イノセント

秘 色 〜ヒソク〜
【8】




   【一】


「ぜーったいこっちのが似合う!」
 柔らかそうな黒髪を緩く結わえたおっとりした顔立ちの少女が、握り拳をつくって訴えた。
「セリカ、どこに目ぇつけてんのよ! んな毒々しい金色使っているのなんてセン様には似合わないの! こっちの髪飾りはやーらかい色合いでこっちがお勧め!」
 桃色の水干を着た利発そうな少女が切り返す。と、すかさず隣にいた、背中のあたりまで髪を伸ばした年少の少女が、眠たげな視線をちらと向け突っ込む。
「デザインがやぼったいよ、カサネさん」
 あたしの感性にケチつけんなーミヤコー!
 だってヘンなのはヘンだもの。立ちながらこっくりと舟を漕ぎそうな空気をかもしだしつつ言う。セリカと呼ばれた少女は言い合うふたりを無視して髪飾りを目指す相手の頭にあてがっては、相手からの言葉を楽しげに待っていた。
 等々、細々とした日常品を取り扱う小店舗『紺屋』の軒先でかしましい会話が繰り広げられていた。年頃の娘が五人も集まると、店先と言えど静かになどしていられない。しかも、彼女達が漁っているのが、髪飾りや櫛や帯紐などの身を飾るものとなれば尚のこと。ちりめんをリボン状にしたものがついた金櫛、金属片を飾った簪、色とりどりのガラス玉を絡めたUピンなどを手にして盛り上がっている。
 そのかしましい会話の中心で、すこしばかり年少の三人娘に次々と髪飾りをあてがわれてあーでもないこーでもないと言われているのは、ひとり洋装の娘であった。心底困った表情をしている。
 四足の獣の化生であるのか、頭から黄金色の動物耳をはやした老年の店主が、椅子に腰掛けながらキセルを吹かしその様子を眺めていた。
「おいおい、セリカにカサネにミヤコ、いい加減にしろよ」
 呆れ顔でそう助け舟を出したのは、背の高い娘であった。女中頭のリンである。まったく、なにがどうなったらこんな展開になるのかねぇと内心苦笑しながらの言葉であったから、真剣味はあまりない。
 そもそもあたい達がこの店に来たのは、お姉様の着物の染み抜き依頼なのであって買い物ではないのだとこの娘達は覚えているのだろうか。
 ちらりとキセルを吹かす店主に視線を流す。ぼんやりと目の前を半眼で見ているこのノボーとした店主、こんな顔でこんな店をしていながら染み抜きの腕は一級品と言うのだからサギもいいところだ。
「えぇっだってリン姐さん、せっかくセン様と町に遊びに来られたんだから、ばっちり好みを掴んでおかなきゃー!」
「セン様かわいーんだもん、俄然はりきっちゃう!」
「セン様ったらせっかくの洋装なのに髪飾りのひとつもしないなんてそっけなーい!」
 や、どうせそのうちどこかの野郎が髪飾りのひとつやふたつやみっつやよっつ、贈りそうな気もするが。恵比寿様の像を貰うだけの甲斐性がセンにもあるし、とは言わないでおいたリンであった。それはそれでなにか腹のどこか納まりが悪い気がしたからだ。
 握りこぶしを作って力説する娘達は、つい先日帳場の新人に思うところがあってリンに相談をした娘達であった。が、千尋が勇気を出して小湯女達に歩み寄っていくとわりと簡単に受け入れられてしまい、それどころか懐かれてしまったのであった。それにはリンの彼女達への意識改革が功を成していたのであるが。
 それと、それ以降に会話をしていた中で
「セン様ってハク様の良い人なんでしょ?」
 との小湯女の誰かからの質問に千尋が真っ赤になってうろたえ
「良い人ってなに?!」
 ととんちんかんな発言をしたことにより一気に親しみを持たれてしまったらしいのだ。人生、なにが幸いするかわかったもんじゃない、と千尋はその事件以降しみじみと思ったのであった。
 と、そんな事を小湯女達に纏わりつかれながら考えていると、ふと装飾品ケースの端にポツンと飾られている品が目についた。くすんだオレンジ色のビーズで花をかたどった、銀細工のヘアピンだった。小さな葉が二枚、ちょこんと花から顔を出している。いぶした銀の色合いがどことなくレトロチックな品であった。
「あ、可愛い。でもなんかぼやんとした色ですねー」
 千尋の視線に気がついたのか、セリカが同じ物を見てそう感想を述べた。
「セン様ならもっと明るい色のがいいと思うんですけどねー」
 あはは買うんじゃないよと口にしつつ、それでも値段が気になって店主へと聞いてみた千尋は、返答にうーんと頭を悩ませた。
「うわー、あたし達の給金じゃきつい」
「ひと月の自由になるお金のほとんどが持ってかれちゃうねー」
「あたし達下っ端は雀の涙の給金だからなぁ」
「うー、わたしもおんなじくらい」
「……――え?」
 最後は、リンと三人娘がはもった『え?』であった。千尋の同意の言葉に対しての『え?』である。
「お前、帳場にいてんだからもうちっと給金もらってるだろ?」
「帳場はあたし達より初任給いいんですよ?! なに言ってんですか!」
 ぎょっとした表情で見つめられ、千尋はもじもじとスカートの裾をいじくった。財布の中身の話をするのはあまり好きではない。はしたないと親に躾けられていたからだ。
「だってわたし、個人部屋もらったり制服の維持費は別件だったり色々差し引かれてるのー! 給料全然良くないよー」
 まさかまさか小湯女ととんとんの給料とは思っていなかったけれど……とは言わないでおいた。
「うわぁ、たしかにあのバーサンならやりそう。なんだかんだ言って差っぴいてそうだなぁ」
「セン様も苦労してるのねぇ」
 誤解してごめんねセン様! と三人娘は千尋の手をにぎにぎして涙を浮かべた。どうやら、特別な存在も太平楽ではないらしい。
 突如店先で繰り広げられた友情劇に、店主はゆるりとキセルをくゆらせて、ふーと大きく息を吐き出した。誰にも気付いてもらえなくてすこし寂しかった。

