イノセント

二度目のKiss 
二個目のName
【12】




   【一】

 謎の三日間臨時休業が終った油屋は、微妙なお祝いムードに包まれていた。その理由は多分に、経営者である湯婆婆の浮かれ具合によるものだ。
「あたしの日向はなんって頑張り屋さんなんでしょ! あたしの元から離れてもこーんなに成長して!」
 子供の顔に巨大な顔をぶつけるようにして頬擦りし、猫撫で声で誉める湯婆婆の姿はここ最近この油屋で見られなかった光景だ。何故なら、湯婆婆の言葉の中にもあるように、彼女の子供であるところの『日向』は親元を離れ、魔法使いに師事していたからである。その日向の突然の帰郷理由は誰にも明かされなかったが、従業員にとっては知らされてもあまり意味がなかったとも言える。彼らにとって重要なのは、湯婆婆が上機嫌である、その一点に尽きるのだから。
「湯婆婆様にあんな小さな子供がいたなんて……」
 もらったばかりのモロミを白米に乗せて口に運びながら千尋が言葉を濁した。その傍らからわらわらと手が伸びて仲良くなった小湯女達がモロミをさらい、あっという間に土産は千尋の目の前から消え去ってしまった。向かい合って沢庵をかじっていたリンはその手を止めてびしっと箸の先を千尋に向ける。
「セン……どうでもいいが、日向サマの父親が誰だとか気味悪い質問だけはやめてくれよ」
 箸先を人に向けるのはお行儀悪いよ! との千尋の言葉を無視して、リンは箸先をぐるぐると回す。うわ、そんなコト絶対考えたくない! と叫んだのは小湯女のカサネだ。彼女の言葉に同意して、コクコクといくつもの頭が上下に振られた。彼女達の手は片時も止まりはしなかったが。
「そんなコト、もう別に考えたりしないよ。ここは不思議の町なんだから」
 日蝕すら気まぐれで起きるこの町に、あの小さな子供と老婆の親子が居てもなんらおかしくないし、その父親が誰でありどんな人物であっても不思議では無い気がした千尋であった。
「そう言やぁ……一時、父親がハクサマじゃねぇかって噂がたったんだよな」
 とのリンの何気ない風を装った台詞に、千尋は口にしかけていた味噌汁を噴きそうになった。話を聞いていた娘達も同様だ。何故なら、彼女達が油屋に勤め始めたのは比較的最近で、昔のいざこざは昔語りとしてしか知らない。その上『噂』は旬の物、あっという間に流れ去ってしまうものだ。
「……味噌汁噴くのは行儀良いのか?」
「……良い訳ないじゃないの」
 ぐいっと手の甲で口元を拭った千尋はなにやら不機嫌で、リンはそれを見てにやりと笑った。非常に楽しそうであった。
「じょーだんだよ、冗談! ハクサマがここに来る前から日向サマはいたんだってさ!」
 じゃぁ一体あの子供は年幾つサバ読みしてるんだとリンが自分で突っ込んでは自分で笑っている。賑やかなことこの上ない。
「話が逸れたけど、ヒムカ様ってどうして湯婆婆様の元から離れていたの? まだあんなに小さな子供なのに」
 千尋の感覚で言えば、ランドセルに黄色いカバーを被せて歩いていてもおかしくない年齢だろうか。向こうの世界ではその様な子供は親元、またはそれに準じた存在の元にいるのが普通であった。自分の『普通』がここの常識ではないとわかっていながらも、その感覚についていけずにいる千尋である。
「あぁ、なんでも、魔法使いとしての修行を本格的にはじめたいって、三年程前にここから出て行ったんだよ。はじめのうちは湯婆婆サマに教えてもらってたらしいけど、なんか『バーバは甘いからダメだ!』とかすっげー口論して飛び出てっちまってなぁ」
 折中案として銭婆の知り合いの魔法使いに弟子入りをしたらしい、とリンは沢庵を再びかじりながら続けた。
「ふーん。あんな小さな子でも、ちゃんと考えてるんだ……偉いなぁ」
「小さい小さいって言うけどな、元はあんなに小さくなかったぞ」
「……は?」
「昔はすげぇでかくってぶくぶくで、可愛げのかけらすらないような赤ん坊でなぁ。性格もあの母親そっくり難有りまくりだし。ソレからアレになったなんてサギもいいところだと世の理の不条理さに首を傾げたくなったもんさ」
 顔を寄せて小声でそう話すリンの言葉の内容に、千尋こそが首を傾げた。
「……ぶくぶく??」
「しかも、湯婆婆サマ並にでかかった」
