イノセント

夜明けまであなたと
【5】




   【一】

 その日油屋の湯婆婆は、魔法で目の前に浮かばせた暦をつらつらと眺めてふと思った。
 そう言えば、最近イベントを執り行っていないねぇ。ぱぁっと派手になにかしようかねぇ。
 余計なひらめきをする経営者である。が、普通の企業なら、まわりが経営者の無駄な思いつきを『無駄』の一言で抑止できるのであろうが、良くも悪くも湯婆婆はワンマン経営者であった。天気がいいから今日は仕事なんてやめて川原で焼肉だ、と社長が言えば行わざるを得ない。そうして大抵翌日にトラブルがあったら昨日焼肉なんてしに行くからだ、と社員にヤツあたりするのが世の常である。
 閑話休題。
 ここ油屋でも、湯婆婆が白いと言えば黒でも白、逆もまた然り。イベントをやるとなったらやるのである。
「あと二週間でハロウィーンだね。ちょうど良い、この日にパーティをするとしようかね」
 さてさて、どんな内容にしようか。
 派手好きの湯婆婆は、仕事の合間に楽しげに計画を練り始めるのであった。


「だんすぱーてぃぃ??」
 女中二班にまわす回覧版を受け取ったリンは、その表書きを素っ頓狂な声で読み上げた。
「うん、そう。ダンパ」
 帳場の新人は、ダンスパーティを略して呼んだ。ダンパ……ダンパねぇ、とリンはぽりぽりと頬を掻いた。ちなみに、本日の油屋唯一の洋装従業員は、柔らかなクリーム色のブラウスに渋めの椛田色のフレアースカート姿だった。なんとも秋らしい色合わせである。
「湯婆婆様って意外にお洒落ね。こんな和風の建物で洋風のダンパしようなんて」
 発想が若いよね、との千尋の言葉に、発想が奇抜で迷惑で意味がないだけじゃないかとリンは内心で突っ込んだ。まだまだセンはあまい、あのバーサンを知らないだけなのだと思う。もうひと月以上もここにいるのに。
「うわーっ! その日臨時休業日になってんじゃん! って事は全員参加?!」
 めんどくさー。それになんでダンスなんだよダンス、あたい、盆踊りくらいしか踊れないぞ、とぶつぶつ呟くリンに気付かず、
「その日ねぇ、上得意様だけ特別観覧御招待なの。だからね、ちょっと本格的に銭婆様がおしえてくれるの、二週間で」
 マジかよ……オレは絶対こんなのに参加しないと心の中で誓ったリンであった。
「どうして? リンさんがこう、すっと立ってワルツとか踊ってくれたらすっごい綺麗だと思うんだけどなぁ?」
「そう言うセンが参加しろ!」
「えぇ? だって帳場は裏方だし、第一相手がいないもん」
「……」
 マジで言っているのだろうかマジで、と本格的に額を押さえたくなったリン。そんな彼女の着物の袖にぶら下がるように食いつき、「相手捜して踊ってねーねーねー」相手はリンさんと並んでも見劣りしない人にしてね、絶対ねとしつこく無茶なおねだりをする千尋は、はっきり言って楽しんでいた。いつも颯爽としているこの女中頭が本気で困っている顔なんて滅多に拝めないのだと短い付き合いでもわかっていたからだ。
 けれども、そうそう面白がってもいられない局面にこのすぐ後立たされることを、千尋は知らなかった。


