イノセント

星の名前
【7】




 その日、泊り客が皆々家路につき、少しばかり油屋全体がほっと息をつく時間に二天の自室に向かおうと昇降機を降りた所で珍しいものを見つけて、私は思わず足を止めてしまった。昇降機乗り場のやや左側の壁に背中を預けて丸く蹲っている存在は、昼でもぼんやりと灯っている裸電球に照らされてぼやけたオレンジ色になっていた。
「千尋――」
 なにをしているのやら、なにを。もう秋も深まりつつあるというのに、陽が一度もあたらないこんな場所に蹲っていては身体を冷やしてしまうだろうに。
「千尋?」
 膝を抱えて顔をうずめているので、もしや寝ているのかと思い身をかがめて覗き込んでみれば、寸前で顔を上げられてしまう。至近距離でかち合った視線はなんともぼやんとしていて、これはかなりの時間ここでこうしていたのだろうとはっきりわかった。
「さぁ、立ちなさい。自分の部屋を忘れたわけではないだろう?」
 手を差し出して促してみると、のろのろと立ち上がる。なんとも生気のない千尋である。
「そんなに馬鹿じゃないもん」
 口だけは達者であったが、やはり声にいつもの元気がない。
「それでは、私を待っていてくれた?」
 少しばかり意地悪してみたくなる。
「――自惚れてもいいよ、待ってたから」
 意外な言葉が返ってきた。本当に、どうしたのだろう。
そう言えば、ここ最近の彼女の様子がおかしいとは感じていた。リンとギクシャクしている現場も幾度か見た。
「相談事?」
 話の矛先をすこし向けてやる。この世界に彼女を連れてきてもうじきふた月になるけれど、その間見ていて気がついたのは、彼女は存外に意地っ張りである点だ。かなりまわりに当り散らしたり甘えたりしているようでいて、肝心な箇所は内に抱え込んで悶々としている。それで心より先に身体が悲鳴をあげたりするのだ。時々はこちらから誘い水をやらないと本音を出してこない。ましてや、内に篭りきった時は、尚のこと。
「ん……迷惑だったらゴメン」
 大人ふたりが肩を並べて歩くには狭い廊下なので、自然と前後に並んで歩くようになる。私の背の後ろ側で、頷いた千尋の気配。
私は千尋の手をひきながら、彼女の自室の前まで導いた。廊下の左最奥である。
「迷惑ではないよ」
 視線で、そなたの部屋で良いのかいと問いかけると、みずから扉を開いてくれた。なんとなく、彼女の心の中に招き入れられているようで嬉しくなる、不謹慎にも。
 部屋に招き入れられ、ちゃぶ台のある部屋へと通される。いそいそと座蒲団を差し出され、千尋は茶を入れる為にぱたぱたとせわしなく動き回っている。そのすべてがどこかよそよそしかった。私はなにを言うつもりもなく、その姿を視線で追う。
 ふと、箪笥の上に生けられた一輪挿しに目が行った。コスモスがその桃色の頭を千尋の動き回る空気の波動に合わせて揺らせていた。その脇には何故か――大きな鯛を持った、小さな恵比寿像があった。財運の験担ぎなんて千尋はしそうにないから、一体誰が千尋にこれを与えたものやら。まさかリンだろうか。大雑把な性格をしているリンではあるが、もらった給金はがっちりと溜め込んでいるのだとの噂を聞いた。
 恵比寿と言えば、元はイザナギ、イザナミ神の一番目の子供、葦の船にのせられて海へと流されていったヒルコ神と言われている。そしてその他には、『海より来たりて冨を与える者』『渡来人』『異邦人』果ては『海での死者』の意味をも持つ。なんとなく、元の世界からはぐれてしまった私と千尋をあらわすようで、変な気分になった。
 そんなことを徒然に考えていると、ようやく決心がついたのか、向かいの座蒲団に千尋が腰を下ろした。
「どうしたの、千尋?」
 決心をつけたようなのに、今だ膝の上の手をもじもじとこねくり回している千尋の名を呼んでやる。
「ん……あのね、お願いがあるんです」
 なんとも歯切れの悪いその台詞。視線だけで話の続きを促してみる。
「わたし……大部屋にうつってはダメですか? あと、名前も、下っ端なんだから呼び捨てにして欲しいんです」
