イノセント

Fleurir
【3】




   【一】

 八百万の霊々が疲れを癒しに訪れる異世界の湯屋『油屋』
 その湯屋内で、普段は裏方である筈の帳場が今ちょっとした話題になっていた。五年程前にこちらに転がり込んできた人間の娘が戻ってきたのだと言う。はじめのニ・三日は従業員達がどれだどれだと覗きに来て騒がしく、その後は従業員からその存在を聞きつけた客が帳場へと足を運んでいた。
「あの細い娘っ子がそうか」
 とウシオニ様が。
「なんと小さい。あれで帳場が勤まるのか」
 とオナマ様が。
 ぴよぴよぷくぷく喉元を膨らませてオオトリ様もなにやら評す。
 従業員であれば帳場の管理人のひと睨みで蹴散らせるものの、お客様相手ではそうもいかない。じっと我慢の子の管理人を筆頭に帳場の従業員は内心でそっとため息をついた。
 その騒動の原因である帳場の新人は、はじめのうちこそは遠くの席に座す管理人の様子と、それに逐一反応して蜘蛛の子を散らす様に逃げていく下働きらの様子に心の中で笑っていられたものの、日を追う毎に変わっていくギャラリー層に帳場の従業員らの気持ちがわかってきた。原因が自分にあるのだと思い至ると尚更に痛い。笑っている場合ではなかったと考え直す。
「笑っていたのだって現実逃避の一種なんだけどなー」
 ぽつりと呟いて、指導係のイズに不審がられた。
 だいたい、このイズさんの指導熱心過ぎるのがいけないのだ、と胸中で拗ねてみる。まるで後継者を見つけた死期間近の職人の如く、ぎちぎちと帳場の仕事を千尋に教え込もうとしていた。一日の仕事が終われば食事をする気力もなく、風呂に入って速攻就寝がここ暫く続いていた千尋が頭の中で現状を茶化して笑う現実逃避をしたくなるのも、納得ができるハードスケジュールであった。
 それでも最近はなんとか帳場の仕組みもわかり、算術のコツもわかってきた。イズの書類の間違いを幾つか発見するほどの余裕もでてきた。だいたい、イズの本性は蛙であり千尋は人である。頭の回路の複雑性と回転性は千尋に軍配があがった。
 目の前にある算盤もようやく手に馴染んできて、千尋はなんとなく嬉しくなった。十歳の時、この帳場でこの光景を見た為なのか、都会から田舎に引っ越して来た折り算盤をすこし習った時期があるのだ。高校受験を機にやめてしまったが。それでも基礎から習うよりもマシだ。それともこうなる事をどこかで予感していたのかもしれない。どちらにせよありがたい。
 ぱちぱちぱち、あ、また間違い見つけ。間違いを指摘したらイズさんすこし不機嫌になるからなぁ。どうしよう、言うべきか言わないべきか。言わなかったらハクに指摘されてイズさんよけい不機嫌になるから言うべきかなぁ。
 どうでも良い点でくだくだ悩む帳場の新人であった。
 翻って、帳場の管理人は、どうでもよくなくない点でくだくだ悩んでいた。最近、見回りに行くと必ず日に一度はお客様につかまり不愉快な難題をぶつけられるのだ。曰く、帳場のあの娘を座敷に上げろ、と言う難題である。
「あの者は私の補佐でありますれば、どうぞ大湯女をご指名下さいませ」
 と断るものの、なんともこう毎日毎日ともなると嫌になってくる。かと言っておざなりに断れる問題でもない為、ハクは神経をすり減らしていた。本日も今しがた、そのやりとりを踏んできたところである。
 そう言えばとハクは考える。今千尋が着ているのは、娘らしい花模様の着物であった。大湯女のように婀娜っぽく着崩しているわけではないが、どことなく着なれずにどこか隙がある。若い娘の健康的な魅力がその隙間からちらちらと零れているのが、まわりがむさ苦しい男ばかりの帳場では尚更目立つのであろう。まさに万緑叢中紅一点の状態である。
「……」
 帳場のお仕着せである水干を着せるのも、なんとなく味気がない。配置転換はもっての他であるのだし。
 帳場の管理人は無作法気味に後ろ頭を掻きながら、『天』へと続く昇降機に足を向けたのであった。

