イノセント

雨ニ戻リ雨ニ知ル
【2】




   【一】

 この世界に来ることがあれば、どこまでも美しい青空や、または恐いくらいに赤い夕焼けが出迎えてくれるのだと無条件に思い込んでいたわたしは、目の前に広がるどんよりとした空にため息をついた。
 朝なのか夕方なのかすらもわからないほどに雲がびっしりと空を覆い尽くしている。季節が逆戻りしたような、夏の残りの匂いが鼻につく重い風が草を撫で回し、湿気を容赦なく浴びせかける。今にも降りだしそうな雨雲が、後ろにある時計塔から前進する方向へとどんどん流れている。まるで背中を押すように。
「さぁ、行こう。あと暫くしたら降ってくる」
 天にある雨雲よりも確実に背中を押したのは、ハクとわたしが名づけた、白い衣を着た男の人だった。森の中にある赤い門にわたしを連れてくるまでは、なぜだか白い竜であった人。
 背中に腕を回されて、すこしばかり強引に前へと押し出されながら、わたしはその人の横顔を仰ぎ見た。大人びた顔立ち――すっと通った鼻筋、けぶるように長い睫に驚かされる。この人が少年から青年へと変わる過程をわたしはかすかに――確かに夢で見ていたはずであったけれど、いつも白い手で招かれている時は真向かっていたので横顔を見るのは初めてだったのだ。それにとても背が高い。ほっそりしているように夢では思っていたけれど、背中に回された腕がしっかりと筋肉もつけているのだと、布越しでもはっきりとわかった。
 川になり損ねた一本の線が大地に横たわっている。それをいびつに塞ぐようにごろごろと転がっている岩を飛び越える時、さりげなく支えになってくれた。まるでそのタイミングは、今しがた別れを告げたばかりの幼馴染の気配りと同じで、なぜかほっとしてしまった。
 石階段を登りきると、そこにはずらりと赤い提灯がつるされた食堂街が広がっていた。曇天とあいまって、その建物の古さ加減が増している。右に左に揺れる赤提灯。はたはたと揺れる暖簾。『おいでませ飽食と飢餓の街』と書かれた看板。すごい矛盾。
 きょろきょろとまわりを見渡して歩きがちなわたしの手を引いて、すこしハクが急ぎ足になる。頬にぽつりと水の雫があたった。降ってきたのだ。白い衣に水滴がしみこんで、そこだけ妙にくっきりとした灰色になる。なぜだか妙に嬉しかった。
 食堂街を抜け、またもや石階段を登ると、そこには大きな灯籠があった。赤が基本で、彫金が施されている派手なものだ。『油』の字を囲むように丸が描かれている。どうやらランドマークらしい。
 その横を通り過ぎると大きな建物と煙突があったが、わたしはその姿をまじまじと見ることはできなかった。本格的に雨が降ってきた為に、ハクに体ごと囲むようにしてその建物内に連れられていってしまったからだ。雨の降り始めの嫌な匂いが土の上に漂い――なぜだか、退路を塞がれたように――感じた。
 ぴかぴかに磨き上げられた、けれどもどこかくすんでいると感じられるその建物の中は、しんと寝静まっているようになんの気配もなかった。
「ハク、ここ――」
 自分の肩を抱くようにしてふるりと震えたわたしに向けて、ハクは静かにするようにと身振りで教えた。右手の人差し指を口元に当てたのだ。どこかのファンタジー小説で、異世界でも『静かにして』のジェスチャーは一緒なのだと主人公が納得した、とあった本を読んだ記憶がよみがえって変な気持ちになった。あれはなんの本だったろう? 
