イノセント

虹のしっぽを追いかけて
【14】




   【一】

 油屋上階から眺めるススキの原もすっかりと色を深め、ふさふささわさわとそのふっくらした穂先を揺らしていた。遥か彼方に連なる稜線は黄金に紅を過ぎて寝る準備をはじめ様と言うところか。昼は日毎に短くなり、冬の足音が枕辺まで聞こえてくる様な、そんな季節。
 秋晴れの不思議の町商店街を、空色の自転車が一台、すべるように通り過ぎた。ちりりん ちりりんと時折鳴るベルに、隠れていた町の住人が何事だろうと顔を出す。そしてその自転車に乗る人物を認めて、あぁと声もなく納得すると頭を引っ込める。あぁ、帳場の新人さんか、ならなにもおかしいくはない、と。
 その帳場の新人であるところの千尋は営業時間までの短い自由時間に油屋を抜け出して、商店街の裏も裏、端も端にある小さな店へと急いでいた。こんな時にはハクが持ち込んだこの自転車が大層役に立つ、と感謝しながら。
 十日ほど前、遠くの町に出張に行っていたハクが捨てられようとしていた自転車を引き取って担いで帰ってきた時は誰もが驚いたものだ。その群衆の中で千尋ひとりだけが『竜の姿でどうやって自転車を持って帰ってきたのだろう??』との疑問を持ったのだが、あんまり突っ込まない方が良いのだろうと口を噤んだのである。その自転車のどてっぱらには現在、でかい字で『油』と書かれていた。町の修理屋が錆を落とし修理をし、さぁ油屋に配達を、との段階で湯婆婆が自転車の存在に気づき真っ赤なペンキで色を塗り黄色で『油』と書きなと口を出してきたのだが、自転車に乗れる従業員など千尋しかおらず、千尋としてはそんな派手派手しい自転車に乗るなんて真っ平ご免、口八丁手八丁挙句の果てには実力行使と言う嫌がらせでなんとかあの湯婆婆をやり込めたのだ。そして折中案として空色に白字で『油』としたのだが、元からどこか赤っぽい町並みに空色では更に目立ち、内心で『しまった』と思った千尋であった。赤色だったらまだ保護色っぽくて良かっただろうに。しかも、泥除け部分には誰が書いたのか『流星号』とある。誰が書いたのだ誰が、と千尋は額を押さえたくなったものだ。が 、まぁ自転車は一度乗り出すとどこに行くのにも便利なのでもう手放せないなとも同時に思う。従業員の勝手口脇にはすでに『流星号』の駐輪場もできているのだし。
 とにもかくにも千尋は目的の店へと辿りついた。そこは光が入らないように、店の正面の硝子前を大きな日よけですっぽりと覆った奇妙な店だった。覆いの下部には紐が通され、その紐の先には漬物石大の重石。日よけには『三書堂』と書かれている。スカートの裾を蹴っ飛ばすようにして自転車から降りた千尋は、前の籠に入れてあった荷物を抱えると慣れた足取りで日よけの右側に回りこみ店の敷居を跨ぐ。ガラガラと音をたてて踏み込んだ店内の壁側には本棚が置かれ、本がぎっしりとまでは行かないがそこそこ納まっていた。店内の中央にはぼんやりとした電灯が灯っており、本の匂いとあいまって独特な雰囲気を醸し出している。
 千尋は籠から取り出した本を誰もいないカウンターに置くと、奥の本棚へと歩み寄り、適当に一冊取り出してぺらりと開いてみる。中は薄ぼけた写真集で、どこのページを見ても『洋風の部屋』ばかりであった。下に申し訳程度に書き添えられた文字はところどころが擦れていたがちゃんとした印刷文字で、けれどもそれを見て千尋は喜ぶどころか少しばかり顔をしかめる。筆で書かれた文字も苦手だが、平仮名のかわりにカタカナと漢字だけで書かれた文章も苦手だ。しかも漢字は旧字体であるし。どうしてここにある本はどれもこれも一昔調の物なのだろうとうめく。これにはどれだけ経っても慣れられそうになかった。その隣の本も抜き出すと、今度は楽器の写真集らしい。いつぞやの、蓄音機とそっくりな箱の写真も載っていた。ふっと、湯婆婆の『蓄音機も知らないのかい?』との言葉が脳裏に蘇り、なんとなくむっとする。
 とりあえずその本を小脇に抱え、今度は文庫本サイズの棚に向かう。と、そこでよく知った人物とばったり出会った。小湯女のミヤコがそこにいたのだ。
「あれ、ミヤコちゃん? 今日休み?」
 古めかしい皮の装丁がされた本をぺらぺらめくっていたミヤコが、いつもの眠たげな視線を千尋へとやり、こてんと首をかしげる。その仕草もやはりどこか眠たげだ。指は無意識なのか、表紙の金色で書かれたタイトルをなぞっている。
「そうですけど、セン様も本を借りに?」
 千尋は肯定の頷きを返しながら、ひょいとミヤコが手にする本を覗き込んだ。やたらと文字が小さく、難しそうな本である。けれども特に千尋は驚かなかった。読み書き算術などできない者も多いこの不思議な町で、ミヤコは不思議なほど物知りで文字も知っている。これこれこんな本ってない? と聞くと、店主が答えるよりも先に「あれとあれ」と指差すのもミヤコくらいだ。『文章』よりもどちらかと言うと『絵』で構成されている本が多い貸し本屋であろうとも、ミヤコの存在は驚きに価するのではないだろうか。それに、この貸し本屋と言う、千尋には想像もしなかった制度を教えてくれたのもミヤコであるし。