   ◆◇◆

 そんな事が繰り広げられつつ一週間が過ぎた。油屋は月に一度の定休日となっていた。
 千尋は、ここ油屋の起床時間よりも更に早い時間に起きだし、自室の窓をからりと開けてうーんと背伸びをした。本日は快晴、お出かけ日和。
「それにしてもハク、どこに連れていってくれるんだろう」
 窓枠に姿勢悪く腕と顎を乗せて下の景色を眺めやった。広々と草原が続いていた。
 そう言えば、ゆっくりと外の景色を眺めるなんて初めてかもしれないと気付いた。はじめてこちらに来た日は雨であったし、翌日からはイズさんの熱血指導についていくのに精一杯であったから。どちらにせよ今日一日はゆっくりこちらの世界を見られるはずだ。ハクがとある場所に連れて行ってくれると昨日言っていたのだし。目的地が遠くなので朝早く出発すると言われてすこし躊躇ったが、竜の背に乗せてくれらしいので嬉しくなった。あの飛翔感はなにものにも替え難い感覚だ。すこしの早起きくらい我慢しなくては。
 千尋は簡単に身繕いすると、賄場に朝食を確保しに階下に降りて行ったのであった。


 赤い太鼓橋を渡った先にある花園に千尋が向かうと、そこにはすでにハクがいた。
「千尋、向こうの服を着てきたのかい?」
 おはようの次に続いたのがその言葉であったので、千尋は肩をすくめた。微妙にハクの表情が固くなったからだ。
「だって、背中に乗るのに着物じゃ無理だもの」
 竜の背に乗った事がない人にはわからない苦悩の結果なのよこれは、との千尋の言葉にハクは納得したらしい。なにを拗ねているのだろうか、または、なにを怖がっているのだろうかと千尋は思った。まさか、向こうに帰るとわたしが言うとでも思ったのだろうか。信用がないものである。
 ハクはなんとなく千尋が不機嫌になったのを察し、さっさと竜身へと姿をほどいた。長髪の青年の姿がゆっくりとほどけ、そこに白銀の鱗に水底色の鬣で身を飾った竜が現われる。千尋はこの光景を見るのは――覚えているだけで二度目だが――何度見ても綺麗で、それ以上に不思議だと思う。人が竜になる、竜が人になる、この不思議は元の世界では考えもしない現実だ。ハクの出身があちらの世界であると知らない千尋は、心底ただ不思議だと思うだけであったが。
 竜の背に乗り、頭から突き出た角に手をやると、その感触も気持ちが良いものだ。無機質な感触があるのかと想像すれば、ほのかにあたたかく、血が通っているのだとはっきりとわかるそれは千尋の手の平にぴたりと吸い付くようであった。薄いストッキングを通して触れる鬣の感触も柔らかくてくすぐったい。
 そんなことを考えていると、するりと竜が身をくねらせて浮きあがった。くんっと身体と内臓が一瞬ぶれる不快感が千尋を襲うが、ハクはあっという間に風を捕まえ空の高みへと舞いあがる。途端に感じるのは、自身が竜と一体となって空を泳ぐ魚になった錯覚だ。結わえていない、背中の中ほどまで伸ばした髪が、ふわりと渦を巻いたかと思うと後方へと流れていく。
 そう言えばどこに行くのかと聞いていなかったと気がついたのは、前後左右を蒼い空に囲まれ、油屋がすっかり見えなくなる頃であった。が、確認をとろうにも、風を切る轟音の中で会話ができるとも思えず、それ以上に竜の姿では会話ができないのではないか。実際、今までハクは話しかけてこないのであるし。
 千尋は仕方なく、目的地は最後の楽しみに取っておき、今は滅多に経験できない鳥瞰図に見惚れるのであった。

