イノセント

冬の女王がみる夢
【1】




   【一】

 ――好きな人、いるんですか?
 何度となく聞かれた台詞が、ふっと頭の隅に降って沸いた。
 別に好きで聞いてもらったわけではない、とその台詞の文字の上に頭の中で大きくバツを描く。そんなことをぼんやりとしながらやっていた為か、目の前でかりかりとノートにシャープペンシルを走らせていた少女が頭をあげ、唐突に言葉を投げかけた。
「好きな人、できたら言ってね?」
 似ているようで、全然似ていないその台詞を。
「だから! 今はそんなコトしている場合じゃないだろ」
 がしがしと後頭に手をやりつつ、真剣な眼差しをノートからおのれへと移行させた少女に向けてやや不機嫌気味に指摘する。
「受験生だろ、ジュ・ケ・ン・セ・イ!」
「受験生でも恋愛は人生において重要度高いと思うのだけど?」
 こんなに顔良し頭良し性格良しなんだからなんで今までカノジョのひとりもつくらないかなぁと、荻野千尋は真剣に両腕を組んで考え始めた。どうやら参考書の問題につまずき、気分転換のダシにされているのだと和樹は気がついた。
 喫茶店『クラック・ヌーン』の店内に流れている有線が、今時な軽い恋愛の歌を流していた。どれもこれも似た女の声で歌っている。鼻にかかったそれに、かすかにいらついた。
「浮気絶対しそうにないし、高収入得そうだし」
 真面目すぎて貧乏くじはひきそうだけど、そんな魅力がわからない女の子しかうちの学校にいなかったっけと小首を傾げる。
「……過労死が怖くて告白できない?」
 をいをい誰が高校生の恋愛でそこまで見通して告るかねぇと突っ込みたかったがやめておいた和樹は、反逆にでた。
「そう言う千尋だって、そんなヤツできたら遠慮なんかするなよ」
「あはは、そんなヒト、いないからいいよ」
「受験生でも恋愛は人生において重要度高いんだろ?」
 む、なにげに人の台詞一字一句間違えずに覚えているところが頭いい人だよホント、と言葉につまった千尋がぶつぶつ呟いた。
「他の人が恋人とかつくって幸せだと感じるのは良いことだと思うよ。でもそれは自分には当てはまらないの。自分には必要ない……って言うかなぁ、別次元の問題って言うかなぁ」
 呟きの続きにさらりとくっつけられた、それが彼女の本音であると和樹は気がついていた。
 有線はいつの間にか十年程前の曲に変わっていて、差し向かいで参考書を開けていたふたりの間に割り込んだ。
「恋人は必要ないとはね。とりあえず俺たち、恋人同士と言うモノなのにな」
「嘘の恋人だけどね」
 普通はこんな変な会話しないよね、と千尋は脇によけてあったグラスのストローを所在なげにもてあそんだ。
「互いが互いの防波堤、ね」
 変な関係。かれこれ五年くらい? その間、お互いをダシにして鬱陶しい『告白』をはねのけてきたりして。千尋はくすりと笑う。
「でもね、別にわたしにつきあうこと、なかったのに。和樹もてるのに、なんで誰ともつきあわなかったの?」
 中学生の時はじめて告白され、それが案外しつこい人だったもので困りに困った千尋は、この地に越してきてからの親友である和樹に泣きついたのだった。曰く、恋人になって欲しい、と頼んだのであった。それから高校三年の今日まで、その関係はずるずると続いている。
「この顔良し頭良し性格良しの俺を捕まえられる女がそうそういるか?」
 お前以外に。と言う言葉は飲み込んだ。
 ――無邪気に過ぎる横顔に見惚れたから。

   ◆◇◆

 昨今の高校生ならたいがいが持っている携帯電話。親の方針で渋々と許可された、一昔も二昔も前のタイプであるそれが、机上のスタンドの下で復習をしていた和樹の背後で音を立てた。カメラどころかメール機能すらついていないそれは、もっぱら電話帳と目覚まし時計の役割しかしていない。流れる和音も単純なものだ。
「はい」
 夜も遅いこんな時間に誰だよたくーと思うものの、今時フルカラーでもない液晶画面に表示された数字を無視するなんてできなかった。回線はとっくに繋がっているはずなのに、かけてきた相手からはなんの言葉もない。ちら、と和樹は部屋の時計を見た。午前一時半。普段の相手なら、とうに眠っている時刻だと和樹は知っていた。睡眠不足が一発で目の下にでるこの相手は、他人に心配をかけることを心底嫌って、試験前でもしっかりと眠るタイプだ。
「ちひろ……?」
 用件を促すでもなく、名を呼んでやる。そう言えばもうじき冬になる。雪が降る、冬が。
『――――――……ッ! かずき……かずき――か……』
 呼ばれた名前が受話器越しに微かに震えて聞こえた。
 きっと泣いている。嗚咽を堪えて名前を呼んでいる。本当はこの名を呼びたいわけじゃぁないんだろうと怒鳴りたくなったが、和樹は奥歯を噛み締めて耐えた。
 きっと泣いている。柔らかな色に統一したあの部屋で、あの絨毯の上に蹲って、持て余した気持ちに揺さぶられて。それがわかっているから、和樹は耐えた。
『かずき……っ!』


 普段の千尋は、明るい少女だ。快活で、勉強もでき、面倒見も良い。なにより笑顔が似合う。防波堤が十分役立っているからこそ面倒には巻き込まれていなかったが、表立って男子に人気もあった。教師の憶えもめでたく、嫌味のない優等生で通ってもいる。
 そんな彼女が大きく揺らぐ季節がある。冬だ。しかも冬の初め、雪が降る頃。周囲の人間は気がついていないようだが、腐れ縁の和樹は知っていた。なぜだか千尋は、和樹によく頼る。良い意味でも悪い意味でも。
 受話器から聞こえる熱に浮かされたような声にそっと瞼を閉じ、和樹はベッドに背を預けた。こんな電話をはじめてもらったのはいつだったかと考える。あれは中学にあがった年の冬の入り口。まだ偽物の恋人になる前だと和樹は思い出した。あの時はお互い携帯電話の所持など許されておらず、家にかかってきた千尋からの電話に心底驚いたものだった。母親が電話を受けた時にはまだしっかりと受け答えをしていたらしいが、和樹に受話器が渡ったと知るや沈黙して喋らなかった。その日はそのまま千尋の気が済むまでお互い沈黙し、風呂からあがったばかりの和樹は冷たい廊下に一時間も座り込んでいた為にすっかり風邪を引き込んで翌日鼻をすすって登校したものだった。
「和樹、ごめん。昨日変な電話して」
 しょぼんとうな垂れたポニーテールが、なによりも雄弁に千尋の状態を物語っていた。
 千尋は風邪をひいていないようだったので
「別にいい」
 とだけ言って話を切り上げたものの、それからちょくちょくと同じような電話がかかってきた。家にかかっていたそれが携帯電話で直通となっただけで、話の内容は一向に展開をみせずにここまできた。展開どころか悪化の一途であると和樹は思っていたが、千尋の気が済むのであればそれで構わなかった。
 こんな電話をあと何度受ければ良いのだろう、と和樹は灯っていない天井の照明器具を見上げながら思った。
あと何度、苦しい想いをすれば良いのかと。
 ――慰めの言葉ひとつかけられないこの電話を、あと何度。

