イノセント

淡水魚の夢
【18】




   【一】

「……」
「……」
 その日千尋は、湯釜を見下ろせる二階吹き抜け部分で、オシラ様と向き会っていた。
 もちもちとした白い肌をしたオシラ様は元から無口で意思疎通はなんとも言えないジェスチャーで行われていたが、それを読み取ることも放棄して千尋はただ立ち尽くしていた。
 手にはビニール袋がひとつ。赤いビニール紐で口をくくった小さな袋の中には満々と水が入れられ、その中にぽつんと入っていたのは……ひらひらとレースのような尾鰭を揺らす、一匹の金魚。
「……」
 宿泊した客の見送りににぎわう朝の油屋で、出立姿のオシラ様に捉まったのがなにの縁なのやら。荷物から取り出された金魚を無言で押しつけられてしまった千尋はどう反応を返せばよいのかとも考えられずにいた。手の中のビニール袋は、金魚掬いで今しがた掬ってきましたと言わんばかりの安っぽい品物で。オシラ様の意図がちっともわからない。
「……」
 無言で混乱している千尋をひとり置いて、むぎゅむぎゅと独特な足音をたてたオシラ様は無言で下り専用の昇降機へと乗り込んだのであった。
 とりあえず、受け取ってしまったのであるからにはこのままではいけないだろうと千尋は思い立ち、賄場へと赴いて硝子の器を借り受けた。桶などにいれても良かったが、折角の可愛らしい金魚なのだから勿体無い気がしたのだ。
 硝子の器に水を入れ、その中にビニール袋ごとつけ、水温が同じ頃になったのを見計らって器に金魚をうつしてやる。そうすると、ビニール袋の中ではじっとしていた小さな金魚は嬉しげに器を泳ぎまわった。
 そんな過程で、現在千尋の部屋には新たな住人が増えており、いつものように帳簿の添削にと部屋を訪れそれを見つけたハクは、先の千尋と同じように無言でそれを眺めていた。ひらひらと金魚が右に動けば右に、左に動けば左にとつられて視線が動いてしまう。
「……」
 なんでまたこんな季節はずれの金魚などが千尋の部屋にいるのだろう? そんな面持ちである。
「千尋……」
 お茶をいれる為にくるくると動き回っている千尋の服装は、なぜか金魚にあわせたかのように赤いスカート姿で。なんの偶然なのか、腰のあたりにはふわふわとしたリボンも結わえてある。ひらひらひらひら、金魚の尾鰭と同じように揺れている、それ。
「この金魚……」
 思わず千尋と金魚を交互に指差してしまう。
「あ、金魚? その子ねぇ、オシラ様に頂いたの」
 なんだか色々色々頂き物が多いね、と言いそうになったハク。オシラ様には以前も『孫の手』をもらっていなかっただろうか? オシラ様と言っても同一人物ではないだろうが、その他にも河童やら恵比寿像やら、黄色い虎やウサギのぬいぐるみやら。千尋の部屋の箪笥上部はそんな得体の知れない物で溢れている。以前は前の方に置いてあった一輪挿しもとうとう姿を消してしまっていた。
「花がなくなっている……」
 とぼんやりと呟けば、
「水場においたの。そこ、溢れているから」
 ……私が贈ったベルが得体の知れない物に埋もれているのだけれど……。姿半分も見えなくなっていたその品は、現在銀色の持ち手の先っぽしか覗いていない。
「……その恵比寿像もオシラ様から?」
「それは違うよ」
 じゃぁ誰から? と聞こうとして口を開ける前に、千尋は湯が沸いたのを察してさっさと水場へと向かってしまいタイミングを逃してしまったハクであった。一体この像は誰からの頂き物であるのやら、いまだもって謎である。
「金魚、頂いたのはいいんだけど、実はちょっと困ってるの」
 箪笥上部の光景に魂が抜けかけていたハクは、そんな、珍しく心底困った千尋の声色で呼び戻された。
「わたし、金魚って三日もたせた試しがないの。だから金魚掬いなんてしないんだけど……」
 どうしたらいいのかなぁ? ねぇ、どうしたらいい?
 そう話を振られても、なにも答えられないハクであった。本当、どうしたらいいのだろうね、それ。


