イノセント

Crystal Bell
【6】




   【一】

 帳場の新人ととある女中頭は、暇がかち合うと上役特権部屋に篭っておしゃべりするのが常となっていた。
「今日は餡巻きをもらっちゃいました〜!」
 じゃ〜んとの効果音をつけて持ち出された皿の上には、餡子をくるりと半月描いて巻いた筒型の餡巻きが四個のっていた。ふかふかとした外皮、つやつやと照る粒餡がなんとも美味そうだ。
「今日のおやつはすげぇじゃん」
「書類を賄場に持っていったらね、丁度良いからってくれたの」
 ただね……と、勝手知ったるセンの部屋とばかりにてきぱき茶の用意をし、頂きますと手をあわせ餡巻きにかぶりついたその瞬間を見計らったように千尋は言葉を続ける。
「新人さんの練習作だから感想聞かせてくれって」
 その言葉に重ねるように、むぐっとリンは鈍い音を喉元で発し、急いで手元の茶を飲み干した。ついで、熱いっと悲鳴をあげる。
「センっ! そー言うのは先に言えっ!」
 生地、生地にダマが! ぼそぼそのダマが! 鼻の奥で弾けたっ! とリンは涙目になっている。
 慎重にもそもそと餡巻きの生地を齧った千尋は、
「うわぁ、ホントにダマが……見えない所にうまい具合にダマが……」
 と途方に暮れた。これは一種の才能かもしれない、外見は素晴らしく一級品に見えるのに。
 気を取り直したリンは、餡巻きを半分に割りダマを掘り返してから餡を掬い上げて口に運んだ。
「餡はうまい。これは新人じゃないな」
「多分、長が作ったんだろうね。餡の味付けなんて新人にはさせないよ。餡は炊くのも微妙な匙加減いるし、塩加減だって大変だって聞くし」
「ちぇっ。どうせなら長が作った餡巻きのが良かったな」
 や、これはこれでなかなかいけるよと熱心にダマをよけている千尋の頭を「こ〜の味オンチ〜」と笑いながら拳のはじっこで向こうに押し倒したリンに、千尋も姿勢悪く頬をぺたりとちゃぶ台に貼りつけて笑った。


 そんな日が続くと思っていた。少なくともリンは、あと少しは続くのだと思っていた。けれども現状は、廊下の柱に背中を預け、イライラと足を鳴らしていた。腕組をし、右足の爪先だけを浮かしてぺたぺたぺたと意味もなく廊下を踏み鳴らしている。客や従業員が幾人も不審そうな目をリンに向けて通り過ぎた。足元には、座敷から下げてきたばかりの膳が積み重なっている。イライライラ。もう少しその足踏みが派手になれば、積み重なっている食器までが音を立てそうな苛立ち。
 そうこうしている間に、リンの目の前を、小柄な少女が通り過ぎた。白いブラウスにモスグリーンのスカート姿だ。けれどもふたりとも声をかけあいはせず――声をかけるどころか、視線すらあわせようともしなかった。リンは通り過ぎる少女を視線だけで追い、千尋は磨き上げた床をじっと見つめることで痛みに耐えるようにして通り過ぎた。
 やがて千尋の後ろ姿が廊下の奥に消えた頃、リンは足元に積み上げていた膳を抱えて賄場へと向かった。どうしてこうなったのかねぇと思いながら。
 ことの発端なんぞ、ありはしなかったのだと思う。少なくともふたりの間に直接はなかったのだ。それは一方的な通告であったのだから。
「あのね、リンさん。わたしとあんまり仲良くしてると、悪く言われるでしょ?」
 ある日神妙な顔つきで現われたかと思うと、そんな言葉を千尋が唐突に口にしたのだ。
 リンは
「はぁ?」
 以外に反応を返せはしなかった。その間にも千尋は一生懸命に何某かをまくしたてていた。
