HIBIKI


【 5 


 リンゴン リンゴン 鐘は鳴る。
 リンゴン リンゴン なんの為?
 リンゴン リンゴン――誰の為?

 ハクと響は、白い教会へと帰ってきた。下界からは誰も見ることなど叶わない竜の飛翔によってである。白く曇る空は白い竜を隠すかのように鈍く輝いていた。地上はどこか重苦しい灰色に染まっている。
 聳え立つ高層ビルの四角い窓から黄色味を帯びた光がこぼれていたけれど、それも今はくすんで見えた。縦に等間隔に並んだ窓はとても滑稽なものに感じられた。あの中にどれだけの人間が息を潜めているのだろうか。けれどもあの中で誰一人私達の姿を見る者など――否、見られる者などいないのだと考えるとこちらの存在そのものの方が滑稽に思えた。たしかに『ここ』にいるのに、どこかつまはじきにされた半端者のようでハクはおかしくなった。半端者のくせに『ここ』にしがみついている愚か者に思えて、ハクは心の中で笑った。今なら、本当の意味で響と同じ場所に立っているような気がした。
 人の子にとっては珍しい飛翔体験であろうに、響は竜の背で押し黙ったままであった。角を握る小さな手の平も凍えて冷たくなっているのをハクは感じていた。
 電車であれば一時間以上かかる道のりも、竜の飛翔であればその半分で済む。辿りついた、もう見なれた小さな教会の前に竜はふわりと降り立った。
 響は誰もいない教会へ勝手に上がりこんでほうと息をついた。ここの神父は外回りの用事が多いのか、なにかと不在がちだ。毎月毎月、それ以外にも暇があればなにかしらと顔を出す響の為に、神父はそっと鍵の隠し場所を教えてくれたのだ。階段脇にずらりと並べた鉢植え、奥から五番目の鉢下が隠し場所。
「こんなトコが隠し場所なんて無用心ですよ、神父様!」
 と響は怒るのだが、おっとりしているのか危機感に乏しいのか、神父はその隠し場所を変えようとはしなかった。
 かじかんだ手で取り上げた鍵はひんやりと冷たくて、震える指ではうまく鍵穴に入らない。もどかしい気持ちをぶつけるようにさし込むとようやく鍵穴にはまった。扉を開け放ち踏み込んだ教会の空気は、朝と同じ匂いがした。
 今朝方、逃げるようにこの場所から出たのが信じられなかった。いつでも優しく迎え入れてくれた教会の空気が、本当はいつも少しばかり嫌いだった。『分け隔てなく迎え入れてくれる』と言うことは『特別』ではないと同義であったから。『特別』な存在を一瞬でなくした自分は、賢いつもりだとは思いながらどこかで『特別扱い』して欲しかったのだ。せめて、母が眠るこの場所でだけでも『特別』に優しくして欲しいと思っていたのに、神父様も教会も分け隔てなく優しくて静かで曖昧で大嫌いだった。けれども今日はこの雰囲気が心地よかった。優しくて静かで曖昧で、でもほうっておいてくれて――けれどもそれは突き放したものではなくて。
 朝と同じ位置にふたりは並んで座ると、なんとなしに十字架を見上げた。磔刑のイエス・キリスト。聖母マリアが柔らかな微笑を湛えて見下ろしていた。
「ハクって、河の神様なんでしょ?」
 教会に帰ってきてもずっと無言であった響の唐突な問いに、ハクは頷くにとどめた。響が小さく笑った。
「日本の神様が教会にいるって変なカンジだね」
 ケンカしたりしないのかな? と響は小首を傾げる。さらさらと黒髪が肩を滑る。その仕草は、まさしく十一歳の少女の仕草であったが、彼女が口に乗せた次の質問は、どこか哀しくなるものであった。
「どうしてお母さんは死んじゃったのかな」
 ぽつ、と呟かれた言葉に、ハクの心も苦しくなるのに。
「どうしてわたしのお母さんだったんだろ」
 聞かせるともなく、答えを欲しがっているでもない疑問。
「事故だったと……」
「うん、そう。車に轢かれそうになった子供を助けたの。そして、かわりに死んじゃったの」
