イノセント

夜が噎び泣く
【16】




   【一】

唄を忘れた金糸雀は、うしろの山に棄てましよか。
いえ、いえ、それはなりませぬ。

   ◆◇◆

 界と界の狭間にある、不安定なその世界には、霊々が疲れを癒しに訪れる『湯屋』があった。様々な薬湯、彩り豊かな食事、すこし下世話ではあっても心の底から楽しくなれる楽の音に舞、下にも置かぬ歓待に霊々は満足して現世に帰っていく。
その湯屋『油屋』には、もうひとつの楽しみがあった。女を買い、女と交わる楽しみである。女と交わり身の内に溜まった穢れを排出すると同時に、新しく湧きあがった『力』によって生まれ変わる。その女達を『大湯女』と呼び、役割立場からすれば『霊々の巫女』とも言えるのかもしれないが……望んで大湯女になったわけではないひとりの女が、自嘲気味に口にした言葉の方がしっくりくるのかもしれない。
それは――『霊々の公然娼婦』――慰み者にもならないあたし達は生きているのか死んでいるのか? 

 
 その日、『天』に呼び出されたリンは、重い足を引きずるようにして昇降機から降り立った。経営者から告げられた言葉が、頭の中で飽和していた。営業前の掃除時間、その活気が耳元でわんわんと鳴り、とても五月蝿い。空気が擦れあう音までが鬱陶しくて仕方がなく、八つ当たりだとは思うものの周囲の仲間達に黙れと一喝したくなり、かわりにぐっと唇を噛み締める。
「リン、どうしたのさ。湯婆婆様に呼ばれてたんだろ?」
 昇り専用の昇降機前に突っ立っているリンに訝しげな顔を向けたのは、同期のミノだった。水を捨てに行くところなのか、手には黒く濁った水が入った桶がある。
「あ、いや。なんでもないんだ。もう戻るよ」
 ぼさっと突っ立てたら兄役にどやされるよ! と忠告を置いて足早に廊下の角に消えたミノの後ろ姿を見送ってから、リンは頭をひとつ振った。黒く濁った水が妙に脳裏から離れない。湯婆婆に今しがた告げられた話は、その水を無理やり飲まされるような内容で。
 リンは無性に、綺麗な水が飲みたくなった。涙が出るかと思うほど、冷たく澄んだ水が飲みたくて仕方がなかった。けれども、リンは賄場に向けがちになる足を無理やり自分達の掃除担当区域へと向けた。腹が裂けるほど水を飲んでも、状況も心境も変わるわけがないのだとわかっていたからだ。
 やがて辿りついた二天の座敷で、ちょこちょこと忙しく動き回る小柄な少女を見つけたリンは、ぎゅっと目を瞑って息をひとつ吸い覚悟を決めてからその少女を手招いた。柔らかそうな黒髪を背のなかばで緩く結わえた、幼い顔立ちをした少女の容貌に胸の奥が痛んで仕方がなかったけれども。
「リン姐さん、どうしたんですか?」
 無邪気に自分を慕っている丸い大きな目に、リンは心が挫けそうになる。
「あ……いや、ちょっと話があるから――。セリカ、庭に行かないか?」
 え、でも掃除が残ってる……と心底から困惑した表情を浮かべるセリカは、根が正直者で真面目だ。
「いいんだよ、今日は」
 そして、少しばかり乱暴にセリカの手をひき、ずんずんと庭へと向かって歩き出した。座敷を出て階段を降り、建物内からも出て赤い太鼓橋を渡っても、リンは手を離そうともせず一言も口にしようとしなかった。初めの頃は「話ってなんですか?」「逃げませんから、手、離してよリン姐さん」と無邪気に話しかけていたセリカではあったが、中庭に入る頃には口を閉ざして不安に揺れる目になっていた。
 中庭の中央まで歩き続けたリンは、そこでようやくセリカの手を離した。力を込めすぎていたのか、うっすらと赤くなっている。
 リンはセリカと真向かって、上から下まで眺めやった。小湯女から女中に上がって八ヶ月目。桃色の水干から地味な格子模様の女中着物に変わり、それもようやく板についた頃合だった。湯屋では珍しく、小柄で細い肢体が着物の上からも見て取れる。彼女を知らぬ者が見れば、繰り上げて言っても十三歳になったばかりだと答えるだろう幼い顔立ち。
「セリカ、お前、もうすぐ十四になるんだったよな」
「一週間後に十四になります」
 それがなにか……? 普段はおっとりとした顔が、不安に曇っていた。
「あぁ……一週間後か……そうか、うん」
 リン姐さん? と促された話の続きに、リンは嫌々ながらも口を開く。
「湯婆婆様にな……三日後に、大湯女として客をとれって言われてな」
 お前は明日から女中じゃなくて大湯女の方に掃除にいかなけりゃならないんだ。一度話をしだすと自動的に言葉を連ねていってしまう自分の口が心底嫌になったリンだった。自分は女中の纏役なのだから――女中の上役なのだから――経営者の言葉を下に伝える義務があるのだから――と心の中で無意味に呟く。
「あ……はい、わかりました。はい――」
 一瞬目を見開いてリンを凝視したセリカではあったが、徐々に驚きを微笑に変え、妙にあっさりと承諾した。さっぱりとした笑みであったが、どこか弱々しく痛々しく諦めを含んだものだった。
「そう言う約束だったから……。これでも待って貰った方ですもん。本当はもっとはやく……だったし」
 リンは微笑んでいるセリカに向かって、泣けよと言いたくなった。頼むから泣いてくれと思った。そんな、無理やりな笑顔を作らなくても良いと。けれどもなにも言わず、黙って頷くだけにした。セリカの一生懸命の笑みを、自分の我侭で無駄にしたくなかった。
 水があれば良いのにと思った。今目の前に、溺れるほどに深い泉があれば良いのにと。