    ◆◇◆  

 それは遠くに霞む夢。

 極彩色の花畑。
 視界に広がる草野原。
 高く透明な空の色。
 海に落ち行く陽の光。

 人の欲や神の欲、魔女の欲が渦巻く地。
 妖かしが眠る不思議な地。

 真水の海のすれすれを、波紋を広げて翔ける竜。
 水底色の鬣が、すべらかに風を切り渡る。
 白銀の鱗風にざわめき、えも言えぬ音色を振りまいて――
 陽の欠片がひらりと弾かれ、水面に落ちてキラキラキラキラ――


 これは遠くに霞む夢。これは夢。

 コレハ――夢。


 千尋は携帯電話を握りしめながらふっと目覚めた。どうやら電話をしたまま眠り込んでしまったらしい。携帯電話のディスプレイを見ると、すでに三時。とうに電話は切れている。ベッドに半身を預ける中途半端な姿勢で眠っていたからか、体のあちこちがぎしぎしと痛い。
「あ……」
 自分が切らない限り向こうから電話を切りはしないと知っていた千尋は、寝ぼけながらも電源を切ったのだとそれで知った。
「また……」
 迷惑ばかりをかけている。もうやめようとその都度思っているこの電話。
「――今度こそあきれられたかな」
 なにを口走ったのか、まったく記憶がない。リダイヤルを押してみれば、相手が和樹であるとわかるものの、いつ電話をかけたのかも記憶に残っていない。きっと、また変な電話をしてしまったのだろうと千尋は思ったが、相手が和樹であるとディスプレイが教えてくれるのですこし安心する。これが彼以外の友達であったならばどうしようと身悶えてしまうだろう。彼ならば良いのだ、なぜか知らないけれど。
「あーもうっ! お小遣いピンチなのにっ!」
 千尋は携帯電話をぺしっとベッドの上に投げつけた。
 明日はきっと
「カツ丼定食」
 迷惑料と言って笑ってたかられるのだとわかりきっている。いくら学食が安いとは言え、予定外の出費は異様に腹立たしい。和樹が『モノ』で明るく解決してくれているので、気が楽と言えば楽なのではあるが。
 はぁ、と千尋はため息をついた。

   【ニ】

「人間の本性は善か悪か?!」
 例の如く昼食を千尋に奢ってもらい帰宅した後、これまた例の如く受験勉強にとりかかる。気分転換として風呂に入った後居間に行くと、和樹のひとつしか年齢の変わらない妹がそんなことを唐突に口にした。
「は? なんだ珠妃。なんでいきなり荀子に孟子なんだよ」
 悪いモンでも食ったんかとソファの上に行儀悪くあぐらをかいている妹の頭をぐりぐりとかき混ぜる。わぁっシッケた手で触んなー、と珠妃は両手を猫の様に動かして抵抗した。アメリカン・カールの耳の様にくるりと巻いた短いくせっ毛がふわふわと揺れる。名前の可憐さに反した大雑把さは、男兄弟と一緒に育てられた為か。
「人を信じて貧乏くじひくのと、人を信用しないで蹴落して悪の道突っ走るの、どっちがいい?」
 だからなんでンな質問を急に言い出すかねーこの子は、と思いながら、なにやらどこかで聞いたような言葉が混じっていると気がついた。
「俺はそんなに貧乏くじ人生を歩みそうか?」
「妹の目から見ても、貧乏くじひきまくりそうで心配なんですけど」
 和樹自身の借金なら断るけど他人の為にしょい込んだ借金なんてソッコー兄妹の縁切るから将来よろしくね! とまだ背負い込んでもいない架空の借金に予防線を張った珠妃に、和樹ははぁとため息をついた。
「あたしはねぇ、偽善的に生きたくないから、どちらかと言えば性悪説かもしれないな。でも人間には理性もあるし、秩序の必要性を理解する知能もあるでしょ」
 人間が皆々他人を蹴落して生きていけるのなら文明なんて成り立たないし、と珠妃はソファの上のクッションを抱き込む。
「馬鹿は嫌いよ、馬鹿は」
「だからなにがあったんだ、お前」
 自分のコト好きだって勘付いているからあたしに渡りをつける為に友達に接触した馬鹿があたしに告っただけ! それですっごい腹たっているだけ! と珠妃はクッションにぼすぼすっと拳を入れ始めた。
 そりゃぁこいつの性格上非常に腹立つヤツだろうなぁと和樹は思う。この、なによりも友達を大切にする妹の性格上、交際をするかどうかを考える範疇からおおいに外れた行為だと思う。
「馬鹿だな、そいつ」
 告白しようとする程に好きなのに、相手のことをよく見もせず知りもせず。
「だからどっちだと思う? 人間の本性は善か悪か」
 あたしはそいつのこと許すつもりなんてないけど、世間一般的にそれってどうだと思われるのかちょっと知りたいんだけど。珠妃は再びぎゅむっとクッションを抱き込んだ。
「そんな卑怯な手を使ってまで人は自分の欲求を押しとおしても普通? そんなコトまでされたあたしは女冥利につきる?」
 騙されたあたしの友達が悪いの? クッションの上からじとめで睨むようにする珠妃に、和樹はなんと答えるべきか一瞬悩んだ。ある意味では『性悪説』に賛同する和樹である。人間誰もが産まれた時は無垢な存在だと誰が言いきれるのだろう? 理性で『性悪』を押さえつける人間、と言うもののありかたの方がまだ和樹には受け入れられた。
「……人間が何百年も論争しているコトをこんな茶の間で言い争っても仕方ないけどな……個人的に言えばお前の賛同者かな」
 それとこれとは別次元にしても、その馬鹿を許さんでいいぞ俺が許可する。と言い置いて、和樹は自室へと続く階段へと向かった。
ふと、あいつならなんと答えるのだろうかと思った。あの荻野千尋なら。