「わたし、帳場の従業員だし、人間だし、噂ばっかり先行してその実ここにはあんまり貢献できてないと思うし。ここの世界のことよくわかってないし」
 リンが呆気に取られている間に、千尋は年がほぼ変わらないくらいになっても身長はリンの方が高い為にリンの胸元に向けて言葉を吐き続けている。
「そんな変な立場の、変な人間とつきあってるって、リンさんに有益じゃないって気がつけば良かったの。ごめんね、わたし、もうひとりで頑張るから!」
 これで最後に『さよなら、今までありがとう!』と言われれば、今生の別れか恋人の別れのシーンかと思わされるような雰囲気と言葉の中で、千尋は涙声でそれだけを言い終わるとダッと廊下の奥へと走り去っていったのだ。
「……つまり、なんだ」
 茫然自失していたリンがようやっと我にかえった後、後ろ頭に手をやってがしがしと掻き考えをつらつらとまとめると、もうそれだけしかでてこなかった。
「誰かから変なアルナシゴトを吹き込まれたってわけか……?」
 余計な人種がいるもんだ、この油屋にも……とリンは深々とため息をつき、現在に至るのだ。だが、あれから色々な筋に手を回しても千尋に余計な話を吹き込んだとおぼしき人物は浮上してこなかったので、尚イライラとしたリンであった。それ以降、リンは犯人探しを諦め、なんとか千尋自身の誤解を解こうと幾度となく接触するのであるが、その本人が頑なにリンとの会話はおろか視線を合わせもしないのだ。最後にはリンも意地になって、会話は諦めたもののイヤでも千尋の視界に入る場所に一日一度は現われるようになっていた。
 いつまで続ければ良いのやらねぇ……とリンは、癖になりつつあるため息をそっと零すのであった。

   ◆◇◆

 千尋から一方的な別れ話を切り出されてから十日ほどして、ふとリンは原因となりそうな出来事を思い出していた。
 それは、十日ほど前の、営業開始の前にある清掃時間。女中頭と言えど、その日の座敷の配置を頭に叩き込んだ後はひたすらに掃除をする。壁にかけられた一輪挿しを雑巾で拭い、庭から切り出してきた秋の花を挿し、水差しから水を注ぐ。途中、水差しの水が足りなくなって、リンは水場へと足を向けた。と、そこには、少しばかり年少の女中や、小湯女が五人ほど壁となっていた。女中は、一年程前に小湯女から女中にあがった娘達で、小湯女時代には全員仲が良かった者達だ。
「リン姐さん」
「どうした、お前ら。なんかあったんか?」
 女中頭となった今でも、リンは小湯女達の事情に精通していた。元来の面倒見の良さが、部署が変わっても下の者達から変わらず頼りにされていた。
 なにやら、もじもじと手をすり、互いの肩を押し合っている五人の様子はおかしい。今回もなにか、女中と小湯女の間になにかあったのかと思い、リンは内心で眉をひそめる。
「こんなトコロにかたまってたら、父役になにを言われるかわからないぞ?」
 用件があるならすぱっと言っちまいなと言外に促してやると、もじもじと手をすり合わせていた小湯女が意を決して顔を上げて口を開いた。
「帳場のことなんですけどぉ」
「なんだハクサマか?」
 えと、ハク様じゃなくて……と歯切れ悪くその小湯女が言い噤んだ言葉の続きを、女中のセリカが引き継いだ。
「ハク様じゃなくて、セン様のコトなんです」
 ハクに関する話なら、ある意味自分に報告が来るのはわかる気もするものの――なにせ、帳場の管理人に好き勝手言える者はこの油屋で自分を除くとほとんどいないとわかっていたからだ――センの話がこちらにくるのに、リンは納得がいかなかった。それ以前に、センがなんだと言うのだろう?