   【ニ】

唄を忘れた金糸雀は、背戸の小薮に埋めましよか。
いえ、いえ、それもなりませぬ。

   ◆◇◆

 セリカはその日の営業時間が終わってから、就寝前に荷物を細々と纏め始めた。と言っても、ほとんど身ひとつで奉公に上がる小湯女や女中にはたいした私物品もない。何枚かの着物や手ぬぐい、家族から届いた手紙の束くらいである。
「ほら、あたし、湯婆婆様にはお世話になってるから」
 もうちょっと待ってもらいなよと事情を知る同室の小湯女達が口を揃えて言うのに、セリカはリンにも向けた笑みを浮かべた。
「お世話って言っても……」
 小湯女達はその笑みを向けられ、一様に口を噤んだ。お世話になっていると言っても、実質セリカは油屋に売られたも同然なのだと皆知っていたからだ。彼女達のほとんどは、自分から出稼ぎとして奉公にあがった者が多いのであるが、中にはセリカのように売られるようにして入ってきた者もいた。大概は、親が湯婆婆に借金をし、返金が遅滞して衣や生活道具を押さえられ、最終的に家族を差し押さえられたのだ。そして娘達は借金のかたとして油屋に奉公にあがる。けれども、その中のほとんどの者も、下働きを何年か薄給で勤め上げると借金返済となり、郷里に戻るのが普通であった。
「お世話になってるよ。薬湯用の薬草も分けてもらったし、借金だってずっと待ってもらってたし」
 セリカの場合は状況が悪すぎた。始めは父親が病気になり、その薬代を昔母親の勤めていた油屋で借金したのであるが、父親の病状は良くならなかった。その内薬草を安くわけてもらうようになり一時持ち直したものの、立って歩けるほどにはならなかった。やがて病状は一進一退を繰り返し、今度こそ今度こそと新しい薬草に手をつけ時は過ぎ、いつのまにか借金ばかりが膨れ上がった末に父親は死んでしまった。
 家族の為を思うならはやく死んでしまった方が良かったんだよ。誰にも言わなかったが、これが湯婆婆の本音であった。
「それに、郷に帰っても誰もいないし」
 父親が死んでしまってからの母親は荒れに荒れた。もうその頃には油屋で小湯女として働いていたセリカであったので詳しくは知らなかったが、酒に溺れて呆気なく死んでしまったのだと知り合いに聞いた。
年の離れた姉達は皆嫁いでしまっており、郷には住んでいない。手紙でのやりとりだけの関係になってしまっている。意識してそうしているセリカでもあった。何故なら、実家の借金苦に姉達を巻き込みたくなかったからだ。文の中でだけなら平気なふりをしていられる。心根の優しい娘であった。
「ただ……あんなに毛嫌いしていた大湯女にあたしがなるって知ったら……おっかさん、どう思うかなぁ」
 死に目にも駆けつけなかった薄情な娘の顔なんて、死んであたしがあっちに行っても見たくないかもしれないけどさぁ。セリカはしんみりした座を盛り上げるように明るく茶化して言うと、手早く蒲団に潜り込んだ。