 小脇にどっさりと本を抱えじゃぁお先にと会釈して店を出たミヤコを見送ってから、千尋ははたと財布を籠にいれっぱなしだったと気がついて慌てて表へと飛び出した。なんだかんだと差っぴかれて雀の涙になっている給料の、そのまた雀の涙の自由なお金。誰かにとられでもしたら大変だ。
 と、そこにはまだミヤコが立っていた。じっと一方向を見つめている。
「あれ、阿久津様ですよ」
 本を抱え指さすこともできないミヤコの視線の先を追うと、そこには真っ青な衣を纏った、紺青色の長い髪をした男が油屋に向かってゆっくりと歩いていた。
「阿久津様って?」
 うちのお得意様、とミヤコは短く答える。
「でもどうしたんだろう? あの方、いつも夏前に来るのに」
「どんな神様?」
「東北の小さな山を治められてるそうですよ。あぁ、そう、山の中で一番古い大木の女神様とご結婚されているんです」
 言うなれば職場結婚ですねとのミヤコの言葉に、その眠たげな無表情さとのギャップが激しく、千尋は財布を握り締めたまま思わず笑ってしまった。



 千尋は外出先から戻ってくると、蛇口を捻り、冷たい水をコップに満たす。その中には先に塩が入れられており、それで時間をかけてうがいをするのが日課となっていた。医療技術が発達しているとはお世辞にも言い難いこの世界で、たかが風邪が命取りになりかねないと千尋は思うのだ。しかも自分は、他の従業員達から比べれば自己防御力ともとんと無縁な現代の『人間』だ。雑菌と共存している野生動物が本性である彼らと比べてみれば、なんと自分は『無菌除菌』の言葉に近い生活を送っていたことだろう、と秋も深まりつつある、ある日の朝喉の痛みに違和感を覚えて目を覚ました時に思い知らされた。その日以降、うがいは生活の習慣となっていた。
「うがいと言えばうがい薬かお茶か塩水」
 ある意味うがい薬よりもお茶を薄めた物や塩水の方が効く、との父親の持論が役に立った、と千尋はありがたく思ったものだ。うがいをはじめて以降、喉が痛いと感じなかった。
 塩辛い『水溜り』は存在しているものの『海』と言えば真水の『海』を表すこの不思議の世界で『塩』はどうやって作られるのだろうと、賄場で塩を分けてもらった時疑問に思った千尋は賄場長に質問をしたものだ。現代日本では、極端に言えば『塩』はスーパーの売り場でお目にかかるモノで、次に思いつくのが塩田や岩塩だろう。塩田にしろ岩塩にしろ、大元に『海』の存在がなければ成り立たない。その『成り立たない』に該当するであろうこの不思議の世界の『塩』は、なんと通称『塩のなる樹』の木の実の中に詰まっているのだと言う。このあたりまで来ると理解しようと言う気も起こらず、ただただ感心するやら呆れるやらの千尋であった。
 うがいも終えて、すこしばかり早いけれど仕事前の珈琲いれに行くか……と準備をはじめた千尋の耳に、部屋の扉をたたく音が聞こえた。
「センー、いるかー」
 その声はリンである。扉を開けて招き入れると、もうもう慣れた感じでどっかと座蒲団に座り、にやにやとリンは笑った。やけに楽しそうである。
「なに? なにかいいことでもあった?」
 やけに楽しそう、と言うか、心底楽しそう、と言うか。にやにや笑うだけで本題に入ろうとしないリンを言葉で突つくと、ようやっとリンは口を開いた。
「今さっき聞いた話なんだけどよぉ。セン、阿久津様って知ってるか?」
 それは今しがた耳にした名前であった。
「今油屋にみえてる東北の山の神様なんでしょ? 職場結婚した」
 職場結婚って誰が言ったんだよ誰が、とリンは更に面白そうに笑った。
「で、その阿久津様なんだけどよ、職場結婚の上にすっごい愛妻家でも有名なんだよ」
「はぁ」
 それとリンさんが楽しそうなのと、なにが関係するのだろうと思いながら、適当に相槌を打つ。
「でな、そのオシドリ夫婦の千回目の結婚記念日が今年なんだってよ」
 ますますわからないながらも、千尋はへぇと感心してみせた。千回目の結婚記念日。数えている方も数えている方だが、覚えている方も覚えている方だ。まぁ、多分、千年くらいは軽くこなせるのだろうけど。神様の世界では何婚式と言うのだろう?
「千回目といやぁさすがに神さんでも記念モンらしくてな、奥さんに贈る品のことでバーサンに相談しに来たんだってよ」
「はぁ」
 やっぱりよくわからない。記念イベントをここでやると言うのならともかく――なにせあのワンマン経営者は無駄にイベント好きなのだから――記念の品の相談とは? それがリンの上機嫌とどうつながるのだろう?