 セリカの言葉を引き継いで、小湯女のカサネが握り拳を作って力説する。
「リン姐さん、あの人と関わるの、あたし達心配なんです! だって、あの人、帳場に入ってきたばかりなのにセン様って呼ばれてて、部屋も大部屋じゃないし、ひとりだけ違うカッコだし……人間だし」
「特別扱いされすぎです! そりゃ、昔にすごい手柄を立てたかもしれないけど! あたし達だって毎日毎日一生懸命仕事して、お客様の汚れを落としたり、喜んでもらったりしてるんですよ!」
「たった数日の仕事と、何年ものあたし達の仕事が全然秤にもかけられないなんて……」
「第一あの人、あの湯婆婆様と直接つながってるって言うじゃないですか!」
「あの湯婆婆様ですよ?! なにを言われたかわからないじゃないですか! そんな人の近くにリン姐さんには居てほしくないですっ」
 そんな五人の言い分をリンは受け止めてから、こつんっこつんっこつんっと拳で軽くそれぞれの頭を叩いて黙らせた。
「間違ってるだろ、それ。それはあたいを心配してるんじゃなくて、ただの嫉妬。ヤキモチ。帳場の新人でも、あいつはハクサマと湯婆婆サマの補助になるのが決定済みなんだし、大体上役は『様付け』だろ、それが上下関係! それにひとり部屋だって良いことないぞ? この前なんて、あたいが発見するまで高熱でぶっ倒れてるし。大体お前ら、ひとりで寝られるか?」
 賑やか大好きな小湯女と女中は、そうリンに問いを向けられて考え考え頭を振った。狭いながらもひとりで寝起きするなどと考えただけで寂しくなりそうだった。時折その大人数加減に辟易するものの、基本的に大人数が好きな娘達だった。そうして考える。あのセン様は寂しくないのだろうか、同じ年くらいなのに。しかも、こちらの世界に来て日も浅く、右も左もわからぬうちに上役補助の立場に立ってしまって辛くはないだろうか、と。根は優しい娘達であった。
「カッコが違うのはセンのせいじゃないし、人間だってのもセンのせいじゃない。昔のことだってなぁ、それだけでセンが今の場所に立っているわけでも、それでちやほやされているわけじゃないだろ?」
 第一、本人はそれらを覚えていないのだから、とはリンは言わないでおいた。
「お前らの仕事振りは誰かと比べるようなもんじゃないだろ? 仮に、誰が認めてなくてもあたいが知っているから安心しな」
 お前らが頑張ってないなんて言うなら、あのハクサマでもあたいがぶん殴ってやるからよ! との言葉に、緊張に強張らせていた娘達の顔に笑顔が戻ってきた。
「湯婆婆サマのことは気にするな。あいつは――センは、あたいや仲間を悪く言ったり売るようなマネはしないから」
 それともなんだ? あたいが信じているセンは信用できないのか? とすこし脅かすと、リン姐さんが信じるならあたし達も信じる、と唇をきゅっと引き結んで五人は頷き、わらわらと廊下を駆けて行った。
 あぁ一体なんだったんだろうねぇと、リンは水差しに水を入れつつ思う。考えれば、あの五人はセンが五年前にここにいたあの当時にはいなかった者達だ。完全に、油屋の伝説にまでなっている河の神様の話やカオナシの話だけで『セン』のイメージを作り上げた者達なのだと思い至った。きっと、素晴らしいまでに美化をして、本当の『セン』とのギャップに苛立ったのだろう。本当のセンはとても良い娘だとは思うものの、美化された『セン』を信じきっている者にとってはなんとも言い難いものがあるのだろう。その差異ばかりが、彼女を取り巻く特異性と重なって悪目立ちしているのだ。
まぁ、もう少ししたらセンの人となりをあいつらもわかるだろうと楽観していたのだが、そんな現場を運悪く千尋が見てしまっていたのだ。それも、リンが黙って彼女達の言い分を聞いているところまで、である。

