イノセント

季節外れのウツギ乱るる
【4】





   【一】

 その日の朝、帳場の新人は、仲の良い女中に発見されるまで行方不明扱いであった。
 発見場所は彼女の私室、その蒲団の中である。
「お前……ホント、やっかいな性格してるよ」
 仕事時間になっても千尋があらわれないとの連絡を受け取った後どうしたのだろうと私室まで覗きに来てくれたその女中は、ぽりぽりと後ろ頭を掻きつつため息をついた。足元には一組の蒲団が敷かれ――その中には、高熱にうんうん唸っている千尋がいた。
「熱出すんだったら『熱出ます』と前もって言えってのなぁ」
 無茶な注文をつける女中である。それでも手ぬぐいや洗面器を用意する手際はすこぶる良い。さすが女中頭なだけはある。
「相変わらずだな……セン」
 少女の額に手ぬぐいを乗せてやりながら、それだけを感慨深げに呟いたのは、かつて小湯女であり千尋の姉貴分のリンであった。
 今は女中の纏役を務めているリンは、千尋の私室を訪れた足で『天』へと向かった。本来ならば、本日自分は休み勤務であるのだが、こればかりは仕方がない。放っておく訳にも行かなかった。一度宴会場まで降りて、それから『天』へと向かう昇降機へと乗り込む。ニ天にある上役居住区域から直接上階に行けないめんどくさいこの構造はなにを意図してなされたものか、考えてもリンにはわからなかった。
「センが熱をだしたって?」
 そう言った湯婆婆はリンに一瞥もくれず、黙々と手元の書類に目を通していた。同じようにその右手も休むことなくペンを走らせ、時折大きな判子を掴みあげると慎重に朱肉をつけ紙に押しつけた。判子とは、相手への誠意の証である。歪んでも、かすれてもいけない。印が切れるなんてのは最悪なことである。それに記載された文面が人によっては悪い事柄だと判断される物であろうとも、それをかわした相手には裏も表も持たないと手のうちを明かす行為に似ているのだから。
 湯婆婆は三枚の書類に判子を押した後、引出しに判子をしまいがてら
「よくもった方だよ。もっとはやくに音を上げるかと思っていたのに」
 ここに来てから一ヶ月程かいと指折り数えた湯婆婆に、リンは
「あいつは音を上げたわけじゃないですよ」
 と突っ込んだ。
「心か体か、または両方が参っちまったから熱をだしたんだろうよ。いくら五年前にここに来たことがあると言っても、知らない環境で生活して、しかも頭を使う帳場で仕事をしているんだ。あんな細い娘が緊張に耐えられると思うのかい?」
 その言葉を聞いて、あぁそうかと納得したリン。それよりもなによりも、千尋がさぼったとか仕事が嫌になったから熱を出したのだと湯婆婆に思われているのではないとわかってほっとした。それと同じだけ、この湯婆婆はこんなに物分りが良かっただろうかと思ったが、下手につついてこの経営者を不機嫌にさせるのは得策ではないと考えた。
「今日は一日、センにゆっくりするように伝えとくれ。どうせ無理して出られてもハチャメチャなことをするんだろうさ」
 そんな役立たずは寝転がしておくに限るんだよ、と湯婆婆はため息をつきつつ言葉を放った。
