イノセント

言の葉あそび
【20】




「セーン! 遊ぼう!」
 家路につくお客様の見送り仕事が終わり、やれやれ朝番がようやく終わったと肩を叩きながら廊下を歩く千尋の背後から、そんなお元気な声が響いてきた。
「……ヒムカ様?」
 腰のあたりに抱きついてきた物体に視線をやれば、油屋経営者の愛息子がそこにあった。小学生くらいの姿形でなければ即蹴り倒すであろう唐突な彼の行動ではあったが、見た目が見た目であるだけに、やや眠くてやや機嫌が悪い千尋でもなにも言えない。
「ヒムカ様、遊ぶってなにで?」
 しゃがみ込んで視線の高さをあわせてやると、日向は心底嬉しげに笑った。
「しりとり!」
 他愛ない子供の遊びである。けれども千尋は現在、普段よりもはやく目が覚めて、しかも二度寝も出来ない状態。その上に鶴を見にハクと早朝散歩なんぞしたためにやや眠くてやや不機嫌であった。外見上は日向とは方向の違った笑みを浮かべ、内心は外見を裏切ったままで『いいですよ』と返事をする。
「じゃぁ、はじめはヒムカ様からね」
 手を繋いで、日向の部屋へと続く昇降機へと向かいながら。
「えぇと、じゃぁ、『あぶらや』から!」
「油屋……ですか? なら、槍」
「李下!」
「カマキリ」
「リトマス試験紙!」
「しおり」
「竜胆!」
「瓜」
「……リュック!」
「栗」
「…………流砂!」
「小夜鳴き鳥」
「………………リタイア!」
 わーん、センなんて嫌いだー! と、現われたのと同じ唐突さで、日向は廊下の先へと泣きながら消えて行った。不機嫌なセンは容赦がないと思い知った日向であった。

   ◆◇◆

 その日の午後、今度はハクがひょっこりと千尋の部屋に現われて、
「言の葉遊びをしないかい?」
 と言い出したので、なんだ油屋の流行なのかと千尋は内心で首を捻った。日向はともかくハクはそんな遊びしそうにないのに、なにやら口元が楽しげである。
「まさかしりとり?」
 朝のやりとりでもう懲りたよ、と意地悪なからかい方をした張本人。最後の言葉を『り』で終わらせるのは結構疲れるのだ。
「もっと簡単。私があげる言葉の反対語をあげるんだ」
「……」
 あの、それ、どこが楽しいんですか? と膝を突き合わせて問い詰めたいところであるが、なにやら楽しそうなので付き合うしかないだろう。そもそも、ハクの娯楽ってなになんだろう、放浪癖と甘味と読書以外で。妙に気になるし。
「では、まずはじめに、消費」
「……生産」
「模倣」
「……独創」
「温故」
「……知新」
「末期」
「……初期」
「後は野となれ山となれ」
「……立つ鳥あとを濁さず」
「好き」
「……………」
 そこまできて、千尋はようやくこれが日向の仕返しであると気がついた。
 ハクもハクだ、言うに事欠いて『好き』の反対を言わせるか。けれども、遊びとは言えその単語をハクに向けるのは……なにやら嫌だ、胸のあたりがざわざわする。答えなければ自分の負けだとはわかりながらも、千尋は口篭もるしかなかった。
「千尋?」
 心底楽しげにハクが続きを促してくるけれど……
「もぉうっ降参!」
 するしかないではないか。嘘でも、遊びでも、意味もなく『嫌い』なんて言えない。
「そう? 千尋の負け?」
 じゃぁ、敗者には罰があるのが遊戯の決まりごとらしいから罰を考えないとね、となんとも言えない笑顔のままでハクがのたまうので。思わず、今の状況は『因果応報』と言うのだと遠くの思考で考えてしまう。
 とりあえず、多少不機嫌でも人には意地悪しないのが身の為。