イノセント

未完成騒々曲
【10】




   【一】

 油屋従業員の休みは、月いちの定休日の他に何日かある。部署毎に従業員が日をずらして交代で休むのだ。だからもって、休みであっても同部署の親しい者が休みになることは皆無、別の部署でも滅多にないので、休みと言っても連れ立ってどこかに行くなどできはしない。
 秋も深まった所謂行楽日和の陽射しを窓から浴びながら、千尋は手ぬぐいで髪を包んで
「よしっ」
 と掛け声をひとつ。足元には箒やらバケツやら雑巾、はたき等々の掃除道具一式が揃っている。連れ立って遊ぶ相手もいないのでは掃除でもするしかないではないか。
 はたきをかけ、箒で畳の目に沿ってホコリを掃き、窓と桟を拭いて蒲団を干す。箪笥に飾った一輪ざしの花もかえ、陶器製の恵比寿像を固く絞った雑巾で拭く。と、順当に行けば次の掃除対象は後ろに飾ったクリスタル・ベルであるのだろうが、千尋は雑巾を左手に、右手をベルに伸ばしかけ、そのまま無言でそれを睨みつけた。下手に触ったらぺきっと割りそうなほどに薄いベルに触るのが、はっきり言えば怖い。これをもらったはじめの頃、よくもこれを握りしめて廊下を走るなんぞと言う無茶ができたものだと感心する。
「えぇっとぉ」
 とりあえず、保留。
 逃げているとは思いながらも、次の掃除箇所へと視線を転じた千尋であった。
 蒲団を干している為にがらんとした押入れに頭を突っ込んで、ごそごそと小物の整理。と、千尋は押入れの隅に光を弾く物体をみつけて、更に頭を突っ込んだ。押入れの枠にめり込む様にしてあるそれを指で引きぬくと、それは古い小さな鍵。裏に表にとひっくり返してみても、畳敷きの和室にあるには不釣合いな銅がね色の鍵。蔓と葉が複雑に絡まりあう流麗で古めかしい意匠が施されている。
「これ、どこの鍵なんだろう??」
 和様式に毒されているこの油屋で一番これが似合いそうなのは湯婆婆の住まいである『天』であろうが、湯婆婆の持ち物にしては渋すぎる。と言うか、上品過ぎた。
 千尋は押入れの下段にぺたりと座り込み、ころころと鍵を手の平の上で転がすのであった。


「ハク、こんなの見つけたんだけど」
 翌日の昼間に廊下でハクを見つけた千尋は、なんとなく持ち歩いているその鍵を差し出した。表面が濁っていたその鍵は千尋が磨いた為にぴかぴかになっている。
「これ、どこで見つけたの?」
 手の平より鍵を摘み上げ、前日の千尋と同じ様に裏に表にかえすハク。
「部屋の押入れの中に埋もれてたの」
「そなたの部屋に?」
 ハクはこっくりと首を傾げる。
「なに? なにか知ってるの?」
「いや、この意匠は見たことがあるから。たしか湯婆婆様の部屋にあったと思うのだけど」
 ほら、そなたがこちらに来た日に通したあの応接間にこれと同じ意匠を持ったものがあったのだけど覚えていない? と問われ
「そんなの覚えてるわけないじゃないの」
 と千尋は頬をぷうと膨らませた。そんなにまじまじとなにかを見ている余裕なんてあの時あったと思うのだろうか。自分がさっさとソファに押し倒したくせに。や、たしかにあの部屋に飾ってあった赤いドレスの女の肖像画は夢に見ちゃいそうなほどはっきりと覚えているけど。
「木製の箱が風景画の下に置かれていたよ」
 あんな小さな風景画なんて、肖像画の迫力に押されてアウトオブ眼中だよ、ハク。千尋はその言葉を飲み込んだ。せっかくこの鍵の流麗な意匠と同じ物が目の前にあったのに気がつかなかったのが妙に勿体無かったからだ。千尋もその辺にいる少女と同じ様に、綺麗なものやきらきらしたものが好きであった。その『綺麗なもの』の範疇が、現代少女よりも微妙に渋好みであるだけで、その点はなんら変わりがなかった。
「そう言えば、あれの前面に鍵穴があったような。もしかしたらこれはその箱の鍵かもしれない」
「湯婆婆様、困っていたりしないのかな?」
「さぁ?」
 なにせ湯婆婆様だから、とハクは肩をすくめ、その回答に妙に納得した千尋。と、そこにリンが通りかかった。
「なにしてんだ、お前ら。こんな廊下の隅っこでコソコソと」
 千尋の背後からそうリンの声が聞こえたが、振りかえってみるとそこにリンの顔はなく、かわりに紺色の座布団が立ちはだかっていた。
「おざぶがリンさんの真似っ子してる?」
 さすが不思議の町! おざぶも芸達者! と千尋は目を丸くして感心した。
「あのなぁ、下を見ろよ下をっ! 足が出てるだろう?!」
 陰干しした座布団を山と積み上げたリンは、注意を引くように右足をトントンと踏み鳴らした。
「冗談です、リンさん。抱えすぎだよ、前見えてる?」
「見えなくてもこれくらい勘でわかる」
「あぁ、野生の勘?」
「さり気なく嫌味かそれ、ハクサマ? 邪魔してわぁるかったね!」
 座布団の盾を突き抜けて刺さってくる不愉快げなハクの視線に『野生の勘』で気がついたリンは、腹の奥にその言葉を飲み込むなんて性格でもない。職場の人間関係を円滑に、なんて気持ちは、ことハクに関してはあんまり持っていないリンであった。