「今はまだ、他の者は眠っている時刻だから。静かにしておくれ」
「えぇっでも、今は昼でしょう?!」
 いくら空が雨雲に覆われていても、夜の暗さとは別物だった。今は昼間のはずであるのに、どうして寝ているのだろう、ここの人たちは。小声で問いかけるうちも、冷たい廊下をひたひた足音を殺して進み、狭い階段を何階分も登った。あんまりな急勾配に思わずバランスを崩しかけると、狙い済ましたようにハクが支えてくれた。
「ここは夜から開く湯屋。さ、乗って」
『上り』と書かれた箱型についている釦をハクが押すと、箱型の前面部が鈍い音をたてながら開いた。恐る恐るそれに入ると続いてハクも乗り込み、備え付けのレバーをぐんっと引き下ろす。がこんっと振動があったかと思うと、するすると、意外にも静かにその箱型は上昇しはじめる。エレベーターなのかと、振動が再びしてドアが開いた頃にようやくわかった。
「ここがなになのかは、ここの主が教えてくれる」
 一歩を踏み出すと、そこは大きな壷が置かれ、天井からはシャンデリアが陰気な光を降り注いでいる階だった。
先に出たハクが、続いて降りたわたしに向けて両手を広げてすべてを指し示す。そして言った。
「ようこそ、湯屋『油屋』最重要室の一室『天』の階へ」
 エレベーター――昇降機と呼ぶのだとハクからあとで聞いた――から降りてすぐにある大きな扉の内側へと更に連れて行かれ、わたしはその中の小さな一室に通された。きょろきょろと見回すまでもなく、誰もいない部屋だった。ひとり掛けの深紅のソファがふたつと、わたしが横になれるくらいの大きさのものがひとつ。それらに挟まれるように螺鈿細工の机があった。誰に言われるまでもなく応接室だとわかる一室。
 壁には小さな風景画が二枚と、大きな肖像画が一枚かけられていた。白いレースが首元を飾っている赤いドレスを着た、不自然なまでに頭の大きな女性の絵だった。耳につけられたイヤリングから、紫色の石が重く垂れ下がっていた。
「ここの主って人が来るの?」
 大きな方のソファにわたしを座らせようとするので、それに抗ってハクに尋ねてみた。ひとつひとつは一級品だとわかるけれど、様式も何もごちゃごちゃとした派手さだけが目立つこの部屋の具合に急に心細くなった。部屋の趣味はその住人の性格をあらわす。この部屋をあつらえた人物が、性格の良い人だとはとても思えなかった。
「第一、わたしをここに連れてきたのはあなたでしょう?! 説明ならハクがしてくれればいい」
「それは――」
 怒り口調になったわたしの台詞に、ハクが詰まった。どうしてなのだろう?
「今は――言えないことが多すぎる。あの方ならそのような束縛はないから。大丈夫、すこし眠るといい」
 湯婆婆様はまだこちらに戻られていないからと続けたハクに眠くないと言いたかったが、肩を押されてソファに横たわると、知らない間に緊張していた体がゆるゆると眠りの波へと手を伸ばし始めいつの間にか眠ってしまった。
 言えないことってなになの? と聞きたかったのに。淡い水の薫りをまとうその人に向けて

   【二】

 りんりんりん……ちりん……ちりちりちりりん……
 小さくともはっきりとした音が聞こえて、ゆっくりとわたしは目を覚ました。軽い毛布が肩から落ちて、いつのまにか眠ってしまっていたのだと気がつかされた。
 ソファに手をついて上半身を起こして部屋を見る。音は部屋の外から聞こえていた。子供が戯れにベルを鳴らしているかのような。誰かを呼んでいるような。わたしはその音が気になって、そっとドアを押し広げて廊下に踏み出した。幾つも角を曲がったところで、そう言えばハクの姿がなかったのに気がついた。さっきの小部屋に戻ってみようかと一瞬考えたけれども、すでにどの部屋であったかもあやふやだ。もう前進するしかなかった。ベルの音はもう間近になっていたのだし、その音はわたしを呼んでいるのだと感じたので。
 ちりんちりん……りりりん……
 澄んだベルが聞こえる部屋のドアは閉まっていた。躊躇いながらドアノブに伸ばした手を寸前で引っ込め、気を取り直してノックをしてみる。じっと耳を澄ませると、低い許可の声が聞こえた。ベルの音はまだ聞こえている。
「あの……お邪魔します」
 勇気をだして開けたドアの向こうには、巨頭の老婆がいた。先の部屋で見た肖像画とは別人であったけれども、同じ血筋であるとわかる姿。大きな机に座り、物憂げに頬杖をついて、クリスタル製と思われる小さなテーブル・ベルを目の前で意味もなく鳴らしていた。