 服は……湯婆婆様命令だし銭婆様に申し訳ないから我慢するけど……と、千尋はどんどんと言葉尻を弱くしていった。どうやらそれで精一杯であったらしい。
「どうして?」
「どうしてって……だってわたし、誰よりも異質なのにここまで差異が大きいと居たたまれないから……」
 普通に扱って欲しいだけだと千尋はか細い息に言葉を載せるように言う。それらの様子で、なんとなく事情がわかってしまった。いつか来る問題だとは予想済みではあったけれど、こんなにもはやく訪れるとは思ってもいなかった。
「千尋、この油屋でのそなたの特異性は、そのままこの世界でのそなたの立場なのだよ」
「え……?」
 千尋はきょとんとした顔つきになった。それはそうだろう、なぜいきなり『世界』の単語がでてくるのか掴みきれずにいる。
「この世界には、たしかにそなたの世界からたくさんの生き物が紛れ込んでくる。それはもう、そなたと同じように、なにも持たず、なにも知らず渡り、そしてここや別のところで働くか――消えていってしまう」
 そこには人間も動物も区別などない。
「けれども、そなたは一度あちらに戻り、そして再びここに戻った者だ。そしてそれ以上に人間だ。この世界にその様な人間はいないと言い切っても良い」
 すべては世界の入り口であるこの町で捕獲され、豚や石炭に変わってしまうからだとは言わないでおいた。飽和状態の千尋に無理に詰め込んでも仕方がないからだ。
「だからそなたは、すべてにおいて『特別』で『特異』なのだよ。ここでの『特異』に耐えられないようでは……もうどこにも行けないと湯婆婆様は考えているのだと私は思う」
 千尋は、うつむいて膝の上の拳をじっと見ている。肩がかすかに震えていた。
 ここに無理やり連れてきた私がこんな話をしてもなんの意味も力も持たないとはわかっている。本来なら、その『特異』のすべてから私が守らねばならないのに、それすらもできていないのだ。かわりに、いらぬ心配ばかりを与えている。歯がゆくて仕方がない。
「これは……試練?」
 暫くしてからそう呟いた千尋の言葉。
「そうかもしれない」
 魔女は試練が好きだ。ある意味これは、ここで生きる為の試練だ。
「なら――頑張る」
 ゴメンね、変な相談事しちゃって、と無理に浮かべた千尋の笑顔は妙に痛々しかった。寄る辺ない子供の顔だ。それでいて虚勢を張った子供。この地に連れ去った私に寄りかかってくれれば良いものを、強情なこの娘はそれを拒む。なにもわかってはいないのだろうけれど。
「すこし待っておいで」
 そう言いおいて立ち上がった私の後ろ姿を千尋が視線で追いかけているのを感じた。どうにも、千尋はほんのすこしでも置いていかれるのが恐ろしいらしいとこの頃では良くわかった。銭婆様の家に行った時と同じ視線を注いでいるのだろうとはっきりとわかる。その証拠に、私が自室からここに帰ってくると、心底ほっとした表情を浮かべたのだから。
「そなたにこれをあげよう」
 もう一度座りなおした千尋の反対側の席から、そっと千尋に向けて持ってきた物を差し出す。青い房のついた紐で結わえられた、小さな木箱。
「ハク、なに、これ?」
「開けてごらん」
 そもそもがそなたへの物なのだから、との言葉はうちに秘めておいた。
 躊躇いがちに紐を解き、細い指で木の蓋を開けた千尋は、一瞬息を呑んだ。
「これ……湯婆婆様のベル?」
 中には、青いビロードのクッションにおさまったテーブル・ベルが入っている。
「元々は私のものだ。湯婆婆様に預けていたんだ」
 薄いクリスタルの表面に、花や線状の葉模様が刻まれている。持ち手は銀。
「綺麗……」
「魔法で作ったベルだよ。そなたにしか、本当の音色は出せない」
 え……? と驚いた顔でこちらを見つめてくる。目の高さに掲げたまま、ぴしりと固まっているさまがなんとも可愛らしくて、もうすこしからかってみたくなった。
「そのベルは、私がそなたを呼ぶ、それそのもの。そのベルの音は、私のそなたへの呼びかけ」