「その記念品を選ぶのをリンさんが指名されたとか?」
 考えた末に行きついた予想に、リンは笑い半分迷惑半分と言った表情になった。
「そんな面倒くさいの、絶対にやだね。指名されたのは、ハク!」
「はぁ」
 面倒くさい、そしてそれをハクが指名されたもんでこんなにも嬉しそうなのか、彼女は。なんと説明されるよりもとてもよくわかる理由であった。
「しかもその品がなんと! 『虹の宝玉』なんだってよ。『竜』が『虹の宝玉』とってきて二重に縁起がいいねとかけたいらしい」
「はぁ?」
 相槌とは微妙に違う千尋の声に、リンは語りの口を閉ざした。
「そうか、セン、『虹の宝玉』って知らないのか?」
 いやだから知らないですってばそれって。と言うかわりにぶんぶんと頭を振ってみせる。
「虹の出てるトコロを掘ると、これっくらいの乳白色の石が採れるんだってよ。それが滅多にでない幸運のお守りだってことで、市場で買えばこれくらいの値段がつくんだけどよ」
 大玉のビー玉サイズを指し示したリンの指が、今度は七本立てられる。帳場に携わってこの世界の物価もそこそこわかってきた千尋はその桁を上げるが
「ゼロがふたつ足らない」
 と言われて驚きに声をなくした。千尋が言った金額だって相当なものであるのに、まだゼロがふたつ後ろに並ぶと言うのだ。
「なにそれ、変!」
 思わず言ってしまう。
「だから貴重なんだって。なにせ、虹が出ている間に根元まで行って掘らないといけないんだし。虹が出ている間にそこまで行けるやつなんて限られてるだろ?」
 虹の根元にそんなお宝が埋まってるなんてのもめちゃくちゃだよ、ほんと。この世界はなんでもありなんだ、ほんと。とつくづく思い知った千尋であったが、はたと気がついたのはハクのこと。
「なに? じゃぁハクってばそのすごい難しそうな宝掘りやらされるの?!」


「宝掘りかい! ただ掘ればいいってモンじゃないよ」
 日課となっている湯婆婆との珈琲タイムに話を持ち出してみれば、湯婆婆もリンと同じく心底楽しそうに笑った。
「これから二週間ばかし『虹』が頻繁にかかる時期だけどねぇ、『虹』が出ている時間内に根元まで行って掘り出すなんて、奇蹟に近い荒業だろうさ」
 本業の『宝玉ハンター』と呼ばれる者達は虹がかかりやすい箇所を知っているらしいのだが、それは秘中の秘。よって、売買の値も跳ねあがるらしい。
「阿久津様、正規のルートで購入されれば良いのに」
「バカをお言いよ。このあたしに渡りをつけるってことは、破格の値段で『虹の宝玉』を手に入れたいのさ。なにせあたしでも迂闊に手は出せないモノなのだし」
 あたしもそりゃぁ欲しいけれど欲は言わないよ、魔女は謙虚さ、との湯婆婆の言葉に吹きだすのを必死で堪えた千尋であった。
「けれど、あたしが引き受けたからには、なにがなんでもハクにはその『宝掘り』を成功してもらうからね」


「宝掘り……ね」
 簡単かと言われれば簡単ではないし、気が重くないと言えば嘘になる。となんとも中途半端な感想を述べるのは、宝掘りに抜擢された当事者の言葉だ。
「そんな曖昧な」
 もうちょっと緊張感持ってよ、と余計であろうに口にせずにはいられない千尋であった。とりあえず、話を聞いたリンさんが面白がっているくらいには大変なのだろうから、もう少しぴりっとして欲しい。心配で仕方がないではないか。
「まぁ、なんとかなるでしょう」
 なにせ、この時期は虹がかかりやすい季節だし……と続けられて、千尋は首を傾げた。そう言えば、湯婆婆もそんな話をしていたような。
「ハク、普通虹がかかると言えば雨上がりとか小雨が降っている時であって、乾燥激しい今の時分は珍しいと思うのだけど?」
 けしてないわけではないだろうけど、そんな『これから二週間ほど虹がかかりやすい時期』と表現するようなものでもないだろうに。
「虹の根元に宝玉が埋まっていると言うよりはね、宝玉があるから虹がかかるらしいんだよ」
 さらっと言われた衝撃の事実に、千尋は目が点になった。三人三様の『虹の宝玉』論を聞いたが、これははじめてだ。ハクとしては、その情報の出所が『危ない仕事』繋がりであるとは口が裂けても言えなかったが。どちらにしても、千尋には理解不能な次元の話であった。
「それ、どう言う意味?」
『虹の根元に宝がある』と『宝があるから虹がかかる』では現象としては一緒でも随分と意味も受ける印象も違ってとれるではないか。
「光の屈折でかかる虹もたしかにあるけれどね、今の時期の『虹』は『発芽』なんだよ」
『発芽』以外の『虹』の根元をいくら掘っても『宝玉』は出てこないのだそうだ。と、さらさらさらっと続けられた事実に、もう虚脱する気も起きない千尋であった。

   【ニ】

 そうこうしている間に一週間が過ぎた、少し肌寒い秋晴れの午前、泊り客をお見送りしていた下働きの蛙男の騒ぎ立てる声で事態は動き出した。
「出た! 出た! ハク様、例のヤツです!!」
 その騒ぎに当然帳場もざわめく。朝の分の帳簿に目を通していたハクも頁を繰る手を止め、座を立った。後を頼むとだけ一言言い置いてさっと帳場から立ち去る。その後に、やはり騒ぎに便乗した千尋がトコトコとついて行った。帳場から一番近いのは勝手口ではなく、表玄関である。自然、騒ぎたてながらハクを追いかける団体も表玄関へと流れ込んだ。赤い太鼓橋の上では、虹を見上げてやんややんやと騒ぎ立てる霊々の姿が。
「あ、なんだ、普通の虹」
 こちらの世界の『虹』であり『発芽』云々の枝葉もついていたので、虹そのものもすこし変わっているのかと思えば、なんともない普通の虹であった。二重にかかっているわけでもなく、色が多かったり少なかったりするわけでもなかった。その普通の虹が、からりと晴れた草原の上にかかっている。
「ハク、大丈夫なの?」
 あんまりにも普通なので、実はこれは話半分ほどの大変さなのではないかと思いつつ『とりあえず』の心持ちで声をかけてみると、白い粒子をふりまいて人の姿を解いていく管理人はその質問になんとも物騒な一言だけを置いた。
「夜までには戻れると思うから」
 は? 夜までに? 戻れると思う?