「あの……こんにちは。わたし、荻……」
「みなまで言う必要はないよ」
 名前を名乗ろうとした所を、その老婆に短く切り込まれて、思わず口を噤んでしまった。老婆がベルを鳴らすのをやめ、椅子に座りなおすのをわたしは見ているしかできなかった。
「自己紹介をしようとしただけ成長したもんだね」
 上から下まで視線で眺め回され
「体の方は相変わらずのひょろひょろだがねぇ」
 と、まるで昔会ったことがあるかのような言い方をされた。それ以前にその言葉の内容に思わずむっとしてしまい、言葉をかえしてしまっていた。
「わたしがひょろひょろでもあなたには関係ないとおもいます」
 その言葉を聞いて一瞬両目を見開いた老婆は――目玉が落ちてくるのかとすこし心配になったけれども大丈夫そうだった――ついで大口を開けて笑った。
「それだけあたしに向けて言えるようになったのなら、本当にたいしたもんだ! いいだろう、あんたのひょろひょろ具合がどうあたしに関係してくるか教えてやるよ!」
 わたしの背後で暖炉がはぜて、熱をふりまいていた。前面はあたたかいとは言い難い老婆がいる。その寒暖の狭間に突っ立って、わたしは老婆が語る内容に耳を傾けるしかなかった。なぜだか彼女の前では『口にチャック』の言葉を思い出してしまう。小学生でもあるまいし。けれどもなにも言わなかった。教えてくれると言うのなら聞くしかないだろう。
 老婆の名は湯婆婆と言い、この油屋の経営者であるとのこと。油屋は霊々が疲れを癒す湯屋であること――霊々とはなにかと問いかけたら『神々』だと返された。どこか釈然としなかったけれど、別の深いところでとっくに知っている様な気がして驚いた。同じように、湯婆婆が魔女で、この町一帯を名前を媒介にして支配していると言う突拍子も無い話も、ここが元いた世界とは似ていて異なる世界だと言うのもすんなりと理解ができた。
「おまえは五年前、この世界に両親とともに迷い込んだんだ」
「五年前? わたし、こんな所に来た記憶、ありません」
 思わず湯婆婆の言葉を遮ってしまった。かすかに不機嫌さを纏いながら、湯婆婆はその大きな頭を上下に動かした。黄金色のイヤリングがキラリと光を弾いて存在を主張している。
「お前にとってはもう少しばかり長い時間であるかもしれない。なにせ、この世界とあちらの時間の流れは一定していないから。どちらにしろ、こちらでは五年前だ。たしかお前が十かそこらの時のはずだよ」
「わたしは……ここでなにをしたのですか?」
 なにをしたかだって? それはもう色々だ。基本的には下働きだったねと老婆が答えた。
「大きなことも幾つかしたさ。名のある川の神の穢れを落としたり、カオナシと言う性悪を招き入れて大損害を残したり」
 この油屋の語り草、ある意味有名人だから覚悟しな、と変な脅され方をした。どの話を聞いても、まったく身に覚えの無い話ばかりだった。
「さて、ここまで話した上でお前に質問をしてやろう」
 お前はここでなにができる? と聞かれた。または、お前はここにいる気があるのかい? と。迂闊にもわたしはなにも答えられなかった。ふたつめの質問はいきなりすぎて答えられなくても仕方がなかったけれど、ひとつめの質問になにも言えなかったのはショックだった。
 その後、あの青年ともその時あっていたのだと告げられて、話しはしまいだと手を振られた。天井から釣り下がった房のついた紐を二度軽くひっぱると、暫くしてハクが現われた。
「あ……ハク」
 わたしが十歳の頃にこの人にあったのだと聞かされたばかりで、なんともおかしな感じがした。その頃のわたしはどんな子供だったろう。この人はわたしに対してどんな印象を持っているのだろうと聞きたくなったが、湯婆婆の鬱陶しげな視線を受けながらそんな質問をする気には到底なれなかった。
 机に置いていたテーブル・ベルを湯婆婆は持ち上げ、ちりんと一度鳴らしてにやりと笑った。あまりテーブル・ベルの意味がないような気がする。ハクはそれに一瞥をくれると、宝石だらけの老いた手の中にある小さなベルの違和感に顔をかすかにしかめたようだった。
「ハク、その娘を部屋に案内してやんな。女部屋では支障があるね。ニ天の空き部屋を用意させるから、その間油屋を見回ってみるといい」
 頭を下げたハクに向けて、湯婆婆が『ハク』と呼びかけたのに驚いた。その名はわたしがつけたばかりだったのに。
