イノセント

竜は熊さんより一枚上手
【13】




 その日ハクは、営業時間前に千尋の部屋で変なモノを見つけて、座ったまま固まっていた。さるぼぼの親戚のような、緑色をした吸盤付きのマスコット。青い腹掛けに『河童』と書かれており、その頭にはフェルトでつくられた皿らしきものがのっている。そんな物体が、例の恵比寿像と並んでいた。ハクが贈った美しいベルの真ん前に、である。
「……」
 木の蓋が外され、壁に立てかけるようにして設置してあるにも係わらず、ベルはその姿を半分も見せていない。妙に寂しくなった帳場の管理人であった。
 その寂しんぼのやや後ろには、部屋の主が控えていた。手を膝の上に乗せて、ぷうとむくれている。
「ハクのカバカバカバ! ちゃんと見てよどカバ!」
 散々な言われようであるが、それがその部屋の主である千尋の口から出た最新台詞だった。仕方がなく、ハクは再び手元の書類に目を落とす。
「何度見ても間違っているものは間違っている。やり直して」
 ここが違うからこことここがずれてくる、と示してやると、それでも納得が行かないのか、膨れっ面を崩さない千尋。ぶつぶつとなにやら明後日の方向に愚痴っている。
「折角頑張ってひとりでやったのに……ハクのカバぁ」
 千尋がハクに見せていたのは、新しく取引を始めた小物問屋専用の帳簿であった。それの作成をイズと千尋に任せたのはひと月前で、この一ヶ月間の帳簿を営業時間前に点検してもらっていたのだ。
「イズにも任せた筈だが?」
 千尋の愚痴の中に聞きなれない言葉をみつけて、ハクは首を傾げた。
「ハク、知らないのね! イズさんってばここ最近体調が悪くて、仕事時間以外はずっと臥せってるのよ」
 薄情者! と千尋は噛み付いた。
「あぁそれでなんだか顔色が悪かったんだな」
 書類の間違いも最近多かったし……と合点がいくハク。そんなハクに、またもや薄情者と千尋が追い討ちをかけた。しかしイズの体調不良の原因が自分達にあるとは思っていないふたりであった。殊姫の一件以来様子のおかしいふたりの間に挟まれたイズは、その数日後に仲直りをした雰囲気を察してほっと息をついたものの心底まで信用できず今の今まで気を張り続けていたらしい。本格的にふたりの関係が良い方向に戻ったと思って安心しかけたところに千尋のミス多発事件が起き、とうとう胃がしくしくと痛むわ腹は下すわの大変な状態になったらしい。
「どカバのハクなんてもう知らない! わたし、今からイズさんの看病に行ってくる!」
 私は河馬じゃなくて竜なんだけどね、との突っ込みは心の中だけにして、ハクは立ち上がりかける千尋の腕を素早く掴んでいた。
「千尋、イズは男衆が看ているだろうから、そなたは行かなくて良い」
「イズさんはわたしの指導係だってハクが決めたんでしょう?! だったらわたしはイズさんの弟子なんだから、看病くらいやりに行きます!」
「だから! イズは今男部屋にいるんだろう?」
「イズさんが女部屋にいたら変よ」
 腕を捕まれているのが嫌なのか、更に機嫌の悪くなる千尋。言葉の端々に棘がでてきた。ハクは内心で頭を抱える。
「男ばかりの部屋に若い娘がのこのこ入っていくのは感心しないと言っているんだ!」
 叫ぶように言い切られたハクの台詞に、千尋は腕を捕まれているのも忘れてきょとんとした顔になった。ついで、捕まれた腕を見て、ハクの顔を見て、また腕を見る。
「皆知っている人ばかりなのに、なにがあるって言うの?」
 心底わかっていない表情で心底わかっていない言葉を口にする千尋に、ハクは心の中だけでなく本気で頭を抱えたくなった。かわりに、掴んでいた腕をくっとひく。すると、少しばかり開いていたふたりの膝が詰まり、真正面から向かい合う形になった。
「私にいらぬ心配をかけさせないでおくれ」
 ここまで言わないとわからないのだろうかと胸中でため息つきつつ、千尋に顔を寄せる。が、ハクの顔から逃げるように千尋は頭をつつつっと後退させた。無意識なのかそうでないのか、どちらにしても少しばかり悲しい帳場の管理人であった。諦めて姿勢を正すと、そろそろと千尋も姿勢を元にもどした。
「ハク、どっちにしても、手、離してくれないと」
 諦めたとは言っても、腕はまだしっかりと掴んだままである。
「では、男部屋に行くなどと言わないね?」
「言わない! 言わないから離してっ」
 その間にも、無理やり振り解こうとぶんぶんと腕を振る千尋。
「けれども、そなたは師匠思いの上に強情だから、信用できないな」
 私の目を盗んで看病に行くのではないのかい? との、腕を振り解こうとする千尋への意趣返し。そう簡単に捕まえた腕を離す気はない竜の青年であった。
 千尋はうう〜と低く唸って、腕を見てハクを見て腕を見た。なんだか今日は、ハクにやられっぱなしな気がする。なんとか驚かせてみたいのだけれど……と腕を見て思う。と、頭に閃いたのは、どこかで読んだ文章。『熊に手を喰われたけれど、手を思い切り突っ込み返したら驚いて口を開けて逃げていったんですよ』との、熊に襲われた老人の言葉。千尋はてやっと心の中でかけ声し、ハクの胸元へと逆に飛び込んだ。
「!!」
 さすがのハクも、この千尋の行動には心底吃驚した。驚いて腕も外してしまう。千尋は心の中でガッツポーズをした。驚いたハクの顔なんて滅多に見られるものではないと知っていたからだ。そして素早くハクの胸元から脱出しようとしたのであるが……敵もさるもの、ショックから素晴らしいはやさで立ち直ると、素晴らしく意地悪げな微笑を浮かべてがしっと千尋を囲むように腕で閉じ込めてしまったのである。


 その後の展開は皆さんのご想像に任せるとしまして。
 ただひとつ、千尋さんが心に刻み付けた文章をひとつご披露。
『竜は熊さんより一枚上手だ』
 普通の従業員なら誰もが知っているその事実を、千尋もようやく思い知るのであった。