「オープニングセレモニー……ですか」
『天』の湯婆婆の書斎には、蛙男や獣の化生の男女二組、そして帳場の管理人と新人がいた。
 湯婆婆の口から告げられた言葉を復唱したのはハクである。
「そうさ。ダンスパーティと言ってもまぁ素人の付け焼刃だからね、どうせごちゃごちゃ入り乱れる結果になるとはわかっているさ。けれども、ついでに上得意様に観覧御招待の招待状を出した手前、オープニングくらい真面目にびしっと踊らにゃ話にならんだろう?」
「――で、私達に白羽の矢がたったと」
 白羽の矢なんぞと表現するなんて嫌な子だねぇ。抜擢とお言い抜擢と! 湯婆婆は口を苦々しく歪めて笑った。面白がっている証拠である。
「あの者達はともかく、私やセンは練習時間を取れないと思うのですが?」
 段々ハクの機嫌が下向きになっていくのを、ハクのやや後ろに立っていた千尋はひしひしと感じていた。たしかにそうだ。新人とは言え、千尋もそれなりに仕事を与えられ始めたし、管理人のハクはそれ以上に忙しい。あらかたの仕事が終われば時間ができる下働きや女中とは違い、帳場は終了時間もおしやすい。が、湯婆婆はちっちっちっと右の人差し指を楽しげに振る。
「お前はホントに甘いねぇ、ハク? 今回一番不利なのはお前さんなのさ!」
 なんせ、そこの四人は社交ダンス教室に通っているベテランカップルなんだから、と事も無げに湯婆婆は口にした。ならば千尋とふたりで猛練習ができるのかとすこしばかり機嫌が浮上したハクのすぐ後ろで、千尋はおずおずと小さく挙手しておずおずと発言した。
「ハク様、ごめんなさい。わたし、選択科目がダンスだったんです……」
 そもそもダンスパーティの発想は、湯婆婆様とお茶していた時の会話からなんです〜っとの千尋の言葉に、がっくりとハクは肩を落とさざるを得なかった。
 それにしても、千尋、湯婆婆様とお茶を飲む間柄になっていたなんて知らなかった……心のうちでなんとも言えない木枯らしが吹くのを感じた竜の青年であった。

   ◆◇◆

「なんですかハク竜。その、全然そうは思っていませんが心の奥底では心底嫌ですと言いたげな顔は!」
 しゃんとおし、しゃんと! と、誰もが恐れる帳場の管理人をおちょくっているのは、油屋経営者の姉・銭婆であった。しかも、式神に姿を重ねたものではなく、実体丸ごとで油屋に存在していた。
 なんとも珍しいものみたさで、わらわらと関係のない従業員達が集まってくるのが鬱陶しくて仕方がない。どちらがより珍しいと思われているのだろうか、こんな私の様子か、それとも銭婆様の姿か。考えても詮ないことをつらつらと考えてしまうハクであった。
「あなた達は練習が終ったらさっさと寝なさい! いいですね!」
 練習用の間を取り囲むようにしていた従業員達は、銭婆に一喝されてわらわらと散っていった。仕事が終ってからの小一時間に行われている銭婆の猛特訓がようやく終った自分達と入れ替わりに開始された抜擢者達の練習を見てみたい気もするものの、たしかにもう寝るべきだろうと思うのだ。それに、なにやら帳場の管理人の視線が恐ろしいので。
「さぁ! 抜擢者の練習をはじめましょう!」
 と銭婆が声を張り上げる。が、実質抜擢者三組のうち二組は、不思議の町に何故かある社交ダンス教室のベテランと、はじめて半年のカップルであった。すいすいすい、銭婆が開始を宣言する前から向かい合い、部屋の片隅でくるくるとウォーミングアップとして踊っていた。
「あちらの蛙と鳥のカップルは申し分ないね、さすがダンス歴二年。そっちのはすこしふらふらしているが、別に大会にでるわけじゃないから構わないか」
 向かい合って手と手を取り合い踊る二組に視線を向ける銭婆の格好は常と違う物であった。いつもは足元まですっぽりと覆うどっしりと重いドレスであったが、今は足捌きを見せる為に丈の短いものであった。ハクは目のやり場に心底困って、壁にかけてある暦ばかりを見ている。
 千尋は、踊る二組に、どこかうっとりとした視線を向けていた。いいなぁ、わたしもあんな風に踊ってみたい。そんな心境を十二分にあらわした視線であった。
「問題はハク竜、あなたね。ダンスとは、相手と心を合わせてはじめてなし得るもの。独りよがりに動いたり、相手に全部任せて突っ立っているのは論外だけど、ダンスの基本は男性パートのエスコート。その点を履き違えずに心に留め置きなさい。男からの働きかけで踊るものだけれど男一人で踊るものではありません」
 さぁ、まずは姿勢から。まっすぐ立ちなさい! との言葉に、常から姿勢の良いハクはとりあえずそれについてはなんの訂正も受けなかった。逆に、ハクの隣に立つ千尋が
「もう少し胸をはって、まっすぐ立ちなさい。上体はふらふらしてはいけません」
 と肩を後ろに押されていた。
 銭婆に姿勢の教授を受けている千尋は、やけに真剣な面持ちである。胸をはるもなにも胸なんてないのに〜となにやら小さく叫んでいたが、目指すはベテランカップルの風をはらむような水の上をすべるような軽やかな身のこなしである。自称・ない胸を精一杯にはった。
「姿勢はなんとかなりそうだね。では、お次はウォーキングに……」
 そうして、銭婆のスパルタな練習の幕は上がったのであった。