「どー言うコトなのよ、それ?!」
 千尋の叫びは、竜の姿をとると同時に猛烈な勢いで空を翔け出した時に生じた爆風と、それを見て更にやんやと騒ぎたてた霊々や従業員のざわめきにかき消され黙殺された。
 空を見上げれば綺麗な秋晴れ。どんなに目をこらしても、白い優美な姿は点ほどにも見つけられない。もう視覚でとらえられる場所に竜はいなかったのである。その速さは、ハクの飛翔に一番多く係わっているであろう千尋にとっても驚きの速さで。
『って言うか、あれをわたしが乗っている時にやられたら……』
 即死だ。振り落とされるとかの次元でなく風圧だけで死ねる。圧死だ。
『ヤだ。死ぬ時はお蒲団の上じゃなきゃヤだッ!』
 今更ながらに、何がきっかけで死ねるかに気がついた人間の娘は、そんな年にも似合わない願いを強く思ったのであった。
「おぉっ。ハクはもう行っちまったのか?」
 急いで野次馬に混ざり込んだととれるリンが、すでに竜の姿など微塵もありはしない空を眺めた。手には片づけ途中の膳がふたつ抱えられていた。
「うん、あっという間に見えなくなっちゃった」
 出遅れたぁと悔しがるリンに
「見世物じゃないんだから」
 と突っ込めば
「いい見世モンだろ。お客様達も、ほら、あの調子だし」
 どこから取り出したのやら、太鼓橋にまだ留まっていた霊々は扇子を打ち振っていた。やたらと楽しそうである。
「だから見世物じゃないんだからっ!」
 お客様じゃなかったら大声で言ってやりたいところだと胸に納めておける性格でもなく、心の中で叫んだはずのその言葉は外へと向かって放たれていたが、やはり周囲の騒ぎに黙殺されてげんなりとしてしまった。もう一度見上げた空には、ハクが通った後に空気の割れ目のような細い線が一本、白く引かれているばかりであった。
 と、そんなざわめきが一瞬にして鎮火するほどの風が一陣、舞い込んだ。うわっぷと顔をかばった後に視線を戻せば、そこには、ここに居るはずのない姿が突如として現われていた。
「あれ? 銭婆様??」
 風に乗って突然太鼓橋に現われていたのは、なんと沼の底にいるはずの銭婆だったのである。しかも、式に姿を乗せた、どこかぼんやりとした姿ではなく、実体そのモノで。
 周囲の従業員達は経営者が突然現われたのだと思って驚きこそこそと仕事に戻ろうとしたのだが、千尋のその言葉にぴたと動きを止めて耳をそばだてた。なぜに、湯婆婆の姉魔女がここに現われているのだ、あの激しく妹に嫌われている、彼女が。
「あぁ、しまった! この様子じゃぁ、ハク竜はもう行っちまった後かい?!」
「あの、銭婆様?」
 草原の向こうにくっきりとかかる虹を見上げて、銭婆は目をこらしてハクの姿を探す様に視線をさ迷わせた。
「ハクは虹に向かったんですけど、それがなにか??」
 常とは違う、銭婆の慌てた様子に、千尋は眉を寄せた。一体何が彼女に『しまった』と言わしめる要因なのだろう?