   ◆◇◆

 例の如く学食で昼食を奢らされてしまった学校の帰り道、千尋はすこしばかり遠い場所にある本屋へと赴いていた。定期購入している雑誌がその本屋ならフライングで店頭に並ぶのだ。注文していた本を入荷したとの連絡も入っていた。
「なんとかいけそう??」
 財布の中身をちゃらりと動かして眺め、小遣い日までの日数を指折り数える。和樹への昼食奢りは特に財布に痛いわけではないが、思い出すだけで微妙に腹が立つ。そんな千尋の手にある紙袋には、今月号の『花時間』とゲーテの詩集、注文していた海外ファンタジーの文庫、しかも上下巻が入っている。これは予定内のものなので、金額の大きさで言えばこちらの方が財布に痛いが気分は高揚していた。
 学生カバンになんとかそれらを押し込め、空を仰ぐ。夏はとうに行き去り、秋の色になっている。
 目の前を、ふいっと赤とんぼが横切った。このあたりはすこしばかり開けた場所で、緑なんてあんまりないのにどこから来たのだろうと千尋は首を捻る。なんとなくその赤とんぼが風に乗ってどこかに行ってしまうまで見送ってしまった。赤とんぼも伴侶を見つけ次代を残すとすぐに死んでしまう。夏の蝉と同じに。秋は短い。夏よりも早く行き過ぎる。やがて冬になるのだと思ったら、高揚したはずの気持ちがゆらゆらと波間に揺れる木の葉のように沈んでいった。
「雪……」
 まだまだ降りはしないとわかっているものの、またあの季節が来るのかと思うとやりきれない。秋に一滴混じった冬の色を空に見る。灰色に重く沈んだ銀。綺麗で無慈悲な冬の色。
 千尋は頭をぶんぶんとふると、バスに乗る為に歩道橋へと足を向けた。家に向かうバスが出るのは、本屋の反対側なのだ。
 とん、とん、とんっと小気味良く音をたてて、一歩一歩階段を昇る。塗装の剥げた手摺りにべたべたと貼りつけられた広告。『お電話一本で十万円お貸しします!』『バイア○ラ個人輸入代行』『若奥様専門』――なんてこの世は汚濁にまみれているのだろう。千尋はそれらを視界から排除しようと、急いで階段を駆け上る。自分が潔癖だとは思わないけれど――自分が綺麗なモノだとは思わないけれど。
 歩道橋の上から、東西にまっすぐひかれた道路を眺めやる。西に沈む太陽が赤く滲み、西陽を受けてビルの窓硝子が朱色に染まっている。電車の行き過ぎる音が東から聞こえた。
 真ん中に引かれた白線。歩道橋に信号が取り付けられている為の停止線。少し視線を先にやると、大きく折れ曲がった白い矢印がありUターン禁止を警告している。
「――振り返ってはいけないよ」
 ぽつりと呟く。誰が言った台詞かは知らないけれど。わたしは振り向かなかったのだから。
そう思った瞬間、太陽のかけらがキラリと跳ねた。
「――……!」
 大きく視界がぶれて、千尋は歩道橋の手摺りに右手をついた。
「振り向かなかったのよ……千尋」
 ぐらぐらと視界が揺れる。自分で言った言葉が、やけに遠く、やけにしらじらしく聞こえた。頭の先としがみついた右手だけを西陽が照らすのを、妙に研ぎ澄まされた感覚の端で感じていた。鉄格子の隙間から覗く非現実的な世界に連れ去られそうになる。夢のように美しい朱鷺色に空気が染め上げられた世界。中途半端な目線。
 浅く繰り返す息の下で、千尋は思った。
 ――冬が来る。あの人が姿を現す、冬が。夢が大きく近づく、冬が。
 夢でも現実でもどこかに連れていかれそうになる時期が、来る。

   ◆◇◆

 夢は夢。現実ではないもの。どんなに懐かしく、恐ろしく、戻りたく、逃げ出したく思っても。
 夢は夢。なにも変えることはできないもの。夢になにかを求めるのは無駄。未来への暗示も、希望も、過去も――約束も。
 夢は夢。拒める筈がないもの。ただここに来て見せつけるだけ見せつけ、かき乱すだけかき乱して――期待だけ抱かせて――闇に突き落とす。


「受験勉強でいっぱいいっぱいなお前等にとっときの課題をやろう」
 古典教師の真鍋がそう教壇上で言ったのは、学園祭準備にわらわらとしているある日であった。
 うぇー課題、とどこからともなく声が上がり、ちらほらと笑いが漏れる。
「積め込むだけが勉強じゃないぞ。創造しろ発想しろ」
 と言うわけで詩を捻って来い、と氏名とクラス名の欄、そしてその下に点線だけが入った紙が配られた。
「提出期限は学園祭が終わった後の最初の授業だ」
 これのどこがコテンの課題なんだよナベさーん、と後ろのあたりの席から突っ込みが入る。
「お、なんだ? 真面目にコテンの課題をやりたいわけかサイトウは」
 途端にぶーぶーとブーイングが巻き起こった。
「俳句でもイイですかー?」
 と今度は窓際から声があがった。
「俳句でも短歌でもいいけどな、ジイさんにつくってもらうのはダメだからな!」
 あ、チクショー読まれてたかと舌打ちをするその生徒に向けて
「新聞俳句の投稿常連者ナカウチのジイさんを俺が知らんとでも思ってるのかー?」
 聞かなきゃ良かったなぁどうすんだよこんな課題、と爪先で紙を弾く。
「別にどこぞの品評会に出すとか、優秀作品を読み上げるとかはしないから安心しろ」
 じゃぁ一体なんの為にコンナ課題だしたんすかー? との質問に
「それは俺が楽しむ為だ」
 と答えて、ナベさんむっつりーと返されていた。
 真鍋はそのがさつにも近い大雑把さとおおらかさでもって生徒に人気がある。きっとこんな課題も、受験勉強と学園祭準備に追われている生徒達の気持ちを和ませようとしてなのだろう。学園祭が近く気もそぞろな若者達にまっとうな課題を課すのも馬鹿らしかったのかもしれない。馬鹿騒ぎをする為に徐々に高まりつつあるこの陽気な雰囲気の中では。
 和樹はちらりと後方に視線をやった。そこには、頬杖をつきながら白紙に視線を落としているポニーテールがある。かちかちかち。シャープペンシルの先で、白紙を意味もなく突いている。


「そう言えば、テーマもなにも与えられなかったね」
 その日の放課後、白紙を手に千尋はまだ唸っていた。
「ここは季節的に秋、とか。時期的に学園祭とかでいんじゃねぇの?」
 高校生活最後の学園祭にかこつけた詩でも書くかぁと和樹は大きく伸びをした。
「受験に対する恐れをおどろおどろしく書くのもいいかも」
 人生の墓場に直結している受験戦争〜と節をつけて歌う和樹に、人生の墓場は結婚でしょ! と素早く突っ込みが入った。
「素直な言葉なんてもう出てこないよ、わたし」
 真っ白な紙に視線を落としながらもまったく違う場所を見ている目でそう千尋が呟いたのは、突っ込みから暫く経ってからだった。
「過去にいたわたしが思っていた言葉なら書けるけど」
「――テーマ、決まったか?」
 おもむろに取り出された空色のシャープペンシルがよどみなく白紙に文字を刻み付けていくのを、夕陽に目を細めながら和樹はぼんやりと眺めた。やがてすべてを書き終えたのか、紙をよっつに折ると、机上の脇に置いてあった本へと無造作に挟み込んだ。
「テーマは――……」

『夢』

   【三】

『雪』が水の結晶だと言うことは、とうの昔に知っていた。ひとつも同じ形はないその美しい自然の芸術に、小学生であった千尋は素直に感嘆したものだ。繊細で無垢で透明なその結晶が空から降ってくると考えただけでわくわくした。鼻の頭が真っ赤になるのも気にせず、あきずに空を眺めていたものだ。
 いつの頃から雪が嫌いになったのかと振り返れば、それはこの地に越してきたあたりからかもしれない、と千尋は思う。以前住んでいた場所よりも降雪量が多く、どこに行くにも不便だとか言う理由もたしかにあったが、それが直接的な原因ではなかった。