 無言で背を押され退室したその部屋の中から、投げつけるようにした湯婆婆の声が耳に入った。
「見られる物を見て、それから決めればいい。あたしはお前に敬意を表しているのだから」
 期限は明日の営業時間前だ。それまでに、見られる物すべてを見て来いと言い放つ老婆の声が、歩いた分だけ遠くなっていく。
 ちらりと振りかえった視線の先にある窓に、雨がたくさんの線を刻んでいるのが見えた。空の色はもっと黒くなっていた。

   【三】

「ハク、あなたの名前、本当に『ハク』って言うの?」
 昇降機に再び乗り込みながら、わたしはハクに向けて質問した。あの時、名前はないと大真面目に言っていたのに。
「湯婆婆様はなにも言わなかったのかい? 私について」
「昔……あなたと会ったことがあるって言われただけ」
 ねぇどうしてウソついたのと続けた言葉に、嘘ではないと言われた。
「そなたが私の名を覚えていてくれると信じていたから、名を湯婆婆様に預けていたのだよ」
 なんだか嬉しそうだった。どの点が嬉しいのかわたしにはよくわからなかった。それ以上に、そんなにほいほいと名前を預けたりできるのだろうかと思う。確か湯婆婆は、自分は『名前』を使って相手を支配できるのだと言っていなかっただろうか。よく考えれば、なぜ湯婆婆はわたしに対して手の内を曝け出すこの事実を告げたのだろう。ハクのこの『名前』のやりとりについて考えている途中でわたしはそれに気がついたのだけれども、今は目の前にいる青年の出方が気になった。
「それじゃぁ……わたしは間違えなかったってこと?」
 ハクが微笑みを深くして肯定した気がした。
 それ以上の話をハクから聞き出そうと勢い込んだのを遮るように、ちんっと軽い音がして昇降機がとまった。数時間前にこれに乗り込んだ時とは違い、人の起きている気配がした。よくわからない生物が廊下を闊歩している。大きな鳥のぬいぐるみのような者や、赤い鬼のような者。一言でくくってしまえば『異形』の者達だ。これが、湯婆婆が言っていた『霊々』なのだろうか。『神々』と言うよりは妖かしだ。紙一重かもしれないけれど、神も妖かしも。根本は異形だ。
 その階は吹き抜けになっていて、手摺りから体を乗り出してみると下に湯船があった。小さな釜や大きな釜、透明や緑色に澄んだ湯が張られている釜や、泥色の物が中を満たしている釜もあった。これが『湯屋』の意味なのだとようやくわかった。
 それからわたしはハクに促され、色々な個所を見てまわった。客間や賄場、湯殿、帳場、そして油屋の最重要室の一室であると前置きされて、ボイラー室へと案内された。そこには、上階にいた異形とさしてかわらない蜘蛛の変化のようなお爺さんがいた。小さなサングラスをかけた、口髭がもじゃもじゃのお爺さんだった。釜爺と言う名で、「風呂釜にこき使われとる爺だ」とにやりと笑っていた。黒い煤の妖かしのススワタリと言う生き物がたくさんいた。なぜだかそこにいる皆は、わたしの名を聞くと非常に懐かしがってくれたのだけれども、わたしには彼らの記憶のかけらすら思い出せなくて居心地がすこしわるかった。思い出してあげたかった。
 どの場所に行ってもあまり詳しい説明はされなかったけれど、なんとなくなにをしているのかは理解ができた。ハクは場所毎に幾つか采配を下していく。どうやらハクは、油屋にとって地位の高い人らしい。聞けば、帳場の管理人であるのだと答えられた。
 どこに行ってもわたしに声をかける者はいなかったけれど、投げかけられる無遠慮な視線にはとうに気がついていた。なにせ、服装が違う。彼らは見慣れない着物を着ているのに、わたしは和樹と会う為に喫茶店『クラック・ヌーン』に出かけた時の洋服のままだったから。ショート・ブーツは脱いでいたので、足元はこげ茶のストッキングに赤地の強いチェック柄の膝丈スカート。ホワイトピンク色のカシミアのカットソーに共布のショート・マフラー。そしてブルゾンを手にしていた。見るなと言っても説得力が無いと思う。
 せわしなく立ち動いている従業員の中で、桃色のお仕着せを着た少女達が目についた。きりりと結わえた白い襷が彼女達の動きに合わせてひらひらと揺れている。
 ハクが彼女達を示す。
「そなたは昔、ここで彼女達と同じ仕事をしていたのだよ」
 膳を運んだり、掃除をしたりと細々と彼女達は動いていた。どれだけ考えても信じられなかった。十歳の頃にわたしは彼女達と同じ仕事をしたのだろうか? 十歳の頃の、我侭で、なにもやる気のなかったこのわたしが?