 まわりには他の人がたくさんいたのに、どうしてお母さんだったのだろ? お母さんでないといけなかったのだろ?
「子供を助けて死んじゃったなんて、ちっともえらくないのよ?」
 葬式に子供の親が参列してくれたけれど、わたしはなにか言いたくて言いたくてたまらなかった。けれども『子供を助けて死んだ』お母さんの気持ちを考えるとなにも言えなかった。無理矢理に笑った。笑うしかなかった。涙を流したら、助かった子供もその親も『申し訳ない』と思うのだろうかと考えるとわざと泣いてやろうかとも思ったけれど、それでは自分が惨めで。そんな自分をきっと母は許してくれないだろうと思って、我慢していた涙をさらに我慢した。歯を食いしばって。
「でも、わたし……」
 本当は『お母さんを返して』と言いたかった。けれども黙っていた。わたしは賢いつもりだった。誰にも迷惑をかけるような性格ではないと思っていた。だから、そんな、神様でもできなような奇蹟をねだるなんてできなかった。
「わたしは馬鹿じゃない……」
 響は両手で顔を覆い隠し、静かに肩を震わせた。泣いている。噛み殺した嗚咽の下で『違うの、馬鹿なの。凄い馬鹿なの』と泣きながら。そんな虚勢はっても仕方なかったのに、と。
 ハクは細く頼りない少女を抱きしめた。泣かないで欲しい。いや、もっと泣いて欲しい。彼女がもうこの世にいないと知った夜に泣けなかった私のかわりに――泣いて欲しい。泣いて泣いて、もう彼女がこの世にいないのだと、痺れた心に浸透するまで。
「お葬式とはね」
 死者の為の送りの式だけれど、本当は残された者が喪失を認識する式だと思うのだよ。とハクが囁く。
「そうしつのにんしき……?」
 響は嗚咽を堪え堪え言葉を紡ぐ。その様子は、気丈な性格の響が年相応の子供であるのだと改めて認識させるほどに幼い声だった。
「そう。あの人は確かに生きていた。そして死んでしまった。そのふたつを残された者が心に刻む儀式」
 そして、まだ自分が生きているのだと認識する儀式。
「じゃぁ、わたし、ちゃんとわかってなかったんだ」
 どこかでお母さんが生きているんだとか夢をみていたわけではないけれど、心の中で、まだどこかで納得できていなかったのだ。上っ面だけ『お母さんは死んだ』と認識していても、心は納得していなかったのだ。
 響はハクの胸にしがみつくようにして泣いた。父親にもできなかったことを、半年も経ってようやくできたのだ。
 見た目は可愛らしい少女。話してみれば理知的な物言いに驚かされる少女。けれども母を亡くした少女としては、それは少しばかり不幸であったのかもしれない。
 ハクは泣く響を腕の中に抱え、まるでおのれの心が泣いているかのような錯覚に陥りながら、教会の静寂に身をひたす。それは、ハクにとっても『喪失の認識』に他ならなくて。そうして、ハクは『千尋』と言う少女を見送り、約束をなくした少年時代を見送るのであった。

 翌朝、響はまたしても白い墓地を訪れたが、もうそこに白い竜はいなかった。
 けれど、響はもう涙を流さない。
 雪を巻き上げ黒髪を揺らした風の中には春の香りが微かにあり、それを感じとって静かに微笑むだけ。


 リンゴン リンゴン 鐘は鳴る。
 リンゴン リンゴン なんの為?
 リンゴン リンゴン――誰の為?
 
 リンゴン リンゴン あなたの為―――……




END




『ネムレルヨオウ』逆バージョンでした。テーマは『お葬式』、そして『ハクを泣かす』……だったのに挫折しました(泣)。
『響』と言う字がとても好きです。音に羽がついてすいすい飛んでいってしまいそう。でも響ちゃんはあまり好きじゃないですね。
『櫻』の字も大好きです。とても色っぽい印象を受けます。

大切な方を無くした、某方に捧ぐ。