 相槌とともに付け加えられたリンの言葉に、千尋は半眼になった。話の中心となっている子供は、どうみても普通の子供であって、肥満とか巨大とかとはとんと無縁に思える。しかも帰って来た理由を千尋は知っているだけに、性格に難があるとのリンの言葉が信じ難かった。
 えぇ? あんなに可愛いのに昔はそんなだったなんていやーん、と叫んだのは一体誰であろうか。千尋もリンも考える気力をなくす言葉であった。
「まぁ、その頃は『日向』じゃなくて『坊』って呼ばれてたけどな。ここは『名前』が大きく力を持つ世界だから、『坊』って甘ったれた名前で呼ばれてりゃぁ太りもするだろうけど」
「名前ってそんなに影響があるものなの?」
「あ? まぁな、あるだろな。なにせそう名づけて呼んでいたのが、母親で、しかも魔女だしなぁ。呪いの一種と言えなくもないし」
 まぁあんまり詳しい話なんてわかんねぇけど、とリンは箸を持った手でカリカリと後ろ頭を掻いた。
「五年前にはじめて油屋の外に出た坊サマが、新しい名前をくれって言った時は心底驚いたよなぁ」
 だってそれって、母親の呪いを打ち破るって意味もあるのだからとのリンの言葉の意味は、もう千尋には理解不能の域に達していた。仕方がないので味噌汁の残りを流し込んだ。だしを取った後の煮干しがそのまま具となっていて、千尋はまだそれに慣れられずにぶつぶつと文句を垂れるしかなかった。


「お兄ちゃん?」
「だからそれはやめて下さい日向様」
 書類の束を抱えて『天』より退室した帳場の管理人の足元を、歩幅を合わせる為に回転数を上げて追いかける子供。それを半分無視するようにして下りの昇降機に乗り込んだハクをそのまま追いかけ、日向と呼ばれる子供も乗り込んだ。ガクンと振動し、下降する感覚がふたりを包んだ。
「つれないの。バーバと一緒に魔法を教えてくれたのに」
「なら、お兄ちゃんなどと気持ち悪い呼び方は改めてください」
「なら、お父さん?」
「……言っていて気持ちが悪くないですか」
「……すっごく気持ち悪いぞ」
 下降する低音以上に、なんとも言えない沈黙が男ふたりを包み込んでいた。双方とも第三者がみたならば、この上なく不機嫌で、この上なくふてくされていた。
「日向帰ってきたの、イヤだった?」
 師事する魔法使いより、母親に異常が起こると予言されて帰ってきた日向の行動は、はっきりと言えば予定外であったのでそう考えた子供であった。けれども、うつむいた日向の頭に気安い仕草で乗せられたハクの手に、日向はぱっと上を向く。その時にはすでに手はどけられていたが、日向はにっこりと屈託なく笑った。そして右手をあげ、ひらりと振り下ろす。と、ガコンと音がして、確かに下降していた昇降機が止まった。魔法をこんな所で使ってはいけないとハクは言おうと思ったが、最終的にはやめた。視線をそらさない子供の表情が、やけに真剣であったからだ。
「あの日、さ。セン、日向を見ても全然知っているようなソブリじゃなかったよね。ね、ハク、センって記憶ないってバーバが言ってたけど」
 言葉の足らない日向の話ではあったが、いつの日を指しているのかハクにははっきりとわかった。日蝕の後に日向は一天にいる千尋に気がつき、懐かしさで千尋に飛びついたのだが、彼女は困惑した様子であったのだ。
「この世界の理ですから、仕方がありません」
 上階とも下階とも切り離された一種異空間でのハクが呟くその言葉は、あまり『あきらめ』を含まない物で。日向は笑った。
「ゼニーバが言っていたぞ。一度あったことを思い出せないのは、忘れてしまったわけじゃないんだって」
 ハクはそっとため息をもらした。これは子供の言葉だ。慰めなのかどうかも判別つかない言葉だ。この世界から去る人間には、こちらでの記憶は残らないのだとハクは知っていた。界と界の狭間に陽炎の如く存在しているこの世界の記憶はあまりにも希薄で、それ以上にあちらの世界の自浄作用に打ち消されてしまう。けれどもハクとしては、けして忘れた訳ではないとしてもやはり――思い出して欲しい。自分と彼女の接点のすべてを。思い出して欲しいとは、彼女に言えはしないけれど……言えば、千尋が苦しむとわかっている為に。そしてそれ以上に、過去の記憶があろうとなかろうと、千尋が千尋であるとわかっている為に。わかっているのに、心にあるこの矛盾をハクは止めることができなかった。