『雪』はどうやってできるのだろう?
 とふと思ったのは中学一年の冬のはじめ。水が結晶化するのにはなにか原因があるはずだとなにげなく思ったのが発端だった。
 千尋は学校の図書室から図鑑を引っ張り出し、丹念に調べていった。するとわかったことは、『雪』は空気中の海塩粒子やチリの塊に水分子があつまり成長し、それが冷やされて結晶化する為にできる事実であった。季節が寒気でなければ、それはそのまま地上に落下する間に液化し『雨』となるらしい。
 その事実を知った千尋は、世界から自分ひとりだけ放り出されたようなショックを受けた。ぐらぐらと揺れる視界に吐気さえもよおした。
 雪は綺麗な物ではないのだ。
 拡大された雪の結晶写真がフルカラーで掲載された、図鑑のページ。けれども、この美しい結晶の中心には『ゴミ』が潜んでいるのだと思ったら、気が変になりそうだった。
「雪は……白」
 白は、あの人の色。冬の夢にだけ現われるあの人は雪。なら、あの人の中にも……と考えて、千尋は深い深い息をゆっくりと吐き出して手を握りしめた。
 あの美しく毒々しい世界が、翡翠色の眸のあの人自身が――差し伸べられた白い手にどれだけの穢れを抱いているのだろうかと思ったら――すべてをひっくるめて、黒く塗りつぶされた気がした。だから『雪』を恨み『冬』を恐れた。夢が大きく現実に近づく季節に怯えた。
 図鑑を震えながら見つめている千尋をひとり置き去りにして、図書室の窓硝子の向こうでは、あわあわと風に乗ってその年はじめての雪が舞っていた――


 自室の窓硝子を引き開け、千尋は星の瞬く空を見上げた。
 ふっとうたた寝をしている間に夜はふけ、体はすっかりと冷え切ってしまっていた。だからだろうか、とうに忘れてしまったと思っていた中学一年の冬の出来事を夢で見た。
 手探りで手繰り寄せたクッションを抱き込むようにして眠っていた為、クッションは変な形にいがんでいる。クラスメイトへの伝達に使用していた携帯電話は、机の上に放り投げられていた。
 学園祭は明日に迫っていた。

   ◆◇◆

 ガスコンロの上にかけられたナベの中で、真っ白なラードの塊はしゅわっと溶けてぱちぱちと小さく跳ねた。
「あっつ!」
 問屋でダンボールごと購入したコロッケを菜箸で投げ入れるようにした千尋は小さく悲鳴を上げ、クラスメイトに笑われてバツの悪い顔になった。
 高校生最後の学園祭でのクラスの出し物は下準備にさほど時間と手間のかからない飲食系であったのだが、誰がなにを考えて決めたのか、なぜかコロッケ屋であった。秋は深まりつつあるとは言え、ずっと火をたいていると暑くて仕方がない。しかもナベやコンロの数が足らず、需要に供給がおいついていなかった。大誤算である。
「別棟の準備室がつかえる許可おりたから、あたしらそこで揚げてくるね!」
 ナベとコロッケ、完成品を入れるバットやラードの缶一式を抱えてクラスメイトの女子数人が駆けて行ったのを、千尋は菜箸でコロコロとコロッケを転がしながら見送った。
 もうじき千尋休憩でしょーそしたら準備室来てねー一緒にまわろうねーと、駆けて行く中に混じった親友からの言葉に答えを返しながら、尚もコロッケを転がす。
「あんまり転がしてると売りモンにならなくなるぞ」
 と、突然降って沸いてきた和樹の言葉に
「揚げ物なんてさせてくれないんだもん、うち」
 と拗ねる千尋。
 あー、千尋のお袋さん料理うまいもんなーと和樹が言うと、台所汚くされるのが嫌だからあんたは入らなくて良いって追い出されるんだよーと千尋はぶつぶつと呟く。
「嫁に行ったらどうすんでしょーねー、千尋さんは」
 と返せば
「あ、女は家に居ろ発言ですか?! 時代錯誤!」
 と菜箸で指差される。跳ねた油をひょいっとよけながら、前言撤回しますスミマセンと和樹はおどけて頭を下げた。その手には、破裂させて売り物にならなくなったポテトコロッケがなぜか存在していた。破裂させた人物はぶーぶーと非難を浴びせるのであるが。
「嫁に行った後なんて知らないって言われたよ。人間追い詰められたら結構なんとかするとかなんとか」
 こうなったらガスでもかまどでもなんでも使いこなせるようになってやる、と千尋はコロッケを転がしながら決心した。いちから覚えなければならないのならとことんまで極めてやろうじゃないの、その『追い詰められた』状況に陥ったら、と思う。
 やがて、あんた料理の才能ないわと呆れて親友のひとりが売り子と配置転換を申し出てくれ、千尋は和樹になにを言われるかわかったものじゃないと思いつつもその申し出をありがたく受けた。バットには割引しなければいけないような無様なコロッケが山になっていたからだ。
 そんなこんなで暫くすると、先に休憩をとり学園祭を楽しんできた一団が教室へと帰ってきた。引継ぎをてきぱきとこなすと、皆々はやく外へ行こうと小走りに駆け出していく。その中に千尋も混じり、ひとり別棟にある準備室へと向かった。別棟とは、本館から少し離れた場所に立っており、一度外に出て地上を歩かなければならない。増築に増築を重ねた結果であった。
 黴臭い別棟準備室に行ってくれた勇士に飲み物でも持っていこう、とその人数を数え上げる。たしか四人、だったよね、と指折り数え千尋は購買部のある棟へと足を向けた。
 見慣れた制服の中に一般人が混じり、見慣れた学校の敷地は完全なる別世界になっている。人口密度過多な地上部分に押し寄せる人波を掻き分け進み、千尋はようよう目的の学食や購買部のある棟へと辿り着いたのであるが――その、一階部分が総硝子張りになったそれにうつった人影に、びくりと肩を震わせて視線を彷徨わせた。急いで後ろを振り返り、視線を泳がせる。
「うそ……」
 すらりと高い背、長い黒髪、後ろ姿でも優美であるとわかる人影が人波に飲まれて行こうとするのを、千尋は視線の端に捕らえた。続いて棟に入ろうとしていた一般人を押しのけ、千尋は駆け出す。
 なんでこんなにもたくさん人がいるのよ、と思う。色鮮やかな垂れ幕。呼び込みの声。流される校内放送。声をかけあう女子高生の明るい声。人々の会話――賑やかな音が邪魔だ。この活気や熱が邪魔だ。五感に容赦なく侵食し感知の感度を鈍らせる。捜し人の行く先を邪魔する為にしか存在しない人込みに、この活気に、千尋はぎりっと唇を噛み締めつつ人込みに挑む。けれどもそんな千尋を嘲笑うかのように、人が壁を作り、たったひとつの後ろ姿を隠しやってしまった。長い黒髪が消えるのが、千尋にとっては世界が音をなくすのにも等しい衝撃であったのに。
 否、その人の存在自体が世界をなくす力をもっていたのに。
 その事実を千尋は崩れて消えていく意識の端で――知った。