「あぁ、確かにあれの鍵だねぇ。どこにあったんだい?」
 営業時間の前、湯婆婆に珈琲を入れに来た千尋が鍵を差し出すと、湯婆婆は無駄に大きな目を鍵に近づけ、千尋やハクと同じ様に鍵の裏表を見た。その動作を見た千尋は『鍵は裏も表も同じだろうに』と自分の行動を棚上げして胸中で思っていたりした。他人の動作なら些細な点も突っ込みの対象になるが、よくよく考えてみれば不思議な動作である。
「だから、押入れの中です。あの箱、なになんですか?」
 書斎に来る前に件の箱を見てきた千尋は、鍵と同様に箱の中身が気になって仕方がない。お膳をふたつ重ねたくらいの大きさで飴色に輝いている木製の箱で、側面に穴が開いていたので更に好奇心が増した。
「あれは蓄音機さ。そんなのもわからないのかい?」
 物を知らない娘だねぇと湯婆婆は揶揄する笑いを口の端に浮かべたが、千尋からすればそんな大昔には生まれてなかったし、である。かわりに『聴いてみたい』と口にした。湯婆婆はそう千尋に言われるとは思ってもいなかったのか、鍵をじいっと見つめてから『それも良いかも』と思った。なにせ、これは自分の祖父の持ち物だ。蓄音機から流れる音楽はきっと趣味のよいものだろう。そう考えると気分がよくなった。祖父の代から趣味が良いのだと知らしめられるからだ。
「それじゃぁ、ちょいっと暇だし、慰労会も兼ねて月見の演奏会でもやろうかねぇ」
 上機嫌となった湯婆婆のその台詞に、千尋は濃い珈琲とともに返答を飲み込んだ。『イベント好きなワンマン経営者』との某管理人の台詞が頭をよぎったからだ。
 ホントだね、ハク。なんでそんなに無駄なイベントを思いつくんだろう。別にイベントにしなくても良いだろうに。