「それでも、思い出して欲しいこともあるのですよ」
「そんなのわかってる。日向だって思い出して欲しいんだぞ」
 センと日向は友達なんだから。一緒にゼニーバの家に行ったんだぞと、日向は唇を尖らせた。
「けれども、センはセンじゃないか。五年前のコト、覚えてても覚えてなくても、センはセンじゃないか」
「日向様……?」
 ハクは困惑した。どうしてこの子供は突然こんな話を持ち出したのだろうと思った。油屋に帰ってきたばかりの、今迄の自分も、今の千尋も良く知りはしない、そしてそれ以上に他人の心の機微も世の中も知らない、この子供が。
「ハク、覚えてる? セン、叫んでたろ?」
 覚えてるとか覚えてないとかを通り越して一番不安なのはセンなのに、危ない所に行くべきじゃないよハクは。
 日向は、ハクがあの時寸前で気がついたその事実をぐさりと突いた。
 ハクは目を見張った。驚きで呼吸さえ止まる。この箱の中に居るのは、世を知らない子供だ。ほんの五年前までは『坊』と言う、時の流れに逆らった幼子への呼称で呼ばれ続け、膨大な時の流れと魔力がその器を肥大させていた、物知らずな赤ん坊だった者。だが、子供だからこそ、大人の思惑や建て前などに惑わされずに本質を見抜くのかもしれない。適切な『時』の流れに見合った名を授けられたこの子供は、見た目は元よりも聡明さに長けてもいたのであるし。
「日向は、センがここに帰ってきた理由とか、なにがあったとか全然知らないけど、知らないけど、なんか……多分、不安だよ」
 そんなにハクが揺らいでいたら、きっと。
「バーバが、センを迎えに行ったのはハクだって言ってた。ハクはさ、きっと日向にとってのバーバなんだよ。五年前だって、センはハクの為にバーバの所に来て、頭達に落とされそうになってたハクを助けたり、苦しんでるハクに団子を食べさせたりしたぞ。凄く一生懸命だったあのセンが、あんな声で叫ぶなんて思わなかった。それほどセンにとってのハクは、大きな存在なんだと日向にはわかった。だから、ハクは危ない所に行っちゃダメなんだ」
 ハクはぎゅっと唇を引き結ぶ。
 沈黙が再びふたりを包み、箱は静かに下降をはじめた。

   【二】

「ちょいとハク! あの娘は一体どうしたんだい?」
 日向が帰郷してからのこの二日間上機嫌であった経営者が顔をしかめてハクの前にいた。その目はいつも通り書類に向けられ、手はカリカリと文字を書き込み続けていたのだが、なんとなく不機嫌――と言うよりは、呆れた雰囲気があった。
「どうしたとは?」
「センだよ、セン! 普段からどこかぼさっとした頼りない娘だったけど、あんな失敗はさすがにしなかったよ。珈琲豆の分量を倍にしていれたんだ、渋くって飲めやしない」
 千尋は帳場以外に、仕事始めに珈琲をいれる役も仰せつかっていた。他の従業員は珈琲になじみがなくいれ方もよくわからない為、皆倦厭していたのである。湯婆婆の書斎のある『天』が怖くて近づきたくない、と言うのも理由のひとつではあったが。
「あれはあたしに対する新手の嫌がらせかい?」
 それならまったく豪胆な女だよ、人は見かけによらないねぇと言いつつ、湯婆婆はインク壷に羽ペンの先をひたしてサインをした。指輪でごてごてと飾った右手がにょいっと伸び、大きな判子を掴むと、しっかりと朱肉をつけて書類に判を押す。その一連の動作を見ながら、この湯婆婆に真っ向から嫌がらせをしたとするのなら千尋は本当に豪胆か命知らずだろうとぼんやりとハクは考えた。そのすぐ傍で、彼女がそんな事をできる性格でもないとわかってもいたが。
 まぁ渋くて口の中がイガイガして苦しんだのはセンも一緒だけど、と続けられた湯婆婆の言葉に、まだ千尋と湯婆婆は茶飲み友達をしているのかと頭の片隅で考えたハク。一体湯婆婆の思惑はどこにあるのだろう、千尋と茶飲み友達をしているその理由は。師を心底信用していない弟子であった。
「センは一応お前の管轄なんだから、ちゃんとしてもらわなきゃ困るね」
 配下の様子を把握できもしない弟子や上役は必要ないと言いつつも、本音では『センに対するお前の目は曇り硝子擦り硝子だから言っても無駄か』と諦めていたのだが、それをハクや千尋に告げても意味がないので言わないでいる湯婆婆であった。