 ひやかすだけひやかして満足した娘達は、ようやく仕事場へと足を向けた。手には回収してきた着物が風呂敷に包まれて持たれている。一月前に依頼していた分だ。酔客相手のお姉様の着物は被害に遭いやすい上に外見の装いも大切なものであるから、ひと月単位の染み抜き依頼も半端ではなかった。五人娘がえっちらおっちら両手に抱える量となっている。町に出たくて回収係に志願した手前、文句を言えはしなかったが。
 中天をすこし過ぎた太陽がつくる影を踏みしめて歩く少女達以外は誰もいない街に、誰の為の料理なのか美味そうな匂いがぷんっと漂っていた。
 乾燥した風に乗って、舗装もしていない道から砂ホコリが立ち上がる。
 申し訳程度に植えられた街路樹が、ゆらゆらと枝を揺らしていた。
 夜になると霊々を手招く赤提灯も、明るい昼間で灯も灯っていないその姿だけではなんの魅力も感じない。その古ぼけた加減が安っぽく感じられるだけだ。塗装が剥げ、その下の木肌すらささくれた店の柱も同様な雰囲気を持っている。
「腰にくる……」
 そうぽつりと呟いたのは、やはり千尋であった。腕の太さも足の太さも比べるのが気の毒なほど細い上に、毎日毎日雑巾掛けで足腰を鍛えている小湯女や元小湯女の彼女達とはそもそもの鍛え方が違う。たたんで積み重ねた着物は想像以上に重い。
 セン様大丈夫ですかぁとカサネに問われ、大丈夫……と返した千尋は、ふと通り過ぎようとしていた横道の奥に人影を見つけて立ち止まった。ひとりが道に座り込み、もうひとりが屈んでその人物を覗き込んでいるように千尋には見えた。店の軒下にできた影に、人目を憚る様に存在するふたり。その様子以前に、昼のこの町で人の姿を見たのははじめてであったので驚いた。油屋の従業員と町の住人以外、はっきりとした姿を持った者はいないのではないかと思っていたので尚更であった。
「あの……どうかしましたか?」
 一度は通り過ぎたものの、やはり気になった千尋は取って返して横道のふたりへと声をかけた。建物の影に座り込んでいるその様子は、よくよく思い返してみれば、具合を悪くしているようにしか見えなかったので。
 突然の千尋の言葉に驚いたのか、屈みこんでいた者がびくりと肩を震わせてからゆっくりと影より抜け出てきた。
 日の下に晒されたその者は、振袖に似た、金糸で模様を編み込んだ菫色の着物の少女であった。横髪を後頭部でまとめ、大きな髪飾りでとめていた。眸は濃い飴色で、金の睫がそれを縁取っている。髪の色も淡い金色で、ぽってりした赤い唇が愛らしい、可憐な少女。けれども、どこか薄汚れたそのなりに、千尋は内心で違和感を覚えずにはいられなかった。
「連れの者が具合を悪くして……どこか休める場所はありませんか?」
 小さな唇から零れ落ちたその言葉も、鈴を鳴らすような声、とはまさしく彼女のそれを指すのだろうと思わせる、か細く美しいものであった。
「この先に、わたくしどもが勤めている湯屋があります。良かったら御案内致しますが?」
 大丈夫ですかと問いがてら、店の壁に背中を預けている人物へと声をかけた千尋は言葉を失った。その人物は右膝を立て、右手で額を押さえてうめいていたのであったが、その苦しげな様子に言葉をなくしたのではなかった。特別な力がなくともなんとなく千尋にはその人物が『人間』であるのだと感じられたのだ。それ以外は、着物姿の少女の連れには似つかわしくない、登山スタイルの青年だと見て取れるだけであった。どうしたと口にしながら引き戻ってきたリン達も、そのふたりを見てなにも言えなくなったらしい。息を吸い込む音だけが聞こえた。
 男が小さく何かを呟いているのが聞こえるが、千尋にはなんと言っているのか判別がつかなかった。連れの少女にははっきりとわかったのか、草履の音も静やかに、けれども小走りで男に駆け寄ると、その肩を抱く様にして顔を寄せて何事かを呟いた。小さく頷く男の様子に、少女は目元を微かに緩ませ、ついで千尋に向き直った。
「彼は人間なのです。それでも……大丈夫ですか?」
 怯えを含んだ少女の言葉に、千尋は直感が正しかったのだと知った。そして同時に、人間がここに存在することに対して、それだけの警戒を必要とする世界なのだと改めて思い知らされた。
 千尋はこくりと喉を鳴らしてから、言葉を慎重に選んだ。下手な回答をすれば、このふたりはこのままどこかに行きそうで。
「上役に話してみます。すこし横になるだけでもだいぶマシだと思いますよ?」
 その言葉に、少女は迷いを眸に宿らせてもう一度男を見た。そして吹っ切る様に顔を上げると、お願いしますと小さく頭を下げた。
 その頃には、事情を察したリンが、ミヤコを先に油屋へと走らせていた。とにかく、道端に病人を転がしておいて平気でいられる千尋ではないとリンにはわかりきっていた。ハクや湯婆婆が渋るに決まっているぞと言って突っぱねても良い結果は得られない。ならば、少しでも早く休ませ、少しでも早く油屋から追い出すのが得策だとハクを説得するに限る。なにせ、彼のアキレス腱とも言える千尋が拾った災厄なのだから、ハクに話を持ち込むのが筋であろう。
 どうぞあちらです、と千尋が油屋を指し示すと、少女は男にもう一度顔を寄せた。男がよろよろと立ち上がると、華奢な肩を貸して慎重に歩き出す。少女が帯に挿した小さな鈴が、歩みに添ってちりり……ちりりと鳴いた。
 リンは、ふたりを案内して先を歩く千尋の後ろ姿を見ながら、身震いをひとつした。どうして自分はあのふたりを『災厄』などと表現したのだろうか、と今更ながらに思いながら。