「今さっき、あの子からハク竜が『虹』を追いかけはじめたって話を聞いたのだけれど……なんて無茶を!」
 銭婆はぶつぶつと言葉を連ねるだけでまったくその原因を語ってくれる様子がない。
「……追いかける?」
「あぁ、やっぱり知らないんだね! 『宝玉』のとれる『虹』はただの『虹』じゃぁないんだよ! 『宝玉ハンター』がなぜポイントを明かさないか知っているかい? それはね、ハンター達は虹がかかったら『虹』に気がつかれない様に忍び足で根元に近づく為に、ポイントを明かして騒がれない様にしているんだよ!」
「あの……銭婆様??」
 なにやら『虹』に関しては理解不能を通り越した話ばかりが出てきている様な気がするものの、『虹に気がつかれる』とは一体なんなのだ。
「宝を持ってる『虹』には自我があるのさ、なにせ『発芽する』生物なんだから。しかもタチが悪い事に、上空から近寄ってくる存在があったらとことん逃げるんだよ!」
 発芽する『虹』は地と風と光の生物だ、風と光を操って際限なく逃げ回る。いくら竜と言えど瀕死の一歩手前まで振りまわされて遊ばれて終わるのがオチだと銭婆はうめいた。
「あの……瀕死――??」
 だからそれ、悠長な『宝掘り』って次元じゃないじゃないの!!
 しんと静まり返っていた表玄関に、その叫びは黙殺されず響き渡った。
 四人四様目の『虹』論から飛び出したその事実に、さすがに慌てざるを得ない千尋――は、その『事実』云々より、多分それを知っていながらものん気にその役を引きうけた上に緊張感のかけらも持っていないハクへと逆切れ状態である。話を持ち込んだ諸悪の根元の存在など頭からすっかりと吹っ飛んでいた。
「危険なトコロに行くのがいくら『仕事』だって言ってもこれはなんか許容範囲じゃないわ!」
 納得行かない納得行かない納得行かないと、叫んだ後で千尋はぶつぶつ呟く。その異様さに、無責任に騒ぎたてていた従業員達が一歩引いた。
「ま……まぁ、ハク竜なら大丈夫だと思うのよ?」
 竜の飛翔は幻獣の中でもトップクラスだし、追いつけないとわかったら諦めるだろうし。猫なで声で千尋を宥める銭婆も腰が引けている。
「ダメです。ハクはカバなので突っ走るに決まっています」
 そう切り返す千尋の目がすわっていて怖い。銭婆ははっきりと一歩足を引いた。
「あぁ、なら、迎えに行っておやりよ。『虹』が出てこれだけ時間が経っていれば、占いで根元の場所もなんとかわかるだろうし」
 ハク竜が空に軌跡を刻んでいるから、なにもない状態よりははっきりと占えるはずだから。そう繋げた銭婆は胸中で『知ってて黙ってたあの子にも絶対に手伝わせてやるんだから!』と温厚さかなぐり捨てて舌打ちをしながら呟いた。


「いや、知ってはいたけどね、知っては」
 話を断ったらあたしの信用がた落ちなんだから仕方がないだろう、と『天』の書斎で湯婆婆はぶつぶつと呟いているが、目のすわった千尋にぎろりと睨まれて沈黙した。手は本棚の引出しから取り出してきた、綺麗な十個ほどの小石を弾いたり撫でたりしている。その隣では同じ様に銭婆が手札を掻き乱していた。
「それ、この世界の地図なんですか?」
 書斎机の上には古びた羊皮紙が広げられており、地名とおぼしき文字やらが書き記されているものの、見なれない記号に千尋はそれを覗きこんで首を傾げた。部屋の片隅では、日向が『頭』を使って遊んでいる。魔法で強制的に三段重ねにし、柔らかなクッションでだるま落としもどきをしている。飛んで行った一段目は自動的に一番上に乗せられ、順繰りに落ちていくエンドレスな遊びだ。それが視界の端にちらちらとうつって、今の千尋の心境で言えば実に鬱陶しい。
「この世界の全体を書き記しているわけじゃぁないが、まぁそこそこ信憑性のある地図だね」
 と言っている側から、そこに記されていた『町』がひとつ、突然南の箇所に移動してしまった。よくよく見れば、なにかの建造物を示しているらしい記号もじりじりと動いている気がしないでもない。
「あの、なんかこの記号、さっきはここにあったんですけど」
 思わず半眼になる千尋。それを合図にしたかのように『頭』のトーテムポールが魔法で支えきれなくなってどっしんばったんと音たてて崩れた。
「あぁ、『移動する町』が移動しただけだろ? それがなんだって言うんだい?」
 さも『常識をなんだい?!』との湯婆婆の口調に、もう『町が移動したからってどうだ』と考えてしまった千尋は密かに切れ続けているらしい。千尋と湯婆婆の間を取り持つ気にもなれず、銭婆はひたすらに手札を切っては積み上げていた。
 千尋にはまったく意味のわからない作業を暫く双方が黙々と続け、やがて地図の一点を指し示した。それからは頭をつき合わせて
「ここにあたしの知り合いがいるから……」
 とか
「ここまでの移動は――で……」
 とぶつぶつと話し合っている。やがて、順路と手段が決まったのか、湯婆婆と銭婆がまたもや慌しく動き出した。その間にリンは千尋の自室からローブとカバンを持ち出していた。