   【ニ】

 なんとも中途半端なところで切り上げてしまったのは、そのように思われているなんて気がつきもしなかった自分が恥ずかしかったからだ。『特権』を振りかざしていたつもりはなかったけれど、与えられている制服や、部屋や、立場や、呼称ひとつとっても彼女達と自分には差があり過ぎ、言い換えてみれば、自分は居るだけで『特権』そのものだったのだ。その特権が嬉しいとは一度も思いはしなかったけれども、それを彼女達に一言も伝えようとしなかった自分もわるいのだと千尋は思い知らされた。
 振り返ってみれば、千尋の今までの人生で、誰かに悪意を持たれたり取り立てて大きな困難が立ちふさがった事などなかったのだ。引っ越してくる前のどことなく無気力な小学生時代でもそれなりに世間を渡っていたし、引っ越した後はその様な瑣末事に気をとられる暇もなく忙しく充実した日々を送っていた。なにより、心配事は幼馴染である和樹に良い意味でも悪い意味でも当り散らし、そして的確な指摘を受けてはどんどん解決していったのだ。
「持つべきモノは、頭の切れる幼馴染……よねぇ」
 自室のちゃぶ台にへばりつきながら、千尋はぽつりともらす。
 自分から疎遠になるような言葉を吐いたくせに、友達のリンと話せなくなってからのここ十日ばかり、心労がいつもよりも増しているような気がしてため息をついた。たくさん話をしたいのに話す相手がいない。それ以上に、理由もきちんと言わなかったせいでリンが納得していないのを、一日に一度は現われる彼女の態度でわかっていた。そうさせたのも辛くて仕方がなかった。
「だって仕方ないじゃない……リンさんが困ってるんだから」
 こんな宙ぶらりんな自分と関わって、リンが悪く言われないわけがないとはやく気がつけば良かったのだ。そうしたら、リンが囲まれてあんな話を言われている現場を見なくてすんだのに。
 はじめて湯婆婆にあった日に言われた事が思い出される。
『お前は油屋の語り草、ある意味有名人だから覚悟しな』
 あぁ本当にわたしは覚悟をしなければならなかったのだ。その覚悟がまったく足りていなかった。頬をぺったりとちゃぶ台に押し付けたまま、千尋はその時を思い出しながら、うだうだと思考を右へ左へと転がしていた。
「誰かと……はなしたーい」
 ちゃぶ台の上には、湯飲みと急須と、菓子盛りから零れた蜜柑がひとつ。転がる思考と同じように、右にころころ、左にころころと蜜柑を転がしていると、指先を掠めてぽてんっとちゃぶ台から転げて箪笥にあたって止まった。
 千尋は意を決すると、立ち上がって扉を開き廊下へと踏み出した。
 ほてほてと、冷たい廊下を歩く。廊下の両端にしか窓はない為、昇降機のある廊下中央には一年中陽が届かない。昇降機乗り場の上にある裸電球の明かりはあたたかそうなオレンジ色であったものの、それすらも廊下の冷ややかさを増長させていた。
 なんとはなしに、裸電球を見上げながら、ずるずると壁に背を預けて座り込んでしまう。ここまで歩いてくるのが今の千尋にはやっとであった。膝を抱えて丸くなる。こう言う時は、他の従業員が着ている水干でなくて、たっぷりと生地を使ったスカートで良かったと思う。お尻のあたりがすこしは暖かい。上に羽織るものを持ってくればよかったと一瞬思ったものの、ここからまた立ち上がって部屋に戻る気にはなれなかった。戻ったら最後、もうここには来られない気がして。
 じじっと裸電球が鳴るのが、目を閉じて耳だけを澄ます薄闇の中で聞こえた。その音に邪魔されながらひたすらに待ち望む、昇降機が鈍い音をたてて登ってくるのを。今は泊り客が帰る時刻だから、それが終れば待ち人が戻ってくるのを知っていたのだ。
