イノセント

たまらなく憂鬱な一日
【9】




 月に一度の油屋の休日は、秋晴れの中、どことなく暖かな陽射しが世界を包んでいた。
 申し訳程度に植えられた街路樹は、ほんのり秋の色に色付いていた。なにの木やらもわからぬ木のその色は、きっと秋の雰囲気を感じ取って色を変えたのだろうと誰もが思う。それ程に誰もなにも知らぬ木であった。物悲しい中にほこほことした空気が漂うのに茶目っ気をだしたのか、木はその大きな赤い葉を一枚、ひらひらと落とした。そして満足し、そよりと吹いた風に枝をしならせてみた。木は『秋の木』を演じて、楽しそうであった。
 その木の下にある小さな店の暖簾を、ひとりの娘がくぐった。油屋の者がその娘を見れば『帳場の新人』と誰もが言うだろう。すこし前までは『人間の娘』と評されていた娘であったが、この頃はその言葉も言われなくなって久しい。
 とにもかくにもその娘は店内をぐるりと見まわし、壁際にある四人席に座った。机の上に乗っているメニューには『甘味処 辻石』とあり、毛書でつらつらと品の名前が記されていた。
「お客さん、見ない顔だねぇ。そのカッコ、帳場の新人さんかい?」
 お茶を持って来たのは恰幅の良い女であった。その言葉に、町はずれにあるこの『辻石』でも正体がばれるこの服装、なんとかせねばと思うものの、洋装はもう千尋のトレードマークとなっており今更着物を着るのも変な気がしていた。なにより、生まれてこの方着物とは縁遠い現代日本人であったのだ。着物など七五三くらいしか着たこともないのだし、着慣れない物を着てもみっともないだけかとも思う。
 曖昧に頷き茶をすすり、品を注文する。心中で『女将さんが店番だ、良かった』と思う。千尋の探し人が以前言っていた台詞が甦る。
『旦那さんが店番をしている時はやめた方が良い』
 一回目で女将さんに当たるのなら運が良いかもしれないと思う傍らで、ここでならハクに会えるのではないかと思ったのに……と考えると一概に運が良いとは言えないとため息をついた。ここに来る前に、以前用事で行った『紺屋』で髪飾りを買おうと思ったらすでに売れてしまっていた事実もため息の原因であった。まとめてもいない髪のひと房がはらりと肩にかかる。それを後ろに流す気力さえ出てこなかった。
 品物が来る間、ぼんやりと頬杖ついて、この数日間の仕事場の有様を思い出す。なんだかやけに情けなくて泣けて来るものの、このままではいけないとも思うのだ。
 事の起こりは、ハクからのいきなりの行為であった。それを思い出すと、顔面蒼白になるやら真っ赤になるやらで精神的に大変よろしくないので千尋は意識的にそのことは横によけておき、その次の日からの仕事風景を思い出した。と言っても、思い出すほどの事ではなかった。自分はハクの視線から逃げる様に、指導役であるイズの体に隠れ身を縮こませ、精一杯息を殺していたに過ぎないのだから。その時のイズが、冷ややかなハクの視線を受けて内心冷や汗ダラダラだったなんてしったこっちゃない千尋である。ハクもハクでなにも言って来ず、そんな感じで数日が過ぎ、油屋の定休日になってしまったのだ。
「お休みの日に河に連れて行ってくれるって言ってたのに……」
 はっきりとした約束でもないし、それを楽しみにしていたわけではないが、この息苦しい状況を打開できるのではないかと思っていたのだ。けれどもハクはなにも言って来ず、部屋で待っていても来なかった。自室前の廊下をまっすぐ反対側まで歩けばハクの部屋に辿り着くとはわかっていながらも、そうするにはなんとなく躊躇いが胸にある。仕方なしに、ハクの姿を探してうろうろと仕事場内を探してみても見つからなくて、町の彼が行きそうな場所はと考えたらこの『甘味処 辻石』しか思いつかなかったのであった。
 徒然に思い出していると、女将が注文の品を持って来た。白玉入りのクリームあんみつ。木の匙でひと掬いし口に入れると、もやもやとした気持ちの上を甘い餡が覆って行った。
「……おいし」
 甘さ控えめで、餡の柔らかい感触が口にも心にも嬉しかった。添えられた塩昆布を口にすると、その塩加減が胸にじんわりと広がり餡とまじりあって甘酸っぱくなり――とてつもなく泣きたくなった。