 人間は馬鹿で狡賢くて図太いくせに繊細だ、扱いにくいったらありゃしない、とはリンの手前言わないでおいた。かわりに煙草に火を灯して、ゆっくりと吸い込む。
 煙たさにやられないうちにと退散したリンに向けて、この娘も難儀なものだよ、と煙にその思いをのせてふぅっと吐き出した。
「ってわけで、あのバーサンの許可もでたんだから、なんにも考えずに寝ていろよ」
 病気じゃないんだから釜爺に薬を煎じてもらうわけにもいかないんだからな。放り投げる、の一歩手前の乱暴さで洗面器に手ぬぐいを放り込み、ぎゅっと絞り上げた。
「お前、暇さえできれば変なことくだくだ考えていそうだからな」
 口から水銀計をはやした千尋は、むぐむぐと口元を動かした。そんな動作さえどこか緩慢で熱っぽい。
 上へと背伸びしていた線が足踏みをした頃、リンが水銀計を引き抜いてちらりと見た。
「うわ、三十九度越えてるぞ。体痛いか?」
 かすかに枕の上で頭を左右に動かした千尋は、ついで
「てんじょーがまわるよぉりんさぁん」
 と、なんともボケた発言をした。天井が回る以前に舌が回っていない。そりゃぁ天井も世界も回るだろうよ三十九度も出ていたら、とリンは心の中で冷静に突っ込みをいれた。熱の為にかさかさになった唇、上気した頬、とろんとした目は完全に別の世界に行ってしまっている。
 窓をからりと開ける。部屋にこもっていたぬるい空気が、一斉に外へと向けて逃げ出した。かわりに忍び込んで来た秋も深まりつつあるこの世界に吹く風は、今の千尋にはきっと心地よい物だろう。
 振りかえって部屋の中を見る。上役の部屋になんて訪れる必要のなかったリンにとっては、帰ってきた千尋と親しくなってからはじめて踏み込んだ場所だ。こぢんまりとした二間続きの和室はようやっと千尋に馴染んできたのか、そこかしこに少女らしい飾りが置かれていた。一輪挿しに生けられた、夏の花であるウツギ、布で作った人形など。その中に、大きな鯛をもった恵比寿様をみつけた。財運の験担ぎなんて千尋はすすんでやりそうではないから他の者が与えたのだろうか。それ以前に、八百万の霊々を迎え入れるこの油屋がこのような像を置くのは間違っているのではないだろうか、贔屓しているととられても仕方がないではないか。まぁ、和洋折衷善悪ごちゃ混ぜの世界だから別にいいのかも。けれども、これを持ち込んだ人物が気になる。
「まさかハクじゃないだろうな……」
 俗世間にまみれた仕事をしていながら本人はそんな俗などかけらも持っていませんと言った雰囲気を纏ったハクの顔を思い出し、リンは口をヘの字に曲げた。そして、またもや後ろ頭をぽりぽり……よりもすこし複雑な加減で掻く。あいつも一体なにを考えているのやら、と思う。あの青年がこの少女を大切にしていることなんて五年前から薄々感づいてはいたけれども、戻ったはずの千尋を連れてきて油屋に勤めさせたその意図が掴めない。なにを考えているのだろう、この娘はあの時の一切合切を思い出していないのに。
「オレのことすら忘れてんのに」
 ちぇっあんなによくしてやったのにコイツときたら完全初対面ヅラだし、背もあんまり変わらないし。なんとも複雑な心境だ。
「でも、お前はお前だよな、セン」
 そっと秋風がその部屋に駆け込んで空気を緩くかきまわす。