 そんなやり取りがあった上で、最終的にはこまめに水を替え、適量の餌を与えるとの点で落ちついたその日の営業時間終了後、千尋は寝る支度を済ませてから金魚の器を覗きこんでいた。小さな身体に、ふわふわと大きな尾鰭を持った、可愛らしい金魚である。楽しげに水中を漂っていて、本当に可愛らしい。夏の残り香のような赤に透ける小さな鱗。
ハクは竜で、昔は河を治めていたのだと言う。水中に住まうのはどんな気分だろうかとふと思った。すべてが水に囲まれた、青い世界。それはとても素敵に思えた。
「水の中ってどんな気分?」
 ちょんと指先で器を突つけば、ひらひらと尾鰭を震わせて泳いでくる。
「わたしも水の中で暮らしてみたいなぁ」
 まぁそれはこの不思議な世界でも無理なんだろうけど、と千尋はひとりで納得して、眠る為に照明を消したのであった。
 ひらひらひらひら、金魚だけが眠らずに夜の水を泳いでいた。

   【ニ】

「……」
「……」
 夜の営業時間も忙しいが、泊まり客をお見送りする時間だってそれなりに忙しい帳場。その中で、欠かせないのは帳場の管理人の存在だ。出張でない限り、朝も夜も帳場にいるハクの姿はなんら珍しい物でもない。けれどもその存在を、じっと――まるで凝視しているとも表現できるほどにまじまじと見つめて帳場出入り口に突っ立っているのは、これまた帳場にいてもおかしくない存在で。双方とも部屋の隅と隅に立ちながらも無言で向かいあい、なんとも奇妙な空気が流れている。
「どうした、セン? そんなところにいないで座りなさい」
 はて、千尋は今日朝番にあたっていただろうかと不思議に思うけれど、そんな所に突っ立っていては帳場の出入りが滞る。そう思ってなんとか上座から声をかけるものの、千尋はきょとんとしたままこちらをじっと見るだけで。なんだか様子がおかしい。
 そのうちにとことこと上座まで歩いてきて、身を屈めてまじまじとハクの顔を覗き込みはじめた。
「あの、セン?」
 なんだなんだどうしたんだ。どうして今日に限ってそんなにまじまじと見つめてくるのだろう。おのれが頭を後退させなければとっくに柔らかい頬が触れているほどに顔を寄せて、まじまじと。
「どうした? 熱でもあるのか?」
 熱心に見つめてくるわりにはやけにとろんとした表情だ。ここが帳場でなければ――帳場であってもまわりに誰もいなければ、顔を寄せられているのをいいことにおでここつんと熱を測ってやるところだけれど、生憎とここは帳場、そして従業員がなんだどうしたとこちらを見ている。仕方なく手を伸ばし千尋の額に触れると、自分よりもすこし高い熱を感じるが発熱しているほどでもなく。けれどもその行動に、今度は千尋が新しい反応をしめした。とろんとした表情のままふにゃりと笑い――腕を伸ばしてハクの首に抱きついたのだ。
「うわぁ、気持ちいい」
 なんぞと嬉しげに言いながら。