   ◆◇◆

「人間が来たって? ――えぇい、さっさと休ませるなりなんなりして追い出すように仕向けておくれ!」
 ハクより連絡を受けた湯婆婆は、一瞬の間の後にそうハクに命令を下した。ハクにも彼女の『間』がなんとなく理解ができた。この油屋の住人は『人間』の匂いに敏感だ。湯婆婆しかり、ハクしかり。だが、その報告をミヤコから受けるまで、従業員はおろかふたりとも人間の侵入に気がつかなかったのだ。
 釈然としないながらも、ハクはその異邦人の為に一室を設けた。霊々の客室からはかなり離れた、日当たりの悪い小さな部屋である。霊々が人間に様々な思いを持っているとは言っても、なにが幸いしなにが災いするか読めないのが霊々である。双方の為を考えると、できるだけその人間の存在は秘するが吉であるとハクは考えたのだ。
 その招かれざる客人の元へと向かいがてら、ハクはもう一度空気の匂いをかいだ。やはり匂いは薄かった。換気の為に大きく窓を開けていようが、独特な人間の匂いはそんな物をものともしないはずであるのに。
 と、ハクは良く知った匂いが向かう先から近づいてくるのに気がついて足を止めた。やがて、廊下の先から茶色の髪を揺らしながら娘が歩いて来た。
「千尋、お客様の具合はどう?」
 ハクに気がついて小走りに駆けて来た娘に向けて、声をひそめて問いかける。
「ん、今ようやく眠ったトコ。今、お連れのコトヤ姫様がついているのだけど……」
 その姿があまりにも痛々しくて見てられなくて抜けてきちゃったと千尋は繋げた。
「今からそのお客様の所に行くけれど……そなたはどうする?」
 そう続けると、千尋は迷った目でハクの胸元あたりを撫で回してから、返答を返す。
「ハクが行くのなら戻ります」
 なにやらその客人がとても気になるらしい千尋は、躊躇いつつも頷いてハクの後ろにつき、今しがた出てきたばかりの部屋へと向かった。
 普段はあまり使用されない、どこか湿気た客室の座卓は壁に寄せられ、すでに蒲団が一組敷かれていた。そこに横たわる男と、それを枕辺に座りじっと見つめている娘は、はっきりと言ってしまえばどこもおかしくない光景に思えた。この世界のどこかにこのような男女は存在していてもおかしくない。けれども、とハクは思う。この男は『人間』であるのだ。しかも娘の方は、人外の存在であるとわかるそれ。この組み合わせは、なにやらハクの胸をざわざわと掻き乱した。
 客室内へと入り、コトヤ姫と千尋が呼んでいた存在に向けておのれの名を名乗るも、少女はぼんやりと男の顔を見つめているだけであった。千尋が
「コトヤ姫様、大丈夫ですか?」
 と声をかけてようやくハクと千尋の存在に気がつくありさまであった。
「此度はお世話になりまする……」
 どこか魂の抜けた動きで少女は指をついて頭を下げた。金の髪がさらさらと肩から零れ、白い頬を覆い隠した。
「わたくしは殊(コトヤ)と申します。訳あって人目を憚る身でございます。わたくし達の事は内密に願います……」
 風に吹かれれば遠くの空に舞いあがりそうに儚い印象を持った少女であった。殊姫はそう言う間だけでも目を離すのは辛いとばかりに、またもや男に向きを変え、顔をぼんやりと見はじめた。
 薄ぼけた牡丹柄の蒲団に横たわっている男の顔は蒼白で、とても苦しそうであった。二十をすこしばかり越えた所だろうか、眉根を寄せていてもどこか若いと感じさせる。が、若いからと言って健康だとは言い難い空気を纏わりつかせていた。げっそりとこけた頬がそう感じさせるのか。昨今の流行りに乗って、目立たない程度に茶色く染めた髪の生え際に、薄っすらと汗が浮いていた。
「殊姫、お連れ様は……?」
 名を聞くも、ふるふると金の髪を揺らして頭を振るだけで会話になりそうもなかった。目元に袖をそっと寄せ、苦しげに眉を寄せる少女に何を聞けようか。
 まぁ、人にはそれぞれ事情があるし。人の事情を詮索せぬのが『油屋』だと思いなおして、ハクは千尋を伴って部屋を辞した。
 襖を閉めるその瞬間に、申し訳なさげに頭を小さく下げる殊姫の仕草が見えた。ハクはなにかを振り切る様に――動作だけは穏やかに、襖を閉めたのであった。


