イノセント

Early Bird
【19】




 新しい環境に慣れようと一生懸命な時はそれ以外の些末事に気を取られたりはしないが、その環境にも慣れ、ふとまわりを見まわして、自分が残してきたものの大きさに気がついて驚愕するのだろう。それはもう、どうしようもないのに。
「わたしの場合なんて……残してきた、どころか捨ててきたんだよねぇ」
『裏切った』と表現してもおかしくないだろう、と千尋は赤い太鼓橋の欄干によりかかりながら、朝一番の列車を見送った。電車の行く先には、昇り始めた太陽の姿がある。千尋はぼんやりと頬杖ついてその光を浴びていたが、とうとう顔を伏せてしまう。銭婆から贈られたローブを着ておりとても暖かかったが、めっきり寒くなったこの気候は足元から容赦なく千尋の体温を奪っていった。隙だらけの素足を冷えた空気が撫で上げる。それでも千尋は構わず橋の上にいた。今はどうやっても自室に戻れそうになかった。
 今日、はじめて夢に父母が出てきた。その姿を思い出すと、捨ててきた肉親を声に出して呼ぶ事すらも胸に痛く、空気を喉の奥から細く吐き出す。営業時間もとうに終わり従業員も眠りについている時間であるのだから、そんな弱音を吐いていると誰にも勘付かれないとはわかっていながらも千尋は言葉に出せはしなかった。
 今、無性に父母に会いたかった。ここに存在している自分はすべて納得づくであるが、娘が突然いなくなった両親達の気持ちはどうだろう? そう思い至ると胸の奥がぎゅっと痛くなり泣きたくなった。だからと言って後悔はしていない、後悔はしないと決めていたのだ、あの、冬の日から。
 ただ、夢の中に出てきた両親の姿を追い求めようとして目が覚め、それから寝入りもできずに自室からここまで出てきた。
「それに……あの謝り癖のあるハクがどうせ謝るんだろうしなぁ」
 少しでも後悔しているそぶりを見せたら絶対に謝るよ、ハクってば。そう考えると少しだけ気持ちが浮上して、千尋は顔をあげた。
 夜明け前からこうして空の色が移り変わる様を見ていたが、冬に近い透明度の高い空気が混じり気なしの闇から光を抱えて生まれかわる光景は美しかった。遮る物もない広々とした空は、まさしく空の住人の為だけに存在していた。すなわち、闇に月に星に、そして太陽。あちらの世界のように、空にまで進出する鉄の塊などはひとつも見受けられない。しんと静まり返った世界がちりちりと燃えて活動し始める音まで聞こえそうなほどに無駄がなかった。
 千尋は欄干に預けていた腕を宙に解き、うーんと大きく伸びをして肺に空気を送り込んだ。
 と、伸ばしたその手の先が何かにぶつかった感触に気付き、千尋は身体を半分捻って背後を覗き込む。そこには見慣れた帳場の管理人がおり、その胸元に手が飛び込んでいる状態であったので慌てて手を回収した千尋であった。
「あ……ハク?」
 噂をすれば影とはよく言ったものだとちらりと思ったものの、なぜハクが今時分こんな所にいるのだろう? 今はまだ、起き出すには早い時間であるのに。朝の挨拶もそこそこに千尋はその点が気になった。いつ寝ていつ起きたのかもわからぬ、完璧に身繕いを終えたいつものハクであったからだ。汚れひとつ見受けられない白い衣をきっちりと着込み、寝癖のひとつもつきそうにないきりりとまとめた長い髪。一瞬、ハクはまったく寝ないのではないかとの馬鹿な考えが頭をよぎるが、あの、彼にとっては思い出したくもないダンスパーティーでの存外眠たげな様子を思い出すにそれはありえないのだろう。
 では彼は、自分の一挙手一投足をストーカーの如く見張っているのだろうか。実際は、根城へと向かう湯婆婆を送り出した帰り、足音を忍ばせて油屋から出て行こうとする千尋を見つけただけなのであったが。
「千尋、だいぶ寒くなっているのに、こんな所でどうしたの?」
「……明けの明星が見たくなっただけ」
 父母を懐かしんでいただなんて、誰に言えてもハクにだけは言えないと思った千尋である。なんとなく唇を尖らせて、絶対に納得してもらえそうにない言い訳を口にする。
「そんな薄着で?」
「銭婆様から頂いたローブ、暖かいもの」
 なんとなく、まだ拗ねてみる。
「こちらの世界にも明けの明星はあった?」
「……」
 星の配置すら違うこちらの世界にはたして明けの明星はあるのだろうか。雲が厚くて見えなかったと嘘をつくには、天上に広がる空に雲ひとつなくて信憑性にいまひとつどころかふたつみっつ欠けていた。