「それじゃぁ、まずはじめに『これ』で知り合いの魔法使いの家まで送るよ」
 棚の奥から湯婆婆が掘り出す様にして持ち出した壺の蓋をあけながら、銭婆が暖炉を指し示した。その指し示した手には、常には持っていない、細くて短い棒があった。言うなれば、タクトのような、それ。なんですかそれ? ととりあえず聞いてみると
「十三インチ、柊の樹、しならない。ペガサスの羽が一本入っている、あたしの杖だよ」
 と返された。今までそんな魔女らしい道具使っていなかったじゃないですかととても突っ込みたいがやめておいた。なにせその杖で指し示した方がもっと変であったので。
「これ?」
 すでに半眼がくせになっているのか、胡乱な目つきでそのわざとらしい『杖』とその先を見やる千尋。銭婆は引きかける足をなんとか前に繰り出し、杖で暖炉の天辺を突つくと、暖炉を上に持ち上げる様にして杖を動かした。
「おぉ、凄い!」
 魔法だ魔法だ、凄い魔法らしい、とそれを見たリンが声を上げた。五人の目の前で暖炉は縦に伸び上がったのだ。人が中に楽々立てるほどに。
「さぁここにお入り。そしてこの『煙突飛行薬』を一掴み、足元に投げてからこう言うんだ」
 と銭婆は次々と千尋に指示を与えた。とにもかくにも時間がない。千尋は『胡散臭い』との感想は無理矢理横に押しやり、手順を復唱してから、キラキラと光る壺の中身を手に取った。そしてぱっと粉を暖炉の火に向けて投げつける。すると暖炉で赤々と燃えていた火はエメラルド・グリーンに色を変え、ぼわっと音たてて千尋の背丈程に成長した。恐々触れてみても熱くもなんともないので千尋はしのごの言っているのは性格にあわない、と覚悟を決めるとさっさと暖炉の中へと入り込み、明瞭な発音で行き場所を唱えた。
『隠れ穴!』
 すると、ぼんっと緑色の光に包まれて、あっという間に千尋の姿は掻き消えた。
「おぉ、ホントに魔法だ」
 そりゃぁあたし達、魔女だもの。リンのいちいちの言葉に心の中で突っ込んだ双子であった。

   ◆◇◆

 うららかな秋晴れの午前、『隠れ穴』に遊びに来ていた黒髪の少年は、突如暖炉から現われた深緑色のローブを纏った女の人に
「海原電鉄ってどっち?!」
 と尋ねられ、緑色の目を丸くしてぶんぶんと頭をふりながら
「僕、知らない」
 とだけ口にした。ダメか、他をあたろう……と口走りつつ
「ありがとう」
 と言われ
「どういたしまして」
 とその人を見送ってしまう。
「ハリー、誰かうちの暖炉を使った?」
 家の住人である、背がひょろりと高い赤毛の少年が『裏にある表玄関』からひょっこりと顔を出した。
「うん、そうみたい。海原電鉄の乗り場聞かれた」
「煙突ネットワークを使ってきたのに、なんで海原電鉄?」
 さぁ? 観光かなぁ? 
 後には巨大な疑問符を頭にくっつけた少年ふたりが生産されていた。

   【三】

 ようやっと辿りついた海原電鉄で、本数の少ない汽車に間に合い銭婆から持たされた切符を使って乗り込んだ千尋は、ようやくほっと一息つけた。けれど状況を振りかえってみると、まったく息をついていられる状況でもないのだ。実際に後ろを振りかえって、空にかかる虹を窓から窺えば、なぜかぐてんぐてんと空を蛇行して逃げ回っている。
「うっわぁ」
 あの現象がハクのせいだと思うと素直に感心できないし素直に直視できない。珍しいとか凄いとか暢気に言っていられない。ハクのカバカバカバッ! しか感想は存在しない。千尋は窓枠を両手でがっしと掴み、食い入るように虹と竜の追いかけっこを見ていたが、それはあっと言う間に海原電鉄の進路から離れていってしまう。しかも、海原電鉄を逆行していったのである。
「銭婆様と湯婆婆様、耄碌してるんじゃないでしょうね?!」
 占い結果と全然方向が違うじゃないのよっ! と、ふたりが聞けばさすがにひと悶着ありそうな物騒な感想が口をつく。ぱらぱらといた、影で形作られた不思議な同乗人達が、ワケもわからないながらも一歩千尋から遠のく。
 と、肩から斜めに下げていた布製のカバンがごそごそと動いたのに気づき、千尋はカバンをあけた。そこには、なんと、手の平サイズの魔女が。
「……湯婆婆様?」
 カバンから這い出てきたその魔女は銭婆かと思われたが、
『こんっな狭いトコロに押し込めるなんて、なんって娘だろうねぇ!』
 のセリフにそれが湯婆婆であると気がついた。神経質にスカートのドレープや頭髪を直す仕草が大げさだ。
「いえ、どうでもいいですけどなんですか?」
 手乗りサイズ湯婆婆が実は出立前に持たされた『式』であるのだろうとはもう見当がついていた千尋は、なんとも胡乱な目つきでしか彼女を見られないでいた。ドールサイズになっても湯婆婆は湯婆婆だ、かわいいとか思うレベルではないのだし。
「あぁ、次の駅で降りな。次の移動手段の算段がついたから」