 その日の油屋は、どこかそわそわとした雰囲気に包まれた。やけに薄いとは言え、従業員達は確かに存在する人間の匂いに気がついたからだ。カサネもミヤコもセリカも、もちろんリンもふたりの存在を口外するような性格はしていなかったが、匂いに蓋をするわけにもいかなかった。
「ミヤコ、な〜んか人間臭いヨ、あんた」
 小湯女仲間のソネが、ミヤコのお仕着せに顔を近づけてすんすんと匂いをかいだ。
「風邪ひいてんのソネさん。釜爺に薬煎じてもらったら?」
 元が犬なのにそんなボケ鼻つけてていいの? とミヤコは続け、その口どうにかしなさいよと突っ込み返された。が、別段深く追求する気も、気分を害された様子もなく、くるりと身を翻して仕事場へと向かっていくソネ。
 仕事仕事と小走りに駆けて行ったソネの後ろ姿を見送ってから、ミヤコはさてさてと考える。リン姐さんは大丈夫としても、カサネさんやセリカさんはうまくかわせるのだろうか、このかすかに染み付いた人間の匂いを仲間に詮索されて、と思う。あの娘達は捻くれた自分と違い正直だ。それはもう、頭に馬鹿がつくほどに。別にばれた所でこちらが悪いわけではないだろうが、いらない波乱を巻き起こす必要もないだろう。ハク様に口止めをされてもいるのだし。
 今日一日、カサネさんとセリカさんに張り付いておかなきゃなぁとため息混じりに息を吐き出し、そう決心した小湯女であった。


「ねぇハク、前に、この世界に人間はいないって言ったよね?」
 あけて翌日、千尋はその疑問をハクに向けていた。人間がこの世界にいないと言う話を聞いたのはつい先日であったからだ。この頃には、人間がこの町に迷い込んでくると、あの食堂街で捕まり豚にされてしまったり、こちらの食べ物を食べないと消えてしまうのだと言う一種の常識もわかっていた。同じような常識に、動物は人間よりもこちらの世界に順応しやすく、消える確立も低いのだとあった。ならば、あの男はどうして消えもせず存在しているのだろう。部屋付きの女中に志願してくれたセリカの報告によると、水は飲めるが一切食べ物を口にしていないらしいのに。
「あぁ、人間が豚になってしまうのはこの町にかけられた魔法でね。もしかしたらあのふたりは別の場所からこちらに渡ったのではないかと思うのだよ」
 別の場所からこちらに来て、夜が来る前になにかを口にすれば消えることはないのだとハクは答えた。そうなると、この町にかけられた対人間用の魔法も感知力を鈍らせてしまう。こちらの世界の食べ物を口にすると、世界が魂に一部同化してしまうからだ。その頻度が高くなれば――要するに日数が経っていれば――あの男の異様なまでの人間臭の薄さも理解できそうな気のするハクであった。ただ、その様な事態は、ハクが知る限りあり得なかった。湯婆婆でさえはじめての経験であったようだ。なぜなら、別の箇所からの来訪者の数は限りなく少なかったからである。
「あの赤い時計塔以外に入り口があるの?」
「確認したわけではないけれど、いくつかあるそうだよ。時計塔のようにはっきりした門ではなくて、とても不安定らしいけど。塩の水溜りのほとりやら、円になった河に囲まれた山の洞窟の奥。西の荒野にある大岩に、新月の夜に生贄を捧げると道が開くとか。これは向こうへの片道通行らしいけど」
「……塩の水溜りって海のこと?」
「こちらでの『海』は真水の海を指すのだよ。私も見たことはないけれど、あちらの世界にある海のように寄せては返す波もある、塩辛い水溜りらしい」
 円を描く河なら見たことがある、すこし前に湯婆婆様の使いで東の地に行った時に見つけたとハクは続けた。
「眼下いっぱいに円を描いて河が巡回していて、とても不思議だった」
 この頃には、この不思議な町での常識と同じように、ハクの出身が自分と同じ場所であるのだとリンから伝え聞いていた千尋は、ハクでも不思議に思うことがあるのだと妙に感心した。こちら側に渡ってくるのが自分よりもはやく、もうこちら側の住人の貫禄すらあるハクであるのに、まだ不思議に感じる事象があるのだと驚きもした。
「その山の麓に、温室で花を栽培しているお爺さんがいるのだけれど、次の休みにでも訪ねてみようかと思っていてね。そなたも行く?」
「……ちょっとハク、そこはつい最近発見したって言っていなかった?」
「誰もこない茶屋もしていて、そこの三色団子がとてもおいしかったのだけれども?」
 仕事そっちのけで河につかって遊んでいてお爺さんに発見された上に団子を馳走になったなどと言うに言えないハクは、慌てて話を誤魔化した。湯婆婆の虫が腹から出て行った後、なにやら放浪癖がでてきたなんて自慢できる癖でもない。いつもほどほどに山中や森の中をうろうろしているくらいなのだし。
「温室で苺の栽培もしていると言っていたよ」
 その言葉に、千尋は興味をひかれたらしい。蜜柑や林檎は比較的手に入れやすかったが、苺はなかなか難しい嗜好品であったのだ。茶屋の三色団子もたまらなく魅力的だった。
「にしても、ハクが三色団子だなんて似あわない!」
「私はこれでも甘党だよ?」
 食堂街のはずれにある、夫婦が交代でしている甘味処『辻石』の餅入りぜんざいがおいしいのだけれど、旦那さんが店番をしている時のそれは止めておいた方がいい。小豆が潰れてしまっていて舌触りが悪いから、となんともマニアックな話題をあげるハクに千尋は目を丸くした。
「ハク……通いつめてるねぇ」
 本当に本当に、夢の中で見ているだけではこの人物がこんな性格だなんて思いもしなかったと再び思い知らされる千尋であった。この青年と、こんな甘味話で盛り上がる日が来ようとは、あの時は思いもしなかった。
 思えば遠くに来たもんだ……と、千尋はしみじみと思った。話題をはぐらかされたのだと気がつきもしなかった程にギャップが激しすぎた会話であった。