「信じられないわ」
 立派に働く彼女達を見ていると、そうとしか言えなかった。
「本当だよ。そなたは忘れているだけだ」
 そしてハクは、くっと思い出し笑いをしたらしい。頭上から忍び笑いが聞こえてくる。見上げた視線の先に、なんとも言えない彼の笑みがあった。
「色々失敗をしていたけれどね。ちゃんと働いていた」
 思わず、ハクのその記憶を消し去ってやりたいと本気で思った。当人が覚えていない失敗で笑われているなんて考えたら――異様なほどに恥ずかしく、そして腹が立った。
 思い出し笑いなんて助平な人がするのよ、と突っ込むと、心外な、と尚笑っていた。
 ハクにくっついて色々な場所で仕事を見ているうちに、油屋は本格的に忙しくなってきたたらしい。さすがにわたしにばかり構っていられないようで、ハクは湯婆婆が用意した部屋へとわたしを連れてきた。『天』と呼ばれる湯婆婆のいた階に行くのとは違う、すこし奥ばったところに隠れるようにしてあった簡素な昇降機に乗り込み、『天』の階下で下ろされた。
 左右に開いた扉の向こう側には、暗くて冷たく狭い廊下があった。大人がふたり並んで歩くのにはすこし狭いくらいの廊下。ぼんやりとしたオレンジ色の裸電球が灯っている昇降機の乗り場を挟んで、左右にみっつずつ、合計六室並んでいるのが見える。
 ハクはわたしの前に立ち、左側一番奥の部屋へと案内した。ハクの後ろ姿を見ながら足を進める。白い衣の中心に線を引くようにして結わえられた黒髪はとても長く、腰まであった。夢の中、時折吹く強い風に流されて宙を舞っていた彼の髪が、今はわたしの鼻先で揺れていた。
「この階のこの一角は、油屋の上役が使っている。今のところは、先ほど紹介した父役と、私が住んでいる」
 この一角に来るには階段はなくて、さっきの昇降機で上り下りするしか手段はないから場所を忘れないでと忠告されたけれども、わたしは背後を振り返るのに夢中だった。
「ハクの部屋ってどこ?!」
「あぁ、右最奥。父役の部屋は、ひとつ隣」
 昇降機前にしか明かりがない為、足元はやけに暗かった。覗き込んだ右最奥の場所は更に暗く、距離感もつかめない。廊下の端に明り取りの小さな窓があったけれども、陽も完全に沈んだのか、雨の降る真っ暗な空ではなんの意味もなかった。
 先に部屋に入ったハクが電灯を灯してくれたおかげで足元は明るくなった。部屋はこぢんまりとした二間続きの畳部屋。雨が降っている為に窓を開けられないのが残念だった。上からの景色はどんななのだろうと興味があるのに。
 部屋を簡単に物色してみると、お風呂なんかも備え付けてあった。まるで独身寮だ。あとで、これは上役の特権なのだとハクに教えられた。
 風呂場で、小さな木の箱に入った浴衣らしきものを発見してほっとした。この格好はここでは悪目立ちしすぎるから。浴衣なら、あの異形のお客様達も着ていたのだし。さっそくこれに着替えて他の場所にも行ってみようと思ったのだけれども、
「私はもう行くけど……千尋、ひとりでこの部屋から出てはいけないよ」
 ここはまだそなたには危険な場所だから約束しておくれ、とハクが部屋を出しなに言うので、思わず驚いた顔をしてしまった。話の内容に、ではなくて、はじめてわたしの名前を呼んだので。
「えっどうして……?」
「ここが『湯屋』だから。そなたがここに留まると決めたわけではないから、最奥までは見せなかった現実がまだある。そしてそれは、そなたが人間だから」
 そんな現実がここにはあるのだと頭の隅に置いて考えて欲しい、とハクが言葉の外で説明しているのがなぜかわかった。
「けれども、今は何も聞かないで約束だけをして?」
 昔から『約束』は大切なものなのだとわたしは思っていたので、渋々と了承した。約束だとハクが言うのだからよっぽどのことなのだろう。なによりも、そうなると考える時間が欲しかった。ここに来るのは渇望にも似た漠然とした希望であったけれども、いざ来てなにをするかとか、なにができるのかとか、どこに行くかなど考えてもいなかったので。ある意味、こんな湯屋があるなんて想像の範疇外なのだし。
 そんな不安な色が顔に出たのか、ハクが扉の向こうに身を滑り込ませる間際わたしの顔に自分の顔をよせて、躊躇いもなく視線を絡めて言ってくれた言葉があった。