「ハク、お前一体センになにをしたんだ??」
 朝の仕事も一段落した昼休み。おもしろ半分、困惑半分、疑惑半分の複雑な表情で、廊下でばったりと出会ったハクを眺めているのは女中のリンだ。その視線はついつい目の前の人物からその背後へと流れ気味になる。早い話が、そこに張りついている、かつての妹分に。
「私はなにもしていないぞ」
 そう生真面目な表情でのたまうハクに、リンは胡乱な視線を向けた。なにもしていないだって? じゃぁなんでセンがお前の背中にぺったりと頬を押しつけてくっついているんだよ。しかも、心底幸せそうな、ほにゃほにゃ笑顔で。
「……餌付けでもしたのか?」
「するか!」
「と言うよりか、今更なにで餌付けしてもこんなんになるわけないよなぁ」
 普段の彼女ならしない行動にしない表情だ。なんとも不思議な。
「そなたも不思議に思うか?」
「思わずにいられるか、これを?」
 リンは思わず千尋を指差してしまう。目の前で『これ』扱いしても気がついていない千尋はやっぱり様子がおかしい。いつもなら食ってかかってくるだろうに。
「まるで孵化したばかりの雛だな。それとも猫にマタタビか?」
 話をしている間にも、千尋は廊下を通りすぎる従業員や霊々を珍しげにきょろきょろと眺めて満足すると、再びハクの背中に頬をぺったりと押しつける。腕はハクの胴に回され、離れる気などさらさらないらしい。
「セン、大丈夫か? 媚薬なんぞ嗅がされてないか??」
 リン、そなたは言うにことかいてなにを! とハクは叫んでいるが、問いかけられた千尋は気持ちよさげに目を細めるだけである。
「それなぁに?」
「だっておい、お前、こんなべったりくっつくようなヤツじゃないだろ?」
「だってハクにくっついてると気持ちいいんだもん」
 と、頬を更にハクの背中へと押しつける。
ハクはその背中の感触がくすぐったくて仕方がなかったが『ここは仕事場の廊下、自分は上司』と心の中で念仏のように唱えて必死にしかめっ面を造っていた。
「気持ちいいってなんだよ、やっぱりなんかしたんだろ??」
 堂々巡りな思考になっているリンであった。
「ねぇねぇ、お外行こうよ、お外。お外行ってみたい」
 ぎゅうぎゅうと頬を押しつけて後ろからおねだりする千尋は、外野から見れば幼稚園児のようだ。
「お外ね、行ってみたかったの」
「外?」
 外に行こうにも、今日は朝から雨がしとしとと降っていて、とてもではないが出て楽しい物ではないだろう。
「セン、外は雨が降ってるぞ?」
「雨?」
「濡れて風邪などひいてはいけないから、今日はやめておこうね」
 なんとなくハクの口調も保父さんめいてきた。こちらはどうも無意識であるらしい。
「雨降ってても気持ちいいでしょ? お外行こう?」
 なにやらその点だけ強情に言い張る千尋の様子に、リンははぁとため息をついた。
「よう、ハクサマ、雨の様子を見せてやったら納得するんじゃないか?」
 どうやらそのようだ、とハクもため息をついて、一階の囲炉裏端へと移動した。背には千尋を、その更に後ろにはリンが続く、なんとも変な行進である。
「ほら、雨が降っているだろう?」
 囲炉裏端につくと雨に気がついたのか、千尋はハクの背から離れて窓硝子にぺったりと手をついて上空の雨雲をまじまじと見る。冬に近いこの時期は、窓硝子から吹き込む風だけでも風邪をひきそうだ。人肌に硝子がほんのりと曇るくらいであるのだし。
「お水が落ちてきてるよ、気持ち良さそう」
 いやだからね、濡れるとそなたは風邪をひくからね、とハクとリンの心中が珍しく同じ困惑色に染まった。これは本当におかしい。なにがどうかはわからないけれど、確実に変だ。千尋は、雨が降ったら髪が爆発すると常々言っていたのであるから、こんなにも雨を喜んだりはしないのに。
 空はふたりの困惑をうつしたかのようにますます掻き曇り、冷たい雨をしとしとと降らせた。千尋はそれを飽きることなく窓硝子に頬を押しつけて眺めていたのであった。


「……またまたやっかいな娘だねぇ」
 どこまでやっかいに巻き込まれれば気がすむんだい? と、話を持ち込まれた湯婆婆は、盛大に紫煙を吐き出しながらため息も吐き出した。人間を従業員として抱え込むそのリスクは重々承知してはいたけれど、これほどとは思わなかった。ある意味、手を変え品を替え、お疲れ様と言いたくもなる。
「あぁあぁ、もう暫く放っときなよ。仕事も休ませな」
 あたしゃもう知らないよ、と湯婆婆は投げやりに手を振ったのであった。