 だが、そんなほのぼのとした事態は一変するのである。
 二度目の新しい太陽が昇る頃にそれに気がついたのは、油屋の主と帳場の管理人であった。
 ハクは湯婆婆に指示を受け、殊姫と男にあてがった部屋へと踏み込み、言葉をなくしてただ殊姫を見ているだけであった。
 朝日だけは辛うじてあたるその小さな部屋の障子が、光を柔らかく受け止めて部屋中を白く染め上げていた。その中央に敷かれた蒲団、その傍らに座った殊姫の光景は、最後に見たそれとなんら変わることがない。が、蒲団はもぬけの殻だ。
「殊姫――お連れ様は……」
 ハクは襖に手をかけたまま、座りもせず、突然の乱入の断りも朝の挨拶もせずにいる自分の無作法や――ましてや、なんと馬鹿な質問をしているのだろうと愚かな自分の行為を遠い思考で自覚しながらもそう問いかけずにはいられなかった。
 殊姫はぼんやりと敷き蒲団の白さを眺めている。そこに男はいないのに。
 その内、のろのろと両手をあげ、顔を覆って嗚咽を漏らしだした。
「あの人は――あの人は行ってしまったのです……っ!」
 ハクには、そう聞こえた。けれどもハクにはわかっていた。あの男がどこかに行った訳ではないのだと。あの男はこの少女に……喰われたのだと。
 ぷっつりと途切れた『人間の匂い』にかすかに混じる血臭と死臭が、なによりも雄弁に物語っていた。

   【二】

 帯に挟んだ小さな鈴が、嗚咽を漏らす殊姫の動きにあわせてちりり……ちりりと鳴く。さらさらと長い金の髪が零れ、細い肩を覆った。菫色の着物の膝にぽつぽつと雨が降り、濃い紫に変じる。大切な人の喪失に泣く少女、それ以外に表現できない光景であった。
 しかし、そのまま敷布に伏せてむせび泣くかと思われた殊姫は、ぐぐっとくぐもった声を喉の奥から発すると目にもとまらぬ速さで大きく伸び上がり、ハクへと襲いかかってきたのだ。本性が竜であり、常から機敏なハクでさえも呆気にとられ意表をつかれ、がたりと背後の襖に押しつけられた。そのまま、ぐっと首を絞められる。小さな手で絞められたところで大した事などないはずであったが、真向かった殊姫の爛々と光る飴色の眸を覗き込んだ刹那、ハクは意識を失った。細い指が確実にハクの気道を圧迫しており、ハクは眠り薬を嗅がされたようにすっと意識に幕がかかるのを遠いところで自覚した。途切れた視界のかわりに、水滴が跳ねる音を強く感じ取った……


 気がつくとハクは、水の上に立っていた。あたり一面は星さえもない闇――広いか狭いかの判断すらつかない闇であった。それでもなんとなく薄ぼんやりと世界が明るいのは、足下に満々と湛えられた水が底から淡く光っていたからであった。
 天に星はなかったが、蛍火がふうわりと瞬いては消え、消えては瞬き漂っていた。まろやかな金や飴色のその光は、小花がひらひらと天上から舞い降りてくるさまに思えた。
 ゆっくりとまわりを見渡す。その仕草にそって、つくかつかないかの足元の水に波紋がゆっくりと広がっていった。
 目を閉じて耳を澄ます。どこからか風が吹いている。遠くから鈴の音が聞こえる。ちりり……ちりり、と。そう自覚した瞬間、その音はハクの背後で高く鳴り響いた。はっと振り返ると、そこには金の髪の娘が立っていた。
『殊姫……』
 横髪を後頭部で纏め清楚に装っていたはずの少女であるが、背後にいる現在の彼女はどこか陰鬱な雰囲気を纏っていた。俯き、髪が乱れて顔を覆い隠しているから余計にそう感じる。
 ざらざらと、どこからか吹いてくる風に靡く髪の隙間から覗く赤い唇が緩慢に開いた。
『わたくしは『殊』の奥にいるモノです。彼女の影です。醜い心の化身です。あの者が恐れていた、そのモノです』
 ハクにはなにがなにやらわからなかった。目を細めて見る。
『あぁ、違いますね。あの者が恐れていたのはわたくしではなくて、あの人間がすべてを思い出す瞬間です。そしてあの者から離れていくその時です。だからわたくしが生まれたのです』
 それともはじめからわたくしはいたのでしょうか……? 娘は乱れきった髪をかきあげようともせず、細い頤に手をやり、口角を持ち上げた。『殊姫の奥にいるモノ』と名乗った娘の言葉は、理解し難いものであった。
『わからない? あなた様も、あの者と同じ行いをしたのに。どうしてわからないのです?』
『同じ行い……?』
『そう、同じこと』
 人間を惑わしてかどわかした。助けると偽って闇に引きずり込んだ――やけに楽しげに、殊姫はそう続けた。ハクは、自分の行いのどれが殊姫の言う『同じ』であるのか悟らずにはいられなかった。
『私は……偽ってなどいないし、闇に引きずり込んだわけでもない!!』
『わからない? それではわかって。すべてを見て。あの者とあの人間を知って、それでも尚わからないと言えるでしょうか……?』
 少女らしくことりと首を傾げながら、殊姫の影は右手をハクに向けて差し出した。それに伴って、ゆるく淡く水面は光り輝き、やがて世界は白一面に覆い尽くされた。ハクはその水に過去が映し出されるのを翡翠の眸で見つめた。