 印象的な翡翠色の眸。
「そなたがどんな決断を下しても、私はついていくよ。ここに残るにしても、他の地に行くにしても」
 私はその為に生きているのだから。
 ――それはどうしてですかと聞きたかったのに、あまりにもハクの動きが優雅な上に俊敏だったのでまたしても聞けなかった。本当に聞きたいことは全部はぐらかされているのではないだろうか。
ハクはずるい。わたしも知らないわたしを知っていて、そのくせ自分の話はしない。言えないことが多すぎるなんて予防線まで張っているくせに、こんな台詞は平気で口にする。
 あなたはわたしにとってどんな存在なのですか? あなたにとってわたしはどんな存在なのですか? 名前を思い出してくれると信じているその根拠はどこに? それだけの関係がわたしとあなたの間にあるのですか?! たくさん質問を投げかけたい。でも、恐い。なにもわからないままで答えだけを与えられても、きっとそれはひび割れた大地の上を流れていく水でしかない。乾ききって染み込めもしない水はある意味無駄なものだ。どうすることもできなくて欲しがるだけになってしまう。答えも意味も水も大切なものなのに。
 わたしは閉じられた扉の表面を視線で撫で回しているのにも飽きて、仕方なく浴衣に着替えることにした。自分の為にお茶を入れ、備え付けの机に突っ伏す。雨がしとしとと降っているのが耳に心地よくて、わたしは目を閉じた。ここに来てはじめてひとりになった気がする。考える事項はたくさんあって退屈だけはしそうになかった。
『お前はここでなにができる?』
 考えれば考えるだけ、すごい質問だと思う。わたしになにができるのだろう。いっそ、問答無用でこれをしろと言われる方が楽だろう。敬意を表して選択権を与えるとの湯婆婆の言葉に大きく揺れている自分自身を、雨の音だけが積もっていく部屋の中で感じていた。
「あの子達みたいなのは……?」
 小湯女、と呼ばれていた年下の少女達のように下働きならできるだろう。十歳の頃、わたしもなんとかそれをこなしていたのだとハクも言っていたし。けれど、それではわたしの今までの人生がなんだかもったいなかった。コツコツと積み上げてきた勉学のほとんどが惜しくなった。ひどい言い方ではあるが、下働きは体が丈夫で、命令を唯々諾々とこなせれば誰にでもできる仕事な気がする。
 ふっと手の平を見る。背は彼女達より高いかもしれないが、湯婆婆が評するように、細く頼りない手に、ひょろひょろな体だ。こんな力も弱そうな下働きを抱え込むのは、たしかに経営者としては嫌だろう。それを含めての『お前はここにいる気があるのかい?』の言葉になるのだとようやく理解できた。なにができるのかを見つけられなければここにはいられない。必然的にどこかに行かなければならない。なにもできない厄介者をいさせてくれるほど世間はあまくない。たぶん、ここでも。
 脱いで鴨居にかけておいた、向こうの服を見る。ここではどこまで行っても異端者なのだろう、わたしは。ついで、横に寄せておいたカバンを開けてみた。中身を取り出して見てみると、本当に、どこか別の地に来るのには心構えのかけらもないものばかりだと思う。
 受験勉強用の参考書やルーズリーフ、付箋、筆記用具。和樹に借す予定だったCDや、古典の課題を挟み込んでいたゲーテの詩集――課題用紙はなぜかなくなっていた。喫茶店『クラック・ヌーン』で落としてしまったのかもしれない。『夢』とタイトルをつけた変な詩で、名前まで書いてあるのにと思ったら恥ずかしかった。先輩か和樹が拾っていてくれると嬉しいのだけれども。
 財布や定期入れがカバンのポケットから出てくる。海の画像を待ち受け画面にしている携帯電話を取り出す。秋のはじめと言った低い気温のここでそれを見たらやけに寒々しくて、わたしは電源を切った。どうせ使えやしないだろう。アンテナも立っていないのだし。
 左手首につけた、高校入学の祝いに両親からもらった銀色のブレスレット。細いチェーン、留め金のところに銀の星細工がぶら下がっているそれをどうしようかと考えて、最終的にハンカチで包んでカバンのポケットにしまい込んだ。