   ◆◇◆

 草原を越え、点在する民家を越え、ネオンがにょきにょきと生える街らしきものを迂回するように越えていくと、やがて深い森へとさしかかった。どこまでもどこまでも果てしなく続くかのような森は、内側から見るならばとても美しく、それ以上に恐い所のように感じられた。千尋は背筋を襲った寒気を誤魔化すように、きゅっと角を握る手に力を込める。
 本当に、どこに連れて行ってくれるのだろう、まさかこの森の中なんて言わないだろうなと思っていると、すこしばかり樹が切り開かれた森の一角へと向けて竜はするすると下降して行くではないか。ぎょっとしたのもつかの間、その場所に地面と保護色のような小さな家屋があるのを認めて、千尋は心底ほっとした。よくよく見れば、細い電鉄の路線もあり、そこから小道がうねうねと続いている。
 なんだ、人が住んでいるんだ、よかった。
 そうこうしている内に、小さなつむじ風を幾つか巻き起こしながらふわりと地面に着地した竜は、すこしばかりぎくしゃくとした動きで千尋が背から降りたのを確認すると淡い燐光をまとって人の姿へと立ち戻った。
「さ、ここが目的地だよ」
 ゆっくりと視線を前後左右にやると、そこは農家のような敷地のつくりであった。動物避けであろうか、それとも敷地を明確にする為であろうか、ぐるりを柵で囲っていた。その中には畝があり、野菜が植わっている。季節的に落葉した果樹らしきものが植えられていた。中央に大きな家屋、それの後ろに資材置き場のような簡素な建物がふたつ。
 中央の建物の屋根より突き出ている煙突から、白い煙が天へと向けて伸びていた。千尋はその光景を首が痛くなるのも構わず飽きずに眺めた。煙突なんて、向こうの世界では無縁なものだ。クリスマス時期にその存在を思い出すくらいで。
「ハク、この家は誰のうちなの?」
 まさかハクのうちだなんて言わないだろうな。だって、玄関に可愛らしい花の飾りがあつらえているし。あんまりにも印象が違う。そんな馬鹿な考えを頭の中で浮かべながら背後のハクを振り返り、千尋はすこし後悔した。見てはいけないものを見た気がしたのだ。かすかに歪んだハクの顔は、まるで自分が苦痛を与えたようで。けれども、瞬きをひとつする間にその色はハクから消え去っており、突然翳った陽の光の加減でそう見えたのかと千尋は思った。
「そなたも知っている人物の身内だよ」
 さぁ、きっと待ちわびているだろうから中に入ろう、とハクは千尋の背を押しながら、木造りのドアをノックした。千尋も知っている人の家だとは言えなかった。それすらも忘れているのかと糾弾するようで。それは仕方のない『世の理』であるとはわかっていても。
 ノックに応えて開かれたドアの先には、たしかに『知っている人の身内』だけで誰の関係者であるのかが一目でわかる人物がいた。薄い色の頭髪を結い上げた、青いドレスの巨頭の老婆がそこにいた。湯婆婆と鷲鼻までがそっくりな人物だった。
「よく来たね、千尋。さ、中にお入り」
 中へと導くようにずらされた老婆の身体の向こうには、漆黒の闇を凍えさせたような身体に白い面をつけた存在が嬉しそうに手をゆらゆらとさせていた。その人物の嬉しそうな様子や、老婆の親しげな言葉や――なにより自分の名を知っていた事に、千尋は彼女達が昔の自分を知る者達なのだとわかった。
 彼女の名は銭婆と言い、湯婆婆の双子の姉であること。漆黒の人物はカオナシと言い、銭婆と五年前から暮らしているのだとその同居人から説明を受けた。
 甲斐甲斐しくお茶の用意をするカオナシからなにが聞けるかと視線の先で追うものの、彼が呟きに似た言葉以外明瞭な言葉を発しないのだと千尋にもすぐにわかった。言葉は話さないけれど気味が悪いわけではない。彼が始終控えめながら『嬉しい』と行動や雰囲気で現してくれているからなのだろう。
 そのような事柄や銭婆、カオナシの性格などがなんとなくわかり始めた頃、その家の主が
「そろそろはじめようかねぇ」
 と茶の席から腰をあげる。それを合図にしたかのように、ハクが逃げるように席を立った。
「銭婆様、私は外におりますので……」
 となにやら言葉を濁し加減なハクに向けて急に心細くなった千尋は迷った目を向けた。わたしを置いてどこに行くのだろうハクは? との考えが素で現われていたのか、ハクは妙に困った――うろたえたと表現しても良い表情を浮かべて銭婆へと助けを求めるような視線を向けた。視線を流された銭婆はひょいと肩をすくめる。
「なんだい、こっちに依頼しておきながら当事者にはなにも話していないの? なにを恥ずかしがっているのやら……」
 別に花嫁衣裳を仕立てるわけでもあるまいし、と銭婆は笑った。
「は……花嫁衣裳?!」
 銭婆のその発言に、双方絶句した。なにがどうなったらそんな発想に行くのやら。千尋に用件を告げていなかったハクが一番悪いのであるだろうが。
「千尋、ハク竜はね、あたしにあなたの服を作ってほしいと依頼してきたのよ。これは妹からの依頼でもあるから、あなたに選択権はありませんよ」
「え……と、あの、服って……」
「そなたの姿は油屋の中でどうも浮いているようだと湯婆婆様へ報告したら、なにを考えられたのやら、銭婆様のところへ話が持ち込まれてしまってね」
 心底困った表情のハクが苦々しく話をつなげた。つまり、なんだ、制服をつくると言うのか、と千尋はようやく合点がいった。
 腕まくりをした銭婆の後ろには、寸法を書き留める用具とメジャーを用意したカオナシの姿がある。
「この日の為に、幾つもデザインを起こしてあるから、期待しておくれよ!」
 その銭婆の言葉に、千尋は眩暈が起きそうになった。等身大着せ替え人形になった気分であった。