 季節は早春であった。柔らかく緑が萌えはじめようとする山であった。陽射しは暖かくとも、風の先端に冷たい針を含む大気であった。
 登山道を侵食しようとする雑草の勢力もまだ回復していないそこを、ひとりの青年が登っていた。昨今の流行にのって染められた髪は、けれども、若々しいその青年にはよく似合っていた。強い意志を秘めた黒い眸は睨むように頂上を見据えていたが、時折脇に咲く花々を見やっては目を細めていた。心がまっすぐで優しい青年なのだと、その仕草でよくわかった。
 立ち止まって背に負ったリュックから水筒を取り出すと、一口分の茶を喉に流し込む。そして再び歩き出す。頂上を目指して。見送るのは野生の桃、黄色い小山を築く連翹、清楚な白のコブシ。
『けれども彼は、頂上には辿りつけなかったのです』
 なぜ……と、言葉ではなく視線で殊姫の影に問いかけると、ふふっと小さく笑いをもらされた。
『山の主が阻んだからですわ。わたくし達の山の主が』
 この山の主は、美しいものや趣深いものがとても好き。見た目や心根の美しい人間も好き。けれどもそれ以上に、普通の人の子がとても好き。
『永の無聊に人を攫い閉じ込めるなどなんでもないと思ってらっしゃいましたわ。この青年もそうして囚われた者のひとり。けれども主は、よっつの季節にただひとりだけと決めていらしたようですけど』
 それは中年の女であったり、幼い子供であったり、病気を患って死を求めてさ迷い歩く男であったりと様々であった。性の欲望の為に主はそれらを捉えてきたわけではなく、その者達の些細な反応を楽しむ為であった。様々な人生を背負った人の子の一挙手一動作に楽しみを求めていた。性別や年齢や美醜はまったく関係なく神に隠された山の遭難者達。
 過去を映し出す水の上を、殊姫の声が転がり波紋が広がった。
『ちなみにこの青年、この山でいなくなってしまった恋人を捜しに来たそうですの。この意味はおわかりになるかしら?』
 ハクは足元を睨むように見つめる。
『一年前の、山の主の生贄が、この男の恋人だったと言うのか』
『御名答。憐れな者です。恋人を隠しやり奪い去った主に、おのれ自身が囚われるなど誰が思いましょうや?』
 水面の映す光景は、主と思しき者を映し出すと一瞬闇に閉ざされ、ついで別の場所を映し出した。日本家屋の一室。そこには例の青年がいた。どうやら主に連れ去られた後の時間であるらしい。そこに、菫色の着物を纏った少女が現われた。殊姫であった。粥や水差しを載せた盆を手にしている。
「人の子よ、なにも食べずにいてはいけないのでしょう? 脆弱なる人の子は、日に何度も食物を口にするのでしょう?」
 壁に背を預けぼんやりと反対側の壁を見ている青年の傍らに膝をつき、殊姫は小首を傾げた。が、青年はなんの反応もしめさなかった。ただ、口元をきゅっと引き結ぶだけである。
「物の怪に言われたくない。お前だって、あいつの仲間なんだろう?」
 言いたくない言葉を無理やり口にした苦痛に、男の顔がかすかに歪む。放っておいて欲しかった。このまま死なせて欲しかった。今なら、自分が捜した人物がどうなったのか理解ができたらからだ。きっと彼女もこうして囚われたのだ。同じ道を辿りたいと思い、それとはまた違った箇所で、彼女と同じ偶然とも運命とも言える境遇に身を置いた自分がおかしかった。普通に人生を歩んでいれば、こんな怪異に巻き込まれるなど有り得ないであろうに。
 けれどもそう男が口にしたにもかかわらず、殊姫は控えめながら嬉しそうに笑った。なぜなら、男が口を開くまでの小一時間、じっと傍らに膝をついていたからである。
「あぁ、ようやくお話して下さいましたわね」
 呆気にとられたのは男の方だ。自分は彼女を罵る言葉を吐いたのに、殊姫は嬉しそうに笑うのである。薄い金の髪を揺らして。
 この娘は――娘に見える者は、あの『主』と呼ばれる者とは違うのではないかと、男はかすかに思った。
『男の信頼を得たあの者が、男に好意を――それ以上に『恋心』を抱くのは、安易な流れだとお思いになりますかしら? けれども、いつもいつまでも同じ世界に身を置くわたくし達にとって、めまぐるしく変わる人の世や、新しい言葉を紡ぐ人の子は魅力的です。そして、その者の心根が清く、ましてや全幅の信頼をあの者に寄せてくれたとなれば――仕方ないとお思いにならないかしら? あの者は人ではありえませんが、それでも『娘』なのですから』
 場面が再び暗転し、今度は夜の山を手を繋いで駆けるふたりを映し出した。娘は追っ手をかわしかわし、属する山から逃げ出した。そして夜を徹して歩き続け、隠された湖の中へと身を沈めた――
『後は、もうあなた様にはおわかりになっているかと思います。この湖は、こちらの世界への扉でございます。片道通行の、どこに流れるやもわからない、とてつもなく不安定な扉です。ふたりは、天に運を任せ、扉をくぐったのです』
 なんとかこちら側に流れついたふたりは、それから何日も何日もさ迷い歩いて、ようやく町へと辿りついた。そこはこの不思議の町とは別の場所であったが、そこはふたりの安住の地とはならなかった。またしてもふたりはさ迷い歩き、いくつも山を越え森を越え草原を越え、ここにと至る。
『その頃には、男はしっかりとあの者の手を握ってくれておりました。けれども、あの者は逆に不安になったようですわ。なぜなら男は、隠された恋人を山に探しに来て囚われた者です。一途な魂です。その男は、本当に恋人よりも自分を選んでくれたのでしょうか? それは不実ではないのでしょうか? 罪へと――引きずり込んだのだろうかと自問しておりました。それには……男の記憶がこの世界に来た時にどこかで取り落とされてしまったからでもありました』
 男は、自分が誰であるかもわすれてしまっておりました。恋人のこともわすれてしまいました。ただ、逃げているとだけ認識しておりました。
『そんな男にとって、側にいて言葉をかけるあの者を特別な存在だと思うのは、安易な流れだとお思いになるかしら? あなた様はお思いにならないかもしれません、あの者の心が通じた結果だとおっしゃるかもしれません。けれどもあの者にとっては安易な流れでありました。喜ばしい心の裏側で、あの者は後悔しておりました。主の元にいれば、自由はなくとも、男は男のままでありましたのに。たとえよっつの季節だけであろうとも。他の方法を探せもしたでしょうに』
 ふっと水面は暗くなり、油屋内部を映し出した。
『不安で不安でたまりませんでした。終わりある人の子には辛い旅でございましたから、この町に来る頃にはすっかり弱り果てておりました。わたくしは弱い花の精でありましたが、山に属するもの、人にあらざるものでしたから、まだマシだったのでしょう。このまま彼は消えてなくなってしまうのかと不安に思いました』
 そこにあの娘が声をかけてくださいまして、わたくし達は安心できる場所を得ました。人である娘の存在に驚きましたが、彼はなにも気がついてはいないようでした――否、気がつけもしないようでした……
 ハクは、微妙に殊姫の影の口調が変わり始めたことに気がついた。
『ここで彼は身体を治し、また旅に出るのだと思っておりました。けれども、あの人は……熱にうかされているのに……わたくしの名を呼んで……わたくしの名を呼んで……『ハルミ』……って口に……ッ!』
 殊姫は悲鳴にも似た声で名を呼ぶと、両手で顔を覆った。後ろからざばっと風が吹き、髪が煽られる。それはまるで狂女。ぽってりと赤い唇から、少女が叫ぶとは思えないほどの甲高い声が迸った。
『いやぁぁぁぁぁッ! 思い出さないで思い出さないで思い出さないでぇッ!! わたくしのあなたでいて下さい! わたくしだけを見ていて下さい! 過去なんて見ないでッッ!!』
 ゆらゆらと頼りない水面に膝をつき号泣する娘は、正真正銘の『殊姫』であるのだとハクにはわかっていた。これこそが、殊姫があの青年を喰らった理由であるのだとも。殊姫は未来を放棄した。過去を呪って拒絶した。現在だけを愛したのだ。
 ハクにも……わかる気がした。現在だけを愛したく思う。今の、近いような遠いような距離を壊したくないとも思う。今のままであるならば、辛うじて側にいられる、拒絶はされていないのだと安心できる。この位置に甘んじていたいと思う気持ちは、殊姫の思いに似ている。彼女は、逃げ続けたかったのだ、ずっと変わらずに逃げていたかったのだ。安住の地など求めてはいなかったのだ。
 けれども、とハクは思う。未来を放棄し過去を呪った娘のこの憐れな位置にまで自分が落ちるのは許されないと思う。それは、人の娘がけして未来も過去も現在も捨ててはいないからだ。
『殊姫』
 だから、この存在は――目障りだ。だから――質問をする。
『殊姫、そなたはこの世界に――生を求めに来たのか。それとも死を?』
 殊姫は甲高く泣き叫ぶのをやめ、ゆらりと上体を起こした。乱れきった髪の隙間から、無垢な光を宿した飴色の眸が覗いた。
『私の質問に答えてくだされば、願いをひとつだけ叶えよう』
 殊姫はゆっくりと破顔した。柔らかく、清楚な笑みだった。
『わたくしは――……』