 親子共々に念を押されるとはそんなにも千尋は揺らいでいるのだろうかと思う反面、彼女に対する話がすべておのれに来る環境にささやかな幸福感を抱く竜の子の心境を湯婆婆が知れば、頭を抱えてうめくのかもしれない。なんとも相反する思いが入り乱れる書斎であった。
 が、そんな傍迷惑な幸福感なんぞと言うものに浸っていられるほど状況は甘くなかったのである。
 仕事場が同じであるからして千尋の行動はよく目につくのだが、改めて見ているとどうにも様子がおかしい。表情を上座から見ていると指導役のイズがそんなに気を張らなくてもよいと言葉をかけるほどに気負い込んでいるのに、上がってきた書類に目を通すと信じられないようなミスをおかしていたりもした。帳簿を熱心に見ているかと思い声をかけても心ここにあらずと言った調子である。
 そんな中で巻き起こした最大の失敗は、大事な帳簿を茶まみれにしたことであった。帳場の下っ端である千尋は、現代社会では廃れつつある茶汲み当番に必然的に命じられていたのであるが、休憩時間帳場の先輩に湯飲みを手渡す時、うっかりそれをひっくり返してしまったのである。席にあった帳簿はすっかり濡れ濡れて、墨で書かれた文字は判別不能となってしまった。不幸中の幸いは、新しい帳簿に差し替えたばかりでたいして記帳量もなかった点と、帳簿の上で茶を取り扱わないようにとの取り決めを相手が破った点であった。
「ごめんなさい、ガクさん。わたしも手伝います!」
 顔色を変えて謝る千尋の様子に、不幸の巻き添えとなったガクはぶるぶると頭を振って辞退した。ひしゃげた蛙顔がもの凄い早さで振られ冷や汗が飛び散った。その帳簿を任されていた自負と、様子のおかしい千尋に手伝われても被害が広がるだけだと怯えたからであった。そしてガクは隙間風が身に凍みる半地下倉庫にこもり、ひとりで資料の山と格闘して帳簿を元通りにする道を選んだのである。そこにいれば、少なくとも、見まわりに出ていて現場に居合わせなかった帳場の管理人に雷を落とされるのを先延ばしにできるのではないかと言う淡い期待も、たしかにあったのであるが。
 ガクの儚い抵抗も少しは功を成したのか、営業時間が終わりへとさしかかった頃、帳場脇の小部屋へと呼び出されたのは千尋が先であった。
 その小部屋は元々は古い記帳や書類が山積みになっていた部屋であるのだが、資料群のあらかたをハクが自室へと引き上げてしまっている為になんとかふたりが向き合って座れるだけの空間ができていた。けれども、座ってぐるりを見まわしてみればうず高く積まれた古紙の山脈ができており、なんとも息苦しい部屋でもあった。建物のほぼ中間位置にある為に窓もなく、篭った空気は胸に悪く、圧迫感でくらくらとする。しかも現在、千尋の目の前には仕事に手厳しい帳場の管理人が座しており、千尋は説教待ちであるのだ。ぺたんこに擦りきれた座蒲団の上でもぞもぞと足を動かし、膝の上に置いた両手ももぞもぞと動かしうな垂れてしまう。沈黙が痛くて仕方がなかった。せめて、帳場へ通じる薄い板戸が開いていればすこしは雑音も聞こえるだろうに、ハクはぴっちりと戸を閉めてしまっていた。
 と、ようやく重い沈黙を破ってハクが口を開いた。
「千尋、最近様子がおかしいようだけれど、どうしたの?」
 ハクの第一声が、まずそれで。千尋は更に下を向いてくっと唇を噛みしめた。顔をあげるのが恥ずかしい。それでも、ハクが『セン』と呼ばずに『千尋』と呼んでくれたので、なんとか顔をあげてみる。この部屋に呼んだのは上司としてであるのだろうが、話の内容はそうではないらしいので。私事を多分に含んだハクの行いであるのだろうが、今の千尋にはそれがありがたかった。
「わたし……なんか、空回りしてる?」
 ここ最近自問自答していたそれを、ハクにぶつけてみた。誰にもその理由を言えない三日間の臨時休業後の自分は失敗ばかりだ。頑張ろうと決心を新たにしたのに、どうしてこんなに失敗をしているのだろうとずっと思っていたので。
「頑張らなきゃって思ってるのに……なんか、失敗ばっかり」
頑張らなければと思うのに。自分ができる事を精一杯やろうと思い直したばかりなのに。
「そなたは頑張っているよ。どうしてそれ以上に頑張ろうとするの?」