「……次の移動手段?!」
 胡散臭い胡散臭い胡散臭い。もう本当にその感想しか出てこない千尋であった。


「胡散臭い!」
 千尋はびゅんびゅんと脇を流れていく風に耐えながら、思わず絶叫した。ばたばたと五月蝿いスカートの裾を押さえ込み、ローブをしっかりと身体に巻きつける。銭婆の言いつけで外した胸元の金釦をひとつ口に放り込んでいるおかげなのか、呼吸だけはなんとか確保できている状態だ。
 海原電鉄から降りてそこに用意された『次の移動手段』は非常に胡散臭かった。いや、とてもとてもそれに類似した『モノ』なら見慣れているし乗りなれてもいたから不思議ではないのだけれど。そこにいたのは、なにせ金色の鳥であったのだから。日向がいつぞや乗っていた、巨大な鳥。
『あたしの日向が世話になっている魔法使いの使い魔だよ。その近くにそいつの家があったもんでね』
 竜の飛翔にゃぁちょいと負けるがそれでも早いさ、一直線に行けば充分なんだから、との湯婆婆の言葉通り確かにはやかった。けれども千尋は同時に、こんな所で『風圧だけで死ねる!』を半分実体験してしまっている。竜にのる場合はハクが魔法で空気の抵抗や風の流れを曲げている為に気がつかなかった殺人的な風圧に、千尋は現在頭を低くして必死に耐えているのである。柔らかな首の羽毛を掴んでいる手がかじかんでしまって、いつ手を滑らせてしまうかとひやひやする。この高さから落ちたら即死か、運が良くても……と考えて、千尋は胸中でぶんぶんと頭をふった。こんなのに乗っていられた日向を改めて別の意味で尊敬してしまったが、彼だって修行中とは言え魔法使いなのだと気がつけば、こんなきちがいじみた手段をさらりと『次の移動手段』と言いきれるこの世界の住人には真の意味でなれないと思う。
『飛行機が恋しい』
 まっとうな移動手段が心底恋しかった。
 しっかりと閉じていた瞼をなんとかあけ、頭をすこうしだけ持ち上げて見てみる遮蔽物のない空には、虹のかけらすらも見当たらない。それでもやがて金色の鳥は速度を落とし、森の真っ只中へとその巨体を滑り込ませた。太陽はすでに中天を過ぎていた。
 なんとかかんとか鳥の背より降りると、体のあちこちが痛いやら冷たいやら感覚がないやらで大変である。いくら鳥さんがふわふわの羽毛を持っていたとしても、あの風圧の中ではあまり足しにはならない。奪われた体温は尋常でなく、疲れ果ててしまった。それでもなんとか森へと踏み込んでみる。なにせ、虹はもう空にかかっておらず、ここにぽつねんと立っていてもなにもかわらないのだし――それに、銭婆が『瀕死の状態になっているだろうねぇ』と物騒な予言をしたのであるし。
 踏み込んだ森は鬱蒼としており、樹高の高く太い樹ばかりが生えていた。手入れなどされているわけがない自然そのままの世界にひとり放り出されているのだと気がつけば、なにやら心細くなる。鳥さんがここにおろしてくれたのならきっとこの付近にハクがいるのだろうとは思うものの、なんの道標もないところは怖い。カバンから『式』を取り出してみても、それはただの薄い紙でしかなく、なんの反応もしめさなかった。
 怒りにも似た感情のままでここまで来てしまったが、改めてここが異界なのだと思い知らされる。否、異界であろうとなかろうと、こんな自然の中に人間がひとり入り込んでもなにもできやしないのだと知らされただけであった。この世界に来て数ヶ月、それなりに色々あったがなんとか今まで生活ができていたので奢っていたのかもしれない。この世界は怖いのだと、あらゆる場面で教えられていたはずであるのに。
「ハク……?」
 自然の中にひとりで存在しているのは、無性に心細かった。鬱蒼とした森のどこかで、ほぅほぅと梟が鳴いて、その声にすら千尋はびくりと身をちぢこませた。
 遭難した時はその場所から動かないのもひとつの手段だとどこで聞いたのだろうか。
「でも遭難したわけじゃないんだし」
 心細くて、つい独り言を呟いてしまう。足は自然に前へ前へと繰り出されていた。そもそもの目的がハクのお迎えであるのだから、自分がお迎えされる立場になってはいけないとの意地がなんとか心細さの奥底に残っていた。金色の鳥がここに自分をおろした、それを信用しなければならない。無闇に他者を信用しすぎるのも愚かであるが、この場面で他者を信用しないのは更に愚かであると思うので。
 千尋は黙々と前進した。意識して、鬱蒼とした緑や、夕焼け色に染まろうとする空を視界から排除する。心細さに拍車がかかってしまうから、かわりに下草だけを見るのだ。やがて、夕方であるにもかかわらず前方の異変に気がついて、ふと足を止めた。木々の隙間から覗く前方がぼんやりと白っぽい気がする。
「なんだろ?」
 下草を蹴りつけるようにして足早に急ぐと、急に樹木が途切れ、斜めに傾く太陽の眩しさに千尋は目を細めた。それ以上に、夕陽に照らされて輝く地面が眩しくて仕方がない。
「白い?」