   【三】

 ハクは、殊姫の部屋を辞してから、天を訪れた。殊姫の部屋での結果のみを報告し、湯婆婆に苦い顔をされた。それから下へと降り、従業員の勝手口から外へ出て、町へと降りてきた。手には荷物を持っていた。湯婆婆の采配である。
「おんやハク様、お久しぶりですなぁ」
 まっすぐにひとつの店に入ると、そこの店主が先に声をかけてきた。獣耳が頭から生えたその店主は、ぬくい朝日の中に椅子を出してキセルをくゆらせていた。背後ではためく暖簾には『紺屋』と染め抜かれている。
「店主、染み抜きを頼む」
 ハクは風呂敷包みをそのまま店主へと渡した。それを受け取った老年の店主は、にぃっと笑う。
「ハク様が直々においでと言うことは、久々にやりがいのある依頼なんですな? ここ最近、酒やら汁物やら醤油やら、てんでつまらん染み抜きばかりでいやになってたトコですよ!」
 いそいそと風呂敷を解くと、眼鏡を持ち出して品を検分した店主は心底嬉しげに笑った。くんくんと鼻を近づけて匂いを嗅ぐ。
「この色、この臭い、まさしく血ですな。腕がなるわい」
 その品は、金糸で花模様を描いた菫色の着物であった。胸元にぽつぽつと赤黒い花が咲いている。可憐な菫色の世界を乱す花であった。
 ハクは、楽しげに着物を検分している店主を置いて油屋に向かおうとしたのだが、ふと、小物の一角で目をとめた。柔らかなオレンジ色のビーズ細工の髪飾りが目についた。なんとはなしに、昇降機前の裸電球の色を思い出した。