   【ニ】

 翌日の帳場には、嵐が存在していた。いや、ブリザードが吹き荒れていると評した方が良いかもしれない。上座からごおぉぉぉぉぉっと冷たい風が吹いていた。なにせ帳場の管理人、あれから「ちょっと簡単に銭婆様がダンスを教えてくれる」のどこをさして『ちょっと』なのだろうと怒鳴りたくなるほどの情熱でもって徹底的にダンスを叩き込まれていたのである。いつもは足音立てず優雅に動くことができるハクと言えども、これがダンスとなるとまた話は別、歩き方の初歩から何度も何度も繰り返しさせられていた。いつもと違う筋肉を使う為か、よくほぐしたはずであるのに妙に身体が痛くて重くて困るし、なによりほとんど寝ていない。しかも、ようやく初日がおわったばかりであるのだ。ちらりと下座を見る。イズについて書類を作成している千尋は、目の下にうっすらとクマを作っていて痛々しい。時折こっくりこっくりと頭が揺れているのも目にした。練習で歩き疲れた彼女は、休憩時間にごろりと横になったまま寝てしまったのでまだそれだけですんでいるのであろうが。
 今更ながらに、ワンマン経営者の湯婆婆が恨めしくなってくる。もっと発言権が増すように根回しをしなければいけないなと、なんだか無駄な努力に思考が向かうハクであった。