   ◆◇◆

 同じ時間、油屋の一角では緊張した雰囲気が漂っていた。建付けの悪い引き戸や、ささくれのある床板で構築されている、女部屋の階である。
「ちょっとちょっとどー言うことなのさ!」
 すこし年増の女中が、いらいらと爪を噛みながら言った。
「折角の休みだってのに、朝からあんなトコにいられちゃぁどこにも行けないじゃないかい!」
「誰かなんかしたの? それであんなトコロにいるの?」
「どうでも良いけどヤメテほしいよ。ここは女部屋だって言うのにさ」
 きっちりと閉めきった女部屋の内部では、住人が息をひそめ顔を寄せ合ってぶつぶつと文句を垂れていた。垂れるしかなかった。なにせ、ここにいる誰も、その原因に面と向かって言葉を放つなど御免被りたかったからである。朝の一番で部屋を出た数人の住人が心底羨ましかった。
 そうして長々と時間が経って行く中、ひとり部屋の隅で本を読んでいた小湯女がもそりと動いた。行儀悪く畳に寝転がって読んでいた本をぱたんっと音たてて閉じると、事も無げに引き戸へと歩いて行き、がらっとそれを開けた。その音にびくりと体を縮こませた他の住人達は、はっと息を飲んでその方向へと視線を向ける。
「ハクサマ……朝からそこにいられちゃぁジャマなんですけど」
 通行人のジャマモノは踏んでいきます、と引き戸の外――冷たい廊下に姿勢良く正座している青年の背後から言葉を向けた。
「ミヤコ……」
 小湯女ミヤコの足元で、くぐもった声がややして聞こえてきた。『踏みますよじゃなくてすでに踏んでいるだろう』とは、通行人のジャマモノの、心中の叫びである。青年の背にはしっかりと小湯女の小さな足が乗っており、軽いとは言え全体重を乗せる様にぐりぐりと踏みつけていた。いくら青年と言っても、前のめりになるしかない攻撃であり、唐突さであった。
「上役を足蹴にするとは……」
 さすがのハクもそれは口にした。下っ端の、十二歳のミヤコに踏まれるとは思ってもいなかったハクである。が、ミヤコは足をどけようともせず、右足をハクの背に乗せたまま腕組みをした。
「ハクサマ、今日がなんの日かご存知? 今日は定休日、仕事じゃないんです」
 上役も下っ端もあるかい、言外に言い切ったミヤコの言葉であった。あきらかにそうであるので、ハクは足の下で更に前のめりになるしかなかった。
「だいたい、どうして女部屋の前にいるんですか?」
 更に踏む足に力をこめつつ、声色だけはすこーしばかり優しげにハクに問いかけるミヤコは、ハクが見ていないと知っているからか、やけに楽しげであった。普段は眠たげな無表情である彼女のやけに楽しそうな笑顔――意地の悪そうな、または腹黒そうなとは、それを目撃した同室の女の弁であった。
「……部屋にいなかったからここに来るかと思って」
「張っていたってわけですか?!」
 甘いですハクサマ、リン姐さんもいないこの部屋では意味ないんですよ、とミヤコはそのハクの言葉だけですべてを察し、そう冷たく言い放った。ハクは今度こそ本当に心の中で突っ伏した。それを見守っていた女達の誰も、ふたりの会話がなんなのかさっぱりとわからなかった。ある意味、もうわかりたくもなかった。