   ◆◇◆

 わいわいがやがやとにぎやかな世界から切り離されたかのようにしんと静まり返った一箇所がある。淡い色彩のカーテンがかけられた、かすかに消毒液の臭いが漂う救護室。その引き戸をからからと音たてて開け、入ってきたのは和樹であった。
「山仲センセ、荻野の家に連絡つきました」
 備品の補充をしていた救護室の主に、声をひそめて告げる。
「どうって?」
「迎えに来てもらうよりも直接俺が送って行った方が早いんでそう言ったら、そうしてほしいと」
 文化祭の活気はそのまま救護室の繁盛にも繋がっていたが、この一時ばかりは他に誰もいない。庭の片隅に出張救護室があり、小さな怪我等はそちらにまわされていると言えども、この静けさは滅多にあるものではなかった。その中でかわされる山仲や和樹の視線になにがあるのか。その時、水色のカーテンの向こうで眠り続ける千尋には知り得る術はなかった。
「そう言えば荻野さん、昨年も倒れたわね」
「冬の……放課後」
「そうそう、放課後」
「――冬になったら倒れるんですよ、あいつ」
 どんどんそのはじまりが早くなり、その回数も増えてきているとは和樹は口にしなかった。冬になると階段から落ちそうになったり、車に轢かれそうになったりすることも胸に秘めていた。これは千尋の両親さえ知らない事実であった――下手をすると千尋自身も。間一髪で千尋を助けてきた和樹だけが知っていた。
 冬の訪れと共に千尋が何度も別のところに連れて行かれそうになっているだなんて、誰にも言えなかった。

   【四】

「どうでもいいんだけど、なんで『告白』を最近は『告(こく)る』って言うの??」
 中学時代の先輩の実家がやっている近所の喫茶店『クラック・ヌーン』では、なんとなく懐かしい感じのするジャズがかかっていた。すこし前に来た時はポップス系を流していて、今時の歌の似たり寄ったり感に辟易したのを思い出していた和樹は、またもや唐突な千尋のその言葉に眉をひそめた。
 文化祭の馬鹿騒ぎは過去の余韻となった日曜の午前、机の上にはいつものように参考書が広がっている。現実は容赦なくふたりに襲いかかっていた。
「この言葉、使う人の気が知れないんですけど、わたし」
「あーのーなーっ!!」
 またダシにしてやがるダシにっ! と思う。今度はどこで詰まっているのだろう。和樹が窮しているのは、千尋のその素朴とは言い難い質問にであったが。思わずシャープペンシルの頭をがしがしと噛んでしまう。
「この前の新聞に載ってたんだけどねぇ」
 と、ノートの隅に『告る』と書き『ノル』と振り仮名をふった千尋。
「これには、合戦とかの時に名乗りをあげるって意味とか、求婚をする時に相手の名を請うって意味とかはじめにあったんだって。古代社会では、女性が名を名乗るのは婚姻に直結していたんだって。名前を名乗る行為は神聖視すらされてたらしいの」
 だから『告(こく)る』はある意味正しい使い方でもあるような気がするけれど、と続けながらも首を捻った。
「ねぇ、これ、汚い日本語な気がするわけよ。日本語だってずっと昔から変わらないでいられたわけじゃないけど、なんでもかんでも略したりするのはイヤじゃない?」
 わたしはちゃんと『告白』の言葉を使いたいな。または『思いを告げる』と表現したい。その方が綺麗だし誠実な気がするもの。
 千尋はノートの『告る』を丸でぐるぐると囲み、最後に『告白』と横に書いた。まるでそれは和樹に胸の内を告白しろと促しているように見え、和樹は頭を抱えそうになった。無邪気も無自覚もここまでくると恐ろしい。
「あー……えーと……だなぁ。最近の日本人の関係って希薄って言われるだろ。他人と付き合うのが怖いとか。そのくせケイタイとかメールで常に誰かと繋がっていたいとか幼児的な依存しているし。それと同じなんじゃねぇの? 真面目に差し出した『告白』に真面目に答えを返してもらうのが実は怖いんだろ。だから『告る』なんて、全然本気じゃないけどちょっと言ってみましたって軽い感覚にぼやかして自分を護っているんだろ?」
 自分でも何が言いたいのかよくわからない言葉に、和樹は内心で頭を抱えた。受験勉強モードの頭でなにを言わすかねぇとぶつぶつ呟く。
「和樹はそんな意味では護ろうとしないよね、自分を」
 頭を抱え続ける和樹の前で、千尋はなぜかにっこりと笑っていた。そしてそんな言葉を口にする。
「ちゃんと言葉を返してくれるから、好きだな」
 やっぱり稀少価値あるよね和樹は、と千尋は尚笑う。稀少価値稀少価値……と和樹は頭の中でその言葉を反芻したが、虚脱してなにを返す気にもならなかった。
「んで? なんでいきなりそんな質問が飛び出すわけ?」
 とようやくそれだけを口にすると、千尋は困ったような笑顔で、困った口調で、さらりと言ってのけた。
「また告白されたんだけど、わたし」
 言った相手が傷つかない様に『告る』なんて表現してみても、された相手にとっては重い物なのにねぇ。
 心底困った笑顔のままで、千尋は首を傾げていた。

   ◆◇◆

「彼女がいても構いませんとか言われるんじゃなくて『好きな人いるんですか?』って聞かれるのにギモンもたなかったの? 和樹とチヒロサンにはね、恋人同士って匂いがないのよ」
 相手のこと良く見てない馬鹿もいるけど、大概はちゃんと見てるし、微妙な雰囲気とかわかるもんよ。
 日曜の夕食時なのに、仕事大好き人間の両親はやはり家にいない石那田家。適当に分担してつくった青梗菜と鮭のクリーム煮をかき混ぜながら、珠妃がそう評した。
「頭よくって顔もよいって自慢のオ兄チャンなのに、このボケさはいただけないなぁ」
 グリーンピースを混ぜ込んだ味御飯を口に放り込み、丁寧に咀嚼した後でそう付け加えられた。
「俺はボケボケですか」
「も〜う、ぼけぼけっす! 何回告白時にそう切り出されたのか知らないけれど、三度目くらいで気がついてよ!」
 あれだねこう一直線の視野しかないからわかっていないんだね、とスプーンを持ちながら目の横に両手を当てて『視野が狭いオ兄チャンのマネ』をする珠妃に和樹はなにも言えなかった。年がひとつしか違わず、両親が不在がちであった為か、この兄妹は双子のように仲が良かった。お互いが兄であり姉であり、弟であり妹であり、そして両親が請け負うべきであった精神的な支えにもなっていた。ついつい相談事は親にせず、互いにしてしまう間柄。時に鬱陶しくもあったが、生まれた時からの関係が急に変わるとも思えないでいた。
「人間なんて、首からぶら下げられたプラ・カードの文字なんかより、雰囲気とか匂いとかの方がよっぽど信用できると感じる時もあるんだよ。和樹とチヒロサンはねぇ、どれだけ関係者が『付き合っている関係』と認識していても納得はしてないと思うよ」
皆見て見ぬ振りしているんだねぇ優しいねぇ。でもこの優しさって、どこから出てくるのだろう? と珠妃は首を傾げた。