 賭けをしている間、湯婆婆は私の内より『千尋』の名を取り上げる為に、『名』を物質化したのだ。それにより私のかわりにこの鈴が千尋の名を呼んでいたのだ。高く、低く、小さく。
「鳴らしてみて?」
 ぴしりと固まりながらも、なんとか千尋は右手を振った。
 チリーン――……
「あ……!」
 湯婆婆が振るのとはまったく違う高く透明に澄んだその音に気がついてくれたらしく、千尋が小さく驚きの声をあげた。
「私はなにもしていないよ? 音が変わるように魔法をかけてもいない」
 空気を振動させるその波紋さえ見えそうに透明なその音に、千尋は目を見開いたままだ。
「そなたが変えたのだよ。そなたには『変わる力』や『変える力』がある。私の目の前にそなたが存在している、それだけでもこんなにも世界が変わる」
 その意味がわかる? と問いかけると、ふるふると頭をふられた。
「そなたの存在が私を満たしてくれると言うこと。私を幸福にしてくれて、そなたの名を呼べる今に感謝していると言うこと」
 例え、何も知らない両親や友や世界のすべてから奪ってきた存在であろうとも。
「誰かを愛するなんて感情はもうとうに失ったと思っていた私に、それを与えてくれたそなたは、すべてを変える力を持っているのだよ」
 千尋はもう一度ベルを鳴らした。リン……と短くベルが鳴く。
「そなたの特異性は、もうどうしようもない。私が竜であるように、そなたは人間にしかなれないし、人間はこの世界ではもっとも珍しい存在なのだから。けれどもそなたは、周囲を変えていく力があるから、だから、大丈夫だろう?」
「……うん」
 湯婆婆が与えたその立場や特権のすべては『試練』で、それはとりもなさず『世界』そのものに立ち向かうのと同義で、立ち向かう少女は細く弱々しい。かつて私も通った茨の道だ。けれど、彼女が持つ『変わる力』と『変える力』で乗り越えていけるのだと確信していた。その力に今も昔も巻き込まれた私が言うのだから、絶対に。
「それとも、もうここから出て行く? 私は構わないよ、そなたが向かう場所が私の行く場所だ」
 今度ははっきりと、ぶんぶんと頭を振られた。
「ううん、いる! 負けばっかじゃ、悔しい」
『油屋』が『世界』の縮図だと言うのなら、ここで挫けたままで外に出ても結果は同じだと千尋は唇を噛んで言った。どうにも、負けず嫌いでもあるらしい。
「わたし、ここの世界のこと、本当になにも知らないもの。星の名前すら知らないままじゃ、足手まといだもの」
 せめて星の名前をひとつでも言えるようになってからでないと。それに……外はまだ恐い、と言葉尻を濁した。それが彼女の、偽らざる本音なのだろう。
「ならば、リンと仲直りしておいで? リンは怒ってなどいないから」
 はやくしないと逆に怒られてしまうよとせっついてみれば、慌てた顔をして扉を開け駆けて行ってしまった。手にはしっかりとベルを携えて。


 ねぇ、千尋? 私が言った言葉のすべてを覚えている? 理解できている? 私はもうずっとずっと、その手の中のベルがすこしの振動で鳴るように、そなたを心で呼び続けていたのだよ? 
 そのベルを一時と言えど手放したその理由がわかる? それに彫られたニゲラの花言葉は『夢の中の恋』――それを手放して、それでも必ず取り戻せると確信していたからこその賭け、その意味がわかる? それは、『夢の中の恋』は辛すぎるから手放す、けれど、再び取り戻したなら『夢』では終わらせないと言う暗示だよ。


「けれど……本当は――こちらの世界に連れてきたくはなかったのだけれど」
 光も闇もあふれる、そなたを育んだあの世界で生をまっとうできるよう……努力したのだけれど。
「でも――もう、仕方がないね」
 如何なる理由で連れてきてしまったのだとしても、もう手放す気にはなれないのだから。『夢』を『夢』で終らせるつもりはないのだから。

   ◆◇◆

 ハクは、千尋が開け放していった扉を見つめて微笑した。
 ニゲラの花言葉は『夢の中の恋』
 もうひとつは――『霧の中の乙女』――ベルは乙女とともに彼の手の中に戻ってきた。