 
「月見といやぁ団子に酒にススキだろ?」
 いきなり立ちあがった『月下の演奏会』と開店の準備の最中、リンはそう言い出した。
「セン、ススキとりに行こうぜ」
 手にはしっかりと鋏と鎌と軍手が存在している。
「鋏と軍手はよいけど、なんで鎌?」
 お前、ホントお嬢様育ちなんだなぁとリンは呆れた。
「ススキは結構頑固なんだぞ。鋏なんかで太刀打ちできるわけがねぇ」
「そうそう。細いのになかなか折れない頑固者」
 そなたと同じだね、とハク。
「さり気なくノロケかそれ、ハクサマ?」
 さぁなんのことやら。本当に通りかかっただけのハクは、そんな台詞を残して廊下の先へと消えて行った。その後ろ姿を見送って、千尋とリンは顔を見合わせる。あの帳場の管理人がそんな無駄な言葉を置いて行けるほど本日は暇なのか。
「まぁ、ダメとも言われなかったから行っても良いってコトだよな?」
 中途半端な肯定の仕方しやがってとリンはぶつくさと零したが、さっと千尋の手をひくと従業員の勝手口へと向かう。
「ススキとお酒はすぐに準備できても、お団子は?」
 うわぁ、ハク、ひそかに喜んでたりするのだろうか。あの甘味大魔王。
「団子は賄場で作らせてるって」
「新人さんが?!」
 うげー忘れてたのに思い出させんなーとリンはうめいた。あの、餡巻きに混ざったダマの感触が鼻の奥に甦りそうだ。
 そうこうしている間に、油屋の裏に広がる草原へと辿りつく。そこは現在見晴ろかすススキの原となっており、空は地平線に近づく毎に淡い秋の色に変わっていた。眠気を誘う春の色とも、重いような軽いような青い夏の色とも、ピンと糸が張られたような冬の色とも違う秋独特の色だ。懐かしい、そう思わせる色に、千尋は目を細めた。赤とんぼが羽音をたてて通り過ぎた。
「不思議。花はのべつくまなく色んな季節のが咲いてるけど、空は確実に秋になるんだねぇ」
 気温もぐっと下がってきており確実に冬へと向かっていたが、庭には梅や櫻や、紫陽花に向日葵なども普通に咲いている。とある一角など、土筆が一年中生えては調理担当者に摘まれ、生えては摘まれを繰り返し料理の材料となっていた。たらの芽もぜんまいも同じであるし、そうかと思えば年中栗の実がなりはじけている樹もあった。
「そりゃそうだろ? 花は咲くのが仕事なんだから一年中咲きもするさ」
 雨が降れば海になるのと同じだろ、それ? とリンはススキを鎌で刈りながらさらりと言った。
「仕事って……。じゃぁここでは仕事をしないでいい存在ってないの?」
 まだそのあたりの理屈が受け入れられないでいる千尋であった。
「お前、ホント暇があればしょうもないコト考えるなぁ。なんにもしないのが『仕事』かもしれないじゃないか」
 あぁそう考えるのか、とリンの回答を聞いた千尋はどこか脱力しながら納得した。どうにもこの世界は奥が深いのか浅いのか曖昧なのかそうでないのか、境界線があやふやだ。
「でも、なんにもしないなんてのが仕事かと思ったら、オレは即行やめるなぁ。なーんにもしないんだぜ、なんにも! ただのんべんだらりと生きているだけなんてそりゃぁ死んでるのとなんら変わりがないじゃないか。オレはそんなのやだね」
 適度に働いてるからたまの休みが楽しいんだし。リンは新たなススキに手を伸ばしてすっぱりと切り落とす。まぁ油屋は『適度』なんて可愛いもんじゃないけど。
「うん。働くのって充実感があるよね。わたしも、なにもしないのが『仕事』だなんて言われたら参っちゃうな」
 勉学を積む経験も楽しかったが、与えられるものよりも自分が考えて働きかけて結果を出す行為は違った意味で楽しい。だから、仕事は重荷ではない千尋であった。