 油屋で新人として千尋が紹介された時、リンは心底驚いた。あれからすでに五年が経ち、自身も小湯女から女中、しかも纏め役として抜擢されそれをこなしている時間の流れを自覚していたが、千尋のそれは更に大きかった。成長盛りの十歳からの数年であったのだからその容貌がはるかに大人びていた、と言う点もあったが、五年の時間の流れよりも更に年を重ねていたようにその時リンは思った。あとから現在の年齢を聞かされ、あちらとこちらの時間の流れが違うと合点が行くまで、なにやら納得の行かない気持ちでもあった。
 それはさておき、リンは千尋の紹介も終わり、従業員がばらばらと仕事場に向かう波に逆らって千尋の近くへとより
「よぉ、セン、元気にしてたか?」
 と声をかけたかったのであるが……親しげに近づいてくるリンへと向けられた千尋の、緊張と不審感がわずかに滲んだ視線を受けて言葉を飲み込んだ。それ以上に、千尋の傍らに立つ帳場の管理人の目が、黙れと言っていた。
「セン、この者は女中第二班の纏役のリンだ。これから書類を届けてもらうことになる相手だから仲良くするように」
 黙れと無言で命令したくせに、その口から出てくる裏腹な言葉に、内心リンは眉を寄せたのだが、顔にはとりあえずお客様向けの笑顔をのせてみる。
「あたいはリン。よろしく」
 にこりと笑ってやると、千尋もすこし緊張を解いたらしくぺこりと頭を下げた。このあたりの仕草は五年前となにもかわらないでいたのでリンは安心したのであったが、名前を聞いても懐かしさのかけらも現さない千尋が理解できなくてとまどった。
 それからふたりは、仕事柄や年齢が近いことから仲良くなった。どうやらハクの采配で仕事上の関係を増やされているのではないかと感じたが、ここはヤツにのせられておくかとリンは考えておいた。なにより、話を多くしたことで、彼女が五年前の記憶をかけらも持たずにこちらの世界へと帰ってきたのだとわかったからだ。
 そんな一月前の事柄を思い出しながら、リンは千尋の額にのせて置いた手ぬぐいを取り替えた。すぐに手ぬぐいも洗面器の水もぬるくなる。これだけの水を熱くするほど、彼女がひとりで頑張っていたのだと思うと痛々しくなった。一人部屋であるから他に気を紛らわせもできないだろう、だからと言って大部屋にこの少女を連れてくるのはまたそれもダメな気がする。今は煩雑な油屋の住人達の思考におのれを掻き乱されるだけの余裕はないだろう。それ以上に彼女は強くないだろう、開き直れはしないだろう。
「おれの中のお前って、あの頃のセンにもどってるのかも……」
 それは、はじめてボイラー室で見た手足のひょろひょろな、不安に揺れる目をした十歳の千尋だ。カオナシとやりあった千尋でもなく、竜を救おうと銭婆の家へと向かった芯の強さを感じさせる千尋でもなく。
 リンは水場で洗面器の水をざばりと流し、蛇口から冷たい水を注ぎいれた。手早く側面の水気をぬぐい、枕元へと運ぶ。
 と、今まで熱でふぅふぅと荒い息を吐き出していた千尋が、またもやぼんやりと天井を見上げていた。
「目ぇ覚めたか。水飲むか?」
 再び枕の上で頭を左右にふるので、これはまともに考えてないなとリンは判断した。水差しを取り上げて口の中に無理やりつっこむ。熱で浮かされた者の主張なんて逐一受け入れていたら手遅れになる。脱水症状なんて起こしたら目もあてられない。案の定、千尋は喉を鳴らして、砂糖と塩を混ぜた水を飲み込んだ。
「ありがとぉ」
 うっとりと目を閉じた千尋から弱々しい礼がかえってきたので、リンは苦笑した。本当になんにも変わらない。その様な事を徒然に思い返していたので、リンは千尋からの次の言葉に目を見張った。
「ねぇりんさぁん……わたし、ここでなにしたのぉ?」
 今までの話の中でもひょいっと出てきた話題。
 リンはぽりぽりと頬を掻いた。
「お前……ホントに暇があれば変なコト考えんだな」
「うぅん変なんじゃなくて、大事なことー」
「ハイハイ。お前はここで河の主を綺麗にしたり、カオナシってヤツを追い出したりなぁ――」
「それ以外はぁ? わたし、ここでなにしたのかなぁ」
「――親父さんとお袋さんを助ける為に小湯女の仕事したり、あのバーサンを出し抜いたり――」
「――……もっと他にもあった気がするの……」
 リンさんにもその時あってるんじゃないのかなぁ、でも思い出せないのごめんねぇ。
 閉じた瞼からぽろりと水が一粒転がり落ちるのを、リンは見てしまった。乱暴に手元の手ぬぐいで拭ってやる。そんなのをみせるのは反則だろうと思いながら。
「オレが事細かに説明したって、そんなのウソだろう? お前がその時どう思ったとか、そんなのオレが知るわけないんだし。思い出したいんだったら……がんばりな」
 リンにはそう言うしかできなかった。千尋の当時の心境を知っていたとしても、今の彼女に教えたところでなにになるだろう。気休めにもならないのだ、自身で取り戻さない限り。たしかに過去は大切かもしれない。けれども、過去ばかりが大切なわけでもないだろう。
「とりあえず、オレのことは思い出さなくてもいいよ、センが苦しむくらいなら。だってオレ達、今はトモダチだろ?」
 姉貴分とか妹分とか、そんな関係ではなくて、もっと対等な関係に変わっただけなのであって。悪い方向に向いたわけではないのだし。
 リンの言葉にすこし納得したのか、千尋はにへらと笑いを口元に浮かべた。
「ゆっくり休めよな」
 すうすうと、先ほどよりは楽になった千尋の寝息を耳にしながら、リンはそう呟いた。
 気がつけば、そうしてリンの貴重な休みが看病で丸々潰れていたのであった。