 そうして、わたしが今もっているすべてを目の前に並べて、人間、知らないところに来たらこんなモノは全部いらないもの――不要なものにしかならないのだと思った。CDやブレスレットや、そのほかの細々したものひとつひとつにそれなりの意味や愛着はあるけれど、それで『わたしが役に立つ』と証したてられはしない。モノは役に立たない。心の支えにはなるかもしれないけれど。
 生きる為には『モノ』以外、わたしの身になにがあるのか、なにが残っているのかを考えなければならない。裸でもわたしにはなにが残る? このひょろひょろな体になにが。
 選択肢は少ないようで多く、多いようで案外少ないのかもしれない。

   ◆◇◆

「帳場を手伝わせてください」
  翌日は、昨日の雨がウソのように晴れ渡っていた。青い空に白い雲が映えて美しく、夢で見たあの空と同じで妙に嬉しかった。
 営業時間前に湯婆婆のいる『天』を訪れたわたしは、もう一度繰り返された質問にそう答えていた。湯婆婆は煙草に火をつけて、紫煙を肺いっぱいに吸い込んでからゆっくりと吐き出す。
「どうして帳場なんて考えついたんだね」
 暖炉や照明がついているのにも関わらずどこか薄暗いその部屋で、煙草の先にともった火がぽうっとした点となって線を引いていた。煙草を持った手で指差されたからだ。わたしはその強い力をひめた指先に負けまいと、下腹に力を入れた。
「わたしはけっして下働きができるほど体格も良くないし体力もありません。料理ができるわけでも、裁縫がうまいわけでも、糸を紡いで布を織れるわけでも、花が生けられるわけでも、動物を飼うのに長けたわけでも……ありません。誰に誇れる才能も能力もありません」
 それだけを一気に言いきった。途中、どうしても泣きたくなって声が震えそうになった。これらを認めるのは辛かったけれど、この場面で虚勢をはってもしかたない。わたしが今まで『学生の仕事』として学んできた学業は、ここでは一切通用しないのだから。数式も、覚えた歴史の年号も、化学反応すら無意味だ。
「けれど、文字がかけるし、計算だってできます。覚えるのも得意です。時間を守るのは当たり前だし、それを有効に使う意識だってあります。考えることができます」
 今まで積み重ねてきたこと。勉学の基礎。そして時間を有効に使う意識。物事を順序良くこなす為の発想。古典の真鍋先生が言っていたこと――勉学は覚えるだけではない、発想が大事だと……できるようでできない、大切な武器。
『天』に来る前に、わたしは部屋でハクとすこし話をした。いろいろ油屋の現状を考えて、気がついた点があったのだ。
 あの、小湯女と呼ばれる少女達の年齢は、どうみつもっても十二〜十五歳くらいの、わたしから言えば中学生くらいの子供達だ。そのような子供が労働力となっているこの世界では、教育機関というものはないのではないだろうか。ハクに確認してみると、やはりそのようなモノはなく、最低限の読み書き算術はまわりの大人が教えているらしい。あるとしても特権階級の施設らしい。
「じゃぁ……読み書きを教える学習塾なんてのを開くのはどうかと思うの。小湯女達相手に」
 それなら講義の合間にこちらの本を読んだりもできるし、と考えていると、
「多分、それは無理だと思う」
 とハクに却下されてしまった。
「どうして?」
「湯婆婆様は、ある意味独裁者だからね。下の者が下手に智恵を持つのは嫌がると思う」
 いい案だと思ったのになぁ、こちらのことも勉強ができるし、とわたしは思わず畳の上にそのままぽてんと転げて拗ねた。たしかに、わたし如きの若輩者が人様にものを教えるなんて不安で仕方がなかったのだけれど。そんなわたしを上から覗き込んできたハクにびっくりした。笑っていたからだ。
「けれど、いい点をついていると思うよ。常々湯婆婆様は使いモノになる者がいない、頭が切れる者がいないとぼやいているからね」
 責任を負えるだけの思慮と知識を持つ者は経営者にとって良い駒なのに、湯婆婆様には圧倒的にそれが不足しているのだと、ハクは告げた。
「どうだろう、帳場を手伝うのは」
 千尋にはそれができるから、と二度目の名前を呼ばれてわたしはそれもいいかも、と考えたのだった。