「と言われても、放っとくわけにもいかないだろうに……」
 思案したところでどうにもならないので、夜の仕事の間は部屋で寝かせてしまおうと考えた帳場の管理人。気持ちはすっかり保父さんである。なんとなしに無防備な表情をしている千尋に害が及ばないように部屋を丸ごと囲む結界を張ってしまう物騒な技と思考を持った保父さんではあったが。
 夜の仕事に行く前にリンが支度して行った蒲団に千尋を寝かしつけようと、ハクは現在その枕辺に座っていた。ここまで辿りつくまでに膨大な心労を抱え込んだが。窓硝子から千尋をひっぺがせばまた新しいことに執着し、そこからもひっぺがせば再びおのれの背中に張りついたりと、まるで年度末の帳簿仕事に向かいあっているレベルで疲れ果てたハクであった。
 千尋は蒲団に横になりながら掛け蒲団のへりを両手で握りしめて、それでもハクをじっと見つめている。眠いのか、その目は昼間よりも更にとろんとしていたが。それとも、ハクの背後にある箪笥の上でひらひらと赤い尾鰭を震わせている金魚が珍しいのか。
「千尋、もう寝なさい」
 昼間にあれだけはしゃぎまわっていればさぞ疲れただろう。背中に張りついてついてまわる、との疲れる歩き方をしていたのでもあるし。
「うん、眠いよ」
 でもね、と千尋は言葉を続けた。とろりと半分落ちかけた瞼で。
「わたしね、言わないといけないお話があるの」
「なんの話?」
 顔にかかった髪をかきあげてやると、くすぐったそうに千尋が笑う。
「お水、綺麗で嬉しかったの。わたしね、河に放されちゃったの。そこに行くまでは、狭くて水苔がびっしりはえてて、お水もぬるぬるしてて、変な匂いのするところに住んでたの」
「千尋……?」
 幼い口調もどうしたものやらと思っていたが、彼女から語られる話はおよそ人間の生活とは程遠い内容で。
 千尋はにっこりと無邪気に笑った。
「ありがとう、竜神様。コハク河、綺麗で嬉しかったの」
 お礼が言いたかったの。あと、地面に触れてみたかったなぁ。
 千尋は半分以上夢の中にいるような、とろんとした口調で、まわらなくなった口で続ける。
「見たことないけどねぇ、お水、緑の中を通って、ふかふかの苔を通って、あったかい土を通って、コハク河に流れているんだって聞いたの。わたしね、見たことないけどね、知ってるの。お水が教えてくれたもの。僕達はここを通ってきたんだって。『空』から来て『森』や『山』に降りて、『土』を通って『河』に流れて、『海』に行くんだって」
 だから地面に触ってみたかったんだけどな……風邪をひいちゃうからダメなんだね。わたし、諦める。
 蒲団のへりを握りしめて、無防備な、泣きそうな千尋の無理矢理な笑顔に、ハクははっと後ろを振り返った。そこには、赤い尾鰭をひらひらとさせ、小さな口で一生懸命に硝子の壁を突つく――金魚が。
「そなた、か?」
 千尋、そなたはそこに? と問うと、肯定なのか、くるりと一周まわって見せる。
「それではこちらの千尋は……」
 と、視線をもどすと、もう千尋はことんと瞼を落とし、すぅすぅと寝息をたてていたのであった。
「そなたは――わたしの河にいた、命?」
 あの言葉を伝える為にここまできたの? 小さな小さな消えそうな命を抱えて、こんな遠くまで。霊々さえも動かして。
 ハクは、千尋の身体が眠りに落ちると同時に動きを止めた金魚を、いつまでも眺めていた。


 翌日目を覚ました千尋は、まったく昨日の出来事を覚えていなかった。突然一日もの時間がふっとんだことにはじめは違和感を覚えていたらしいが、それよりも周囲の視線の方が気にかかる。なんなのだ、珍獣をみるようなこの視線は。
「ハク、わたし、なにかしたの?」
 との千尋の問いに、ハクは黙って頭を振るだけであった。
「なーんかおかしいのよねぇ。一日時間の感覚がずれてるし」
 と尚もぶつぶつと言っている。
「おかしいと言えば、なんでか金魚になる夢を見たし」
「金魚の?」
「うん、あの金魚の。あの器の中から部屋をずっと見てるの。水の中をすいすい泳いだりね」
 楽しかったけど退屈。あんな狭い器じゃダメね、と千尋は続けた。
「きっと金魚の呪いね。死なせてしまったもの」
 目を覚ました千尋が一番はじめに見たものは、腹を上に向けて力なく浮かんでいる赤い金魚であった。
「けれども、千尋はちゃんと弔ってくれたから、あの金魚は幸せだと思うよ?」
 油屋の花薗に咲いていた、色鮮やかな、同じ名を持つ花のたもとに千尋は金魚を埋めた。名前をつける間もなかったこの金魚が寂しくないようにと。
「私が叶えてあげられなかった夢を、そなたが叶えてあげたのだから」
 地面に触れたいと言ったあの素朴な願いは、最後の願いであったのに。私はいつでも彼らの望みに気がつけない。もう取り返しのつかない私の河。私の家族達。
「ハク、夢って??」
 きょとんとした千尋にハクはどこか寂しげな笑みを向けて、なんでもないと首を振った。


 海とも大地とも交われない淡水魚は、水を通して夢を見て、大地に眠って夢を見る――