   【ニ】

 千尋が自室で安らかな寝息をたてはじめた頃、ハクは『天』へと向けて上昇する昇降機の中にいた。手には報告書の束が携えられていた。
 かすかな振動とともに停止した箱型から降り、いつもと同じように湯婆婆の居住区域へと入っていく。はではでしい装飾を施された存外狭い廊下を抜け、やがて辿りつく湯婆婆の執務室。ハクは普段となんら変わることなくその部屋にも踏み込んだ。が、そこには、常にはいるはずのない人物がおり、ハクは身を強張らせた。湯婆婆の双子の姉、銭婆である。姿が微妙に透けている。ハクが目を細めて見ると、銭婆の姿に重なるように紙の人形があった。どうやら、式神に姿をのせてここまでやってきたらしい。
『ハク竜、あたしがここにいる意味がわかるね?』
 冷静な魔女の声で呼びかけられ、ハクはそろそろと細い息を吐き出して体の力を抜いた。
「はい。もうひと月が過ぎたのですね」
「あの娘が戻ってきてはやひと月だ。状況確認といこうじゃないか」
 透ける銭婆の向こうに、いつもと同じように書斎机に構える湯婆婆がいる。机に両肘をつき、手を組んで顎をのせている。
「銭婆、あんた、あの娘をどうみた?」
『あたしに会っても反応なしだね、綺麗さっぱり』
 ただ、良い娘に育っているようで嬉しいよ、と銭婆が続けると、余計な感想はお言いでないよ! と湯婆婆が食いつくように叫んだ。
「今日リンがここに来て、センの記憶は戻るんですかと聞いていったが、リンの目からみてもかけらも思い出した様子はないってコトだよ」
 これがどう言う意味だかわかるかいハク? と、湯婆婆が言葉をハクに向ける。ハクは息をひとつ吸い込んでから、言葉を紡ぐ為に下腹に力を入れた。
「だからと言って、センは私の名を当てました。賭けはこれにて終了の筈ですが?」
「甘いねハク。賭けの正確な条件は『お前の名を思い出すこと』だ。当てずっぽうに名前を呼ぶとか連想ゲームで当てられちゃたまんないね」
 そんな不条理な賭けがあるもんかい! と吼えた湯婆婆に、銭婆は肩をすくめた。
『不条理もなにも、そもそもこの賭けはハク竜に不公平な賭けだったじゃないの。ハク竜はあんたに、真なる名でなくとも力ある『ハク』の呼び名を取られ』
 その上に『千尋』の名を内から取られていたのだから、と銭婆は湯婆婆に人差し指を向ける。
 この街は湯婆婆が『名』を用いて支配力を及ぼす地である。何事にも湯婆婆に認められた存在、認められた名を持たない限り存在してもいられない。その地にて『認められた名をとられる』意味は、真なる名を奪われるにも等しい行為であった。その上に『千尋』の名をも取り上げられる……それは、すでに存在しないものに対する『想い』や『記憶』や『縁』の形が急速に失われることを意味していた。ハクが持っている千尋に対する物事すべてには『千尋』と言う名がついて形を保っているのだ。名もないものの形は崩れやすい。ある意味、名をとられながらも一年間も『千尋』の存在を覚え続けていたハクの強靭な精神力に双子魔女は舌を巻いていた。もしかしたらそれは妄執と紙一重かもしれなかったが。
「なにが不公平なもんかい! こいつとあの娘の『名』を糧にして、扉を開いたようなもんさ。あたしには今回なんのメリットもないんだよ?!」
『ハイハイ、やめやめ! この賭けはドローだよ! 見届け人のあたしがそう宣告する!』
 さぁあんたもさっさと馬鹿な計画は白紙にするんだね! と叫ぶように捨て置くと、銭婆の透けた身体は宙に掻き消え、力をなくしたただの紙はひらひらと重力に従って絨毯に落ちた。それを見届けた湯婆婆は、鬱陶しげに弾くように指をハクへと閃かせると退出を促した。が、一礼をしてから背を向けたハクを再び湯婆婆は呼び止めた。振り返ったハクに向けて、魔法でなにかを飛ばす。しっかりと右手でつかまえたそれは、細長い木でできた小箱であった。青い房飾りの付いた紐で結ばれている。
 ハクは今度こそ階下に降りる為、扉をくぐった。懐に大切そうにその小箱をしまいながら。