 この世界に来て日が浅い千尋であっても、油屋内についてはだいたいの事柄がわかってきた。誰に説明されずとも、この油屋には『娼館』としての役割があるのだと気がついたのはいつだろう。これがはじめて油屋に来た日、ひとりで部屋の外に出るなとのハクの言葉の意味であるのだと千尋にも理解ができた。当初激しく『人権侵害だ』と憤慨した千尋ではあったが、やがてそれにも慣れてしまった。ただの平社員である自分が健全化を叫んでも画期的な手段を提示できもしなければ相手にされる以前の訴えであろうし、そこに在籍している大湯女達が自分達の境遇を悲観してもいなかったからだ。人によってはこれが天職と言い、霊々を慰められる自分達に誇りを持っていると胸を張って千尋に告げるので、千尋にはもうなにも言えはしなかった。
 けれども、翌日リンからセリカの話を聞き、千尋は再び胸の奥から怒りが吹き上がるのを感じていた。
「リンさん、それでもいいの?!」
「いいわけないだろ? でも、仕方がないことだってあるんだ」
 だってだってあんなに小さな子なのに、好きでもない人と……その……と言葉を濁した千尋に、リンは心中でため息をつく。優しいセン、けれど、優しいだけの存在は無力でもある。それは――自分も同じだけれど。
「それがセリカの契約だったんだよ。これでもなぁ、あのバーサンは待った方なんだぞ? 本当は十三になったら大湯女として働くはずだったのに、あいつ、身体が他の奴らよりちっこいからさ。あんまりにも無理だって今まで待ってもらってたんだから」
 それに、女中のままで何年働いてても借金返せねぇンだよ、あいつ。死ぬまで飼い殺されてようやく返済が完了するくらいだろう、その間にはもちろんセリカには僅かの自由もないだろうし。
リンが苦々しく口にした内容に、借金か……と千尋は呟く。それでは、湯婆婆が一概に悪いわけではないのだろう。そこには同意があるのだから。しかも、セリカには抜け道が幾つかあったのだ。それは、金払いの良い客と良い仲になり後見人となってもらうか、借金を返済してもらうか、それと共に落籍するかであった。けれども、控えめな性格が災いしてそれすらもできなかったのである。
「それでも……なんか、やだよ」
 これが、よく知りもしない娘であるのなら、割り切れなくとももっとあっさりとひとつの連絡事項として千尋の中で処理ができたかもしれない。けれどもセリカは自分にもよく懐いてくれていた少女達のひとりで、性格もよく知っていた。おっとりとして大人しい少女で、笑い声がカナリアのように軽やかで愛らしい。正直者で真面目で、仕事とは言え好きでもない男に身体を開いたり奉仕したりするには不向きなタイプではないかと思うのだ。
「あいつ、愛嬌あるし真面目だからさ……きっと人気者になるよ、うん」
 真面目な神さんに望まれてさっさと落籍するぜ、きっと。とリンが無理やりに笑った。
「そうだといいね」
 あんなに良い娘なんだもの、そうなるといいね。千尋もなんとか笑った。