   ◆◇◆

 人間なんて灰色。その時々で悪を中心にも善を中心にもできる。

 昨日の妹の会話で思い出した荻野千尋にぶつけてみたいと思った質問を、夕陽で真っ赤に染まった教室で机の上に置いてみると、そんな答えが返ってきた。ある意味予想通りであったし、ある意味意外な気がした和樹であった。
 誰かが閉め忘れていった廊下側の窓から、部活動の賑々しさがかすかに聞こえた。帰り支度を済ませた生徒が足早に玄関口へと向かっていく足音。救急車のサイレンが遠ざかり、大気をいびつにかき混ぜていた。
 千尋は微妙な笑みを口元にのせると、秋晴れの空を窓から仰いだ。
「善だけとか悪だけなんて単純は許さないわ。わたしは我侭だから、相手がすべてを見せてくれるようにわざと突っぱねるの。相手の綺麗な部分を知りたい為に自分の悪いところを出して――最終的には相手の悪も見たい」
 善か悪かのどちらか片方も、灰色も許さない。綺麗な水の結晶の中心にある汚いモノすら隠さずにみせてと思う。
「ソンナコトしている時の自分は、すごく変だと思うよ。すごく灰色で矛盾してるの。困らせて見たくなるし困って欲しくないと思ったりもするし……連れて行ってと思うしここに来いとも思うし……」
 見たい見たくないし知らないのに知っていると思うし。
「灰色なんて可愛いものじゃなくて、重く沈んだ銀色かも。硬質で綺麗で無慈悲な冬の色よ。わたし、冬の女王になるの、そんな時」
 誰に聞かせるとも無く続けるその言葉達は、まるで夢の中のうわ言に和樹には感じられて、本当に敵わないと思わせる。
「それが冬に変になる原因か……?」
 目を細めて見るその姿は朱鷺と青紫。夕陽にきらりと紫色の髪留めが光を弾いた。出会った頃から彼女の髪を飾り続けている、大切なお守り。
「――そう」
 ゆったりと笑う。
 嘘でない笑み。
 自覚なんてしていないだろうにと和樹は思う。この会話は夜中の電話。きっと千尋の記憶には残らないと感じた。

 冬はもう寸前になっていた。

   【五】

 Wer reitet so spaet durch Nacht und Wind?
 Es ist der Vater mit seinem Kind;
 Er hat den Knaben wohl in dem Arm,
 Er fasst ihn sicher, er haelt ihn warm.

 Mein Sohn, was birgst du so bang dein Gesicht?
 Siehst, Vater, du den Erlkoenig nicht?
 Den Erlenkoenig mit Kron' und Schweif?
 Mein Sohn, es ist ein Nebelstreif.

 もはや定位置となった喫茶店の窓側ボックス席。寒くなったので、机に乗っている物は炭酸系からカプチーノやアメリカンに変わっていた。広げられている参考書には色とりどりの線が引かれ、書き込みをした付箋が貼り付けられてずっしりと重くなっている。
 通りに面した硝子の向こうを見上げれば曇天。反対側に目をやれば、趣味の良いアール・デコ調のランプが店の壁側で仄かな光を振りまいていた。本日の有線はクラシック。無節操にも程があったが、内装から考えればこの局選が一番似つかわしかった。
 クリスマスも近いからか、ずらりと並べられたクリスマス・カラーのポインセチア。この、赤い花に見える部分は実は花でも葉でもなく、苞なのだと誰から聞いたのだろうか。苞とは蕾を包む部分であるのだと言う。
「シューベルトの魔王」
 真っ昼間から聞く曲じゃないかもと思いながらも、千尋がふっと口にしたその言葉に反射的に反応してしまうのは一種の癖か。
「父さん、魔王がいるよ! 僕を捕まえに来るよ!」
 なんとなく『可愛らしい声』で台詞を言ってやる。
 そう言えば中学生の時に劇をやったんだっけか。学園祭の出し物。ハリボテの樹をつくった記憶が横切った。準備の間中教室に置かれたラジカセから、シューベルトの魔王がでんでろでんでろと流れていた。その時千尋とは違うクラスであったが、あの音量では隣の教室に筒抜けだったのではないだろうか。
 そんな過去をつらつらと考えつつ、千尋がどう反応を返してくるか待ち構えていたのだが……千尋は予想に反してランプの柔らかな光をぼんやりと頬杖ついて眺めているだけであった。

 "Du liebes Kind, komm, geh mit mir!
 Gar schoene Spiele spiel' ich mit dir;
 Manch' bunte Blumen sind an dem Strand;
 Meine Mutter hat manch' guelden Gewand."

「魔王は冬に子供を攫ったんだよね」

 Mein Vater, mein Vater, und hoerest du nicht,
 Was Erlenkoenig mir leise verspricht?
 Sei ruhig, bleibe ruhig, mein Kind!
 In duerren Blaettern saeuselt der Wind.

「自分以外の誰にも見えない人外の者に攫われるんだね」
 人外の者は冬に寂しくなるんだね。だから人の子を惑わそうとするんだね。真っ白い雪の中、白い手をのべていざなうんだよ。昔からそれは知られているのに。
 千尋はゆっくりと目を閉じて、か細い息で吐き出すようにそう言った。


  夜の闇と冷たい風の支配するその中で、馬を駆るのは
  誰だろう?
  それは子を抱きし父であった。

  「我が息子よ、どうして顔を隠すのだね」
  「父さん、魔王がいるのが見えないの? 
  冠と長い衣を纏った妖やかしの君が、ほらそこに」
  「息子よ、あれは霧であろう」

  『可愛い人の子、こちらへおいで。ともにすごそう、
  楽しくすごそう。
  ここには花が咲き乱れ、美しい衣も揃っておる』

  「父さん、父さん、聞こえないの?! 魔王が僕に囁くんだよ」
  「落ち着きなさい、恐がるでない。それは枯葉が風に
  飛びすさぶ音だ」

  『可愛い人の子、さぁおいで。
  我が娘はそなたをもてなす。夜毎歌に踊りを饗し、
  おまえの眠りに侍るであろう』
  「あぁ嫌だ! 父さん、魔王が僕を連れて行くよ!」
  「それは年経た柳の揺れる姿だよ」
  『可愛い可愛い人の子よ。否やは言わせぬ、
  無理にでも連て行こうぞ――』

  館にようやく辿りついた父は気づく。しっかりと腕の中に抱きしめていた我が子の命の灯火が消えて無くなっていることを。
 父の腕より、魔王が子を掠め取っていったことを。
 