一瞬考え込んだ千尋であったが、
「それをたしかめに来たの」
 と口にした。して、結果は? と切り返され、ぐうの音も出なくなったが。明けの明星はあっただろうかなかっただろうか、ちゃんと見ておけばよかったと後悔仕切りの千尋であった。
「ウソ。ホントはね、お父さんとお母さんを夢でみてね……寝られなかったの」
 観念したように、千尋は真実を口にした。それに、ハクは気取られぬほどに目を細めた。
「御両親は、どんな様子だった?」
「うーんと……忘れちゃったわ! だって夢だもの」
 でも、きっと元気にしてくれてると思うよ、わたしのお父さんとお母さんなんだから、と千尋は無理やりに明るい声で言い飛ばした。
「お父さんとお母さんが寂しかったら、もっと印象的な夢を見せるじゃない? ハクが出てくる夢なんて、全部くっきりと覚えてるんだから!」
 綺麗な世界の光景や、水の上を渡る竜や、吹きすさぶ風の音、そしてハク――あの夢の風景の中に今自分がいるのだと考えるととても不思議であった。この風景の中に来ることは、なににも勝る願いではあったけれど。
「ハク、ホントはそんなにすました顔してるのに寂しがり屋でしょ? 寒いのだいっ嫌いでしょ? ひとりで留守番できないタイプでしょ?」
 ひどい言い方ではあったが、夢で自分を手招く執念深さから考えるとそんな印象があるのも確かであった。あの夢は美しく綺麗だったが、どこか寒々しく、寂しい雰囲気があった。
「……夢?」
「冬になると必ず見てたんだから。それで情緒不安定になって、変な電話を友達にかけたり、階段から落ちそうになったり……呼ぶにしてももうちょっと手段を選んで欲しかったって言うか――」
 そう言えば初めの頃はおかっぱだったのに年を追うごとに髪が伸びていって、わたしの髪はあんまり綺麗に伸ばせないからとってもくやしかった、と軽くハクの背中の髪をひっぱった。
「……うん、多分、それほどまでにはやくそなたに会いたかったのだと思うよ」 
「わたし、もうここにいるから、夢でなんて会いに来なくていいからね?」
 父母のように世界が隔たっているわけではないのだから……と口にしたら、なんとなく再び泣きたくなって、千尋は無理に笑みを浮かべた。泣き笑いのような顔になったので、さりげなく手でごしごしとこする。どちらか片方を選べと突きつけられ続けて、自分が両親を選ばなかっただけなのだから、ここで泣き顔を見せてはダメだと思うからだ。あくまで、選択したのは自分であるのだから。
 そんな千尋をハクは目を細めて見下ろして、心の内でため息を吐き出した。本当に、なんて強情な。言わなければわからないのだろうか。言った方が良いのだろうか。こんな寒空の下でひとり佇ませるよりは、口に出した方が良いのだろうか。
「千尋……泣きたいなら、私に言いなさい?」
 そなたに貸すくらいは私はあいているのだから、とため息混じりに言ってやる。ついでに、幼子にするように手を頭においてやると、千尋が大きく目を見開いて顔をあげた。
「……ハク?? わたし、泣いてなんかないよ?」
「そんな時が来たら……ね」
 遠慮しないで私の所に来なさい、と続けたハクに向けて、それでも千尋はよくわからずに見上げるだけであった。先ほどの泣きたい気持ちを抱えていたのをハクに悟られたのだろうかと内心びくびくとしながら。ハクはそんな千尋の様子に今度は苦笑した。
「とりあえず、今から寝られそうになければ散歩につきあってくれるかい?」
 早起きは三文の得、今なら下の池に渡り鳥がいるかもしれないよとのハクの言葉に、千尋は破顔して『行く!』と答えていた。
「こちらの世界にも渡り鳥なんているの?」
 太鼓橋を渡った先の花園へと足を向ける際にそう問いかけてみれば鶴が来るとのこと。鶴が渡ってくるのであれば、この世界にも明けの明星はあるのかもしれないと思った千尋であった。

    ◆◇◆

 その日の営業終了後、ハクは『天』の書斎にて、鏡にうつしたかのようにそっくりな双子魔女に報告をしていた。すなわち、千尋が『夢』で干渉を受けていた新事実についてであった。
「そんな馬鹿な話があるかい! 夢でこちらを見ていたってのかい?!」
 そう吼えたのは湯婆婆であった。その怒声にも似た声に怯えて、頭達は転げながら他の部屋へと逃げて行った。