   ◆◇◆

 そんなすれ違いの休日でも、時間だけは容赦なく流れてとっぷりと日も暮れる。
 ふらふらふらふらと帰っていく『天』の下にある上役の階へと続く昇降機前で、ばったりとふたりはかち合わせた。
「あ……ハク」
 姿を見つけた千尋は、目を丸くしてその名を呼んだ。捜しモノは捜すのをやめた時みつかる、そんなフレーズをなんとなしに思い出してしまう。
 ハクも、その呆気なさに驚いた。あんなに邪険にされながらも踏ん張っていた自分は一体なんだったのだろうと頭痛さえも起きそうであった。が、今はそんな事に思考を割かれているべきではない、と口を開こうとした――のだが。
「もーう、ハク! 待ちくたびれたんだからね!」
 と、千尋がいきなりハクの胸元をぺしっと手の平で叩いたのである。その手には、一枚の紙切れが。
「ハク、『辻石』に来るかと思ってずっと待ってたのにこないし! わたし、ハクよりも『辻石』のメニューについて語れるように頑張っちゃったんだからね!」
 もう御飯はいらないじゃないのよっと千尋は疑問符を飛ばすハクをおいて、ひとりで怒っていた。ハクはなにがなにやらよくわからなかったけれど、千尋の手ごとその紙をひっつかみ、ついですべてを理解して、くっと喉を鳴らして――笑った。
「ちひろ……これはいくらなんでもすごいよ……」
 なにげに千尋の手を胸元に寄せながら、ハクは身体を折り曲げて笑った。千尋が持っていたのは『辻石』の請求書、その金額たるや全メニュー制覇に近いのではないかと思われた。
 目の端に涙まで浮かべて笑っているハクを見上げながら、千尋は小さくむくれた。わたしがあんなに落ち込んで、悩んで、怒って、泣きそうにすらなって、ヤケ食いしたのも知らずに笑うなんてちょっとばかし許せないと思う。憂鬱一色に染められた貴重な休日は悲しすぎるし、元々はハクが悪いんだろう、ハクが。
「ハク、その伝票、ハクのツケにしてあるんだからね」
 すこしでも悪いと――あの行為も、本日の約束ともいえない約束を反故にしたこともすべてひっくるめて――思うのなら、どんとこの請求書を受けなさいとばかりに千尋は胸を張った。ハクなら、語らずともその意図は伝わるだろうと思うので。
「あぁ、わかった。私宛にしておいて良いよ」
 眦の涙を拭いつつ、それでもハクはまだ笑っていた。つられて千尋も笑った。数日の鬱屈が嘘のように心の中がからりとした。
「おじいさんの三色団子も忘れてないんだからね」
 だから次の休みには必ず迎えに来てねと言葉の奥に込めて千尋は口にした。もう、今日みたいな憂鬱な一日は嫌だったのだ。
 その言葉にハクは笑いをおさめ、
「すまなかった」
 とやけに真摯に言うので、千尋も笑いを引っ込めてハクの顔を見上げた。翡翠の眸が見ていた。
「でも、後悔はしていないから」
 つかまえられたままの腕を更にぎゅうと胸に抱え込んだハクの言葉の意味が理解できるまで、千尋は茫然として翡翠の眸を見つめ、そして見つめ返されていた。
「……後悔はしなくても良いから、手、離してくれない?」
 見つめ見つめ返されてどれだけの時間が過ぎたかわからない頭でようやく理解が行くと、今度は真っ赤になって腕を振り解こうとした千尋のその仕草に、ハクは再び笑い出す。
 力を込めているようには見えないのにまったくびくともしないハクの手に、千尋は意地になったように腕を動かそうとする。言っている内容と態度が合致していないだろう、と千尋は思った。
「後悔はしなくて良いの? 詫びはしようと思っていたのだけれど」
 千尋の動きの隙をついて千尋の身体ごと胸元へと引き寄せると、ハクは空いている方の腕を懐に入れ中身を取り出し、低い位置にある彼女の前髪を捉えた。そっと手にした物を髪にさし入れる。
「やっぱりよく似合う」
 え? なになに?? と千尋は捕まられていない手でそのあたりをわしゃわしゃと掻き乱すと、ハクがつけたものをはずした。「あ、はずされた」とのハクの呟きはこの際無視である。
 手の中にころんと転がっていたのは、柔らかいオレンジ色のビーズでできた、髪留め。
「これ……」
 オレンジの花からちょこんと覗く葉っぱが二枚。レトロチックな銀細工。
 買っていったのはハクだったのか、との言葉を千尋は飲み込んで、くしゃりと笑顔を浮かべた。なんだ、すれ違いばかりだったけれど、それは、ほんのすこしのズレだったのだ。同じ品に目をとめる、こんなにも近しく感じられるハクとの感性に、なぜだか無性に笑いたくなった。なんだか、馬鹿馬鹿しくもなった。これなら、このオレンジで連想するモノはなーんだ、と問いかけたら『昇降機前の電球』との回答がかえってきそうな予感がした千尋であった。

   ◆◇◆

 翌日、営業時間にセリカとカサネにあった千尋は、ふたりから
「あ、セン様、その髪飾り買われたんですね!」
「可愛い、よく似合ってますよ!」
 と言われてなんとも返答がし辛く曖昧に笑った。
 それを目撃したリンは
『野郎の髪飾り一個目か』
 と心の内で呟いたとかなんとか。