 一生懸命になっているのは知っていたハクである。ただ、彼女が自覚するように、それらが悉く空回っているだけで。ハクは辛抱強く、千尋の次の言葉を待った。
「ヒムカ様……って、母親から離れて、魔法使いの所で修行してるって……聞いて。あんなに小さい子供なのに、なにかになろうと一生懸命で、わたし、負けてるなって思って」
 だから目の前の仕事を一生懸命やろうとした。けれどこの数日すべて空回りしていて。
 ぽつりぽつりと吐き出される言葉はどこか張り詰めたものばかりで、ハクは心の内で小さく息を吐いた。どうにもこうにも、この娘はいまだに強情で、おのれの特異点と言う特質の上に更なるこだわりを付け加えてしまったらしい。急速に、この世界にてひとりで成り立てるようにと、心のどこかで焦りを抱え込んだのではないかとハクは思った。これは千尋が人間である為の心の動きなのか、それとも彼女が彼女である為なのか、ハクに判別などできはしなかったが。どうにもこうにも、ひとりで悶々とする状態には変わりはなかった。
「千尋、そんなに肩に力を入れても良い事などないよ? 千尋ほど帳場の仕事をはやく飲み込めた者はいないのだから、もっと自信を持ちなさい」
 ある意味、前向きでひたむきな千尋の心根は愛すべき気質ではあるが、それも強すぎれば弊害になる。ハクは穏やかな笑みを浮かべてゆっくりと諭していこうとしたのだが、それは千尋に必死な色を湛えた目を向けられて頓挫した。
「だって、ハク、絶対にわたしの傍にいるわけじゃないもの! わたし、ここには頼れる人って……ハクしかいないのに、ハク、あの時……」
 あの時、飛び込もうとしてただじゃない、あの穴に。なにがいるやも知れぬ穴に飛び込もうと。
 千尋は再び下を向き、スカートをぎゅっと握りしめた。
「だからわたし……なんか変で……心のどこか、凄く変で……っ。ハクが飛び降りちゃったら、わたし、ひとりになるんだって思ったら……恐くて――そう思ったら……叫んでて」
 小刻みに震える華奢な体、茶色味を帯びた髪先にまで届く心の揺れ。『悲しき時は身ひとつ』なんて慣用句を覚えていても仕方がないよと千尋が振り絞る様に口にした。
 苦痛にも似た声が、なにかを隠そうとしていた。弱音や、恐怖や、不安――それは、千尋しか知らない、心の闇の切片。その闇を見て、ハクの心もまた闇を抱いた。何故なら彼女のこの闇は、すべておのれが与えたものであるからだ。あちらの世界に居れば、どれひとつ持ち得る必要などなかった恐れ。流れ流れ着いた自分とはまた違った、不安。そして考える。千尋に与える光をおのれは持っているのだろうかと。どんなに小さくても良い、けして消えない光を持ってはいないかと。
「千尋、聞いて」
 身体中に力を込めて小さくなっている千尋の耳元に顔を寄せて、できるだけ驚かさないように名前を呼ぶ。
「そなたに、そんな恐怖や不安を与えてしまったのは、すべて私のせいだ。すまない、と謝っても足りはしないだろう」
 ハクが謝ることじゃないもの。
 掠れた声が、すっかり顔を隠してしまった髪の向こうから聞こえた。
「それに……ハクの謝罪の言葉なんて聞き飽きたよ」
「うん、私はそなたに謝ってばかりだ」
 思わず、ハクは声をたてて笑った。それにつられてか、千尋もふふっと小さく笑った。
「できれば、謝罪なんてものじゃなくて、そなたが安心できる言葉を贈りたいのだけれど……そなたが仕事に一生懸命取り組もうとしているように、私にとってはあれも仕事のうちだから、もう二度と危ない所に行かないとは言えない」
 ゆるゆると緊張を解きかけた千尋の体が、ハクの言葉に反応してぴくりと跳ねた。けれどもハクはそれを無視して、言葉を続ける。
「私の本当の名は――ニギハヤミコハクヌシ」
 耳元で突然告げられた『真名』に、千尋は驚いて思わず顔を上げた。軽々しく扱ってはいけないと湯婆婆から忠告されていた真名を口にしたハクの行為が信じられずに、まじまじとその顔を見てしまった。綺麗なハクと同じ、綺麗な響きの真名がすとんと千尋の胸に落ちた。
「ニギハヤミ?」
「ニギハヤミ……コハクヌシ」
 名を繰り返したハクを、茫然と見つめてしまう。
「すごい名前、神様みたい」
 茫然としたままの頭であったので、するりと間の抜けた言葉が口から出て行き、千尋は唖然とした。自分は一体なにを言っているのだろう?