   【三】

唄を忘れた金糸雀は、柳の鞭でぶちましよか。
いえ、いえ、それはかはいさう。

   ◆◇◆

 リンと千尋が無理やり笑顔を作っている同時間、セリカは大湯女達の部屋へと赴いていた。目の前には大湯女の総纏役であるひな菊が、薄暗い廊下をすべるようにして歩いている。
ひな菊は、大きくくつろげた胸元から白い胸乳を覗かせており、油屋に勤めて長いセリカでもどこに目をやればよいか一瞬迷うほど婀娜っぽい雰囲気の女であったが、顔立ちはと言えば驚くほど平凡であった。ひな菊が大湯女の総纏役としておさまっているのは、ひとえにその機知にとんだ話術や、湯婆婆やハクが一目置く頭の回転の良さである。気立ても良かったので客の評判も上々な女であった。
 増築に増築を重ねた結果、客の目に入らない箇所は複雑怪奇なつくりになっている油屋でも更に入り組んだ廊下の先で、ひな菊がようやく足を止めた。
「ここがあたし達の部屋だよ」
 下働きや小湯女、女中達は、油屋の下層部分にある居住区域に固まっていたが、大湯女は上層部に部屋を持っていた。彼女達の仕事柄その方が都合良く、大湯女達は大概一癖も二癖もある女達であり、わいわいと固まっているのは好きではなかったので必然的に彼らとは隔たった場所に部屋を構えるしかなかった。
 ひな菊が開け放した襖の向こう側には、紫煙がもうもうと立ち込めていた。五名ほどの女達が畳の上にしどけなく寝そべり、煙草や煙管を手にしていた。
「あんた達、こんなになるまで煙草を呑むんじゃないと何回言ったらわかるんだい?」
 ひな菊はそれでも足音もさせず窓辺に向かうと、大きく窓を開け放した。もわりと部屋内の空気が膨張し、外へと白い塊となって押し出されていく。
「新入りが怯えるじゃないか」
 その言葉に、セリカは慌てて頭を下げた。
「今日からお世話になります、セリカです!」
 紫煙にこほりと喉をむせさせつつ言い切ったセリカに、きゃらきゃらと笑いが降り注いだ。やーだカワイイ! その娘があたい達の仲間になるっての、ひな菊さん? まだほんの子供じゃない。胸も尻もこんなに薄くて、霊々を満足させられるのかねぇ。あっちの方なんてきつきつで入んないじゃないの? でもそう言うのが好きなお客サマもいるからいいかもしれないねぇ。ねぇねぇその表情じゃぁおぼこでしょ、どなたがはじめのお客サマになるか決まった?
 セリカは俯いてぎゅっと唇を噛みしめた。涙が零れそうになった。今は身や心を切るほどに恐いと感じるこの言葉が溢れる世界に今から飛び込み、最終的に慣れなければならないのだと思ったら――借金を作った父母が恨めしくなった。それと同時に、自分をひとりおいてさっさと死んだ両親が無性に懐かしくて会いたくなった。
「……頑張りますので、よろしくお願いします」
 そう言うのが精一杯で、後はもう頭を下げたまま動けもしなかった。そんなセリカの背に誰かの手が添えられて驚いて顔をあげると、はじめに笑い声をあげた大湯女がそこにいた。その仕草で、この人達は口ほどに悪い性格ではないのだとなんとなくわかった。彼女達もはじめから大湯女であったわけではなく、その昔はセリカのようになにも知らない少女であったのだ。その時の気持ちを思い出すと、これから仲間になるセリカに少しだけ優しくしようと大湯女達は思った。
 開け放したままの窓の向こうには、やけに高く晴れ渡った青空が見えた。どこにいても世界は世界だし、あたしはあたしだと思ったら、笑みが自然と浮かんだ。不思議だった。


「ねぇハク、どうしてここには大湯女なんているの?」
 個人の性がお金で買われているなんてやっぱり納得できないよ。
いつぞやのように千尋の部屋で帳簿の添削をしていたハクは、ぎこちない筆文字から目をあげて千尋の顔をまじまじと見た。
「えっと……どこかで読んだんだけど……向こうの本だからここでは当てはまらないかもしれないけど、その、ね、そう言う行為で快感があるのは『人』だけなんだって読んだの」
 わたしも詳しくは知らないけど、例えば犬や猫には生殖行為は完全なる子孫繁栄の為に存在しており、人間のようにそれその物に価値を置くほどの、癖になるほどの快感は存在していないんだって。お金で性を買う所謂『娼婦』や『男娼』の言葉も制度もそれに該当する行動も、人間以外には存在していないもの。
「神は人を自分に似せて泥から作り出したのなら神様にもそれってあるんだろうけど……」
 あれは違う国だからここには当てはまらないのかなぁナニ言ってるんだろわたし、と千尋は顔を真っ赤にしながらわたわたと言い募っていた。
「でも、どっちにしても、こんな場所が成り立ってるのなら、少なくとも需要があるってわけで……」
 けど、需要と供給があって同意があって、それで誰かの生活が成り立って、お客様が満足したり救われたりするのだとしても、嫌なモノは嫌だとわたしは思うよ。
「神様達がここでそんな事しなければならない程、あちらの世界って罪深いの? わたし達、神様を蔑ろにしているのかなぁ」
 そのしっぺ返しを大湯女が受けているのだとしたら、やりきれない。
「千尋、セリカの事かい?」
 ハクにとっても慣れてしまった大湯女の存在を千尋の口から聞くと、その一端を担わなければならない立場にある彼ですら痛々しくなってしまう。腹の中に湯婆婆の虫がいた頃はなんとも思わなかった大湯女達であったが、さすがにその後はハクにも思うところがあった。けれども千尋同様、もうどうしようもない問題でもあった。
「新聞でね、発展途上国まで女の子を買いに行くツアーとかがあるって見たの。他の国の人達は相手の事も考えて、十代後半の女の子を買うらしいんだけど、日本人は総じて年齢の低い子を選ぶんだって。その理由がね、年齢が低い方が性病……とか、なってないんじゃないかってコトで」
 自分の身の安全を考えて小さな子供に無謀な行為を強要するのってどうだろう。もちろん、それ以前にそんなツアー自体許したくもないんだけど。
綺麗な顔立ちをしていながらもたしかに男であるハクにこんな話をするのは恥ずかしかったが、これが新聞記事を読んだ千尋の正直な感想だ。
「日本ってね、他の国に比べたら安全だって言われてるの。けどね、そんな『欲』を持った男の人達は確かに日本に存在していて、それの対象にわたし達がならないかわりによその国の子供達が犠牲になっているのって……なんだろうと思って」
 どうして子供を残す行為にそれほどまでして求めてしまうような付加価値がついているのだろう。そんな男の人達にとっては、子供ができる事実自体が後からくっついてくる、一種余計な荷物なのではないか。千尋はよく纏まらない頭でそれだけを考えた。過去に、綺麗でも潔癖でもないと自分を評価していた千尋ではあったが、ハクからすれば十分に潔癖な思考をしていた。
 ハクは緩く笑んだ。苦々しい笑みだった。それらはここで論議しても仕方がない問題で――それ以上に、おのれとふたりきりのこの部屋で、そんな話題を持ち出して欲しくなかった。おのれの心の奥を見透かされているようで、少しばかり恐い。
「確かに金銭でやり取りする交わりはいけないとは思うけれど――それでも、真実はあるのだと思うよ」
 誰かに触れて安堵したい。子を残すとか快楽の為と言うよりは、その安堵を求めている者もいるのだからとハクは思う。神も物の怪もやはり……ひとりきりは寂しい。仮初めでも安堵を得たい。何故なら、目の前の娘に触れて安堵したいおのれがいるのだから。
 だから誤解はしないで欲しい恐れないで欲しいと、ハクは伝えたくて手を伸ばした。まだ心が幼く潔癖な彼女にはわからないだろうと考えると、はやくはやくと追い立てたくもなったけれども。