    ◆◇◆

「ハクー、ちょっと止めてほしいんだけど」
 油屋へと帰って来たハクは、帳場の前で千尋にばったりとあった。千尋は廊下の先に視線を頻繁にやり、なにかを警戒している様子であった。壁に背を預け、身体をゆさゆさと揺すっている。落ち着きないことこの上なかった。
「どうかしたのか?」
「どうしたもこうしたもないの! 皆、人臭いのが急に消えたって、わたしのトコに来て人の匂いを確認していくの!」
 みんなにくんくん匂いを嗅がれて、何も言わずに首を傾げて帰られちゃたまんないよ! と千尋はぷりぷりと怒っている。
「まぁ……ここの従業員は、蛙やなめくじがほとんどだけど、鼻自慢の獣も多いから」
 自分の鼻が馬鹿になったのかと不安になっての行動だろうとなんとなくハクには納得がいった。
「けれども、もう大丈夫だと思うよ。殊姫達は、朝早くに出立されたから。そなたに挨拶をと申されていたけれど、どうやら急ぎの旅だとのことなので引き止めても悪いし」
 そなたにお礼を申しておられたよとハクは告げた。我ながら嘘がうまくなったものだと、心の中で自嘲の笑みを浮かべながら。
「コトヤ姫様、もう出られたのね。あの男の人が元気になったってことだもの、喜ばなくちゃ。でね、そもそもその、人の匂いってそんなに匂うものなの?」
 腕をあげて、自分の匂いをくんくんと嗅いでもよくわからない千尋であった。
「するよ、人の匂いが。ここに来てだいぶ経つけど、そなたはやはり人だから」
「……臭いの?」
 眉根をかすかに寄せて、千尋はそう質問した。皆が『人臭い人臭い』と表現するから不安になったのだ。
 ハクは、すっと身を屈めて千尋の首元へと顔を寄せた。
「そなたの匂いしかしないよ」
「だからそれ、どんな匂い?」
「そなたの匂い」
 全然答えになってません、それ。千尋はあきれて嘆息した。その息や髪から香る匂いは、ハクにはとても甘く感じられた。ため息の動作にあわせて揺れた髪が、ハクの鼻先を掠める。思わず視線を千尋の顔に流して、髪の流れる行く先を見た。小さな唇から、甘い香りが惜しげもなく零されている。まるで誘っているように。
『助けると偽って闇に引きずり込んだ』――殊姫のその言葉が、唐突にハクの脳裏に蘇った。ハクはその言葉を振り切るように――目の前にある、淡く色づいた唇におのれのそれを重ねた。自分はけして闇に引きずり込んだわけではないと、千尋に訴えたいかのように。死なせる為にここに連れてきたわけではないと叫ぶかわりに。
「……っ!」
 千尋は目を丸くして、いきなりなハクのその行為にどうしたらいいのかとも考えられず、思考を真っ白に染めた。ぎゅっと目をつむってしまう。ついで、ハクの胸元を手で押し返そうとした。けれども、細身に見えながらもハクの体はびくともしなかった。手の平にハクの熱を感じるだけで、その熱にますます混乱した。背後は壁、前面はハク、その事実を認識しても千尋にはなにもできない。
「んん……っ」
 ハクに口づけられるのもはじめてなら、誰かに口を塞がれるなど経験のない千尋は、息継ぎもできず、ただ苦しげにハクの想いを受け止めるだけであった。それは怒涛のように流れ込み、千尋を真っ白に染め上げて、同じ性急さでもって流れ去っていった。頭の芯がくらくらとした。押し返そうとする手に込める力なんて残っていない、と千尋はハクの衣の胸元を緩く握りしめる。そうしないと膝の力の抜けた自分が倒れてしまうと無意識に感じ取った為に。
 けれどもその行動は、ハクの意識をそらせることに成功した。ハクは自分がなにをしているのかを自覚すると、ゆっくりと唇を離す。すぐそこにある少女の眸は涙に濡れている。驚いたのと息苦しさからの涙であったが、ハクには拒絶の涙に思えた。
「……すまない」
 おのれはこの少女に対して謝ってばかりだと自覚しながら、それでもその言葉しかおのれの内から捜せなかった。
 千尋はなにも言わず、きゅっと唇を噛みしめると、ハクの腕の中からするりと抜け出し廊下の先へと――消えた。
 その後ろ姿を自責の念に胸を染めながら見つめたハクは、ゆっくりと瞼を閉じた。瞼裏に咲くのは、黄色の連翹。ハクの質問に笑いながら
『死にに来たのよ』
 愛していますと囁くのと同じ声色でうっとりと言った、黄色い花のかんばせ。
「連翹の花言葉は『情け深い』と……『叶えられた希望』……か」
 おのれの願いを叶えた情け深い娘は、ハクの心に棘を残した。同じ希望をおのれも選択するのかと思うと、棘がますます深く刺さった気がした。