「あの時と同じことを言うのだね」
 そんな千尋の言葉に、ハクは今度こそ心底楽しそうに笑った。目を細めて笑うとまるで子供みたいだと千尋は思った。
「わたし……あの時……??」
「私がそなたに真の名を預けたのは、これで二度目だよ。一度目の時もそなたは同じ言葉を口にした」
 千尋は、楽しげに笑うハクを不思議なものを見る心地で見た。五年前の話に触れるのはこれで二度目であるからだ。一度目はこの世界に来た初日だとぼんやり考えていると
「そう、あの後はこうやって……」
 と、ハクに前髪を右手でかきあげられて、千尋は固まった。
「おでこをあわせたのだっけ」
 こつんっとあわせられたハクの額の冷たさに、色々な意味で千尋は目を見開いた。なんなのだ一体、このハクのいきなりな行動は。
「あ……あの、ハク?!」
「私を信用してと言えないのが辛いね。けど、私に二度も名を預けられたそなた自身を――どうか信用して? 私は、生命線とも呼べる名を、そなたに二度も預けるのだから」
 両親がいる安定や、おのれを育んだ世界にいる安定や、見知った者が多く存在している安定に比べたら、取るに足らない信用であるかもしれないけれど。ハクは身ひとつでこの界に渡った存在であるから、しっかりと世界に根付いたモノを与えてやれなかった。この心と身体以外になにを与えてやれよう?
 そんな、おのれの不甲斐なさに心の内で歯噛みしているハクなぞ知らぬげに、千尋はわたわたと口を開いた。
「わ……わたしが他の人にしゃべっちゃうとか心配しなくていいの?!」
「とうの昔に名を預けてあるのに、そんな心配をしても無駄だ。それに、そなたは強情だから、言うなと言われれば絶対に言わないだろう?」
 ちなみに返品不可だからねと笑いながら言うと、あわせた額から千尋へと笑いの波動が伝わったのか、千尋は頬を染めてむくれた。
「人の信用を返品するなんて、いくらなんでもしないよ」
「うん。そんな事、昔から知っている。ずっと昔から……」
 ゆるく目を伏せて、昔から、と口にするハクを、千尋は上目で見つめた。長い睫、綺麗な頬の線、白い肌。今まで見た事もない、今は隠された翡翠色の眸。竜の姿も持つ人。この人はわたしを信用している人なのだと考えたら、どきどきとした。そのどきどきが今度はハクに逆流したのか、ハクがふと目を開けた。そしてゆっくりと額を離す。空気が流れ込んで冷たくなった自分の額が妙に寂しいと思っていると、今度は唇の上に熱を感じた。ハクが顔を傾けて、ゆっくりと口づけたのだ。
 ……額はひんやりとしているけど、唇はあったかいな。
 重ねあわせるだけの口づけを受けている間、千尋はそんな事を考えていた。薄い板戸の向こうにはまだ人がいるのだと思い出すだけの余裕はなかったが。前回はなにがなにやらわからぬ内に口づけられて混乱してしまった彼女ではあったが、今日のハクにはあの時のような激しさはなかったので怯えずにすんだ。それでも、身体中に力を込めて固まってしまった千尋の様子に苦笑して、ハクは唇も離してしまう。
 少しばかり名残り惜しくて、千尋は口を開いた。手は無意識に離れていこうとするハクの袖を掴んでいる。
「名前……っ! 前に、わたしがハクの名前を覚えているって言ってたの……」
 口を開けば恥ずかしさで言葉が詰まりかけたがなんとかそこまで言い切った千尋は、それでもハクの腕の中に言葉を落とすように徐々に俯いてしまった。
「本当の名前を、五年前に教えてくれていたから……?」
「五年前も、私の名を思い出してくれたからだよ」
 そのハクの答えに、千尋は顔をあげた。