 そうして待ちに待った時間の果てに、ようやく千尋は待ち人に発見されたのであった。


「どうしたの、千尋?」
 自室へとハクを連れ帰って来て――否、連れてこられて――まずはじめにそう問いかけられた。目の前には、新しく入れなおしたお茶と山盛りの蜜柑。そのどちらにも手を伸ばそうとしない双方。
「ん……あのね、お願いがあるんです」
 なんとも歯切れの悪いその台詞に、ハクはかすかに眉をひそめたようであった。視線だけで促され、千尋はこくりと喉を鳴らしてから口を開いた。
「わたし……大部屋にうつってはダメですか? あと、名前も、下っ端なんだから呼び捨てにして欲しいんです」
 服は……湯婆婆様命令だし銭婆様に申し訳ないから我慢するけど……と、ブラウスの裾をもじもじといじる。
「どうして?」
「どうしてって……だってわたし、誰よりも異質なのにここまで差異が大きいと居たたまれないから……普通に扱って欲しいんです」
 扱いだけでも普通になれば皆と同じになれるわけではないとわかっていながらも、それがはじめの一歩かもしれないと思うのだ。横並び一線に管理したがる学校に通っていた千尋にとって、それは普通の発想でもあった。そこから突出すると叩かれるとわかっていたのだから。
 けれどもハクは、そんな苦悩を秘めた千尋の言葉をあっさりと切り捨てた。
「千尋、この油屋でのそなたの特異性は、そのままこの世界でのそなたの立場なのだよ」
「え……?」
「この世界には、たしかにそなたの世界からたくさんの生き物が紛れ込んでくる。それはもう、そなたと同じように、なにも持たず、なにも知らず渡り、そしてここや別のところで働くか――消えていってしまう。そこには人間も動物も区別などない」
 ここは界と界の狭間。陽炎よりも頼りない世界。しっかりと何かに根づいて存在する世界ではないから、たくさんのモノを育めず、受け入れられず、生かすよりは眠らせる。光よりは闇に近しい魔界。
「けれども、そなたは一度あちらに戻り、そして再びここに戻った者だ。そしてそれ以上に人間だ。この世界にその様な人間はいないと言い切っても良い」
 すべては世界の入り口であるこの町で捕獲され、豚や石炭に変わってしまうのだとは言わないでおいたハクであった。
「だからそなたは、すべてにおいて『特別』で『特異』なのだよ。ここでの『特異』に耐えられないようでは……もうどこにも行けないと湯婆婆様は考えているのだと私は思う」
 千尋は、うつむいて膝の上の拳をじっと見ている。それ程までに自身が浮き上がった存在であったとは思ってもいなかったのであろう、肩がかすかに震えていた。
「これは……試練?」
 暫くしてからそう呟いた千尋の言葉。
「そうかもしれない」
 魔女は試練が好きだ。ある意味これは、ここで生きる為の試練。
「なら――頑張る。ゴメンね、変な相談事しちゃって」
 そう言った千尋に向けて、ハクはすこし考えるようにしてから腰をあげた。
「すこし待っておいで」
 扉から出て行き、暫くしてからもどってきた。
「そなたにこれをあげよう」
 もう一度座りなおした席から、そっと千尋に向けて手にした物を差し出す。青い房のついた紐で結わえられた、小さな木箱。
「ハク、なに、これ?」
「開けてごらん」
 躊躇いがちに紐を解き、細い指で木の蓋を開けた千尋は、一瞬息を呑んだ。
「これ……湯婆婆様のベル?」
 中には、青いビロードのクッションにおさまったテーブル・ベルが入っていた。
「元々は私のものだ。湯婆婆様に預けていたんだ」
 薄いクリスタルの表面に、ニゲラとおぼしき花や線状の葉模様が刻まれている。持ち手は銀。
「綺麗……」