   【ニ】

 それから一週間後の帳場に、金色の大きな鈴をつけた黒猫の宅配屋が顔をだした。目の周りの毛が白く歪んだ楕円形で、垂れ目に見える愛嬌のある宅配屋だ。手にはピンクのリボンがつけられた大きな箱を持っている。
「帳場のセン様にお届けですニャ」
 ハンコくだちゃいハンコ、と右手を招き猫のようにくいくいっとして催促する宅配屋。それにつられて帳場のイズはぽんっと判子を受け取りに押した。
「毎度どーもですニャア」
 と明るい声を振り撒きながら、魚をくわえた黒猫がペイントされた小型トラックに乗り込んで走り去ってしまった宅急便猫。
「おぉいセン! あんたに荷物が届いてるぞ!」
 伝票をひょいっと見て差出人が銭婆と知るや、イズは千尋が駆け寄ってくるのを待っていられないとばかりに千尋に慌てて走りより、押し付けるように荷物を手渡した。
「あぁぁなんで銭婆様なんかから荷物が!」
 と恐ろしげに呟いているイズの様子をちらりと心配しながらも、千尋は箱の中身の方が更に心配であった。一体どんな服を仕立ててくれたのだろう。湯婆婆や銭婆や、『天』の肖像画の女達のような、肩のところが膨らんだ、これでもかとレースを飾った、ずっしりと重そうなドレスが入っていたりしたらどうしようとドキドキする。
「えぇいっ! 女は度胸!!」
 と喝を入れると、千尋は一息にリボンを解きがばっとフタをあけた。恐る恐る箱の中身を覗き込むと、そこには白いブラウスと紅樺色のスカートが入っていた。
「あ……意外とまとも」
 銭婆にとっては失礼な発言が口をついて出てくる。
 ブラウスを取り出してしげしげと眺めた。襟は大きく、花の刺繍が施されていた。袖口に縦みっつ、白い布でくるまれた釦が並んでいる。細身なつくりのそれは、全体的にレトロチックなものであった。対するスカートの方も、あてがってみると膝を悠々と超えてまだ長かったが、湯婆婆達の様に踝まで隠すほどではなかった。すこし高めの位置に腰が来るらしく、そのシルエットはやはり一昔調の物。それらを身に付けてショートブーツを履けば、過ぎ去りし時代の女学生のようだと千尋は思った。。ひっつめ髪にしたら女教師みたいだ、と思って千尋は結わえていない髪をひと房摘み上げた。どこかで髪留めを調達しないとダメかもしれないなぁ。
「あぁでも良かったぁ」
 思わず、へたへたとその場に座り込んでしまう。本当に、すごいデザインのものが送られてきたらどうしようかと思っていたのだ。銭婆に選択権はないと言われていたから、どんなものが来ても着なければならないのかとこの一週間胃が痛かったのだ。この服なら、昔のデザインが流行っているのだと思えばまだ抵抗感が薄いだろう。なにより可愛らしい。
 千尋はほっと息を吐きつつ、箱の中にある手紙に目をとめた。ぺらりと開けて見たそこには
『まだまだ作りたいデザインがあるから、楽しみにしてくださいね。銭婆』
 と書かれており。
「――――どんなデザイン?」
 と千尋は一気にブルーになった。もう、この型だけでいいですと銭婆に告げたい。けれどもここでは携帯電話なんて便利な物もなく、それ以上に千尋には言葉を伝える手段がなかった。
 もうどうにでもして……と、千尋は送られた服を胸に抱きしめて、 そっと遠くにある森の方へと虚ろな視線を向けるのであった。


 かくして、油屋で洋装に身を包んだ帳場の従業員が誕生した。まるで、帳場に花が咲いたかのような姿であった。
 人間で、娘で、洋装の新人は更に人目を集めることとなる。
「湯婆婆様……どうしてセンにあの様な着物を与えたのですか」
 ハクは額を押さえたい衝動にかられながらも、その一端を与えたのが自身であるとの自覚からそれを堪える。
「なぁに、中途半端に目立つよりとことん目立った方がいい時もあるんだよ」
 まだまだ甘いねハーク? と、湯婆婆は楽しげに笑った。
 目立てば目立つほど厭きられるのも早いもんさ、慣れればどうってこともないんだからねぇ。心理を逆手にとったまでさ、と湯婆婆は内心で笑い、ハクはその笑いに胡乱な視線を向けるだけであった。