ち出してきた手際の良さにハクは流されてしまった感があった。
「よかった! お父さんの服がぴったり!」
 ってことは、お父さんとハクってば体型が似てるってことだよね? お父さんも美形の素質あるんだなぁ。
 と、響は妙なところで感心していたが、ハクにとってはそんな言葉が今現在響から出てくることや、響の行動のひとつひとつに千尋が過ごした時間の有り様が響を通して透かして見えるようで、とても不思議だった。響はとても芯の強い少女なのだとはっきりとわかるので。
 そんな風に不思議がられているとも知らず、響は表面上は嬉しげに遊園地へと踏みこんだ。
 色鮮やかに染め上げられ、そこかしこから溢れてくる賑やかな音楽が充ちている、ショッピングモール。楽しげに声を掛け合う買い物客や、土産物をどれにしようかと真剣に考えている買い物客達の姿で溢れている。そこを抜ければ一転大広場になり、季節の花が遊園地のキャラクターを模している花壇があった。まっすぐに伸びた、青い城までのレンガ道を電気自動車が行きかっている。楽しげな客達の笑い声。話し声さえも掻き消えそうな遊具を楽しむ子供達の声。その場にいるだけで心が浮き立つ雰囲気。空からちらりと舞い落ちる綿毛さえも、熱気に当てられ溶けてしまいそうな興奮が満ちた場所。色彩豊かなその場所はハクの知る『遊園地』とは似ても似つかないものだった。


 ちらりと視線をやったハクの横顔は、いつもと同じで変わりがないようであった。けれども、盗み見るようにハクを見た響の内心はそんなものではない。まわりが賑やかであればあるだけ心が重く沈んでいく。隣にいるこの綺麗な竜には似合わない人込みの中に連れ出した張本人であるのに、その結果を心底後悔しているのもまた事実だ。
 彼に似合うのは、あの静寂に包まれた白い教会や、誰もいない草原や、山や、海。自然の中。それも、どこまでもひっそりとした。どう考えても、こんな人工物まみれ、人間まみれの場所なんかではなく。隣の青年がひとつ呼吸をする度に、一歩踏み出す度に、汚されていく気すらする。同時に、どんどんと響の心も重くなっていき、本心ではそんな重荷は投げ出したくて仕方がなかった。けれども、それの裏返しのように、響は明るい声を響かせるのだ。
「ハク! あれ乗ろう、あれ!」
 響の指先には、岩山を模した建物のジェットコースターがあった。無邪気な笑顔を振りまく響に対してハクに拒否権などあるはずもなく、ハクは響に促されるようにしてその建物へと向うのであった。


 響はジェットコースターを手始めに、様々なアトラクションへとハクを引っ張りまわした。雪が降っているどこか白い雲に覆われた気候であるからか、野外アトラクションに並ぶ人の列もどこか少なめで。
「いくつ乗れるか記録にチャレンジなの」
 兄妹と言うには年が離れすぎている気がしないでもないふたり組みではあったが、非日常的なこの空間ではそれらを気にする耳目もない。響はただひたすらに無邪気な様子である。同じ『非現実』であり『非日常』である教会での会話とはまた違う気持ちを持ちつつ、響は笑う。
「ハクがいるからかなぁ? 並んでもすぐに順番がきちゃう」
 ハクって河の神様なんでしょ? ご利益だね。
 そこだけ内緒話をするように声をひそめる響に、ハクは小さく吹き出す。ご利益、そんな言い方をされるのははじめてであったので。青い尖塔を持つ城のアトラクションから出てきてご機嫌なステップで広場まで駆けて来た響の仕草やそんな言葉は年相応の少女に思えた。
 そんな無邪気な響が、ふっと遠くを見やり、ぴたと足を止めた。とんっと背中を軽く叩いた黒髪の軌跡に、ハクは目を細める。微妙な余韻と間を感じ取るのは、その背中が響の行動力に反してあまりにも細かったからだろうか。ハクはかける言葉のかけらも逃してしまい、口を閉じるしかない。
「この年間パスポートね、お母さんとわたしのなの。春になったらまたこようねって約束してたの」
 お母さん、わたし以上にここが大好きだったから……。ほんと、わたし以上に子供っぽかった。
 そう呟く響の横顔は、幼くして母をなくした子供の顔――そのもので。風が巻き上げた黒髪がとばりとなってどれだけ横顔を欠けさせようと、暗く沈んだ表情をすべて覆い隠すことなどできやしない。さとい竜の目や耳にとっては尚のことそんなものには惑わされなどしなかった。
「響?」
 なにやら、彼女には似合わないその表情に、ハクは急に不安になった。何かが変わってしまう気がして。それは、朝の教会で響が抱いたものととてもよく似た不安ではあったけれど。彼女の心の最奥に少しでも触れたなら、この、ハクにとっても非日常的な世界が瓦解してしまいそうで。今はまだ響に引っ張りまわされている自分の役割にひたっていたかった。例えそれが、あの少女とあったかもしれない世界を――響を身代わりにして作り出しているのだとしても。
 と、そこまで考えて、響はなにを考えてこんな場所に行こうなどと言い出したのか疑問が湧いた。または――響はおのれを『なに』の替わりにしているのか、と。それは『母親』であろうか、それとも『父親』なのであろうか。あるいは――『傷心の自分』自身としてなのだろうか。ハクにはわからなかった。けれども、わからなくてもよかった。ハクには傷を舐めあう趣味などなかったし、自傷行為にも等しい響の行為に最後までつきあう気もなかったし――痛々しい者を見ているのも嫌だったので。その気持ちがわかるだけ、尚更に。
「ハク、今度は観覧車乗ろう?」
 だから、先ほどの鬱とした表情が嘘であるかのような笑顔を浮かべて響がそう言った時、ハクは思わずその小さな手を引っ張ってしまった。表面で笑っているからといって内面も同じ色に染まっているかと言えばそれはありえないとハクにもわかるので。ただ、それを、この幼い響にまであてはめられるのかと言えば――あてはまるのであれば、なんと痛々しいことを強要してしまったのだろうと。多分、彼女が笑うのは、彼女自身と――多分に、おのれの為。
「響、帰ろう」
 どこへ。など、言わなくてもわかる。あの場所へ。