 千尋は箱からそっと取り出して、うっとりと眺めやった。
「魔法で作ったベルだよ。そなたにしか、本当の音色は出せない」
「え……?」
「そのベルは、私がそなたを呼ぶ、それそのもの。そのベルの音は、私のそなたへの呼びかけ」
 賭けをしている間、賭け代として、湯婆婆はハクの内より『千尋』の名を取り上げる為に『名』を物質化したのだ。
「鳴らしてみて?」
 告げられたその言葉にぴしりと固まりながらも、なんとか千尋は右手を振った。
 チリーン――……
「あ……!」
 湯婆婆が振るのとはまったく違う、高く透明に澄んだその音に、千尋は耳を疑った。確かに同じ品であるのに、艶も響きも一段と今の音の方が良かったのだ。
「私はなにもしていないよ? 音が変わるように魔法をかけてもいない」
 空気を振動させるその波紋さえ見えそうに透明なその音に、千尋は目を見開いたままだ。
「そなたが変えたのだよ。そなたには『変わる力』や『変える力』がある。私の目の前にそなたが存在している、それだけでもこんなにも世界が変わる。その意味がわかる?」
 口を開くこともできずに、千尋はふるふると頭をふった。
「そなたの存在が私を満たしてくれると言うこと。私を幸福にしてくれて、そなたの名を呼べる今に感謝していると言うこと。誰かを愛するなんて感情はもうとうに失ったと思っていた私に、それを与えてくれたそなたは、すべてを変える力を持っているのだよ」
 千尋はもう一度ベルを鳴らした。リン……と短くベルが鳴く。
「そなたの特異性は、もうどうしようもない。私が竜であるように、そなたは人間にしかなれないし、人間はこの世界ではもっとも珍しい存在なのだから。けれどもそなたは、周囲を変えていく力があるから、だから、大丈夫だろう?」
「……うん」
 湯婆婆が与えたその立場や特権のすべては『試練』で、それはとりもなさず『世界』に立ち向かうのと同義で、立ち向かう少女は細く弱々しい。けれどもハクは、千尋にならすべてを乗り越えていけると確信していた。その『力』を信じていた。
「それとも、もうここから出て行く? 私は構わないよ、そなたが向かう場所が私の行く場所だ」
 肩に余計な力が入った千尋を和ませたくて、ハクがすこしばかり砕け口調でからかってみると、今度ははっきりとぶんぶん頭を振られた。
「ううん、いる! 負けばっかじゃ、悔しい。『油屋』が『世界』の縮図だと言うのなら、ここで挫けたままで外に出ても結果は同じだから」
 千尋は唇を噛んで言った。それに……、と言葉を続ける。
「わたし、ここの世界のこと、本当になにも知らないもの。星の名前すら知らないままじゃ、足手まといだもの。せめて星の名前をひとつでも言えるようになってからでないと。それに……外はまだ恐い」
 きゅっと握りしめるベルの冷ややかさが胸に染み渡る。
「ならば、リンと仲直りしておいで? リンは怒ってなどいないから」
 そっと言葉で背を押され、千尋は毅然と顔を上げて扉へと向かっていった。手には、ハクより贈られたベルを持って。
 今から千尋が立ち向かうのは、自分の勇気と思慮の足りなさから困惑の渦に突き落としたリンの元だ。そしてそれ以上に、偏見と差別と嫉妬に満ちた世界の縮図。
 千尋が開け放して行った扉を見つめながら、ハクは微笑した。
 彼女はそこにいるだけで世界を変えていく。周囲の目に正しい『千尋』をうつす日が来るのがそう遠くないのだと、ハクは予感していた。なぜなら、昔から正しい『セン』を知っているものならたくさんいるのだから。ほんのすこし目を覚ませば、誰もが正しい姿を見られるのだから。『セン』も『千尋』も信じているリンがそばにいるのだから、それは夢物語ではないのだと、ハクは思っていたのであった。