 湯婆婆はもう一度紫煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。大きな目がなにかを考えるように半眼になっている。ゆるゆると目の前を縦の線引いて立ち昇る紫煙。
「いいだろう、帳場を手伝いな。そして使いモノになるようだったら、あたしの秘書のようなものをやってもらう」
 いいね、と念を押した湯婆婆に向けて、わたしはこくりと頷いた。それを認めてから、湯婆婆は煙草を灰皿に押し付けつつ左の人差し指を一閃させた。書類箱からするすると一枚の紙とペンが宙を舞い、わたしの目の前へと降り立った。
「そこに名前を書きな。契約書だよ」
 わたしは紙を手にして、ゆっくりとその文面に目を通した。乙や甲など、普段ではあまり目にしない文字が並んでいる。意味を知っている今ならその内容もわかるものの、十歳のわたしが同じものを目にしても理解できるどころか読めもしなかっただろうと思うと変な気持ちになった。けれどもここからが正念場なのだ。今からわたしが言う条件が承諾されなければ、ここに名前を記入できはしない。
「いくつか、条件があります」
 契約書を手にしながらも名前を書かないわたしに訝しげな視線を向ける湯婆婆の形相は、はっきりといえば優しいなんてものではない。けれども言わなければならなかった。
「わたしの名をとって縛ることはやめてください。わたしの自由意志を確約してください。そしてわたしがここに留まるも去るも自由だと誓ってください」
 湯婆婆自身が、名を媒介にして相手を支配することができると告げていた。それが正直どんな意味でどんな方法なのかは知らなかったけれど、わたしは自由を失いたくはなかった。『自由』は人間としての最低限の権利だ。ここに置いてくれとこちらから頼んでいる状況ではあったけれど、これが認められなければここにいる間隷属的立場に身を置くことになってしまう。それは許されるべきではないと思う。荒野にひとり旅立つのとどちらがよいかと問われれば、荒野で果てた方がマシな気がした。それは自分の意思による最終地点なので。
 わたしはぎゅっと唇を結んで湯婆婆の出方をみた。恐れてはならない、目を逸らせてはいけない。『雇用関係』はあくまで対等でなければならない。そう心の中で必至に唱えていると、湯婆婆がにやりと笑った。
「いいだろう。その条件、全部認めてやろう」
 湯婆婆がふいっと紙に人差し指を向けると、そこには新たな文面が浮かび上がってきた。わたしが言った条件がすべて追加されていた。もう後戻りはできない。ペンで『荻野千尋』と書いた。
 宙を飛んで湯婆婆の手に戻った紙をしげしげと彼女は眺め、それからこちらに視線を流した。険のある表情ではないのですこしばかり安堵した。
「よくもまぁいろいろ智恵がついたもんだよ、あの頃に比べたら。五年前なんざ、黙れと言っても『ここで働かせてください』の繰り返しで五月蝿かったもんさ」
 馬鹿のひとつ覚えみたいに繰り返してさぁと湯婆婆は笑いながら、くるくると紙を巻いた。赤いリボンを結び、引き出しにしまいがてら「別にねぇ」と言葉を繋ぐ。
「どんな条件が増えようとこちらは全然構わないのだよ。なぜなら、お前は一度、名前の呪力を破っている身なんだから。もうあたしの名の支配は受けやしない」
 あるのは『経営者と従業員』としての命令を下す権利くらいだ、と唇の端を上げて笑っている。
「けれど、この世界において『真なる名』の取り扱いは要注意だと、人生の先輩として忠告してやるよ。これから『セン』と名乗るがいい」


 こうしてわたしは、新たな名と新たな身分と、新たな仕事を得た。
 部屋はあてがわれた二天の部屋をそのまま使うようにと指示され、もしかしたら湯婆婆はこうなることを見越していたのではないかと思った。彼女は魔女であるらしいから、それも有り得る気がする。
『天』を後にして、油屋の外に出てみた。素晴らしい茜の空が広がっていた。どこかでみたような、みたことないような、懐かしい色だった。始まりの日を飾るに相応しい、微妙な色。
 わたしは思い切り両腕を伸ばし、知らない世界の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 雨が空の汚れを拭い去っており、その空気はとても澄んでいて、なぜか泣きたくなった。