「冬の寒さで子供が死んだって解釈もあるんだろ」
 なんとなく腹が立ちむすっとした表情で反論してしまう和樹の声に反応してか、千尋は夢から覚めたようにひとつ瞬きをしてから、
「ゲーテの有名な作品くらい知ってないとダメだよね!」
 一般常識だよね一覧載ってるかなぁ、といきなりカバンの中をごそごそと引っ掻き回して小さな文庫本を取り出した。
 有線は『野ばら』になっていた。クラシック・チャンネルと言うよりはシューベルト繋がりであろうか。その『魔王』とは段違いの清々しさに雰囲気が変わる。作詞家も作曲家もまったく同じであるのに。
 童は見たり、野なかのバラ……と和樹は心の内で口ずさむ。はたしてゲーテが言う『野ばら』とは、本当の花なのであろうか。
「あ、うそ、こんなトコロにあった!」
 文庫本の後ろのページをめくった千尋は、そこに挟みこまれた紙片を広げて素っ頓狂な声をあげた。
「やだ、すっかり忘れてた。古典の課題」
 ほら、学園祭の前にナベさんが出した詩の課題用紙! と半分折りたたんだ状態でひらひらと振ってみせる千尋。印刷物特有の、すこし茶色みを帯びた紙。
「提出しなかったのか?」
「したよ。ガチャポンがまだ白紙の状態でもっていたから、購買部で急いでコピーして提出したの」
 やだなー、あの時散々捜したのにこんなトコロにあるなんてサイテーとぶつぶつ言いながら、しっかりとついた折り目にそって紙片をたたみなおし、そのまま文庫本へとしまい込んだ。
 ゲーテの詩集。
「そう言えば、おまえ、書いた後本の中にいれていたような……」
 秋口の記憶なんて曖昧だが、机の上に置いていた本の中へと無造作に紙片を突っ込んでいた仕草をかすかに憶えている。
「秋や冬はダメねー。寒さで反射神経も低下するし、頭もぼけぼけさんね」
「入試ン時はそれじゃぁ通用しないんだから、もうちっとシャキッとしとけよ」
 せめて今年くらいは、と思う。

   【六】

 冬に変になる理由は聞いた。けれども、冬になると事故が彼女の身に降り注ぐ率が高くなる理由を聞いてはいなかったと、和樹は後になって思った。
 案外、千尋が言った言葉が正解だったのではないだろうか。今冬一番の雪の中ひとり佇ながら、ほんの一時間ほど前に本人から聞いた言葉が脳裏に蘇る。
『人外の者は冬に寂しくなるんだよ』
 ――人外の者と少女を見送った和樹は、そう思った。

   ◆◇◆

 ぼんやりと『野ばら』を聞いていた和樹の目の前に、ちらっと白い物が舞い降りてきた。
「お、降ってきた」
 今年一番の雪だ、とのん気に構えていると、あれよあれよと言う間に吹雪となってしまった。
「えー、うそ?! わたし、これから家で用事があるのに!!」
 雪がおさまるまで帰れないぞこれは、と言った和樹に反論する様に千尋が叫ぶ。
「って言っても千尋さーん? この突発的猛吹雪の中どうやって帰るってんですか?」
 大きな硝子が真っ白な幕に覆われていくさまは圧巻でもあった。横殴りの風は、きっと身を切るほどに冷たいはず。
「根性で乗り切るしかないでしょ!」
 お母さんにビデオ撮ってって頼まれてるのよ、先週失敗してネチネチ文句言われたから今週はしっかり撮らなくちゃ! と拳を握りしめてガッツポーズをする千尋に向けて
「録画にしとけば良いだろーに」
 と和樹は突っ込むのであるが
「録画は苦手なの! タイマーとかよくわかんないから!」
 と現代人らしくない返答が返ってくる。バーコード録画じゃなかったのか千尋の家は、と内心で首を捻りたくなる。
 仕方がない盾替わりになってやるか、と和樹はばたばたと帰り支度をすませ雪の中に突撃をかけようとする千尋の後を追って喫茶店を出た。


 びゅおぉぉぉぉぉっ――……と、凄まじい風が雪と共に和樹と千尋に襲いかかってくる。
 ばたばたばたと店先のノボリが乱暴に煽られ、棹が折れそうなほどしなっていた。電線も大きく右に左に揺れ、いつか切れるのではないかと思わせる。しまい忘れたのだろうか、プランターで咲いていた花が雪に埋もれて凍っていた。生きているのかも死んでいるのかもわからないその花は、それでも鮮やかな色彩であった。まだ午後二時だと言うのに、あたりはすっかりと暗くなっていた。どんよりとどっしりと重い雪雲の姿すら隠すような勢いで雪が降り続いている。表を歩いている者などふたりしかいなかった。時折、チェーンも巻かない車がのろのろと通るだけである。危なっかしい事この上なかった。
「和樹までつきあうことなかったのに!」
 息をするのも苦しいほどの雪攻撃の中で、千尋は叫ぶようにそう言うが
「ばーか! こんな猛吹雪の中千尋ひとり出歩かせられると思ってんのか?!」
 と叫び返す和樹のその言葉にくすりと笑った。
 さりげなく風が吹き付ける車道側を歩いてくれている。とても優しい人だと思う。思い返せばはじめてあった時からこの優しさは常に隣にあった。
「嘘の恋人でもやはり心配ですか」
 そう言えばまだ秋も初めの頃、この台詞ふたつをワンセットにして使った気がする。あの時和樹はどう返答したのだろうかとひとつ大きく息を飲み込んで千尋はぼんやりと考えた。
 和樹は、そんな千尋のぼんやりさ加減に、心のどこかを引っかかれた気がした。
「あのな……おまえなぁ! どうでもいいヤツでもこんな天候だったらそれなりに心配するし……どうでもいいヤツと嘘でもつきあってるなんて公言すると思うか?!」
 その言葉に千尋はぴたりと足を止めた。それに気がついて振り返った和樹の視界に、大きく目を見開いて和樹を凝視する千尋の姿が映る。間には五歩ほどの距離。その、僅かとも長大ともとれる空間をぎっしりと埋めるように雪が舞い込む。たった五歩の距離なのに、猛吹雪で姿が霞む。
 千尋は不思議そうな表情をしてから、かすかに眉根を寄せてうつむいた。編み上げのショート・ブーツの足先を見つめ、ついでそれを前に繰り出す。
「ううん……ゴメン。わたし、本当にひどい女だね」
 和樹の隣をするりと駆けて行く際、千尋はそう呟いた。
 和樹は雪の中を行く小さな後ろ姿を、ぼんやりと見送った。千尋の無自覚さも無理解さも知悉していたのに待てなかった自分が悪いのだと思う。彼女の持つ透明度の高さに惑わされている自分が一番悪いのに、なにも気がつこうとしない千尋が悪いのだと言わんばかりの先の台詞が口をついて出てくるのを止められなかった。和樹は心底嫌気がさした。ぎゅうと拳を握りしめる。突然訪れたこの寒気に凍えた手は半分麻痺していた。鈍い痛みが心地よい。
 五十メートルほど先にある横断歩道を渡ろうとする小さな姿は、驚くほどのこの雪量でぼんやりとしか見えない。この横断歩道を渡りきってしまえばあとは千尋の家まではそう距離はないなと考えている和樹の横を、青いトラックがスピードを落とさずに走り抜けていき乱暴に髪をなぶった。思わずその車体の行く先をみやり――そして和樹は気づく。そのトラックの進行方向には……千尋が存在しているのだと。
「ちひろっ!!」
 声をはりあげると同時に荷物を放り出して横断歩道に向けて走り出すが、それを合図にしたのか、トラックが横滑りをした。厚く積もった雪にタイヤがスリップしたのだ。急な天候の崩れによるこの吹雪の中、トラックがそれ相応の対処をしているはずがないのだ。
進行方向も速度も変わることなく、千尋へと飛び込むようにトラックは道路の上を滑っていく……
 大きくハンドルをきる運転手の表情が驚きにかわる過程や、ぼんやりとその顔を見上げている千尋の動きがやけにゆっくり感じられた。それらを確認しつつ横断歩道へと駆けて行く自分の足がやけに重い。
 時間が速度を落としたように思えながらも、神に祈る時間はないのだと和樹は思った。
 今は『冬』だったのに――と、走る呼吸の中で思う。彼女がなにかに連れて行かれるように別世界へと引きずり込まれそうな『冬』であったのに。春でも夏でも秋でもない『冬』なのに、なぜ自分は彼女の近くにいなかったのだろう?
 後悔が思考を黒く染めた。そして視界を白く染めたのは――有り得ざる白い光――