 連日連夜行われる銭婆の猛特訓も折り返し地点へと来ていた。
 本性が竜であるハクは、その強靭な体力でなんとかその練習に付き合い、千尋は途中で我慢できずに寝てしまう為になんとかなっていた。
 現在の銭婆はほぼハクと千尋の専属コーチと化しており、他の二組は適当に練習を切り上げるとさっさと練習場から逃げ出していた。なにせ、真面目に練習につきあっていたら、ハクと千尋と一緒に夜明けを迎えてしまう。明日も仕事があるのに、そんなことではやっていられない。なにも言われないのを幸い、自分達の部屋へと帰ってしまっていた。
 銭婆が「いちっにっさんっ!」と手拍子を打つと、向かい合って手を取り一歩をすすめる。身長差の為にどうしても見上げる角度になる千尋がハクの視線の先を追い、リードに身を任す。見上げている視線が妙に潤んで見えるのは、ハクの寝不足フィルター故ではなく千尋の寝不足の故であろう。
「はく……」
 この頃になると、なんとかステップを踏みながらでも会話ができるようになってきた。まだ細切れではあるものの。
「ようやく……あし、踏まなくなったね」
 良かったね、間に合いそうで、との千尋の言葉に、なんとも言えない竜の青年であった。なにせ、千尋と組んで踊り始めの頃は、一歩目の次は謝りの言葉を口にしていたからだ。足を踏むなんて序の口、足が絡まってどうにも動けなくなったことも一度や二度ではない。そんな時は双方とも身体を密着させて、どう離れようか一生懸命考えたものだ。寝不足で回転の鈍い頭で。体格差の為に、下手をするとそのまま千尋を押し倒しそうになるのだ。
 絡まって絡まっていちにっさん。不器用ながらもなんとか踊るワルツ。リンあたりがみたら大口を開けて豪快に笑うだろう光景であったものの、本人達は至極大真面目。これでもだいぶマシになってきたのだ。
 千尋はようやく、寝ぼけ眼の腫れぼったい目であったが、笑った。ハクと一緒にダンスを踊る事になろうなんて、冬に怯えていたあの頃には考えられなかった。夢の中で黙ってのべられていた白い手に導かれて踊るなんて一瞬たりとも考えなかった。なのに、今は一緒に働いているし、寝不足気味な顔も見てしまったし、不機嫌ながら頑張って慣れない――ある意味似あわないとも言う――ダンスの猛特訓を受けている。
 千尋のくすくす笑いに気がついたのか、ハクがくるっと手を引いて千尋を一回転させた。練習用にと銭婆が用意した、普段よりも薄手の桜色のスカートが翻り、練習部屋に花が咲く。
 あぁ本当に、この人がこんな性格やバックグラウンドを持っていたなんてあの頃のわたしはちっとも想像しなかった! と、千尋はくるりとまわった視界の中で思った。
 ただわかっていたのは、綺麗で恐い世界の広がりと、綺麗で恐い白い手の人に連れて行かれる予感――この人はとてもとてもわたしに『なにか』――強い感情を抱いている漠とした予感だけだ。ある意味、はじめて言葉をかわしてから、ハクが自分にとても優しく接してくれるので逆に驚いた。ハクが自分に抱いているのが『怒り』や『憎しみ』であっても驚きはしなかったのだ。
 本当は、この世界に連れてこられ、その手で縊り殺されると思っていた。それを望んでいた、矛盾をはらむ自分がいるのを千尋は心のどこかで認識していた。だからこそ、ハクが、こちらの世界での身の振り方を考えている時に言った言葉はおおいに千尋を戸惑わせた。まさかそんな位置に彼が存在するとは思わなかったのだ。あの日から千尋の中でハクは微妙な境界線をうろうろしている。
「千尋、どうした?」
 ハクがすいっと右足を出しながら、ぼんやりとした千尋へと問いかけた。
「眠い?」
「……えっと……そうじゃなくて」
「突然笑ったりぼぅっとしたり、そなたは忙しいね」
 ハクがもうちょっと上手に踊れたら連日連夜相手をしなくてもいいんですけどぉとは言わないでおいた千尋であった。眠いかと問われたら、思い出したように眠くなってきたからだ。口を動かすのも億劫だし、足を動かすのはもっと億劫だった。
 そんな、ぼんやりとした頭であったからだろうか、千尋の口から、以前より持っていた疑問がするりと出てきた。
「どうして……ハクは、わたしをここに連れてきたの?」
 どうしてこの世界に……? 
 顔を寄せて踏むステップの隙間に零れ落ちた疑問符を床に撒き散らすように、再びハクは千尋を大きく回転させた。
 はぐらかされた、との思考は千尋の頭に浮かばなかった。疲労と睡眠欲に負けて、半分以上が眠った頭であったからだ。
 ふらりふらりと踏むステップに銭婆が苦笑して練習の終了を告げたのは、それからすこし後のことであった。

   ◆◇◆

 それから一週間後に行われたハロウィーンのダンスパーティは、飲めや踊れやのらんちき騒ぎとなり、盛大なうちに幕を閉じた。
 ただ、オープニングセレモニーを見たリンが柱の影で腹を抱えて笑っていたことと、抜擢者三組が相手の足も踏まず転びもせず踊りきったことと、それ以降油屋でダンスパーティが行われなかったことだけを記しておく。