   ◆◇◆

「まぁ、仕方がないかねぇ、今回は」
 湯婆婆は深く椅子に座りなおし、煙草をくわえて指先に火を灯した。煙草にそっと指を近づけ、いざ一服と言う瞬間に、帰ったはずの銭婆が突然そこに現われて火を消す。
『煙草は身体に悪いといつも言っているのに、この子ときたらちっとも聞かないのだから』
 式神は再び力をとりもどし、床を這うように旋回していた。
「あんたはあたしの母親じゃないんだから、逐一五月蝿いよ」
『あたし達は天にも地にもたったふたりの姉妹じゃないか、つれないねぇ』
 姉妹! そもそもその姉妹と言う曖昧な関係になんの意味があるのだろうと湯婆婆は低く唸る。あたし達は姉妹以上の双子じゃないかいと銭婆は歪んだ笑みを浮かべた。それが尚更妹には癪に障って仕方がなかった。
「説教の為にここに来たんだったら迷惑だよ、さっさと帰っとくれ!」
『さっきの馬鹿な計画のことよ。あたしとあんたの賭けは成立しているんだから、もうハク竜の魂を使って別の生物を作り出そうなんてのはやめなさいね』
 その言葉を聞いて、湯婆婆は嫌がられるのを承知しつつ煙草に今度こそ火をつけた。鼻からむふぅっと煙が噴き出す。
「あぁ、あたしとあんたの間にした賭けの条件は『荻野千尋がこちらの世界に来るか否か』だったね。あたしは来ないに賭けていた」
『来る』の手段は限定しなかった。本人の意思によって来るのか、それとも連れ去られてくるのか。それだけの幅がありながら、湯婆婆は来ないに賭けていた。
『魂をこねくり回して新しい生物を作るのは、あたし達魔女にとっても禁忌だよ』
 確かにあたしも興味はあるけどね……その行為に耐えられるだけの魂なんてそう簡単に手に入らない、ハク竜の魂は確かに打ってつけだろう、と銭婆は思う。
『いいかい、わかっているね? ハク竜を使うのを諦める、ではなくて、金輪際この計画を蒸し返さないってコトだよ?』
「わかってるよ、本当に五月蝿いね! 大体、あんたが負けた時の代償として頂く予定だったものがなけりゃ、そもそもこの計画は夢物語なんだから!」
 湯婆婆の計画を嗅ぎつけた銭婆がそれを阻止しようと訪れた時に持ちかけられた賭けでは、千尋がハクに連れられてこの世界に訪れなければ、銭婆の所有する貴重な貴石を譲り渡すと言うものであった。湯婆婆としては契約印を、と言いたかったのであろうが、断固として銭婆が拒否するとわかってもいたし、その貴石は魂をこねる秘術にはどうしても必要な貴重品でもあったのだ。
 本当に本当に諦めるんだよ! としつこく念を押した銭婆が完全に姿を消し去ったとわかってから、湯婆婆は新しい煙草を取り出した。
 そしてぽつりと呟く。
「そもそも、そんな計画なんざ真面目に考えちゃいないさ」
 ぽうっと赤い蛍が、その書斎に灯って、消えた。


 油屋の庭には、匂いは薄いけれど確かに咲く白い小花の木が植わっていた。夏の花であるウツギだ。季節感に乏しいこの花畑では、取り立てて不思議がる事象でもないこの光景。
 けれども現在の油屋内にも、ウツギの花はそこかしこに咲き乱れていた。匂いは薄くとも確かに咲いている。
 ウツギの花言葉は『秘め事』





ようこそお越し下さいました。『水砕窮鳥』の橘 尋無です。
『イノセント』は第4話までもかなり長いお話ですけれど、お疲れではないですか? 適度に休憩を入れてお読み下さいね。