   【二】

 仕事もはねて夜もふけて。ススキも飾って団子も仕上って。酒もめいめいに行き渡って開かれる『月夜の演奏会』に相応しく、夜空には満月ではないがそれなりに太った月が浮かんでいた。みなみなが打ち揃った座敷に恭しく運び込まれたのは、大きな飴色の木箱。重厚でいながら流麗な意匠が年代物であり高額なものであると知らしめていた。湯婆婆は、ほどよく酒の入った従業員達が物珍しそうに身を乗り出しているのに気分を良くし、もったいぶるような大仰な動作で鍵を取り出して前面の鍵穴へと入れて蓋を開けた。隣で待ち構えていた兄役が別の箱から金色に光るハンドルを取り出し、側面の穴へと刺し入れる。朝顔に似た金色のラッパも取りだし取りつけた。ハンドルの入っていた箱から黒いレコード盤を一枚取り出すと湯婆婆へと手渡し、湯婆婆はそれを蓄音機へとセットした。円盤の中央には曲名などは入っておらず、ただ水色のラベルが貼られているだけであった。
「ハク、あの蓄音機、ずっと使ってなかったんでしょう? メンテナンスもしないでまともに聞けるのかなぁ?」
 部屋の隅に座っていた千尋は、隣にいるハクへと問いを向けた。たしかに聞いてみたいと言ったのは自分だが、調整もしないでいきなり演奏会になるなんて思ってもいなかったのだ。ずっと使っていなかった物は痛みやすい。聴くにしても修理なり調整なりを専門者にしてもらってからでないと使えないはずである。対して、ハクは『メンテナンス』なるよく意味のわからない単語を含む千尋の問いに少し考えてから口を開いた。
「あれは魔法使いの品だから、時の流れは関係ないと思うよ。それも、大魔法使いとして名を馳せた湯婆婆様の祖父愛用の品となればそれだけで魔法の品であるのだから」
 その説明に、今度は千尋が考え込む番である。
 そうこうしている間に、湯婆婆はハンドルを回してぜんまいを巻き、針のついたサウンドボックスをレコード盤の上へとそっと置いた。じりじりじりと蓄音機が目を覚ます音が続き、木箱がかすかに震えてレコードを再生させる……筈であったのだが、皆は蓄音機から溢れ出したものに悲鳴をあげてのけぞった。蓄音機のラッパから従業員へと向けて流れ出したのは『水』だったのである。それは水の音を表現したものでもなく、音符の連なりを水と例えた比喩でもなく水そのもの。じゃばじゃばとラッパから溢れだし、座敷を海へと変えていった。
「なんだいこれは?!」
 湯婆婆は慌ててサウンドボックスに手をかけ、レコードを回収した。すると畳を水浸しにしていた噴水は止まり、どう言う仕掛けなのか、確かにあったはずの海さえも消え去ってしまった。
 湯婆婆は手元のレコードのラベルを見た。それはまったく文字も絵も書かれていない普通のラベルで、目も覚める様な水の色。湯婆婆は目を細めて見た。魔女としての視線で見ても、魔法で隠された文字ひとつ見つけられやしない。
「まぁ、こんなものも混じっているだろうさ。なにせお爺様のレコードだし。そうそう、これなら大丈夫」
 と、傍らに兄役が置き去っていた箱から別のレコードを取り出した。ラベルは黄色いラベル。従業員達はレコードをセットする湯婆婆を胡乱な目つきで見た。
「なんだい?! つまらないとでも言うのかい?!」
 湯婆婆は従業員達の視線をひと睨み。従業員達はめいめい明後日の方向へと視線を泳がせた。ある意味、つまらなくないかも。ある意味、でならと思う。
「これはたしかジャズが収録されているはずだよ。お爺様によく聴かせてもらったもんさ」
 が、しかし、そこに収録されていた物がラッパを通して外に流れいで正体をあらわすと、それは壁にかけられていた暦をばたばたと揺らし、従業員達の髪や着物をばたばたと煽る『風』であった。蓄音機の一番前にいた蛙男や湯女が狂風に煽られてごろんと後ろへ倒れ込んだ。下敷きになった者達の叫び声をさらって、尚も風は部屋中を暴れまわった。
 肩で息をしながら湯婆婆はレコードを蓄音機から奪取した。途端に部屋に吹き荒れていた風はぴたりとやんだ。後にはごろごろと転げていった従業員と、山姥のような頭をした湯婆婆。
「間違いさ間違い! こっちがそうさ!」
 すでに意地になったのか、湯婆婆は引き攣った笑顔で新しいレコードを取り上げた。それには真紅のラベルが。それを見た従業員達はげっとうめいて後ずさり。予感的中、ラッパからは炎がごぅっと拭き出て、ざんばらと乱れていた湯婆婆の髪先をちりちりと焼いた。湯婆婆が憤怒の表情で、けれども怒声をあげずにレコード盤を取り上げたのはどう言う心境であろうか。誰も尋ねてみる気にはなれなかった。かわりに、すっかり酔いも醒めた蒼白顔で口々に叫びながらずざぁっと皆は出口へと殺到した。
 そんな様子をひとりさりげなく脇によけたハクに隔離されながら眺めていた千尋は、内心で額を押さえてうめいていた。
『余計な言葉は口に出すべきじゃない』または『余計なものは掘りかえすべきじゃない』
 ことの発端が自分自身にあると千尋は知っているだけに、なんとも言えない気分になるのであった。
 山姥と化した湯婆婆が俯きながら肩を小刻みに振るわせ、最後に残ったレコードへと手を伸ばした。ざんばら髪の隙間から見える目が異様な光を放っている。最後のレコードに貼られたラベルは緑色。三枚のレコードから考えるに、土が溢れるか地震が起きるのか。とても気になった千尋ではあったが、有無を言わさずハクに室外へと避難させられて、結果は闇の中へと消えた。

   ◆◇◆

 その話を後に千尋から伝え聞いた銭婆は呆れた笑いを浮かべてこう言った。
「あたし達が小さい頃あの蓄音機のレコードに悪戯して魔法をかけたこと、あの子はすっかり忘れてるのねぇ」
 地火風水の四大魔法を封じ込めてえらくお爺様に怒られて。あのレコードと蓄音機は封印されていたと思っていたのに、と銭婆は懐かしげな表情になった。
「最後のレコードはなにが起こるの?」
 気になって気になって気になっていたものの、強制的に退去させられてしまった為に知り得なかった最後のレコードの現象。銭婆ならなにが起こるのか知っているのかと千尋は身を乗り出す様にして問いかけた。
「地のレコードは聴かなかったのかい? それは勿体無いことをしたねぇ。火風水のレコードよりも千尋が好きそうな現象だったのに」
 だからなにが起こるの? 焦らすような銭婆の言葉に千尋は握り拳をぶんぶんと振った。
「花が降るのさ。蓄音機のラッパからぱぁっとね! 色とりどりの花の雨が見られるはずだったのに」
 どうせどこぞの竜さんが邪魔したんだろうけど、との銭婆の続きの言葉に、千尋はちらりと冷たい視線を隣の席に座る『どこぞの竜さん』へと向けた。ハクは苦く笑うしかなかった。