「かと言って、彼女が思い込んでいるように、私が彼女の夢に立ったわけではありません。かつての私であればそれも成し得たかもしれませんが、神でもないこの身ではそれも叶いません」
 無意識に正身から魂魄が彷徨い出でて千尋の元へと向かったのならともかく……とハクは言外に言い置いた。そう言えば、あちらの世界に千尋を迎えに行った時、彼女はすでにハクと言う存在を認識していたような言葉を口に乗せていた。あの時は無理やりに開いた扉の時間制限に追われており聞き流してしまったが、あれはとても重要な話であったのではないだろうか。
『冬になると――と言ったのね? あまりにも符号があいすぎる……』
 赤い絨毯の上で式神が右手を顔に添えるようにすると、淡い銭婆の姿も右手を顔にあててこっくりと首を傾げた。
「けれど『あれ』にそれだけの思考能力があると思うかい?」
『逆に問うけど、ハク竜と『あれ』以外で千尋に干渉するような存在がある?』
 その銭婆の言葉に、ハクは微妙に表情を変えた。だって本当だろう? と銭婆は唇の端をあげて笑った。
「だがねぇ……ここから向こうに帰った者は、数こそ多くはないが居ないわけじゃない。そのうちの何名かを呼ぶ『世界の声』があったのも記録に残ってる。たいがいが、ここに結構長い間居た為にこちらの世界と半同化していて住人とみなされて呼び戻そうとする『声』だったがね。それでも、無視しときゃそのうちおさまったしそれ以上の害だってなかったんだよ? それがなんであの娘にだけこうもおかしな現象がつきまとうってんだい?!」
 この儚い世界はまんぞくに命を育めもしないくせに、一度抱え込んだモノにはとことん執着し、元の世界に戻った者までも子供を取り上げられた母親のように狂乱して叫びの声をあげる。この世界は、世界そのものがそのような矛盾した理に満ちていた。それは、物体が消滅した隙間に入り込んだ空気が上げる摩擦音のようなモノ。
 無視しておけばよいと思っていたのにそうも行かなくなったから渋々迎えを出してみれば出してみたで変な話は持ち出してくるし。湯婆婆はふんっと鼻息を荒く噴きだした。
 銭婆は首をかしげたままなにかを考えているようであった。
『考えてもさっぱり。けれど、千尋はもうここにいるのだし、あの『声』ももう止むでしょう』
 これ以上ここで詮索していてもわからない、あとはこの冬中千尋から目を離さないでいることね、と言い置くと銭婆はさっさと姿を消して通信を打ち切ってしまった。
「あぁもうっ! まったく厄介な娘だよ、センは! 『声』がやかましくてかなわないからこちらに連れてこれば連れてきたで問題ばかり! ハク、お前が望んだ結果なのだから最後までちゃんと見るんだよ!」
 あたしとの危険な賭けを行ってまで連れて来た存在なんだから、と湯婆婆はハクに真向かっては絶対に言わない言葉を胸中で呟いた。仮初めの名をとられ、少女の名すらとられ、その上負ければ魂ごと存在ごとをとられる賭けに挑んでまで得た存在は、この青年にとってどれだけの価値があるのだろうと考えながら。
 無言で頭を下げるハクに向けて、湯婆婆は忘れかけていた事実を思い出した。
「それからハク、あたし達がセンに対してした予言、覚えているかい?」
「……私が彼女を連れてくる為に湯婆婆様と賭けをした時の、彼女の予言ですか?」
「あたし達は揃って『危機が迫っている』と予言したね? けれどもそれは――センが『向こうに帰る前』から予言していたことなんだよ」
 その湯婆婆の言葉に、ハクの顔からはっきりとわかるほど色が消えた。
「なんですって?!」
「そう目くじらを立てるんじゃないよ、ハク。だからあたしは、厄介者は嫌だからあの時さっさとあの娘を向こうに追い返したんじゃないか。感謝されこそすれ、そんな目で見られる理由はないと思うがねぇ」
 まぁ、あちらの世界にもどっても予感はかわらなかったのだが……との言葉をさりげなく飲み込み、湯婆婆は「だがね」と続けた。
「ここに再び戻ってきて、あたし達の予言が変わったんだよ。しかも、あたし達の予言が分かれちまった。こんなのは滅多にあることじゃない」
 あの女――銭婆の予言は『娘が立ち戻る』
 あたしの予言は――『神が立ち戻る』
「娘……神?」
「意味はまだ掴みかねるけど、センは五年前になにか大事に関わっちまったんじゃないかと思うんだが」
 ま、まだ様子見だねと湯婆婆は言い、話はしまいだと右手を振った。
『娘』と『神』――どう繋げても繋げられないそのふたつの単語だけが、ハクの手元に残った。