 唐突に白い光が舞い降りてその眩しさに閉じた瞼を、和樹はゆっくりと開いた。世界が壊れたのかと思い、こわごわと瞼を押し上げる。そこは目を閉じる前とまったく変わらぬ曇天と雪の世界であったが、なにかを燃やしたかのような臭気が漂っていた。ゆっくりと頭をめぐらせると、青いトラックは街路樹を半分なぎ倒すようにして転倒している。和樹はまたしてもぼんやりと、その車体の下に視線を落とす。そこに赤いものがありはしないかと思ったのだ。頭のどこかが鈍く痺れていた。
 赤いものはなかったが、かわりに白いものがうつった。ゆっくりと視線をその白いものにそって上げていく。誰かがそこに膝をついていた。雪白の衣の中になにかを庇うように、護るように――隠すようにして。


「とうとう夢からでてきたわね」
 千尋はいまだにぺったりと道路に座り込んだまま、それでも風雪から護るようにしてそこにいる青年の顔を仰ぎ見ていた。遠くから見ている和樹にもそれとわかるほどに表情は硬い。そして、けして揺るがない視線の強さだった。
「夢の中から手招く者なんて信用できるわけないじゃない。わたしが欲しかったらここまで来なさいといつもいつも思ってた。あなただけがわたしを知っているなんて許せるわけないじゃない?!」
 わたしの一生をかけるのだから本気をみせなさいといつも思っていたのよ、と千尋は続けた。
「寂しいならさっさと連れ去りに来なさいよ! わたしが全然違う世界に連れて行かれる前に!!」
 青年の胸にぶつけるように叫ぶ千尋を、その白い者はゆっくりと抱きしめた。
「おそくなった」
 すまない、と囁くその言葉に、千尋の胸の中心にあつい火が灯った。
「わたし……名前も知らないのにずっと待ってたんだよ」
 あの美しく毒々しい世界に連れて行かれるのを、自覚はなかったけれど心のどこかでずっと待っていたのだ、きっと。いつもいつもこの世界と自分はすこしずれているのだと感じていた。心の一部をどこかに置き忘れてしまったのだと思っていた。今この腕の中ではその違和感は微塵もなかった。多分、こここそが本来いる場所なのだろう。無意識の領域である夢で望んでいたものこそが、自分の本来の場所なのだ。それが、生に向かう場所なのか死に向かう場所なのかはわからなかったけれど。
 うっとりと微笑む。
「名前……教えて」
「私には、もう、名前はない」
 その返答に、千尋はくすりと笑った。
「だからそなたがつけておくれ」
 甘えた響きをもったその言葉に、千尋は更にくすくすと笑った。
 あたりは猛吹雪、空気には胸を悪くする匂いが立ち込めていても、千尋は笑いを止めることはできなかった。
「じゃぁ……じゃぁ、白い印象だから……白――ハク」
 その答えに、青年は満足そうに微笑んだ。
 千尋の背に腕を回してゆっくりと立ち上がる白い衣の姿を、和樹ははっきりと見た。ふたりの周囲の温度が変わったかのように、雪に邪魔されることもなくその姿はくっきりと視界にうつった。五歩どころではない距離の向こう側で、ゆっくりと千尋が自分を見たと和樹は気づく。
 にこりと千尋は笑った。長い黒髪の、青年とおぼしき者の腕の中で。
「和樹、わかった。なんで和樹にだけは我侭言えたのか」
 距離があるにもかかわらず、千尋が声をはりあげているわけでもないのにもかかわらず、その言葉は明瞭に和樹の耳に届く。
 和樹は、わたしに『本当』しか言わなかったから。和樹は、わたしがどれだけかわっても好きでいてくれるとわかっていたから。
「だから甘えていられたんだ」
 今頃気づいてごめんね、と千尋は笑った。
 そいつの寂しさは埋まるのかもしれないけれど、俺の寂しさは今から深まるのかと思ったら、和樹はなにも言えなかった。
 雪が肩に、頭に、心に――しんしんと降り積もっていった。


 寒かった。

   ◆◇◆

 古典教諭の真鍋は、自宅に持ち帰った資料を机いっぱいに広げながらぼんやりと窓の外を飛びすさんでいく雪を見ていた。高台にある為に、下の住宅地の屋根が真っ白に化粧される様子を眺めやるのは圧巻であった。
 この天候が明日であったら電車が止まっているだろうと思う。そうなると遅刻者が山のようにでる。雪が原因であれば遅刻扱いにはならないが、ちまちまとした書類が増える。雪にかこつけて休むバカも増える。第一、自分が出勤できるかどうかもあやしい。生徒よりも後から来る教師なんて最高にかっこ悪い。
 明日までに持ち直してくれないとこの書類の山を学校に持っていくのに難儀する事実を思い出して、真鍋はうげぇとうめいた。よけいな書類はよけてしまおうと思い立つ。
 分厚いバインダー。大小の紙を無造作に突っ込んだファイル。黒いフロッピーがばらばらと書類の山から崩れかかった。
「お、なんだこれ?」
 変哲もない紙が一枚、ファイルの隙間から滑り落ちた。几帳面な四つ折の紙片。真鍋は不思議に思いながらそれを開く。
 中身はいつぞやの課題であった。印刷物特有の、すこし茶色い紙。学園祭に浮かれ騒ぐ生徒に放り投げてやった詩の課題。こんなところに紛れ込んでいたのか。提出物をださない常連者以外は全員提出していたと思っていたのだが。いつ紛れ込んでいたのだろうかと首を捻りながら、それに目を通した。


 夢は夢。現実ではないもの。どんなに懐かしく、恐ろしく、戻りたく、逃げ出したく思っても。
 夢は夢。なにも変えることはできないもの。夢になにかを求めるのは無駄。未来への暗示も、希望も、過去も――約束も。
 夢は夢。拒める筈がないもの。ただここに来て見せつけるだけ見せつけ、かき乱すだけかき乱して――期待だけ抱かせて――闇に突き落とす。
 それでもいつも焦がれ続けるのが――『夢』
 ソレハ冬ノ女王ガ見テル『夢』


 名前欄を見ると『荻野千尋』と、やや丸いが綺麗で繊細な字で書かれていた。
 真鍋は更に首を捻った。
 はて、こんな生徒はウチにいただろうか――と。