「だから、そなたはなにもできない訳でも、誰からも信用されていない訳でもないから、不安にならないで……頑張るなとは言わないけれど、焦らなくて良いから」
「……うん」
 恥ずかしさで俯いた頭の上から柔らかな声が降ってきて、千尋はその言葉にほっと息をついた。そうすると、ここ最近耳に入らなかった周囲の音がようやく耳に届いてきた。そして、ここがまだ営業時間の仕事場脇の小部屋であると唐突に思い出して、わたわたと慌てるのであった。

   ◆◇◆

 しっかりと営業時間が終わり、細々とした書類を片付けたハクがようやく自室のある二天に辿りついた昇降機から降りた時、珍しく父役と遭遇した。同じ階に居住しているとは言え、あまりその廊下で顔を会わす事などなかったのである。
「ハク様、今仕事が終わられましたか。お疲れ様です」
父役の手には酒瓶があった。タプンと重そうな水音がする。
「やぁ、こうも月が明るいと寝付けませんでなぁ。寝酒に一杯、なのですよ」
 そうだハク様も一杯どうですか、と父役が珍しい言葉を吐いた。その顔は妙に憂いが深くて、ハクも珍しいことにその誘いに乗って父役の自室へと踏み込んでいた。
 父役の部屋の造りは千尋のそれと同じでこじんまりとした二間続きであった。あちらと違ってこちらは男部屋であったので多少散らかってはいたが、見苦しいほどではなかった。自室の清掃は各自が行うとなっているので、父役の性格からすればすこし意外な気もしたハクであった。
「散らかっておりまして居心地は悪いでしょうが。ささ、こちらにどうぞ」
 障子を開け放した窓の向こうには冴えた三日月が浮かんでおり、差し込む月明かりの下で酒を酌み交わす。喉を通り抜けた酒はハクにとっても強い酒で、父役にしたならばどれほどの強さになるのだろうとハクは思った。
 一献、返す一献と黙って干していると、父役が酒に酔った赤ら顔で口を開いた。
「いやぁ、面目ない。わしの我侭にハク様をつき合わせてしまって」
 やぁ、わしの連れ合いが死んだのが、ちょうどこんな月夜だったものですから、酒の力でも借りなければ寝られもしないのです。と、父役はくいっと酒を喉に流し込んだ。
「そう言えば、奥方が亡くなったのは四年ほど前だったな」
 奥方とか言われるほど上品なヤツじゃぁなかったですよ、と父役は笑いながら頷いた。父役は妻を病気で亡くしてから、小さいながらも構えていた家を売り払い、油屋に住み込み始めたのであった。
「後添いを迎える気はないのか?」
 こんな安月給の男なんぞにくる嫁なんざ嫁ぎ遅れだろうし、仮に来たとしても相手側が可愛そうだと父役が答える。
「それにですなぁ……わしにはあいつが一番似合っておりましたから。それ以上はいらんのですよ。それに……あいつが死ぬ間際にこう言いましてなぁ。『あたしの事なんてさっさと忘れてくれ』って。あいつはその言葉でわしを縛ったんだと思います」
 あいつは気がついてなどいないだろうけれど。
「あいつはわしを心底までは知らなかったのだなぁと。そんな言葉を言われて、ハイそうですかと忘れ去って後家さんを迎えるほど軽い男に成り下がったつもりはないんですよ。あいつが知らない『わし』を、他の女に教える必要なんてないんですよ」
 強い酒に酔ったのか、父役の言葉は段々呂律も回らず意味もわからなくなってきた。けれども、その気持ちはなんとなくわかった気がしたハクであった。
 今後の人生を捧げるのも、真の名を預けるのも、男達にとっては同じ意味を持つのだろう。
 月は冴え冴えとした光を振り撒き、油屋は静かに夜の中へと沈んでいった。