   ◆◇◆

 リンから話を聞いて三日後、セリカは湯婆婆に呼び出され、新しい契約書に名前を記入した。ついで、釜爺の元へと赴き、椀に入れられたドロドロした緑色の薬湯を、涙を堪えつつ飲み干した。その薬湯は、あまりにも小柄なセリカの身を心配しての湯婆婆の采配でもあった。男を受け入れた経験のない女性器に働きかけ、膣を伸ばす効果があるのである。それで身体の負担が多少なり和らぐのだ。守銭奴で冷酷だと言われる湯婆婆であったが、それだけの配慮はできた。商品を無為に傷つけ金の回収ができないと困るだけかもしれなかったが、セリカには湯婆婆の良心に思えたのだ。なにせ、はじめての相手にと湯婆婆が選んだのは、身元のしっかりした、性格も穏やかだとセリカも知っている神であったからだ。
「セリカ、いつでもここに来ていいからのう」
 従業員の中でボイラー室に出入りする物好きはあまりいないのだが、そのうちのひとりであるリンにひっつくようにして時折ここを訪れるセリカは、もはや自分の孫のようになっていた釜爺である。飲み干された椀を受け取りながら、一本の腕を長く伸ばして背をさすってやる。
「うん。お爺さん、ありがとう」
 一生懸命頑張れば借金もはやく返せるし、そうしたらお姉ちゃん達に会いに行くんだとセリカは笑った。
「一番上のお姉ちゃんにね、子供ができたの。あたし、叔母ちゃんになったのよ」
「それはそれは良かったなぁ。なら、飴玉で喜んでくれる歳のうちに会いに行かんと、ケチ臭い叔母ちゃんだと言われるな」
 そうね、あんまり大きくなってからだと身内だってわかってもらえないかもしれないしね。
 そう言い置いてくぐり戸から出て行ったセリカを見送って、釜爺はふうっと息を吐き出した。
彼女がここを出られるのは一体何年後なのだろう? その頃の彼女はどうかわってしまっているだろう? そう考えると、老人の心も無性に痛むのであった。

   ◆◇◆

唄を忘れた金糸雀は、象牙の船に、銀の櫂。
月夜の海に浮かべれば忘れた唄を思ひだす。

 彼女が、晴れた空に憂いなく羽ばたき、生活の中で忘れ去った唄を思い出すのは、一体いつになるのやら。心の中で咽び泣きながら過ごす彼女の夜は、まだはじまったばかり――……