 地面が白い広場なのかと思ったら、そこはなんと丘になっていて、丘いっぱいに白い花が咲いていた。瞬きをして、目の前に広がる白い花畑を見つめる千尋の髪を、花の上を通ってきた風がさわりと乱して森の中へと抜けていった。後に残ったのは、濃い花の香り。花は背の高い山百合で、それが広々とした丘に咲き誇っていた。
「百合って、群生するって言ってもここまで凄くないと思う」
 圧倒的な光景に、千尋はさすがに言葉をなくした。これもまた、有り得ない不思議の世界の光景。本来、咲くのならば森や山の中に咲く百合がこんな拓けた場所に群生するはずがないのだ。けれど、とても美しかった。夕焼けに照らされて、白い花がオレンジに染まる。その上空をくるくると巡っている風が、花頭をゆっくりとそよがせていた。風が向こうからこちらに吹いてくれば、まるで波のよう。
 そんな中になにやら白い物体を見つけて、千尋は首を傾げた。丘の向こう側に、白い小山が見える。
「なに?」
 夕陽の眩しさに耐えながら目を細めると、なにやら見なれた水底色が見えた気がした。高い山百合の、青々とした葉に見え隠れするその色は……
「鬣?」
 一気に現実に引き戻されて、千尋はなんとも言えない気分になった。一歩花畑に踏み込むと黄色い花粉がぱっと宙に舞ったが、それはさらさらと溶けて消えていってしまう。それを確かめてから、千尋は百合をかき分けかき分け、その山へと前進した。ようやく辿りついた『それ』は、やはり見なれた『生き物』で。
「……」
 なんにも言う気になれなかった。一本の線の様にして突っ伏している犬に良く似た顔の生き物。なんとなしに平和そうに見えるのは夕陽のせいだろうか。実際は『瀕死』状態まで追いかけさせられて精も根も尽きた状態で伸びている竜であったのだが。
「ハク。ハーク」
 揺り起こしてもうんともすんとも言わない白竜。思わず、その鼻の穴をこそばしてやろうかと思うほどに平和そうに見えて仕方のない歪んだ主観で見てしまった千尋であった。
「ハク……」
 なにがなにやら、腹が立ってきた。逆切れでヤツあたりだとはわかりながらも、なんともしようがない感情がぐるぐるしている。千尋はカバンをあけて、銭婆から預かってきた物を取り出した。そしてそれを思いきり良く、ハクの顔の上でひっくり返す。それの――瓶の蓋をあけた状態で、である。
「!!」
 中身が全部落下して、さすがに伸びていた竜も跳ねる様にして起きた。驚きで丸くなった翡翠色の目をきょろきょろと動かす。
「ハク!」
 長い睫毛に引っかかっていた中身――無色透明の水が視界を遮って、ハクにはなにがなにやらわからない。けれど、名を呼ぶ声は、よく知ったもので。ハクは瞼をぱちぱちと動かして、小首を傾げた。はて、おのれはなんでこんな場所にいるのだろう? そんな表情で。
「ハク、ぼけてる?」
 反対側に小首を傾げてみると、そこによく知った姿を見つけた。もうひとつ瞬きをしてみる。それでもその姿は消えなかった。千尋、と口にして、おのれが竜のままであったのだと気がついた。けれど、体中が疲労しきっていて、動きたくない。人の姿に戻るのも億劫だった。
 どうにもこうにも動こうとしないハクに、さすがに千尋はあきれ果てた。もうどうでも良いような気になる。もういいか、とりあえず、無事であったのだし。生きてるし。
「ハク、お迎えに来たの。大丈夫?」
 目の前にしゃがんで、首を地面に長々とのばしている竜の視線に高さをあわせると、ハクが返事のかわりなのか、瞬きをひとつした。
「目的物は見つかったの? 『虹の宝玉』とやらは」
 白竜の周辺は綺麗に咲きそろった一面の山百合畑で、穴を掘った形跡もない。けれどもハクは瞬きのかわりに目を嬉しげに細めて小首を傾げた。そして長い首をすこしだけ持ち上げて、千尋の肩に甘える様に鼻面を擦りつけてから地面を鼻で指し示した。そこには、乳白色の石が一粒、コロンと転がっていて。ハクは自分が竜の姿で口が聞けないことも忘れて口をぱくぱくと動かしているがなにを言っているのやらわからないので、かわりに千尋はその石を拾い上げて夕陽にかざしてみた。夕陽を弾いて虹の七色が踊る。『虹』の発芽とはこの丘一面の百合そのものの……一斉に行われる発芽、そして開花による太陽光の乱反射で虹がかかる――であり、根元と言うのも歪められた話で一番はじめに咲いた花の中に石があるのだとハクは一生懸命に説明するのだが、さすがにその事実すらもこの七色の光を珍しげに覗きこんでいる千尋の前では些末事かもしれない。
ハクは口をぱくんと閉じてからぷるぷると頭を振って水気を飛ばすと、更に甘える様に千尋へと顔を摺り寄せた。この季節はずれの、虹の落し物のような百合を千尋にあげたくてこの話を受けた事実すらも、もう意味をなさないのだろうと思うので。
 ふたりは、この不思議の世界であっても『不思議』の部類に入る虹百合の花園で、夜がくるまで寄り添っていた。